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Kennyの郷土史:湖北十ケ寺

2012-10-01 20:57:49 | 郷土史

  近江国(北郡)にも一向一揆
  =湖北十寺と一向一揆、元亀争乱=

えらい堅い題名ですが信長軍が浅井軍を滅ぼした時期の
争いを元亀争乱といい、その裏側(にあってあまり一般的
には知られていない)にあるもう一つの戦いで近江湖北に
ある十のお寺(一向一揆衆)は戦いました。 そんなお話です。
勿論私も故郷にあった史実ですが今回の講座で初めて知
りました。


     元亀争乱の最後の舞台 虎御前山(信長砦)と小谷山(小谷城) 

箕浦、さいかち浜合戦で戦った一向一揆衆
十ケ寺の一つ、福田寺の境内に「殉教万人塚」と刻まれた塚がある
そうです。元亀2年(1571年)5月に湖北の地で起きた一揆衆と信
長軍との戦いを箕浦(みのうら)合戦さいかち浜合戦といい、その
弔いの塚です。

どうして近江北郡(伊香、浅井、坂田)に一向一揆が
時代は足利義昭・織田信長が勢力を伸ばしている時で信長が本願
寺を破壊するとの動きを察した大坂本願寺顕如が突如攻撃を
開始したのです。門徒衆に送った顕如の檄文は壮大な動員を蜂起
させ、いわゆる「石山合戦」が始まりました。

 
         湖北十ケ寺の一つ福勝寺を見学        同寺の門(拡大します)

湖北十ケ寺
”湖北も例外ではなく” 「湖北十ケ寺」とよばれる寺院が本願寺との
パイプ役になり反信長体制がしかれました。 この十ケ寺はある意味
では砦であったようです。門徒衆が壊滅することを防ぐ為に長男はこ
の寺に留まり後方支援を、次男以下が戦いに加わったようだとのお
話もちょこっとでました。従い土塁や堀などが築かれてそれが今も残
っています。  (湖北十ケ寺については: 湖北十ケ寺 に掲載があります)

 
                 福勝寺に残る土塁             土塁、堀の解説
                                        (拡大します)

一向一揆の戦いは  
浅井軍と信長軍が箕浦やさいかち浜でぶつかった合戦ですがこの
浅井軍を構成していたのが顕如の依頼で蜂起した門徒衆、それは
湖北十ケ寺の一向一揆だったのです。

しかし、彼らの戦いは浅井軍の目指していたことではなくて、信仰を
守るため、信仰生活のために戦った一向一揆であろうと参考にして
いる歴史雑誌「みーな」の中の論文です。

湖北の元亀争乱
元亀元年(1570年)6月、織田信長の近江侵攻が開始され以降元
亀4年(天正元年)8月の小谷城落城までの3年間を元亀争乱と呼ん
でいます。そのきっかけは信長の横山城の攻撃だそうです。以降信
長の手を緩めぬ攻撃が続きます。

 
           姉川合戦図 現地の看板より         解説(拡大します)


上洛命令を黙殺する朝倉義景の攻撃、浅井軍の信長離反、信長の
朽木谷経由での京への退散。その後体制を立て直して姉川合戦、
さらには今日の主題、一向一揆が蜂起し箕浦やさいかち浜で秀吉軍
との合戦。最後は信長が虎御前山の本陣から浅井軍に総攻撃をか
け浅井三代50年の歴史は幕を閉じます。これが湖北の元亀争乱の
あらましです。


           朝倉義景の居城跡 (一乗谷)

近江は歴史の宝庫
今日の話題、このことを知るきっかけはいつもの通り滋賀県教育
委員会文化財保護課主催の講座とさらに今回は長浜市教育委
員会
の皆さんの案内での現地見学です。近江は特に戦国時代の
歴史の舞台です。奥が深いことだと思いますしついついこんなマニ
アックな日記になってしまいました。

 
    元亀争乱で浅井軍で戦った下坂氏の館    解説(拡大します)

今回の現地見学会では十ケ寺の一つ、福勝寺下坂氏館跡
見学しました。下坂氏は北近江の土豪で京極氏、浅井氏に仕え、
面白いのは浅井氏滅亡の後信長の誘いを断って帰農した人物
だそうです。もう生きるか死かの生活はいやだと云ったのかどう
かは兎も角として、信長のお声に背いてよくぞ生き伸びたともの
だと思うのですが・・。
     
        下坂氏館での写真、解説
       
(下の写真はクリックで拡大します)

   
  虎口跡          堀跡         縄張り図など    解説

                          
                                上の解説文にある門と不断光院

       

参考文献: 1.当日配布の資料
        2.2010年6月発行 「みーな」 vol.107
     (この日記に記載の大部分をこの二つから拝借いたしました)

お断り:当日の講座、現地での説明そして上記資料を参考に日記を書きました。
     しかし誤解、間違いが多々あるかもしれませんが素人の趣味の世界と
     どうかお許しください。

    

 今日もご訪問くださいましてありがとうございました。

                *************

 
          写真展のお知らせです

       
       わいわい写真クラブ作品展

   
期間:2012年10月14日(日)~10月21日(日)

          開館時間:10:00~20:00
             土日:18:00迄  
             月曜日:休館です
            
10月21日:16:00迄

    会場:市立野洲図書館ギャラリー
          野洲市辻町410  077-586-0218

       指導:八田正文先生


    Kennyも二点出展します。 皆様のご来場をお待ち
    申しあげております

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8 コメント

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ジグソーの絵ができるように・・・ (茲愉有人)
2012-10-05 20:28:10
北陸線での通過点となっていた田村の駅。その近くに、元亀争乱と関わるいくつかの寺があった。湖北の一向一揆。この講座に参加するまで、私自身全くその存在を知りませんでした。
いままでバラバラのピース(土地、事象)として知っていたことに、また新たなピースが加わり、理解を深めました。それが今までの個別のピースを結びつけることにもつながりました。

時代を大きく変えていった元亀争乱のうねり、その全体のイメージができ始めてきた感じです。ばらばらのピースからジグソーパズルの絵ができあがっていくような感じです。

小谷城、姉川と越前のつながり。一乗谷も訪れてみないと・・・そんな気になります。

ほんと湖北は戦国史の宝庫ですね。
近江は歴史の宝庫。様々な観点からますます楽しめそうです。
返信する
長浜に歴史が・・・ (ポエム)
2012-10-06 20:47:18
楽しく講座に参加された様子が伺えました。
茲愉有人さともご一緒だったようで、お話も弾まれた事と思います。

土塁、塚、堀といった言葉がKennyさんの以前のブログでも拝見しましたが、その役目とか必然性が、歴史に疎い私にも少し判りました。
こうして写真を整理されより知識を深められ、楽しみが一層増すと思います。

今日は午後から合唱祭に向けての会議でした。
明日は浅井軍の”長浜”へ行ってきますね。
長浜の冠句の先生から連絡があって、ちょっと嬉しい「20周年記念句会」になるようです。ドキドキです!

来週は楽しい行事が待っていますね☆ 宜しく(^^♪
返信する
雑誌「みーな」に感謝 (kenny)
2012-10-07 07:51:39
2年前に今回参考にした「みーな」を、多分小谷城跡見学時に、買いました。その時はまだ何も分かっていませんでした。まあその内にで積んでありました。元亀争乱、もっと知りたいこと、確認したいことが全部この一冊でOKでした。 そのうち一乗谷の事も習い荒島岳登山を兼ねて訪問などなど、このように歴史の流れを理解しながら一つひとつが繋がって行きます。本当に楽しくて有難いですね。なるほど、ジグソの絵が出来上がって行く、同感です。

私のブログをいつも訪問くださるお一人、ポエムさん(今回もコメントを頂きました)からも嬉しいコメントです。私の本当に拙いブログですがこの辺の歴史が分かったと。記載内容が間違っていなければいいがと思う次第です。私も今回の講座で上述の本が読めましたしやっとこの辺が理解出来ました。 

あれやこれやと多くの分野に興味がありであまり深くは勉強していませんが、今回も素晴らしいチャンスに恵まれました。 コメントありがとうございます。
返信する
あれやこれやですが・・ (kenny)
2012-10-07 07:55:08
こんなことが私の郷里の近くであったんですね、一向一揆という言葉はよく聞いていましたが今回のことから入れたのはとっても良かったし頭にも入りやすいです。茲愉有人さんや八幡(最近は近江とも)遊人さんとも会場で一緒になることが多いです。今回は帰りの電車でも一緒でしてお二人の格調の高いお話に耳を傾けておりました。

さてさて我領土浅井軍の長浜へね。過日の私達の演奏でも素晴らしいお声を聴かせて貰いましたが、本当に楽しんでおられます。冠句、お孫さんそしてギターなどなどなど・・。ギターは今も勿論練習しておりますよ!以前に増してね、そして楽しんでおります。やはり毎日やらんとダメなんですかね、妻が結構音がしっかりしてきたと・・。

来週はどうかよろしく、お味方に・・お願いします(いじ・・ ) Kenny
返信する
こちらこそありがとうございました (八幡遊人)
2012-10-07 18:19:15
Kennyさん、こんばんは。
こちらこそありがとうございました。浅学な私にはKennyさんのようなブログも書けませんし、慈愉有人さんのようなコメントも書けません。まだまだ私はまわりの方々から情報をいただいて勉強させてもらってます。
今日は、安土城博物館で、秋季展「信長vs信玄」に関連して国学院大学の藤本先生の記念講演を聞きに行ってきました。テーマは「長篠の戦 虚と実」。長篠の戦いといえば信長が鉄砲の3段戦法で武田軍に圧勝したことで有名ですが、実は3段戦法ではなかったとか。ただ信長は財力があり、弾や火薬を大量に調達できたようですが、武田軍は充分に調達できなかったようでその差は大きかったようです。

Kennyさんのブログではコメントも含めて勉強になりますので今後ともよろしくお願いします。
返信する
八幡遊人さんこんばんは (Kenny)
2012-10-07 20:21:23
今日はそうでしたね、ところが法事があり記念講演を拝聴できませんでした。そうですか、面白そうなお話だったんですね、残念でした。信長と信玄、かかわりがまだまったく分かっていません。

この秋季展で少し勉強させて頂きます。郷土史に興味を持つ者にこのような勉強の、史実に触れるチャンスを与えて頂いて本当に有りがたいことですね。

とんでもございません、いつも真剣な眼差しで取り組んでおられます。 私の記載内容はいつも端折って書き綴っているだけでこれで本当にいいのかと心配しながらのブログです。

また情報よろしくお願いします。コメントありがとうございます、

返信する
脱線してしまいますが・・・ (茲愉有人)
2012-10-07 23:03:10
Kennyさん
八幡遊人さんのコメントを拝見し、その話題に関してということで、この場をお借りしますね。
スミマセン。脇道にそれてしまいます。

今日はほんとに参加したいイベントが重なり、その記念講演会は断念したものの一つです。私は、「越前山續忍道から月所丸と大嶽をめざす」という小谷城址ガイド語り部の会の皆さんが主体で企画・ガイドをしていただいたイベントに参加するのを選びました。

八幡遊人さんが聴講された藤本先生のお話を詳しく知りたい思いです。

1000人、3列、交代に一斉射撃という3段戦法は、『合戦の日本地図』(武光誠著・文春新書・2003/6)は、「この説は現在ではほぼ否定されている」と記し、『織田信長合戦全録』(谷口克宏著・中公新書・2002/1)は、この「通説は信じるべきではない」、鉄砲の数、方法に「大いに疑問がある」と記してますね。

藤本先生も言及されたと推測しますが、武光氏によれば、江戸初期の小瀬甫庵が書いた『 信長記』に「3000挺を入れ替え入れ替え撃ち・・・」という記述が出てくるのだとか。この書があるからかもしれませんが、『織田信長』(河出文庫、1991/11)中の桑田忠親氏の一文「武田騎馬軍団との決戦」や、『信長の戦略』(小学館ライブラリー、1991/12)中の高坂正堯氏の「長篠の戦い」は、3段戦法で説明しています。

一級史料として評価されている太田牛一の『信長公記』(新人物往来社)では、「鉄炮千挺ばかり」という記述であり、また、一番手から五番手まで、順繰りに攻めてきた武田軍の過半あるいは多くを鉄砲で撃ったということを記しているだけです。
どうも、武田軍に比べて、鉄砲・火薬などの物量投入の格差による戦い方が信長軍の戦略の実質だったようですね。
タイム・マシンがあって、戦場見物できるならどんな戦法をとったか、如実にわかるでしょうに・・・。

『戦国合戦事典』(小和田哲男著・PHP文庫、1996/2)で、小和田氏は、次のような仮説を提示されています。要約すると、信長は「三段式装塡法」という新しい鉄砲の使用方式を編み出したのだという点を前提としています。そして、全部の鉄砲隊が三段(三列)になっていたわけではなく、3人が1組になり、いつでも3人のうち1人が発射できる態勢をつくっていたのが真相ではないかという考えです。
小和田氏の記述から推測すると、3の倍数のある規模の人数の鉄砲足軽が、攻めてくる武田軍の状況に合わせて、配置された場所においてその中小集団を指揮する武士の指示で鉄砲を撃ったというイメージでしょうか。
前掲の2冊は、鉄砲の使い方、戦法には触れていません。

信長側の戦い方に、藤本先生はどのような推測あるいは仮説を提示されたのでしょう。興味があります。機会があれば、また教えてください。
返信する
3段戦法 (kenny)
2012-10-09 15:31:54
「3段戦法」信じて疑うことがなかったです。頭を使った戦略、鉄砲の効率的な使い方の代名詞のように云われてきましたよね。これから少しずつ信長と信玄のかかわりに触れて行きます。面白いお話にこの先が楽しみです。茲愉有人さん、八幡遊人さんありがとうございました。
返信する

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