飲食居抜きソムリエ  山田 茂  飲食を辞める始めるときのブログ                 

飲食店を希望を持って始めたり順調に多店舗化したり、内装設備に費用がかなり掛かります。その投資を回収できます。

6.サブリース事業 24

2019-02-28 10:25:25 | サブリース事業

サブリースしたいとき
     早めの相談が より 効果的です
        

   お問合せ等は、
   メッセージメッセージを送る
   クリック       

                        トップページへ
             バックナンバー

 

     
     スーパーで働きつつ new
               寿司屋を開いた男の達観
              連載 20

     すし職人の腕前

     江戸前ずしは、江戸時代東京
     湾で捕れた魚を、酢や塩で締
     めたり、タレに漬け込んだり
     して、日持ちするよう工夫し
     たすしである。阪ずしは、起
     源は平安時代まで遡る発酵ず
     しだ。発酵ずしでは、なれず
     しが代表的だ。巻きずし、バ
     ッテラずしなども、大阪ずし
     と呼ばれる。どちらも現在の
     主流のすしではないが、大い
     にすし職人の腕が試されるす
     しである。
     (次回に続く)



     スーパーで働きつつ new
               寿司屋を開いた男の達観
              連載 19

     おすしの源流

     僕のつたないおすしに対する
     認識は、「なるべく新鮮な魚
     を使ったおすしのほうが美味
     しい」くらいのものだった。
     でも冷凍冷蔵技術ができたの
     はここ数十年の話で、おすし
     の歴史はもっともっと古い。
       魚介類を日持ちするよう加工
     するのが、おすしの源流なの
     だ。
     (次回に続く)




             連載 18

     開店にこぎつける

     探していると、現在の松寿し
     がある場所が見つかった。元
     々はバーであり、前のオーナ
     ーが飛んだ(無断でいなくな
     った)後、1年間放置された
     物件だった。物はすべて置き
     っぱなしで、冷蔵庫を開ける
     と黒い液体が流れ出てきた。
     苦労して綺麗に掃除をし、や
     っとオープンにこぎつけた。
     「すし職人とはなんだろうと
     考えました。そして“ 仕事を
     したすし” を出すことにしま
     した。代表的なところでは、
     江戸前ずしと大阪ずしですね
     」
      (次回に続く)

 

              連載 17

     独立決意

     「お店を辞めるとき、つくづ
     く僕は集団の中で働くのに向
     いていないんだな、と思い知
     りました。だったら、1人で
     お店を開店するしかないと覚
     悟を決めました」開店資金を
     貯めるためにしばらくスポー
     ツバーなどで働いた。ちょう
     どそのときに、父母が入れて
     いてくれた保険が満期になり
     現金が戻ってきた。「お店を
     開けるだけの現金が手元にで
     きたので、場所を探すことに
     しました」
     (次回に続く)

              連載 16

     お店を辞める

     「店長が途中からパチンコは
     やめて、貯金するようになっ
     たんです。でも自分のために
     おカネを貯めてるわけじゃな
     いんです。『 1000万円貯め
     たら、俺もオーナーに認めて
     もらえるかな?』とか言って
     るんですよ。本当に洗脳され
     てますね」労働時間が長いだ
     けではない。失敗すると、ひ
     どく暴力を受けた。もちろん
     近藤さんも、店長に負けず劣
     らずのひどい待遇を受けてい
     た。「そこで1年間働きまし
     たけど、だんだん頭がおかし
     くなってきました。病院に行
     ったら、鬱の診断が出ました
     」休養ではなく、お店を辞め
     ることにした。
     (次回に続く)

 

              連載 15

      ブラックすし屋に勤務する

     そして、市内の繁華街にある
     すし屋さんに再就職した。「
     そこが絵に描いたようなブラ
     ック企業でした。店長はオー
     ナーに完全に洗脳されていま
     したね。労働時間はめちゃく
     ちゃ法外で、店長は朝7時出
     勤で深夜2時までぶっ通しで
     働いてました。それで月給3
     0万円ちょいですからね。狂
     ってます」店長はストレスか
     らか、空いている時間にはパ
     チンコに通いお金を全部使っ
     てしまうようになっていた。
     (次回に続く)

