安土城のこと第二話:なぜ信長は安土を選んだのか?
(写真:安土町、安土城観光パンフレットから)
430年前の1582年、6月2日午前4時頃に本能寺の変で信長は死去。
同年に本丸などが焼失します。安土城の築城は1576年に始まり信長は
3年後の1579年に安土城に移り住みます。わずか3年の居城でした。
昨年6月1日滋賀県の安土町にあるセミナリヨで「信長の棺」の著者、
加藤廣先生の講演があり興味深い表題のお話しが有りましたので紹介
します。
それは結論として滋賀は京都より「日の出、月の出が見易い」事だと
加藤先生の説です。 以下に講演内容を:
1.一般的な安土町での築城の理由は:
岐阜から当時の政治の中心、京都に近い。琵琶湖が湖上交通(水運:戦略、
物資の輸送に)利用できる。北国街道の要所にあり監視が効く。
2.さらに加藤先生は:
安土城の天守閣の四辺が東西南北に向いている。安土城の天守は下を見て
敵を監視するのではなく、上を見る。つまり天象観測だとの説。
信長は冷酷非道と言うが一方、好奇心の強い人物。当時の暦にづれが大きく
役立にたたない。朝廷に対し改良の注文をつけるが受け入れられない。
(欧州でグレゴリオ暦に変えたことを宣教師から聞いていたのではと)
そこで安土に天皇を迎え入れ、天守の東西南北から御帝と一緒に眺めるため
安土城に大手道まで造った。
3.さて、なぜ安土にだが:
京都では四方が山に囲まれ、日の出、月の出が見えにくい。そこで岐阜から
京都に近い場所で、天象観測に都合のいい滋賀県、安土(西が琵琶湖岸でも
あり)に築城した、と加藤先生はお話しされた。
詳細は先生のご著書「信長の棺」342ペ-ジ前後にあります。
添付写真:安土城はこんな感じ、風景だったのでしょうね・・・・。
加藤廣さんの天象観測説はユニークですね。直接お話を聞いてみたかった!
「信長の棺」を読んだ後、元々の本能寺の所在地の標石を見に行きました。
湖東のお寺を訪ねたとき、信長にまつわる話(比叡山は焼いたがそのお寺を焼かなかったという)を聞き、信長に興味を持ってから、手軽に入手できる小説や新書等の信長本をコレクションしています。
ロケーションの理由は、様々な要因があるようですね。手許の本に挙げられている理由をちょっと列挙してみます(ご講演のものと重複しますが、ご勘弁を)。
「集中講義 織田信長」小和田哲男著:
1.水辺の城; 快速船で京都への日帰りが可能
2.岐阜と京都との中間点; 中京と関西の経済圏の両方の支配には適地
3.交通の要衝だった; 中山道が通り、八風海道の分岐点がそばにある
4.当時の軍事的要請; 石山本願寺との敵対の一方、北陸道の敵に備えるため(観音寺城が安土城の詰め城に位置付けられるとの主張もある。藤田達生氏説を紹介あり)
尚、一説に「安土」という地名が気に入ったこと;「平安楽土」に通じるので、ということ。(小和田さんはこの説には疑問を呈している)
「考証織田信長事典」西ケ谷恭弘著
1.大型船を安土城に直接横付けできた(戦略上、湖東と湖西を直線で結合可能)
2.地理的要因; 上記の2,3と同じ
3.石垣の山城を築くのに最適; 石材地と石工職人の技術が安土周辺に豊富に存在した
全山斜面を造成可能な山だった; 急斜面石垣が防塁になる
4.観音寺城を安土城の詰め城に想定; 小和田さんの4項に通じる
5.京の旧来の権力と距離を置き、冷静な判断と諸勢力との対応が実行できる
6.安土山には守護佐々木・六角氏の祖先を供養する寺院をはじめとする寺社と霊域である区画がたくさん存在していた; 石仏・供養塔、土地の霊力を城の塁壁守護に利用
7.安土の地が織田家の発祥地という伝承がある; 「津田」という苗字
ネット検索も参考にちょっとしてみていました。
冒頭の写真は、伊勢安土桃山文化村の安土城模擬天守ですか?
ウイキペディアに同種の写真が載っていました。宮上茂隆安土城天守復元案をほぼ再現したものとか。
ネットを見ていると、いろんな復元案があるようですね。おもしろいなあ...
「火天の城」から、信長にプラスして安土城そのものにも興味が湧いてきているところです。早速、地元の図書館の本を検索し、一冊みつけたので予約しました。
安土城址から、天気のよい日に遠望したことを思い出すと、確かに天象観測にはいいロケーションですね。
それも天主の上からなら、なおさら.....
何か伝わってくるものがありました。
CGがふんだんに利用されているのでしょうが
気にせずに、また昔の、例えば日本沈没の映画では明らかにCG(当時もCGでいいんでしょうね?)と分かる映像でしたが・・、技術の進歩もすごいですね。
わずか3年では本当にもったいないし残念です。
それを何冊も読んでおられる。コメントを戴く
毎に驚いております。
添付の写真を何処から入手したのか、覚えておりません。多分ネットから戴いたのだと思います。また現地の「信長の館」には別の想像図
があります。(案内のチラシ)
安土を選んことに関して、映画で岡部又右衛門に築城を命じる時に、更地に(天主部分の)立って岡部に信長が、”ここから何が見える”と
言います。尾張は勿論越前、畿内等々が見渡せると・・。見せる城とは言え、信長にはまだ
真の天下統一が完結していない事が最大の課題であり、戦うことプラス天皇をも動かすと言う
信長の策略を見て、現代でいう超有能な企業人を彷彿させます。勿論焼き討ち等非道は無しにして。
ある興味で集めている本の場合、読んでいなくても、触発を受けて、情報探しで検索して、自分自身の理解を深めるという使い方もしますので。
今回はKennyさんの記載に触発されただけ。その観点をあまり考えていなかった-安土城址に登ったとき、戦略的にいい場所だったのだろうなと思ったにとどまって-ので、ピンポイントで、自分の蔵書で調べてみただけなんです。お陰で、より安土城に関心がでてきた次第です。ありがとうございます。
映画でどのように描かれているのか知りませんが、小説を読んだ読後感としては、又右衛門の目を通して、信長の考えを語らせていると思えるところと、又右衛門とその息子との間での、築城に関する考え方のギャップのところを大変興味深く読みました。
最近感じているのは、信長の一側面だけが喧伝されてイメージが作られすぎているのではないか-たとえば極悪非道な信長像のような-、という気がしています。信長像を多面的にとらえ直す必要があるように思っています。興味深い人物ですね。
もう一つ、疑問点。
信長公記の該当箇所を読むと、石垣づくりに着目した城の側面があるようなのに、石工頭の名前が出てこないんですよね。金具や瓦職人の名前が記載されているのに。
小説の中では、頭が信長に意見反撥したため、結果的に職を解かれたという筋だてになっていましたが。
そうか、茲愉有人さんと私も共通する面も
あるんだと安堵しております。私は何かの
機会(セミナーなど)があればそこで販売されている書物は必ず手に入れます。即念入りに
読みませんが、何かの時に必ず役に立ちます。
慌てて書店に行っても先ずそんな狭い範囲の
書物は手に入りませんものね。
写真仲間の同い年の女性がブログを読んでくれ
安土についてもっと接してみたい、ブログを興味を持って読んだと連絡をくれました。
今私は自分の為にブログをやり始めたのですが
このようにコメントを戴き、新しい発見をして
おります。 感謝いたします。
ほんと! 石工の名前は出来てきませんね??