東海道五十三次ウォークの第六回「石薬師→四日市」を
きのう歩いてきた。天気がよくて、東海道をのんびり、ゆっ
りとひとり歩きが楽しめた。
ただし、スタートではつまづいた。土日と平日の時間を間
違えたために新大阪のJRスタート時間から少しずつ狂っ
た。東海道線から草津線の接続でおくれ、草津線から関
西線の接続の柘植駅ではなんと1時間近く待ち時間が発
生。駅前のたった一軒の店がコーヒーショップ、ここでコー
ヒータイムをする羽目になった。
亀山行きに乗車。

秋の車窓から・・・関西線柘植・加太間

加太駅を通過。

亀山駅で名古屋行き乗り換え。

新大阪駅を7時20分に乗ったのに現地、関西線加佐登駅
に着いたのは11時。新大阪でわずか8分前に乗車しておれ
ば2時間半ですんだのだが・・・これも懐かしい思い出に
なればいい。
58日ぶりの前回ゴールのJR東海加佐登駅からさあ出発!

駅から東海道へ、ここは国道一号線にそって東海道が
あるのでそちらへ移動していく。車の往来の激しい一号
線に出る、407.5東京からの距離表示。
しばらくすすんで取り入れのすんだ田んぼ道を右に左に
複雑にすすむ。このあたりがわかりにくいところ。


最初の目的地「石薬師の一里塚跡」へ。緩やかな坂道
を上りきったところにあるのが、遠くからでもわかった。


(28日となっているのはその日を予定して作成していた)
石薬師は、歌人の佐々木信綱の出身地で、この一里塚
から町を貫く東海道を東海道石薬師宿「信綱かるた道」
として36の句が道にそって掲示されているのをたどりな
がら進んでいくのだ。


途中にある「石薬師寺」は奈良時代に創建されたもので
佐々木信綱や西行や一休、芭蕉の句碑が境内にあると
ても緑の多い落ち着いたお寺だ。

芭蕉の句碑。”春なれや名もなき山の薄霞”

お寺から道路反対側を少し入っていくと源頼朝の弟、範
頼を祀る「御曹司社」があり

そこから右へ入ると範頼が戦勝を祈願して立てた鞭から
生えたといわれる桜で「蒲桜」、逆桜とも言われる桜と
信綱の歌碑がある。

かるた道をすすむと「信綱の資料館」と「生家」の前につく。
資料館の人が、わざわざ生家へ案内してくださり昔のまま
が保存されている生家の中をみせてもらうことができた。

すずりも筆も巻紙もそのままに・・・

うかつにも、唱歌「うの花」の作詞が佐々木信綱であるこ
とを知らなかった。

生家の庭にも資料館の前にも「うの花」の木?が植えら
れていた。一本100円でも売られていたぞ。
そこから少し行くとこのあたりが石薬師宿の中心だったの
だろうか、ひときわ大きな家がある。
ここが「小沢本陣跡」。明治時代に建て替えられたものだ
そうだが中には貴重な宿帳や貴重品が保存されているら
しい。宿帳には、浅野内匠頭や大岡越前守の名前もある
そうだ。少し行くと信綱ゆかりの大木神社に行く。

北町の延命地蔵さん、ここでおそい弁当を食べる。近くで
休憩わしていたサラリーマン風の中年の男性に話しかけ
たら・・・これが大失敗。この人、仏壇のセールスマンとや
ら、あれやこれとこれから行く四日市の説明をしてくれる
のはいいが、グルメ情報だの自分の仕事のこちだの・・・
弁当たべさせてくれい!12時58分。


信綱かるた道のスタート 一番
「四日市の時雨蛤、日永の長餅の家土産まつと父を待ちにき」


鈴鹿市の石薬師を過ぎて国道一号線にそって歩くと四日
市市に入る。13時36分、一号線の道路標識。

ガソリンスタンドの一角に「采女の一里塚跡」があるがこれ
がなかなか見つからなくて行ったり来たりしてようやく発見。
まさかガソリンスタンドの看板の下にあるとは・・・
少しすすんで国道一号線を横切りななめに緩やかな上り
をすすむとはるか左下前方に四日市の市街地が見えてき
た。やっと関西圏から東海地区へ来たと実感。13時57分。
左が国道一号線、右の道を登っていく・・杖衝坂へ。

坂を上りきったところに「血塚社」がある。日本武尊が坂
で怪我をして足から流した血を封じたところという。

緩やかな上り道から今度は急な下り坂になった。
ここが「杖衝坂・・つえつき坂」という。
日本武尊が剣を杖がわりにして越えたと言われのある急
な坂。
芭蕉も江戸から故郷の伊賀へ帰る途中、馬でここにさし
かかったが、急な坂道のために馬から落ちたそうで、その
時に詠んだ句碑がある。
「芭蕉の句碑」”歩行ならば杖つき坂を落馬かな”

幸か不幸か、自分はこの坂を下っていくほうだから楽だ。
東から西へ向かう人にはきつい坂だったに違いない。

「杖衝坂」道標。

しばらくすすみ内部川をすぎ近鉄線を渡ると国道一号線
旧東海道と伊勢参宮道の分岐点のある小さな緑地帯に
出る。
ここには神水がわき、今日も遠くから車できたという女性
が大きなペットボトル数本に水を汲んでいた。飲んでみた
が冷たくておいしかった。ここには、常夜灯と道標がある。

松並木に残った一本の松の気が遠くから見えてきた。
「東海道名残の一本松」と説明板に書かれている。
昔、このあたりは土手で家はなかったらしい。東海道の
道幅は約5.5メートルで現在も変わっていないそうだ。
すぐ近くで立ち話をしていた80は過ぎていたと思われる
2人のおばあさんと顔があったら、ご苦労さんですね!
ここで立ち去ってはいけない、しばらく話をする。
近鉄四日市駅までどれくらいかかるかと聞いたら、お宅
なら半時間もかからんでしょうと言われたので、予定しの
4時36分には乗れるなと安心。15時12分だ。
・・ところがそんなもんやなかった!

そのすぐ近くに「日永の一里塚跡」があるというが、いくら
探しても見つからない。4人目のおばあさんに聞いたら、お
寺の近くにあるという。
行ってみたがない。時間は気になるし、同じところを三度と
通って倉庫と民家の間に立っている碑をやって見つけた!
あった!と思わず大きな声が出た。諦めないでよかった!
ここで思わぬ時間をとってしまう。
15時32分になっていた。松の木から50メートルもない距離
なのにちょうど20分もかかったことになる。急がないと!


あとは、ゴールの近鉄四日市駅をめざすだけ。
浜田城跡も次回にまわすとして急ぐ。

駅前の大通りに辿りついたので、そこに建てられていた
「東海道400周年年記念」碑を今回のゴール地点とし
て、次回はここからスタートすることにした。16時12分。

近鉄四日市駅

16時36分の快速急行に乗る。中川で大阪なんば行き
に乗り換えて19時21分に戻ってきた。大阪なんば行
きの特急なら直行で早いし本数も多いが、ウォークに来
て特急に乗るのは抵抗あり。
しんどくても急行でよし、その代わりわずかな待ち時間に
駅で缶ビールひとり乾杯!よく歩いた!

歩いた時間よりも電車に乗っていた時間が長かった。
歩数 約24,000
次回は、四日市から桑名までだ。
きのう歩いてきた。天気がよくて、東海道をのんびり、ゆっ
りとひとり歩きが楽しめた。
ただし、スタートではつまづいた。土日と平日の時間を間
違えたために新大阪のJRスタート時間から少しずつ狂っ
た。東海道線から草津線の接続でおくれ、草津線から関
西線の接続の柘植駅ではなんと1時間近く待ち時間が発
生。駅前のたった一軒の店がコーヒーショップ、ここでコー
ヒータイムをする羽目になった。
亀山行きに乗車。

秋の車窓から・・・関西線柘植・加太間

加太駅を通過。

亀山駅で名古屋行き乗り換え。

新大阪駅を7時20分に乗ったのに現地、関西線加佐登駅
に着いたのは11時。新大阪でわずか8分前に乗車しておれ
ば2時間半ですんだのだが・・・これも懐かしい思い出に
なればいい。
58日ぶりの前回ゴールのJR東海加佐登駅からさあ出発!

駅から東海道へ、ここは国道一号線にそって東海道が
あるのでそちらへ移動していく。車の往来の激しい一号
線に出る、407.5東京からの距離表示。
しばらくすすんで取り入れのすんだ田んぼ道を右に左に
複雑にすすむ。このあたりがわかりにくいところ。


最初の目的地「石薬師の一里塚跡」へ。緩やかな坂道
を上りきったところにあるのが、遠くからでもわかった。


(28日となっているのはその日を予定して作成していた)
石薬師は、歌人の佐々木信綱の出身地で、この一里塚
から町を貫く東海道を東海道石薬師宿「信綱かるた道」
として36の句が道にそって掲示されているのをたどりな
がら進んでいくのだ。


途中にある「石薬師寺」は奈良時代に創建されたもので
佐々木信綱や西行や一休、芭蕉の句碑が境内にあると
ても緑の多い落ち着いたお寺だ。

芭蕉の句碑。”春なれや名もなき山の薄霞”

お寺から道路反対側を少し入っていくと源頼朝の弟、範
頼を祀る「御曹司社」があり

そこから右へ入ると範頼が戦勝を祈願して立てた鞭から
生えたといわれる桜で「蒲桜」、逆桜とも言われる桜と
信綱の歌碑がある。

かるた道をすすむと「信綱の資料館」と「生家」の前につく。
資料館の人が、わざわざ生家へ案内してくださり昔のまま
が保存されている生家の中をみせてもらうことができた。

すずりも筆も巻紙もそのままに・・・

うかつにも、唱歌「うの花」の作詞が佐々木信綱であるこ
とを知らなかった。

生家の庭にも資料館の前にも「うの花」の木?が植えら
れていた。一本100円でも売られていたぞ。
そこから少し行くとこのあたりが石薬師宿の中心だったの
だろうか、ひときわ大きな家がある。
ここが「小沢本陣跡」。明治時代に建て替えられたものだ
そうだが中には貴重な宿帳や貴重品が保存されているら
しい。宿帳には、浅野内匠頭や大岡越前守の名前もある
そうだ。少し行くと信綱ゆかりの大木神社に行く。

北町の延命地蔵さん、ここでおそい弁当を食べる。近くで
休憩わしていたサラリーマン風の中年の男性に話しかけ
たら・・・これが大失敗。この人、仏壇のセールスマンとや
ら、あれやこれとこれから行く四日市の説明をしてくれる
のはいいが、グルメ情報だの自分の仕事のこちだの・・・
弁当たべさせてくれい!12時58分。


信綱かるた道のスタート 一番
「四日市の時雨蛤、日永の長餅の家土産まつと父を待ちにき」


鈴鹿市の石薬師を過ぎて国道一号線にそって歩くと四日
市市に入る。13時36分、一号線の道路標識。

ガソリンスタンドの一角に「采女の一里塚跡」があるがこれ
がなかなか見つからなくて行ったり来たりしてようやく発見。
まさかガソリンスタンドの看板の下にあるとは・・・
少しすすんで国道一号線を横切りななめに緩やかな上り
をすすむとはるか左下前方に四日市の市街地が見えてき
た。やっと関西圏から東海地区へ来たと実感。13時57分。
左が国道一号線、右の道を登っていく・・杖衝坂へ。

坂を上りきったところに「血塚社」がある。日本武尊が坂
で怪我をして足から流した血を封じたところという。

緩やかな上り道から今度は急な下り坂になった。
ここが「杖衝坂・・つえつき坂」という。
日本武尊が剣を杖がわりにして越えたと言われのある急
な坂。
芭蕉も江戸から故郷の伊賀へ帰る途中、馬でここにさし
かかったが、急な坂道のために馬から落ちたそうで、その
時に詠んだ句碑がある。
「芭蕉の句碑」”歩行ならば杖つき坂を落馬かな”

幸か不幸か、自分はこの坂を下っていくほうだから楽だ。
東から西へ向かう人にはきつい坂だったに違いない。

「杖衝坂」道標。

しばらくすすみ内部川をすぎ近鉄線を渡ると国道一号線
旧東海道と伊勢参宮道の分岐点のある小さな緑地帯に
出る。
ここには神水がわき、今日も遠くから車できたという女性
が大きなペットボトル数本に水を汲んでいた。飲んでみた
が冷たくておいしかった。ここには、常夜灯と道標がある。

松並木に残った一本の松の気が遠くから見えてきた。
「東海道名残の一本松」と説明板に書かれている。
昔、このあたりは土手で家はなかったらしい。東海道の
道幅は約5.5メートルで現在も変わっていないそうだ。
すぐ近くで立ち話をしていた80は過ぎていたと思われる
2人のおばあさんと顔があったら、ご苦労さんですね!
ここで立ち去ってはいけない、しばらく話をする。
近鉄四日市駅までどれくらいかかるかと聞いたら、お宅
なら半時間もかからんでしょうと言われたので、予定しの
4時36分には乗れるなと安心。15時12分だ。
・・ところがそんなもんやなかった!

そのすぐ近くに「日永の一里塚跡」があるというが、いくら
探しても見つからない。4人目のおばあさんに聞いたら、お
寺の近くにあるという。
行ってみたがない。時間は気になるし、同じところを三度と
通って倉庫と民家の間に立っている碑をやって見つけた!
あった!と思わず大きな声が出た。諦めないでよかった!
ここで思わぬ時間をとってしまう。
15時32分になっていた。松の木から50メートルもない距離
なのにちょうど20分もかかったことになる。急がないと!


あとは、ゴールの近鉄四日市駅をめざすだけ。
浜田城跡も次回にまわすとして急ぐ。

駅前の大通りに辿りついたので、そこに建てられていた
「東海道400周年年記念」碑を今回のゴール地点とし
て、次回はここからスタートすることにした。16時12分。

近鉄四日市駅

16時36分の快速急行に乗る。中川で大阪なんば行き
に乗り換えて19時21分に戻ってきた。大阪なんば行
きの特急なら直行で早いし本数も多いが、ウォークに来
て特急に乗るのは抵抗あり。
しんどくても急行でよし、その代わりわずかな待ち時間に
駅で缶ビールひとり乾杯!よく歩いた!

歩いた時間よりも電車に乗っていた時間が長かった。
歩数 約24,000
次回は、四日市から桑名までだ。