             連載 14

     1年間職探し

     「おしさんは繁華街にある大
     衆店に行きました。そのお店
     は今、外国人のお客さんがた
     くさん訪れていて、すしネタ
     の回転がすごく早いんですよ
     。つまりすごいよいネタが使
     われていて、そこにおしさん
     みたいな一流の職人が働いて
     ますから、オススメですね!
     !」お店が閉店になったとき
     、近藤さんは33歳だった。そ
     れから1年間は退職金でゆっ
     くりしながら、次の職を探し
     た。
     (次回に続く)

 

 

             連載 13

     お店が閉店

     多くのすし屋は集団で働く。
     そこにはやはり集団ならでは
     の人間関係の難しさはあると
     いう。中には10年やっても
     出前しかさせてもらえない職
     人もいる。そうして不遇のま
     ま、潰れてしまう職人も少な
     くないという。近藤さんは厳
     しいお店で4年3カ月間働いた
     。近藤さんとしては、やめる
     つもりはなかったのだが、お
     店が閉店することになってし
     まった。店が老朽化して建て
     直さなければならなくなった
     のだが、それに職人たちが反
     対し、結果的に解散という形
     になってしまった。職人たち
     は皆それぞれ新しいお店に移
     っていった。
     (じかにに続く)

 

      スーパーで働きつつ 
               寿司屋を開いた男の達観
              連載 12

     職場を転々とする

     厳しいが仕事を教わった

     「最初は当時母が病気という
     こともあってアルバイトで入
     ったんですが、入店して3カ
     月ほどで母が亡くなってしま
     ったので、それからきちんと
       就職しました」現場はとても
       厳しかった。愛情はあるのだ
     が、とにかくボロクソに怒ら
     れることも多かった。「僕は
     少し集団になじめないところ
     があって、そこは苦労しまし
     たね。ただ、おしさん(師匠
     )は怒るけど、ちゃんと教え
     てくれる人でした。きっちり
     と一から技術を学ばせてもら
     いました。おしさんは今でも
     慕って会いに行っています」
     (次回に続く)

       スーパーで働きつつ 
                寿司屋を開いた男の達観
              連載 11

     職場を転々とする

     高級店で修業することになっ
     た。ただ1年間、修業はした
     ものの、覚悟なく入ったこと
     もあり、あまり身に付かない
     まま辞めてしまった。
     「そこからはお店を転々とし
     ました。いとこのおすし屋で
     も働きましたし、居酒屋の厨
     房にも入りました。0歳にな
     る頃に『これじゃいかん』と
     思いまして、職安でおすし屋
     さんの求人を探しました」
     そして心斎橋前にある老舗店
     に入った。180年以上続く、
     総本山的なお店だった。
     (次回に続く)

 

       スーパーで働きつつ 
                寿司屋を開いた男の達観
              連載 10

        すしに縁ある家系

               祖父の思いつきではじめたす
               し屋さんだから、そもそもす
               し屋の家系ではないのだが、
               なぜかいとこ 3人がすし屋に
               なっているという。不思議と
               すしに縁がある人生なんだな
               、と思う。「小学生の時は食
               べることが好きだったので調
               理師になりたいなとは思って
               いましたけど、おすし屋さん
               とは決めていなかったですね
               。ケーキが好きだからケーキ
               屋さんになろうかな~とかふ
               わふわした夢でした。高校の
               時の進路相談で『将来はすし
               屋になります』と言いまして
               、それから就職しました」
               (次回に続く)

 

