安土城の内部
=発掘調査報告を拝聴して=
この日記の掲載期間:11月4日ー11月10日
今「信長の館」が面白いです
徳川家康を安土城に招いた時の饗応の献立(立派なお膳に盛ら
れて)が「信長の館」に展示されています。これは信長公記
(しんちょうこうき)に記録された記述に基づき再現されたものです。
(当日記下段に関連記述、写真があります)
実物大復元の6層、7層部分
また、安土城の六層、七層目が実物大で復元されているのは
有名ですが、これもその信長公記の記録からとのとのことです。
信長の館内には圧倒されます
真中にこの天主部分。周囲には関連する資料。撮影も個人の使用
なら許されています。これが嬉しいです。これまでも見学しましたが
知りませんでした。よく博物館には足を運びますが、先ずなんでも
かんでも禁止、キンシですね。まあ愚痴ではありますが・・・。
解説される講師の松下 浩氏
安土城は見せる城
過日、安土文芸の郷・安土城天主信長の館主催のセミナが開催
されました。講師は松下 浩氏(滋賀県文化財保護課の研究員
さん)です。いつも淡海の城友の会でお話をしてくださりこの分野
で有名な先生です。安土城については長く発掘調査に関わって来ら
れました。
城の役目:変遷
安土城はもう完全に日常生活の空間になっています。それも街道
沿いに、よく目立つ場所に。元々のお城はその全く逆で、「難攻不落」
が城の絶対条件です。背景には信長の自信と権威の誇示にあるとの
お話でした。
当日のセミナでは地階から最上階の七層までを信長公記に基づき
丁寧に解説されました。配布の資料から 七層部 だけその信長公記
の記載部分を、またさらに抜粋して紹介します。
六層部 七層部
「三間四角 御座敷の内 皆金 外側金 四方の内柱に上り龍・下り
竜 天井 天人御影向の所 座敷の内 三皇・五帝・孔十哲・商山
四皓・ 七賢火打ち・ほうちゃく(宝鐸)」
兎に角、写真の通り内外、金ピカです。
家康を持て成す:本膳料理
天正10年5月15日から19日まで安土に滞在。明智光秀が饗応
しました。勿論全てを食べるのではないでしょうが朝食からしても、
ものすごい分量(お膳の数)です。献立は「続群書類従」にあるとの
ことです。ところが信長からやり過ぎと叱咤され、その辺から関係が
おかしくなったとも・・・・。(この辺の詳細は下の説明板の写真にあります)
お膳の一つ(再現模型)
徳川家康饗応と本膳料理の解説版
「伝」とは云えどうして城内のそこを秀吉邸としたの?
安土城址を歩くと秀吉や利家邸と 「伝」 を標識の頭に付けて
ここがそうだ、とあります。どうして分かるの?と長く悩んでおり
ました。 今回のセミナで恥を忍んで質問しました。
内藤 昌氏による復元模型
講師先生の解説は納得の行くものでした。 あくまでも推定で、正しく
ないかも知れない。ただ江戸時代に作成の絵図が残っている。それは
大きな手掛かりとなっている。発掘調査では秀吉、利家邸跡から数々
の土器類が出土、裏付けと取れる資料だと。
ご参考:
1.信長公記とは:ウキペディアから抜粋
(しんちょうこうき または のぶながこうき)は、安土桃山時代の戦国大名
である織田信長の一代記で、著者は信長旧臣、太田牛一。信長の幼少
時代から足利義昭を奉じて上洛した1568年(永禄11年)までを首巻とし、
上洛から本能寺の変が起きた1582年(天正10年)までの記録が全16
巻(16冊)にまとめられている。同時代の刊本はなく写本のみで伝存する。
「安土記」とも呼ばれる。
2.次回のセミナ:
主催: 安土文芸の郷・安土城天主信長の館
テーマー: 信長の家康饗応膳の復元について
日時: 11月19日(土) 13:30~
会場:セミナリヨ(安土町)
申込が必要です
セミナに参加の場合は日時他、必ずご確認ください。
電話:0748 46 6512
HP: 信長の館 で検索出来ます
お断り:
この日記の掲載、記載内容は主催者および講師の許可を戴いております。
掲載の写真は全て当日館内で撮影したものです。
また記載内容に私の聞き違い等で間違いがあるかもしれませんが素人の
日記とお許しください。
今日もご覧くださいましてありがとうございました
写真や画像では何度か見ているのですが、再現模型の実物を見たら、
迫力があるでしょね。
その模型、確か海外にも出展されたのではなかったでしょうか。
写真と説明を楽しませていただきました。
ところで、講師の方は内藤昌氏の復元論拠に賛同されていると理解してよいのでしょうか。
安土城の天主についてはいろいろな説があるようですので・・・・
(私には評価する力はありませんが、宮上重隆氏は少なくとも明確な異論を唱えておられますね。)
それにしても、画像のような仕上がりだったとすると、ほんと南蛮人もびっくりしたでしょう。そんなすごい建物を見せられたら。
どれだけ、資金が費やされたことだろう・・・・想像もできません。
『信長公記』からの引用箇所は、巻九・天正四年丙子、「安土の御普請首尾仕るの事」に記載の七重目の箇所ですね。
興味があるのは、その記載にない部分の推定は何に基づき復元されたのだろうかという点です。図柄、色彩、その他。六重めの公記記載も概略で、具体的な図柄などは一切触れていないのですよね。
講師の方はその点、どのように説明をされたのでしょうか。関心があります。
そのあたりの資料も配付されたのでしょうか。
もう一点、家康をもてなした料理のメニューの出典は何でしょうか?
当日のセミナー資料の中に情報が入っていましたか?
『信長公記』は巻十五に「家康公・穴山梅雪御上洛の事」という条があります。
しかし、この中の記載は、
「五月十五日、家康公、ばんばを御立ちなされ、安土に至りて御参着。御宿大宝坊然るべきの由、上意にて、御振舞の事、惟任日向守に仰せ付けられ、京都・堺にて珍物を調へ、生便敷結構にて、十五日より十七日まで、三日の御事なり」
これだけなんですよ。
このメニュー内容の出典にも関心がありますので。
解説版の内容は、小説の記述に出てくる場面として読んだような気がします。光秀の心境プロセスを描写していくのに便利なシーンですものね。
このシーンが事実あったこという信用できる記録があるのでしょうか・・・
これまた、知りたいところです。
ただ、『考証織田信長事典』(西ヶ谷恭弘・東京堂出版)には、
川角三郎右衛門の記した『川角太閤記』の巻一冒頭には、この饗応料理の次第を見た信長が、用意した魚類がひどい匂いを放っていたので激怒して、光秀を饗応役からはずし堀秀政にかえたという記述がでているそうです。光秀謀反の原因の一つとして。
しかし、西ヶ谷氏は光秀叛意の理由づけとしての作り話だろうと否定しています。
ちょっと関心事項を書き連ねてしまいました。
スミマセン。
入手された資料から、おわかりの点があれば教えてください。