『そぞろ歩き韓国』から『四季折々』に 

東京近郊を散歩した折々の写真とたまに俳句。

四季折々74   小松ハイキングコース7   

2013-06-14 19:49:23 | まち歩き

評議原を過ぎると金比羅宮まであと少し。平坦な道が続く。

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ウグイスカグラ。まだ若木。

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ウワミズザクラの幹。花の季節が楽しみ。

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ウワミズザクラの枝葉。

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道端のヘビイチゴ。

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シロヤマブキ。

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小道を進む。左手は本沢梅園。

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小松ハイキングコースの終わり。

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向かい側に金比羅宮の入口。階段を上ると社殿がある。

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金比羅宮。

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読書感想77  朝陽門外の虹

2013-06-14 13:10:15 | 日記・エッセイ・コラム

 


読書感想77  朝陽門外の虹<o:p></o:p>

 

著者     山崎朋子<o:p></o:p>

 

生年     1932<o:p></o:p>

 

本籍     福井県<o:p></o:p>

 

生まれ    長崎県佐世保市<o:p></o:p>

 

育ち     広島県呉市、広島市<o:p></o:p>

 

出版年    2003<o:p></o:p>

 

出版社    (株)岩波書店<o:p></o:p>

 

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感想<o:p></o:p>

 

 戦前に中国にわたり、北京市のスラム街で女学校を25年間運営した清水安三の物語だ。<o:p></o:p>

 

 清水安三は1891年に滋賀県に生まれて中学時代に英語教師として来日していたウィリアム・メレル・ヴォーリスの感化によりキリスト教の洗礼を受ける。そして同志社大学の神学部に進学し、卒業後は中国での伝道を志す。1917年に中国の奉天(瀋陽)での児童館と日曜学校の活動を経て、1920年北京の朝陽門外のスラム街に無料の「工読女学校」を開校する。目的は10歳前後の少女たちに読み書きと手芸を教えて、貧困ゆえに売春に身を落とす少女たちを救うこと。工読女学校産の刺繍の売れ行きはよく、生徒の家庭でも刺繍をつくり売り出すようになる。八騎兵の裔が多く住む朝陽門外に新しい地場産業が誕生したのだ。1931年に寺子屋風の学校から、芳草地の本格的な校舎を建てた女学校に移転し、その名も「崇貞女学校」に変えて1945年まで続く。1936年には「崇貞学園」に名称を変え、男女共学の小学校を設立し、女学校も従来の各種学校から正規の女学校としての認可を北京市から受ける。更に日本人少女・満州人少女のための「日本人女子中学校」も創設する。中国人日本人朝鮮人の少女たちが一緒に学び、寮生活もするようになる。そして敗戦で清水安三は日本へ帰国。そして現在、北京市の崇貞学園跡地にある陳経倫中学校では創立を工読女学校までさかのぼって記録し、校史陳列室には清水安三の業績や写真を展示している。<o:p></o:p>

 

 また清水安三の活動として忘れてはならないものは北京市のもう一つのスラム街天橋でのセッツルメント(救済事業)「愛隣館」の活動である。その活動は5つの柱からなっている。第一に井戸を掘り、水がなく衛生状態の悪い住民に無料で安全な水を提供すること。多額の費用がかかったが実現し、住民は水を買う必要がなくなったのだ。第二に医療部を作り医師を置き無料で診察すること。第三に授産部を設けること。第四に教育部を設けること。第五に慈商部を作り、不良品を寄付してもらい、バザーで安価に売る。診察を受けにきた患者は眼病のトラコーマと皮膚病にかかっている患者が多い。授産部では娘達を集めて刺繍や浴衣の作り方を教える。教育部では初歩的な読み書き算数を毎日3時間4か月で教えるコースを作る。<o:p></o:p>

 

 こうした清水安三の活動を支えた協力者はたくさんいるが、最大の協力者は二人の妻、美穂と郁子。美穂は草創期の「工読女学校」を支え、亡くなる。郁子はその志を継ぎ「崇貞学園」の発展を支える。<o:p></o:p>

 

 学校運営やセッツルメント活動の上でも困難なことが多いが、ピンチになるといつも奇跡のような助け舟が現れて、乗り越えていく。そしてすることが素早く無駄がない。一番それがよく表れているのが北京から引き揚げてきた時だ。1946316日に天津を出港し、3日後に山口県の仙崎に入港した。それから郁子の郷里の松江にも安三の郷里にも、財政的に大きな支援をしてくれたヴォーリスの近江兄弟社のある近江八幡にも行かずに東京へ向かった。そして323日には旧知の賀川豊彦に会い、農村でキリスト教精神に則った学校の設立の希望を話すと、324日には桜美林学園となる土地に案内されている。直ちに文部省の認可を得て、55日には開校したのだ。清水夫妻の辞書には虚脱とか休息という文字はない。キリスト教の人道支援という輪の中でたくさんの協力者に支えられて大きな夢を中国でも日本でも叶えた人だ。<o:p></o:p>

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