     スーパーで働きつつ   
              寿司屋を開いた男の達観
              連載 9

     父親も素人で引き継ぐ

     今里新地はもともと遊郭だっ
     た地域だ。近藤さんが小さい
     頃はまだ色街の名残があった
     。そこへ通うお客さんや、近
     くの工場の社長さんなどがす
     し屋を訪れていた。「その後
     、父親が跡を継ぎました。父
     親は就職が決まっていたのに
     辞めさせられたそうです。父
     親も修業には行かなかったん
     ですが、近所のおすし屋さん
     の技術を見て盗んで覚えたそ
     うです」そんな環境の中で、
     近藤さんは育った。
     (次回に続く)

 

 

     スーパーで働きつつ   
              寿司屋を開いた男の達観
              連載 8

     祖父も父親も修行経験はなし

     スシニィこと近藤さんがどう
     してこの小さいけれどすし愛
     にあふれるお店を始めたのか
     。松寿しの店内で話を聞いた
     。「出身は今里新地(大阪市
     生野区)のど真ん中ですね。
     実家は祖父が開いたおすし屋
     さんを経営していました。僕
     の祖父が働いていた頃は定年
     が50歳だったそうで、会社を
     辞めた後に『さて何をしよう
     か?』と考えておすし屋さん
     を始めたそうです。だからき
     っちりと修業をしたわけでは
     なかったんですね」
     (次回に続く)

 

 

 

     スーパーで働きつつ   
              寿司屋を開いた男の達観
              連載 7

     カルチャーショック

     ハマグリもまさに命懸けだか
     ら必死なのだ。近藤さんはゴ
     ツいマイナスドライバーで強
     引に開いているという。口に
     運ぶと、ハマグリの美味しさ
     をギュウッと固めたようなお
     すしだった。具材はそれほど
     珍しいものではなくても、手
     間暇をかけると未知の味にな
     るんだと驚いた。大阪でちょ
     っと美味しいモノ食べて帰ろ
     う、くらいの気分だったのに
     、すっかりカルチャーショッ
     クを受けてしまった。
     (次回に続く)

 

 

     スパーで働きつつ   
              寿司屋を開いた男の達観
              連載 6

     ハマグリの貝を
     開けるのは大変

     「こちらは江戸前の仕事にな
     ります。ハマグリのおすしは
     大阪ではほとんど食べられな
     いですね。生きている状態か
     ら殻をむき、その身を水から
     沸騰させていったん引き上げ
     ます。その煮汁に味を付けて
     、そこに先程の身を漬け込み
     ます」まずハマグリの殻を開
     けるのがものすごく大変だと
     いう。本には『貝割機で開け
     ましょう』と簡単に書いてあ
     るが、新鮮なハマグリはビッ
     チリと口を閉じていてヤワな
     道具では開けられない。
     (次回に続く)

 

     スパーで働きつつ   
              寿司屋を開いた男の達観
              連載 5

     手間のかかった珍しいすし

     それからも凝ったおすしが次
     々に出てくる。普通のおすし
     屋さんでは珍しい昆布締めに
     したブリのおすし、大阪では
     調理に手間がかかるためあま
     り食べられないコハダのおす
     し、スルメイカを開いて干し
     たものを水で戻し改めて煮イ
     カにしたおすし、などなどだ
     。どれもとても手間がかかっ
     ているのがわかる。
       続いて、煮ハマグリのおすし
     が出てきた。
     (次回に続く)

 

 

     スパーで働きつつ   
              寿司屋を開いた男の達観
              連載 4

     新しい鮨が、楽しかった

     その上に薄い板上の昆布が乗
     っている。おぼろ昆布を削り
     ながら製作するとき、最後に
     残る部分だ。職人が手作業で
     作ったときにだけ残る食材で
     、今は職人が少なくなり機械
     で作ることが多いため手に入
     れるのが難しいという。タイ
     にはすでに味が付いているの
     で、醤油は付けずに口に運ん
     だ。僕の知っているおすしと
              はまるで違う味だったのでビ
              ックリしてしまった。もちろ
              ん美味しいのだが、それ以上
              にまったく知らない食べ物に
              触れたことが楽しかった。
              (次回に続く)

 

     スパーで働きつつ   
              寿司屋を開いた男の達観
              連載 3

     タイの雀鮨風

     コースはあらかじめ決まって
     おり、飲み物の注文だけ済ま
     せる。間もなく、目の前のお
     皿にスッと握りたてのおすし
     が1つ置かれた。
     「タイの雀鮨(スズメズシ)
     風です」
     なんのことかわからずポカン
     としていると説明してくれた。
     タイを酢と塩で強めに締めて、
     その上に煮返しを塗っている
     。煮返しとは酒とみりんを合
     わせたものからアルコールを
     飛ばして味を付けたものだ。
     (次回に続く)

 

     スパーで働きつつ   
              寿司屋を開いた男の達観
              連載 2

     2坪の狭い店舗

     1 階には居酒屋が入っていて
     、その横を通路が走っている
     。雑居ビルの怪しい雰囲気が
     漂っていた。そのいちばん奥
     に『松寿し』はあった。1 人
     では絶対にたどり着けない場
     所である。おそるおそるドア
     を開けて中に入ると、これま
     た狭い。2 坪(4 畳)ほどの
     広さであり、もちろんカウン
     ターしかない。4 人座れば満
     席になってしまう。カウンタ
     ーの中には、調理白衣に身を
     包んだ青年がいた。近藤晋太
     朗さん( 38 )だ。知人から
     は親しみを持って、「スシニ
     ィ」と呼ばれている。
     (次回に続く)

 

     スパーで働きつつ   
              寿司屋を開いた男の達観
             新連載 1

     1人では絶対にたどり
     着けない場所にある店

     大阪出張中に、知人から「知
     り合いがやっている面白いす
     し屋があるので行きませんか
     ?」と誘われた。ちょうどお
     腹もすいていたので、話に乗
     ることにした。タクシーは「
     座裏」と呼ばれる地域に停ま
     った。かつて「新歌舞伎座」
    (大阪市天王寺区上本町)があ
      った場所の裏手だから、座裏
      という名称のようだ。細い路
      地にたくさんの飲食店が密集
      している。その中でも、かな
      り年季の入った建物に案内さ
      れた。
        村田らむ ライター
     (今回新連載です)

 

 

 

     1919年生まれ「100年 new
     続いた企業」の顔ぶれ
             最終回  13

     ヒントの発見を

     周年という節目は、創業から
     今日までの歩みを振り返るい
     い機会となります。また、周
     年という1つの区切りを迎え
     ることは、蓄積されたブラン
     ドのイメージ向上においても
     好材料となるほか、記念行事
     やプロジェクトを計画、実行
     し、全社員が企業理念などを
     改めて共有することで、団結
     力を高める機会を創出する側
     面もあります。
     「なぜあの企業は長く続いて
     いるのだろうか?」といった
     さまざまな周年企業の歴史や
     魅力、強みに触れることによ
     り、経営やビジネス上のヒン
     トが1つでも多く得られれば
     幸いです。
     (今回最終回です)




     1919年生まれ「100年
     続いた企業」の顔ぶれ
              連載  12

     時代が製造業を後押しする

     国際的に認められ始める一方
     、当時まだ物質的に貧しかっ
     た日本は「欧米に追いつき追
     い越せ」との明治年間から続
     く、富国強兵・殖産興業の政
     策が、多数の製造業の創業を
     後押ししたといえるでしょう。
       番外編になりますが、100周
     年以上の企業は?とお思いの
     読者もいらっしゃることでし
     ょう。ちなみに150周年を迎
     える企業には百貨店の松屋(
     東証1部)があり、200周年
     企業には石塚硝子(東証1部、
     名証1部)、350周年企業に
     は岡谷鋼機(名証1部)など
     があります。
     (次回最終回お楽しみに)

 

     1919年生まれ「100年
     続いた企業」の顔ぶれ
              連載  11

     各業界の有名企業

     戦争、震災、バブル崩壊、リ
     ーマン・ショックなど数々の
     窮地を乗り越えてきただけに、
     危機をものともしないような
     各業界の優良企業が目立ちま
     す。業種別に見ると、「製造
     業」が 496社(構成比 29.4
     %)で最も多く、全体の3割
     弱を占めたのが大きな特徴で
     す。今から約 100年前の191
     9 年は、第一次世界大戦の終
     結に関するパリ講和会議が開
     催され、日本も連合国として
     参加しました。
     (次回に続く)

 

     1919年生まれ「100年
     続いた企業」の顔ぶれ
              連載  10

     100周年企業の3割が製造業

     さて、いよいよ最後は、創業
     から1世紀。1919年創業の「
     100周年企業」の紹介になり
     ます。総数は全国で1686社
     となり、10周年、30周年、
     50周年と比較すると、ぐっ
     と少なくなります。そのうち
     、上場企業は28社ですが、1
     00周年企業ということだけ
     あって、コンテナ船や自動車
     船など貨物船舶を運航する川
     崎汽船(東証1部)、デジタ
     ル一眼カメラほか、医療分野
     向けなどの精密機械を製造す
     るオリンパス(東証1部)、
     送電・配電用碍子をはじめ、
     自動車の排ガス浄化用などの
     セラミック製品を製造する日
     本ガイシ(東証1部)、マヨ
     ネーズでおなじみの食品メー
     カー、キユーピー(東証1部)
     など多くの人に名の知られた
     有名企業が名を連ねています。
     (次回に続く)

 

 


     1919年生まれ「100年
     続いた企業」の顔ぶれ
              連載  9

     「オ―モウレツ」の流行

     東名高速道路や西名阪自動車
     道の全線開通のほか、営団地
     下鉄千代田線(当時)や大阪
     市営地下鉄堺筋線(当時)が
     開通するなど交通インフラの
     整備も進みました。同年には
     石油会社の CMで使用された
     「オー、モーレツ」という言
     葉が流行語になりましたが、
     企業戦士としてがむしゃらに
     働くサラリーマンおよび全国
     の中小企業が、高度経済成長
     を支え、経済大国日本の礎を
     築いてきたといえるのではな
     いでしょうか。
     (次回に続く)


     1919年生まれ「100年
     続いた企業」の顔ぶれ
              連載  8

     経済大国になる

     50周年企業の誕生した1969
     年は「いざなぎ景気」の終盤
     になりますが、「いざなぎ景
     気」期間中、国民の所得水準
     の向上によって、いわゆる新
     ・三種の神器といわれる車、
     エアコン、カラーテレビと呼
     ばれた耐久消費財の消費の大
     幅な伸びにより、日本経済は
     大きく拡大し、世界2位の経
     済大国となりました。
     (次回に続く)

 

     1919年生まれ「100年
     続いた企業」の顔ぶれ
              連載  7

     年商10億円未満の企業9割

     続いて、創業から半世紀、も
     はや老舗の仲間入りともいえ
     る1969年創業の「50 周年企
     業」を見てみましょう。総数
     は全国で2万1456社となって
     おり、30周年、40 周年に次
     いで多くなっています。上場
     企業の顔ぶれを見ましても、
     調剤薬局大手のアインファー
     マシーズを傘下に置く持ち株
     会社であるアインホールディ
     ングス(東証1部)や大手サ
     ブコン業者として空調設備 ・
     給排水工事を手がける新日本
     空調(東証1部)、グループ
     でデジタルエンタテインメン
     ト事業やスポーツ事業等を手
     がけるコナミホールディング
     ス(東証 1部)などバラエテ
     ィーに富んでおり、各業界を
     代表するリーディングカンパ
     ニーなどが名を連ねています。
     業種別に見ると、「 建設業」
     が7862社(構成比 36.6%)
     と全体の4割弱を占めています
     。「サービス業」が3443社(
     同16.0%)、「製造業」が33
     09社(同15.4%)と続きます
     。また、同年に創業された企
     業の9割強が年商10億円未満
     の中小企業となっています。
     (次回に続く)

 

 

     1919年生まれ「100年
     続いた企業」の顔ぶれ
              連載  6

     経済大国日本の礎を
     築いた50年組

     業種別に見ると、バブル景気
     という時代を反映し、大都市
     を中心にあちらこちらで不動
     産開発が行われたことに伴い
     建設需要が高まり、「建設業
     」が8936社(構成比30.2%)
     と最も多く、全体の3割を占
     めました。そのほかでは、「
     サービス業」が8232社(同2
     7.8%)と続き、全体の3割弱
     を占めました。「サービス業」
     を詳しく見てみますと、10周
     年と同じく、入院施設のない
     診療所や老人福祉サービス、
     IT・システム関連企業が上位
     にきたことに加え、建設需要
     の高まりから建築設計事務所
     の創業が目立ったほか、歯科
     診療所の創業も目立ちました
     。ちまたで「歯科医院の数は
     コンビニエンスストアより多
     い」などと言われたりもしま
     すが、平成の幕開けの年に多
     くの歯科医院が開業していた
     ようです。
     (次回に続く)




     1919年生まれ「100年
     続いた企業」の顔ぶれ
              連載  5

     創業、各周年で最多の1989年

     次に、1989年(平成元年)に
     創業した「30周年企業」を見
     てみましょう  1989年は同年
      12月29日に日経平均株価の終
     値が 3万8915.87円の史上最
     高値を記録するなどバブル景
     気のピークを迎えた年になり
     ます。同年に創業した企業の
     総数は全国で2万9593社を数
     え、各周年のなかで最も多く
     なっています。上場企業では
     、ITシステムコンサルティン
     グ事業を手がけるフューチャ
     ーグループを統括する純粋持
     ち株会社フューチャー(東証
     1 部)のほか、首都圏を中心
     に中古住宅再生事業を展開す
     るイーグランド(東証  1部)
     ゴルフクラブシャフトの製造
     を手がけるグラファイトデザ
     イン(JASDAQ)などが名を
     連ねています。
     (次回に続く)

 

     1919年生まれ「100年  
     続いた企業」の顔ぶれ
               連載  4

     リーマンショックの製造業減る

     「10周年企業」を業種別に見ると
     、「サービス業」が6723  社(構
     成比31.7%)で最も多く、なかで
     も入院施設のない診療所や老人福
     祉サービス、IT・システム関連企
     業が目立ちます。その一方で、「
     製造業」(1140社、構成比5.4%
     )の比率が、「50周年企業」の1
     5.4%、「100周年企業」の29.4
     %と比較し、低くなっているのも
     特徴です。各メーカーが減産に踏
     み切るなどリーマン・ショックの
     影響を最も受け、2009 年の「製
     造業」の倒産は前年比  21.9%増
     となりました。こうした厳しい経
     営環境からメーカーの創業が相対
     的に少なかったといえるでしょう。
     (次回に続く)

 

      
     1919年生まれ「100年  
     続いた企業」の顔ぶれ
               連載  3

     量的金融緩和が影響

     そうした環境下で、創業した企業
     の数は、全国で2万1188社。荒波
     を乗り越え生き抜いてきただけに
     、顔ぶれも多彩で、今年、上場を
     果たした印刷や物流においてシェ
     アリングプラットフォームを展開
     するラクスル(東証マザーズ)や
     人工知能(AI)開発のHEROZ(
     東証マザーズ)など、すでに上場
     を果たしている企業が26社を数え
     ます。創業からわずか10年でこれ
     だけの企業が上場を果たしている
     のは異例といえるのではないでし
     ょうか。2009年9月に歴史的な政
     権交代を果たし、鳩山民主党内閣
     が発足しましたが、2012年12月
     に第2次安倍内閣の発足以降、量
     的金融緩和が円安、株高をもたら
     すなど、ここ数年IPO(新規上場
     )環境が良好だったことが理由と
     して考えらます。
      (次回に続く)

 

     
     1919年生まれ「100年  
     続いた企業」の顔ぶれ
               連載  2

     創業からわずか10年で
     26社が株式上場

     2019  年に創業から節目の年とな
     る「周年記念」(10周年~400周
     年)を迎える企業は、全国で14万
     1550社を数えます。そのうち、2
     009年に創業した「10 周年企業」
     を見てみましょう。
     2009年は、前年のリーマン・ショ
     ックに端を発した世界同時不況の
     余波が春先まで残り、急速な景気
     悪化で製造業や不動産業の倒産が
     相次ぎ、同年第 2四半期をピーク
     とする年前半に倒産が多発。年間
     でも1万3306件の倒産が発生する
     など企業経営者にとって厳しい経
     営環境の年となりました。
     (次回に続く)




     1919年生まれ「100年  
     続いた企業」の顔ぶれ
              新連載  1

     節目を迎える企業紹介

     2019年は平成最後の年。日本に
     とって元号が新たに変わる節目の
     年です。同様に、平成元年に創業
     した企業は30周年を迎えます。5
     0周年、100周年など2019年に節
     目を迎える企業は一体どのような
     顔ぶれなのでしょうか。帝国デー
     タバンクの企業概要データベース
    「COSMOS2」(147万社収録)を
     用いて、その面々を紹介します。
          渡辺雄大 帝国バンク
     (今回新連載です)

 



     「町のパン屋」はここまで NEW
              進化している   最終回  16

     ブーム後も生き残る

     労働力不足の今、きつい体力仕事
     のパン業界でも、労働時間短縮に
     向けた取り組みは進んでいる。一
     方で、品質を高く保ち固定客をつ
     かむために、あるいは職人が誇り
     をもって働くために、妥協できな
     い点もあるのではないだろうか。
     また、グルメになった日本人に飽
     きられないためにも、よりおいし
     くする工夫も必要だ。
     今回取り上げた2店は、町に根づ
     くための品ぞろえの豊富さや、良
     質なパンを提供するための努力を
     維持しつつ、おしゃれなパンや目
     新しいパンを生み出す工夫も怠ら
     ない。パンブームはまだ当分続き
     そうだが、いずれブームは終わる
     ときがくる。そんな時代にも生き
     残るのは、工夫があって地元の人
     が毎日食べたいと望む、行くと楽
     しいと思える、こうした進化系の
     店ではないだろうか。
     (今回最終回有り難うございます)

 

 

    「町のパン屋」はここまで 
             進化している    連載  15

             新たな街のパン屋の可能性

             2店のシェフは、偶然にもどちら
             もキャリアの最初がビゴの店とい
             う共通点を持つ。ビゴの店の創業
             者、フィリップ・ビゴ氏は今年9
             月に亡くなったが、本場フランス
             の技術を伝えて、世界に誇る日本
             のフランスパンの高い品質の基礎
             をつくった功労者である。そして
             、兵庫・芦屋市ほかのビゴ氏の店
             と弟子の藤森二郎氏が東京・神奈
             川で開くビゴの店は、今も町のパ
             ン屋として愛されている。ビゴ氏
             の孫弟子にあたる2人は、フラン
             スパンはもちろん、あんパンまで
             並べる多彩な品ぞろえで幅広いフ
             ァン層を獲得し、新たな町のパン
             屋の可能性を開きつつある。
              (次回最終回お楽しみに)

 

 

    「町のパン屋」はここまで 
             進化している    連載  14

     宅配も考えている

    「ラ・ブティック・ドゥ・ジョエ
    ル・ロブション」で2年間働き、
    「おいしくする、見栄えをよくす
    る」方法を学んだ。
      今後は、最近客が増えて足が遠の
    いているお年寄り宅に配達するな
    ど、なかなか店に来られない人に
    届けるシステムをつくりたいと考
    えている。また、ドイツパンなど
    まだ作っていないパンの技術をマ
    スターして並べたい。現在、麹菌
    とホップを使ったホップ種の山食
    パンが高齢者を中心に人気が高い
    ことから、日本ならではの麹菌だ
    けで発酵させるパンを作れないか
    も研究中だという。
    (次回に続く)

 

             トップページへ
             バックナンバー

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする