「筒井君とハギちゃんにここで会う前にね、
宿の女将さんから聞いてたのよ。
秀君が、病院に担ぎ込まれたって」
えり子はそう言って筒井から視線を外し、コップの酒を一口飲んだ。
筒井はその言葉にどう答えたらいいのか分からず、
戸惑った視線を座卓の上に落とした。
「数日前に、秀君が店に来てくれたの」
しばらくして聞こえてきたえり子の声は、とても静かだった。
筒井はえり子へと顔を上げる。
「でも会えなかったんだけどね」
ため息まじりにそう言って、えり子は寂しそうに笑った。
「その日に限って髪のセットがなかなか思うように決まらなくてね、
それで家を出るのがいつもよりだいぶ遅れちゃったの。
開店ぎりぎりに店に着いたら入り口のドアに手紙が挟まっててね・・・」
えり子さん、お久しぶりです。
お元気ですか。
僕は元気です。
「とても綺麗な字で、とても丁寧な秀君らしい文面で書き出してあって・・・。
あたしその手紙を読んだらなんか気持ちが妙に落ち着かなくなっちゃってね」
えり子は伏せた目と一緒に、手前のコップへ気持ちを沈めた。
「そしたらその晩に、あの事件のときにお世話になった巡査さんが
非番でちょうど飲みに来てくれてね、そういえばあの事件の時の
本庁の刑事さんが休職したんだってよって教えてくれて。
それでもういてもたってもいられなくなっちゃって
急いで秀君の携帯に電話したんだけど、ずっと留守電サービスになってて。
それでハギちゃんに電話して、何度もしつこく脅迫して、
やっとここの居場所を聞きだしたの。
まさかハギちゃん、あたしが本当にこんなところまでやって来るなんて
思いもしなかったから最後には折れて教えてくれたんだろうけど・・・。
それが昨日のことでね、それで今日はもうここに来ちゃってたの。
宿に着いて女将さんに秀君のことを聞いたら、
その瞬間にあたしバス停に向かって走ってたのよね。
だけどバスに乗ったら、一体どこの病院にいるのか
聞いてなかったことに気付いて、それで宿にトンボ帰りしてきて、
その道で筒井君とハギちゃんに会ったのよ。
会ったっていうより突撃しちゃったんだけど」
風の叫びが一瞬高まり、えり子は障子窓へと目線を向けた。
「大丈夫なんでしょう・・・秀君?」
海風に乗った雨粒が、硝子窓に飛んでは四方に散らばっていく。
えり子は風の音を耳で追い、筒井はその横顔を見つめた。
「・・・大丈夫ですよ」
筒井は静かに答え、えり子は黙ったまま障子の一点を見つめている。
夜半の雨が、沈黙のしじまに流れ落ちていった。
筒井はえり子の横顔からコップに視線を落とし、
水面に浮かぶ蛍光灯の反射光をじっと見つめた。
「そう」
やがてえり子は沈黙を破るように明るく返事をして、
「よかった。安心したわ」
とふっきれたような笑顔を筒井に向けてから、
「もったいないから全部飲んじゃいましょうよ、ね?」
と言って互いのコップになみなみと酒を注ぎ、
酒瓶に蓋をしながらつとめて明るい口調で話題を変えた。
「筒井くんは会ったことあるんでしょう?」
「はい?」
「秀君がずっと想い続けている人に。きっと素敵な人なんでしょうね。
どんな人なのかしら。知ってるんでしょう?」
「・・・いえ」
筒井は思い出したように手元のコップを手に取って、ぐいっと一口呷った。
一気に通り過ぎて行く酒が喉元を焼いて、筒井は少し咽こんだ。
えり子はそんな筒井を慈しむような寂しいような表情で見つめたあと、
「正直なのね、筒井くん」
と言って自分も一口酒を飲んだ。
「秀君の親友だってことが、ほんとによくわかるわ」
えり子は座卓に肘をついて持ったコップを部屋の明かりに透かすようにして眺め、
「不思議よねぇ・・・」
と呟くように言って少し黙ったあと、静かな口調で言葉を継いでいった。
「どうして恋をすると人は欲張りになっちゃうのかしらね。
その人を愛することが自分の幸せのはずなのに、
でもそれだけじゃ満足できなくて、寂しくなっちゃうのよね。
そのうち、その人の幸せの真ん中に入っていきたい、なんて、
勝手なことを思うようになっちゃう。そう思わない、筒井君?」
「・・・そうすね」
筒井は頷いて返事をする。
「叶わない恋って、月みたいよね。
辿り着ける場所に存在してはいるんだろうけど、でも実際は、
選ばれた者以外は決して行き着くことのない距離にあるの」
えり子は光にかざしていたコップを座卓の上に静かに置き戻し、
それから遠くを見つめるような視線を宙に向けた。
「あの事件のときに秀君が着ていたシャツね、
薄い水色の生地に細い白のストライプが入ってて、
とっても似合ってたんだけど、血が付いてだめにしちゃって。
秀君はそんなこと気にしないでって笑っていたけど、でもあたし、
早く弁償しなくちゃってずっと思ってて。でも返しちゃったら、
なんだかもうそれきり秀君と会えなくなってしまうような気がしてね、
なかなか返せないままでいて・・・」
そう宙を見つめながら話しているえり子の目線の端には、
どうしても窓際に寄せられた三つの旅行バックが入ってきてしまう。
えり子はふいに泣き出したくなるような気持ちを必死にこらえて、
じっと宙を見つめつづけた。
えり子さん、
えり子の耳の奥に、ふいに吉岡の声が蘇ってくる。
大丈夫ですよ。
やわらかな声はやさしい笑顔と交差しながら、
えり子の心をふわりと包んでいく。
えり子さん、
やもするとこみ上がってきてしまう涙の塊は、
大丈夫。
穏やかな声音に優しくそっとほどかれていく。
えり子は宙をしっかりと見つめ、
大丈夫、
と自分も心の中で呟いた。
大丈夫。
大丈夫よね、秀君。
えり子は小さく頷いて、それから筒井にまっすぐ顔を向け直した。
「筒井君、人生って、島倉千代子の歌の文句じゃないけど、
色々あるわよね。あたしね、ある時期に、
どうしようもなく気落ちしちゃったことがあったのよ。
自分の人生に意義が持てなかったっていうか、
やっていること全てが無価値なことに思えてね。
生きていることの意味がまるで見いだせなくて。
それでいつものように呼び出して会いにきてくれた秀君にね、
あたし聞いたことがあったの、人生って何なのかしらねって。
そしたら秀君、そうですねぇって、
ちょっと困ったように照れて笑いながらこう言ったの。
僕にとっての人生は、先にある幸せを希求していく場っていうより、
幸せでいることへの日々の冒険なのかもしれません、って。
考え出すと複雑だけど、でも単純なことであるのかもしれないです、って。
ねぇ筒井くん、」
「・・・はい」
筒井は考え込むように見つめていた座卓から顔を上げた。
「もし自分がこれから一人ぼっちで未開の地へ行くことになったとして、
最後に一言だけ好きな人に何か言えるとしたら、何て言う?
一緒に来てくれ、とか、ずっと好きだった、とか、愛してる、とか、
色々あるでしょう?」
「・・・そうですね・・・何て言うかな・・・」
「あたしはね、きっとこう言うわ、秀君に。
ありがとう、って」
えり子はそう言って大きく微笑むと、コップに残った酒を一気に飲み干して、
座椅子からすくっと立ち上がった。
それから足元に置いてあった自分のボストンバックを手に取り、
「ハギちゃん、明日二日酔いにならなければいいけど」
といたずらっ子を見るような眼差しで萩原の寝姿を見やったあと、
「こんなに遅い時間まで付き合ってくれてありがとう、筒井君」
と言い残して足音を立てないように部屋のドアへと歩いて行った。
突然の展開にあっけに取られていた筒井は、しかしすぐに慌てて立ち上がり、
横に寝ている萩原につまづきバランスを崩しながら、
立ち去っていくえり子の背中をドアへと追っていった。
「あのね筒井君、」
後ろから呼びかけようとした筒井に、
三和土でスリッパを履きおえたえり子はくるっと振り返って言った。
「やっぱり今晩中にお願いしておくわ」
筒井が口を開くより前にえり子は先にそう切り出し、
持っていたボストンバッグを開いて中から透明なラップに入った包みを取り出した。
「これ、秀君に渡してほしいの。急いで買ってきたから包装する時間がなくて、
こんな雑な包みのままなんだけど。あたしからっていうことは内緒にしておいてね。
ここに来たことも、秀君には話さないでいてほしいの」
筒井は手渡された包みにじっと視線を向け、
それから顔を上げてえり子の顔を見た。
「よっぽどの思いで訪ねて来てくれたんだと思うのよ、秀君、数日前のあの日、
お店に」
そう言ってえり子は微かに微笑み、
(ドアに挟んであった手紙の最後にね、)
と言おうとしたその言葉を、そっと想いの中にしまい戻した。
「そんな悲しい顔しなくていいのよ、筒井君」
何か言おうとしても言葉がみつからないままでいる筒井に、
えり子は励ますように大きく微笑みかけ、
「それじゃあね」
と言って背中を向け部屋から出て行った。パタン、と静かにドアが閉まり、
筒井は独り、薄暗い踏込に残された。
降り続いていた雨はいつの間にか止み、風は小夜中の海へと凪いでいく。
喉の渇きで目が醒めて、萩原はぼんやりと天井の木目を見つめた。
明るく日の差した障子窓の向こうで、鳥たちが朝の向かえを歌っている。
水が飲みたくてしかたがないのに身体を動かすのがひどく億劫で、
頭の芯が重かった。二日酔いで鈍麻している脳細胞を動かして考えても、
昨晩、突然ここに現れてきたえり子と筒井と三人で呑んだことは覚えているが、
しかしえり子にもっと呑めと注がれた六杯目のビールを空けたところで、
萩原の記憶はぷっつりと途絶えていた。目を向けた隣の布団に筒井が眠っている。
ヒデは?と考えかけて、萩原は天井の木目模様に目線と意識を向け直した。
遠くから、誰かの話し声が耳に届いてくる。階下で女将と別れの挨拶を交わしているらしい。
ええ・・・そうなんですか・・・天気が回復して・・・
と、徐々にその会話は頭の中でぼんやりと形を作っていく。
いいところですよね・・・・・これからまっすぐ?・・・・ええ・・・
「東京に戻ります」
突然はっきりとえり子の声が耳に入ってきて、萩原は布団から飛び起きた。
寝ている筒井につまづき踏み潰して転がりながら三和土に降りてドアノブを引っ掴み
押し開けたドアから廊下へ走り出たあと一度滑って転んで正面玄関へと続く階段を
まっすぐに駆け降りた。
「えり子さんっ!」
玄関を出ようとしていた背中が、ゆっくりと萩原に振り返った。
「なんでもう帰っちゃうんですか?」
上がり框に立って萩原は、振り返った顔に息急き切った言葉を投げた。
「ヒデに・・・ヒデに会わなくていいんですか?」
玄関内に半分回していた身体を、えり子はきちんと萩原に向け直した。
「開店までに東京に戻らないと」
「でも、でもヒデに会いにここまで来たんですよね?」
「気が変わったの」
「だってそんなこと言ったらもうヒデには会え・・・」
と思わず言いかけて、萩原は口を閉じた。
「こんなあたしでもね、いないと寂しいって言ってくれるお客さんたちがいるのよ」
落ち着いたえり子の声が、ひっそりとした朝の玄関に響いていく。
「けどもう少し待てば、今日の午後にはヒデに会えるかもしれない」
「帰らないといけないの。じゃあね」
えり子はくるりと踵を返す。
「待ってください、えり子さん、ヒデは、」
立ち去ろうとする背中に萩原は必死で呼びかけた。
「ヒデは喜ぶと思いますよ。えり子さんの顔を見たら、すごく」
えり子は行きかけた足を止め、再び萩原に振り返った。
「いつも気にしてたから、えり子さんのこと。幸せでいて欲しいって」
逆光を受けたえり子の顔が、くしゃっと泣き顔へと歪んだようだった。
萩原はさらに訴える。
「えり子さんの話しになると、いつもヒデはそう言っていて、だから、」
「帰るわね、あたし」
「えり子さん、」
「思い出があれば充分よ」
「思い出なんですか、ヒデは?」
えり子は黙り、しばらくじっと萩原に顔を向けていた。
車の走行音が県道に近づき、二人の沈黙の間を通り越して、
そして小さく遠のいていった。
「ハギちゃん、いい?」
やがてえり子は静かに口を開いた。
「思い出には二つの種類があるのよね。
心に重石をのせてしまう思い出と、
心に羽をつけてくれる思い出と。
大丈夫よ、あたし。これからどこへでも飛んでいけるから」
何も言えずに立ち尽くしたままでいる萩原に、えり子はそっと背中を向け、
そして玄関から出て行った。
朝日を受けた後姿が、ハイヒールの靴音と共に道の向こうへと小さくなっていく。
萩原はその場に佇んだまま、その背中が見えなくなるまで一人見送っていた。
羽を広げた鳶が、ゆったりとした気流線を描いて飛んでいった。
遥か彼方に、白い山岳が雄大に聳え連なっている。
窓辺に立って見上げた空は水浅葱色に高く澄みきっていて、
見つめ上げる清んだ瞳が、空の青さを深く呼吸していく。
「窓際のガッチャマンですか、君は?」
ふいに聞こえた声に心を呼び戻され、吉岡は後方に振り返った。
「つれないね秀隆くん、ボクのプレゼントを人に見せたくないのか?」
萩原がドアの戸先に軽く身を寄りかけていて、
「真冬にTシャツ一枚でいられるわけねぇだろ」
吉岡の代わりに返事をした筒井が病室のベッドまで歩いてきた。
その肩には二つのバックパックが担がれている。
「掻っ攫いにきたぞ、ヒデ」
吉岡は笑って、筒井から自分のバックパックを受け取った。
「重てぇんだよ、お前のリュック。担がせた礼は昼飯代でいいぞ」
「うん、わかった」
吉岡は笑みを深めて答える。
「それからさ、これ」
筒井は自分のバックパックを開けて包みを取り出し、
お前に、と言って吉岡に手渡した。
少し不思議そうな顔をしながらそれを受け取った吉岡の表情が、
包みに視線を落とした途端に、ふと止まった。
薄水色に細い白のストライプが入ったシャツが、
その包みの中に入っている。
驚いたように僅かに開いた吉岡の口が、
ゆっくりとまた静かに閉じていき、
手元を見つめる瞳が、そっと、微かに、揺れていった。
筒井は何も言わずにドアへと戻っていき、
萩原は廊下の先へと視線を向けている。
吉岡は、手の中のシャツをじっと深く見つめ続けた。
窓から差し込む透明な冬の光が、やわらかく、温かく、
その横顔を穢れなく包み込んでいる。
吉岡は、両手に持った包みをそっと大事そうに握りなおした。
それから大切そうに、とても大切なものを扱うように、
その包みを自分のバックパックの中へしまった。
「筒井、」
バッグのファスナーを静かに閉めた吉岡は、
視線を手元に落としたままドアへと向って呼びかけた。
「昼飯は、カツ丼だよな?」
「当たり前だろ」
吉岡は顔を上げ、そして筒井を見た。
「腹減ってんだよ、俺は。行くぞ、ヒデ」
筒井はバックパックを右肩に背負いなおしてドアから出る仕草をした。
吉岡はそっと頷きながら手元のバックパックを肩に掛けた。
「またカツ丼かよ、筒井。お前の前世はカツ丼か」
床に置いた自分のバッグを拾い上げながら萩原が不平をたれる。
「お前の前世はニャロメ一族の小姑だな、ハギ」
「ニャロメに先祖がいるのかよ、筒井」
「お前がその末裔だよ」
吉岡が微笑みながら二人に肩を並べ、三人は病室から廊下へ歩き出た。
エレベーターへと向かいかけた吉岡の視線がふと横に逸れ、
開いたドアから隣の病室内を捉えた瞬間、その足がふいに止まった。
がらんとした病室に、糊の効いた真っ白なシーツに包まれたベッドが、
真新しい状態で次の患者を待っている。
誰もいなくなったそのベッドを、吉岡は、静かに見つめた。
「ヒデ、」
萩原の声に呼びかけられて、吉岡は前方に顔を戻した。
「行こうぜ」
筒井と萩原が、数歩先に立ち止まって待っている。
吉岡はふっと溢れるような笑顔で笑って肩のバックパックを掛けなおし、
「そうだね」
二人に向かって大きく足を踏み出した。
つづく
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