吉岡くんという人は、絵画に例えると、
風景画のような人なのかもしれんとです。
彼には肖像画や静物画にみられるような
「これであるのだっ!」
という一発インパクトはないわけで。
そしてモダンアートにみられるような
「これは一体・・・・・なんなのだ?」
という不可解さもないわけであり。
そこには、
澄みきった青空があったり、
たまにはそこに雲が浮かんでいたり
海へと流れる小川があったり、
遠く高く聳える山々が見えたりという、
ゆったりとした世界の中に点在する
様々な眺望ポイントがあるわけで。
それはどこを基点に中心にして見ても
なんの違和感もなく絵画として成立してしまうものであり、
しかし遠くから眺めてみれば、
それは一つの美しい調和を持った全風景画として存在している、
という趣のある人、なのかもしれないですばい。
などとぼんわ~としながらぼんわわ~としたことを
思ったりしている私でありますが、
今日も元気にノンポリくんのメリーゴーランドでゴー!
でありまする。
ノンポリくんの心は、スポンジみたいであります。
周りの人の喜び、悲しみ、怒りを
その心にジョンワっと吸い込んでしまう人。
だから彼の心は、その誰かの気持ちのベクトルが
特に悲しみに向かっている時、それを吸い込んだ分だけ
ちびっと重くなってしまうのかもしれない。
しかしそれが「彼」であって、そのことに対して本人は、
別段心にひきずっていくような重荷として
その感情を受け止めているわけではないようで。
ノンポリくんは、周りの人から見ると、主体性が全くないような、
まるでレッツゴー三匹の背の高い人のような感じに見えるけれども、
しかし実はものすごく器の広い人であり、
そこにいなくてはならない人、として存在しているとですね。
彼は、人の気持ちから逃げない。
絶対に逃げない。
そこにいて一緒に気持ちを感じてくれる人であります。
どんな気持ちも、自分のスポンジに一緒に吸い込ませて
呼吸をしてくれる人なのだと思う。
特に何か心に残ることを言うわけじゃないし、
ましてや派手に行動に表す人ではないけれど、
けれども「そこにいてくれる」という確固たる安心感を
彼はその心に持っているわけであり。
だから一緒にいる方は、その自感情がどんなものであれ、
彼が内包する「いるよ」という存在感から自分の心に空気を入れてもらえ、
そして少しだけ呼吸しやすくしてもらえるのだと思われ。
そんな深く広い器を持つノンポリくんの優しい繊細さを、
細かい粒子のように全身からサラサラキラキラと霧散させて、
画面を通して伝達してくる吉岡くんは、
やはりなんといってもワンダホーで参りやしたなあっぱれくんなわけであり。
彼がふっとその顔に翳りを見せる表情なんて、惚れざるをえない
ナイーブ選手権ニッポン代表チャンピオン級でありますよ、ツボ売りくん。
ここでノンポリくんナイーブ解説であります。
解説 II
① みどりちゃんや、文学ちゃんとの会話の場面での彼は、
「切なさと憂い」の塊。
② 本心はそうじゃないのに、友だちを思って同調してしまう彼は、
「微かに揺れる惑い」の塊。
③ 親友たちの前で、素直に涙をぼろぼろと零す彼は、
「悲しみとやるせなさ」の塊。
そうなのであります。
状況に雲がかかる時、彼は繊細感情の塊になっちゃうのでありますね。
頭のてっぺんから足のつま先まで、全身まるごと繊細くんの塊でごんす。
彼のこういった塊感情は、彼の心底から削り取られた原石心情が
そっくりそのまま純粋出土された結果の結晶なのだと思うぞいっ、おいどんは。
(↑得意の力説であります・・・)
そうじゃなくちゃ、あんなに人の心に切り込んでくる演技は
生まれてこないぜ、おやっさん。
もうなんていうか、彼はこういった塊感情を一秒一秒の流れの中に
ぎゅびっと凝縮熟成させて放ってくるから、見ているこちとら
受け止めるミットをしっかと構えてないと大変なのじゃよ、星くん。
だってそれは、
時には人の心を丸裸にしてしまうという凄みをも持っているからですばい。
特に③のようなシチュエーションの時の彼は、
真冬の荒波日本海ばりの切なさ全部背負った悲しみの使者になっちまうんだでよ、八代の亜紀ちゃん。
彼がこういった時に、自分の身を切り刻むようにして生み出してくるその凄み感情は、
火に舞う隕石のようにしてズトーンとまっさかさまに落ちてくる時もあれば、
地殻変動のようにググググーと地の底から揺り動かして来る時もあり、
はたまた、古井戸からゆっくりと水を汲みだすようにして昇って来る時もあるわけで。
しかしそれがどんな形をもって現れても、
それは容赦なく人の心の深さに食い込んでくるから、
それに触れる時、こっちは心がざわざわしてしまったりするわけであり。
もしかしたら、そのキリキリざわざわ感を直感したくない、
または直視することで自分の心に浮かんでくる落ち着かなさを
感覚としても受け入れたくない人たちが、
彼のことを反動でどば~んっとツッパリ寄り切り技で跳ね除ける、
または跳ね除けざるを得ない=すなわち嫌いでございます、
となるのではないだろうか、おかみさん。
ま、ただ単にいけすかねぇ、
ってことも多々あるだろうけど。
したっけそりゃ~しかたねぇべさぁ。
しかし彼の放散するそういった根源的な感情の塊が、
彼に対する好き嫌い関係なく、結局は深く長く人々の心に
残照として残っていく理由の一つになっているのではないのかと・・・。
だから、だから、いつまでたっても吉岡くんのことを
「純」と呼んでしまう人が多いのかもしれない。
純は純だろって枠から抜け出せないくせに、
彼のことをなんだかんだと枠組み評価している人達には、
ギャオワ~~~~~~~って火を噴くゴジラのように怒りプンプンッってなっちゃうけれど、
しかしちびっと目線を変えてみりゃ~、
そういうのも名優であるということの現れの一つなのかもしれんですなぁ、おいちゃん。
しかし吉岡くんの演技を批判するのなら、純フレームは外してくれよ、フェアーじゃないぜ。
あ、横道に逸れちった~。
吉岡くんは、
無様であったり、惨めであったり、情けなくもあったりする姿を、
いやというほどのありのままの感情で、何の装飾もなしにその姿に曝け出せてしまうという、
一種の強さみたいなものも確然として持っているような気がするですよ、
んも~ぅ、かっこええったらありゃしない。
彼のファンをしていてよかったな~って
思うときは多々あることだけれど、その中の一つに、
この彼自身が持っている彼自身の感情を、様々な波動でもって
自分もそれを永遠感覚のようなものとして勝手に感じてしまえるところにあるわけで。
ファンだからね~、こう勝手に思いを馳せてしまうのだよ、ヒデタカく~ん。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます