<2012年6月23日に書いた以下の文を復刻します。>
<前編>
先日、喫煙と肺がんの関係について一文を書いていたら、人体の「抵抗力」とは何かと考えるようになった。
私は医師や科学者ではないから、もちろん専門的なことは分からない。しかし、病気と人体の抵抗力について考えるのは自由である。私は科学者ではないが、一人の自由な思想家なのだ。以下、独断と偏見を交えて人体の抵抗力を考えていきたい。この場合の「抵抗力」とは、病気や病原菌に耐える力のことである。
タバコは人体にとって有害である。これは臨床医学で明らかになっているし、ニコチンやタールが健康に良いわけがない。非喫煙者は知らないだろうが、今のタバコの箱には肺がん、心筋梗塞、脳卒中、肺気腫などの原因になったり、それらの病気を悪化させる危険性があると、くどいように書いてある。売る商品にそんな告知をしている物は珍しいのではないか(笑)。
それほど、タバコは健康に良くないということだが、肺がんなどの原因は多種多様であり、ヘビースモーカーでも長生きした人が大勢いる。また、統計学的にも、この40年間で喫煙者が大幅に減っているのに、なぜか肺がんなどが急増している実態も明らかになっている。どこか変ではないのか。 (この40年間に、男性の喫煙者が8割から4割に半減したというのに、肺がん死亡者は7倍以上に急増したのだ! また、女性の場合も、肺がん死亡者が急増したという。)
そこで、少し視点を変えてタバコの“毒性”について考えてみたい。何年か前、私の知人から聞いた話だが、その家では長男(20歳代)だけが喫煙していて、残りの父母や妹はタバコを吸わないとのことだった。
ところが、季節の悪い頃か、父母や妹の部屋にダニだかシラミが沢山出てきて困ったというのに、長男の部屋には全く出てこなかったそうだ。これは明らかに、タバコのニコチンやタールなど毒性のある物が害虫を排除、駆逐したものと考えられる。その時、タバコにも変な“効果”があるんだなと思ったものだ。ニコチンやタールは人体にとって良くないが、害虫を駆除するには有益だと思ったのだ。
こんなことは当たり前の話だろうが、それから、どんな「物質」も人間にとって、良い面と悪い面の両面があるのではと考えるようになった。つまり、それは人間の使い方次第によって悪くなったり、良くなったりするのだ。
タバコの話からいろいろ考えるようになったが、「毒性」とは何かということである。少し調べたが、昔から「麻酔」には、アヘン、大麻、アルコール、クロロホルム、コカインなど、毒性の強いものばかりが使われている。名前を聞いただけでもゾッとしてしまう。しかし、人間はこうした毒性のあるものを有効に活用してきたのだ。
また、いま話題になっている「放射線」も病気の治療に役立っており、殺菌や減菌、害虫の駆除などにも使われている。ということは、「ものは使い方次第だ」ということになる。
病気という“害毒”を治すには、薬という毒性のあるものが必要なのだ。薬なんか要らない状況が、人体にとって最も健全である。病気をするから、仕方なしに我々は薬を使うのだ。薬も多用すると良くないと言われる。それは薬に毒性があるからだ。
そう考えると、昔の人はうまいことを言った。「毒をもって毒を制する」と。また、あまり役に立たないものを「毒にも薬にもならない」と言った。これらの言葉は真実であり、たぶん真理だろう。
どんなものでも、毒性が強ければ強いほど危険だが、逆に毒性が強いほど効き目がある。昔の人はこれを「良薬は口に苦(にが)し」とも言った。これも真実だろう。しかし、毒性が強すぎると、現代ではこれを「劇薬」と呼ぶ。
あれ、おかしいな~と思うだろう。劇薬と言うと、良くないものだ。まして「薬物」と言うと、覚醒剤や麻薬などを思い出し、これは完全に取り締まりの対象になる。話がだいぶ逸れてしまったが、要するに“薬”と“薬物”というのは紙一重の差なのだ。
ここでは毒性の話ばかりで、本題の抵抗力や免疫の話に入れなかったが、全ての物質は人間にとって良い面と悪い面があり、それらは活用次第で大きく変わるということを言っておきたい。
<後編>
人体が丈夫で健康なことは素晴らしい。また、摂生して体を鍛えるのも良い。しかし、これが長生きに繋がるかといえば必ずしもそうではない。 「一病息災」と言って、一つぐらい持病がある方が健康に気を使い、かえって長生きする例もある。また、見るからに弱々しくて、痩せ細っていても長生きする人が大勢いる。人さまざまだ。
ところで、つい先日まで元気一杯だった人が急に亡くなったり、人間ドックで何の異常もないと診断された人が急逝することがある。あれは何なのか。こういう例を私は何度も見てきた。
前置きが長くなったが、要は病気に対して「抵抗力」があるかないかの問題だろう。抵抗力がなければ、どんなに丈夫な人でもアッと言う間に亡くなる。この場合の「抵抗力」とは、病気や病原菌に耐える力のことである。
そこで、最も一般的な抵抗力の話をしよう。それは「免疫」のことだ。免疫とは病気、特に感染症(伝染病)に対して抵抗力を持つことである。
医学に弱い私は、これは不思議な現象だとずっと思ってきた。しかし、全ての物質が“毒性”を持っており、この毒性の「相互作用」によって世界(万物)が成り立つと考えれば、何ら不思議ではない。
「ワクチン」というものがある。誰もが知っているが、これはもともと毒性から成る「病原体」を人体に注入し、体内に抗体を作って感染症にかかりにくくするものだ。つまり、前にも述べた「毒をもって毒を制する」というやり方だ。毒性がなければ、それこそ「毒にも薬にもならない」ということだ。
万物は毒性から成り立っている。 「毒性」という言葉が気に入らなければ、思い切って「神性」にでも「霊性」にでも変えて欲しい。ただし、現代医学が「毒性」と言っているから、私はそれに従っているだけだ。
エドワード・ジェンナー
余りにも有名な話をしよう。ワクチン(牛痘)を発見したのは、イギリスの医学者エドワード・ジェンナー(1749年~1823年)だが、これが天然痘ウイルスに対して免疫を持つということが分かり、彼は後に“近代免疫学の父”として仰がれるようになった。
ジェンナーは田舎の開業医をしていた頃、農民の言い伝えで、牛と接して牛痘にかかった人間はその後、天然痘にかからないという話を聞いた。それから彼は18年も研究を続け、牛痘が天然痘の予防に使えると確信し、8歳の少年に「予防接種」をするというあの有名な物語が誕生したのである。(以上、ウィキペディアを参照)
当時、天然痘は“悪魔の病気”と恐れられていたから、少年に対する予防接種は、今ならさしずめ無謀な「人体実験」と非難されただろう。余談だが、ジェンナーが発見した種痘法は、イギリスの医学界からなかなか認められなかったという。しかし、その後の天然痘の大流行でようやくその効用が認められ、やがて世界中に広まっていった。天然痘は今では根絶されている。
ジェンナーの話になってしまったが、もし私も当時のイギリス農民だったら、種痘なんか気持悪くて受けたくなかっただろう。なにしろ牛痘、つまり牛のウミ(膿)を接種されるのだ。「ジェンナー先生、牛のウミなんか嫌ですよ! どうしてもやるんですか?」と、顔をしかめたに違いない。
しかし、ジェンナー先生のお陰で助かったとなれば万々歳である。このように「毒をもって毒を制する」というやり方を見れば、万物は毒性から成り立っていることが分かる。たまたま昨日、ある人が、ヘビの猛毒から難病に効く新薬が出来たとのコメントを寄せてくれた。猛毒でも何でも、活用の仕方次第では有効になるケースはいくらでもあるのだ。
ただし、免疫については「アレルギー」という厄介な症状もある。これは免疫反応が“過剰”に起きるものだ。もちろん個人差があるが、毒をもって毒を制するのだからやむを得ない現象だと思う。アレルギーの話は専門家でないので、それは医師に聞いてもらおう。
初めに、人体の抵抗力(医学的には「抗体」と言う)について話したが、これは人間の精神面でも言えるのではないか。子供にポルノ写真とか残虐な映像を見せないのは、子供にまだ精神的な「抵抗力」が育っていないからだ。
大人になれば抵抗力が備わるから、ポルノ写真なんか見てもどうってことはない。しかし、子供は純真無垢な面があるから、そうした映像に衝撃を受ける。純真無垢とは、精神的に“毒素”が少ないということだ。毒性が薄いと言ってもよい。
大人になると毒性が自然に濃くなり、精神的に強くなる。だから、子供はすぐに泣いたり喚いたりするが、大人はおおむね平然として対処することができるのだ。
精神面でも、毒性が強くなることは抵抗力が備わるということだ。ちょっとやそっとの事では挫けない。これは精神的な「免疫」と言えるだろう。
以上、私は独断と偏見で、人体と精神の抵抗力・免疫について論じてきたが、まだ言い足りないことは幾つかある。本日はこれまでとして、また機会を見て論じていきたい。(2012年6月23日)
逆に、放射能は健康に良いとか言う人もいます。
「毒にも薬にもならない」というのは、まったく役に立たないということでしょうか。
使い方で全てが変わると思います。ただし、人工放射能は有害ですが、自然(天然)放射能は有益だと聞いています。