東海道五十三次ひとり歩きシリーズ、京都三条大橋をスタートして29日目、②川崎から①品川をめざして歩く。東海道は、神奈川県からいよいよゴール日本橋の東京都へ移動して行く。朝から快晴、前日より気温も低くウォーキングには絶好の条件に恵まれた。
[3月14日(日)-「神奈川→川崎→品川」] (JR鶴見駅→JR品川駅)
午前8時35分、前泊したJR新子安駅前のホテルを出発し電車で鶴見へ移動。京急鶴見駅高架下から9時に合わせてスタートした。
駅前通りをすすみ最初に訪れたのが鶴見神社、一日の安全祈願のために寄った神社で意外なことを知った。境内に貝塚があるという、このあたりは東京湾に注ぐ鶴見川河口近くの沖積低地に位置して平成20年の発掘調査で本殿前に良好な状態で貝層が発見され写真も公開されていた。
鶴見川をめざして図書館前、寺尾稲荷道の道標前を通過、静かな日曜日の通りには花があちこちに春の陽光をいっぱいに浴びて嬉しそうに咲いて歓迎してくれているようだった。
やがて鶴見川にかかる鶴見橋の白いアーチが見えてきた。
向かい側の道に鶴見橋関門旧跡があるらしいので橋元まで行き、反対の道を戻るようにして関門旧跡へ行った。交通の激しい大きな道路わきを行く時は向かいに史跡等がある場合、横断歩道がなかなかないので、あきらめるか渡れる歩道まで行き引き返すかどちらか、どちら側を歩くかは、見所を確認して決めているが両方にあるとそれはつらい。
鶴見橋関門旧跡には立派な碑がたてられていた、安政六年(1859)年6月に横浜港が開港すると多くの外国人が日本に上陸したが、生麦事件後も攘夷派の浪士による殺傷事件が続くなど治安が不安定で、外国人に対する危害もあり横浜へ通ずる主要道路に番所や関門を設けて不審人物の見張りをしていたところ。
このあたりが品川宿と神奈川宿の中間の鶴見立場(休憩所)で茶屋があったらしく、米まんじゅうが名物だったとか。
鶴見橋を渡ると右に菜の花が満開の公園があったので寄ってみた、おばあさんがベンチに腰をおろしてうつむいていた、どうしたんだろう・・・まるで人形のようにまったく動かないおばあさんに亡き母が重なった。
鶴見橋は、江戸を出て最初に渡る大きな橋だったそうだ。(多摩川は渡し)。
しばらくすすむと右に日本橋から五番目の市場一里塚の前に来た、立派に史跡として保存されていた。
熊野神社へお参りしてさらに一直線、市場銀座商店街を歩き続けると京浜急行八丁畷駅前に着いた。八丁畷とは、田んぼの中を一本道が八丁(870m)続いていたということらしい。「八丁畷の由来と人骨」という説明板と無縁仏の供養塔が立てられていた。江戸時代、川崎宿では、震災や大火、洪水、飢饉にしばしば襲われて多くの人が亡くなり、また、道に倒れた人や亡くなった遊女がこのあたりに埋葬されたようで、その人骨が道路工事などで数多く出てきたという。
踏切を渡りすぐ左の道をすすむと京浜急行と道路との間のわずかなスペースに芭蕉句碑が立てられていた。芭蕉が、元禄7年5月に江戸深川を立ち郷里の伊賀への帰途、川崎宿へ立ち寄り、門弟たちとの惜別の思いを詠んだ句が句碑として立てられていた。
「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」、この年の10月に芭蕉は大阪で亡くなった。
川崎警察署前を通り賑やかな商店街をまっすぐにすすむ、川崎宿の京都側入口があったという案内板があるらしいので三度もあたり100メートル内を行ききしたがみつからなかった。こういう時が一番悔しい。
賑やかな新川通りと交差している小土呂橋交差点へ着いた、ここは、かって新川堀で小土呂橋の石橋の欄干跡が残っていた。現在、新川堀は地下にあるそうだ。
さらに賑やかな商店街が続く、「旧東海道川崎宿いさご通り」という標識がところどころに立てられていた。JR川崎駅へ通ずる市役所通りの砂子交差点前に佐藤本陣跡、交差点を渡ると問屋場跡、さらに宗三寺、一行寺入り口前を行く。
川崎宿には三つの本陣があったが、嘉永五年(1628)に設けられた宿内最古の本陣であった田中本陣跡にすすむ。しかし、宿場の面影はまったくない、宝暦11年の大火(1761)では、小土呂からこれから行くたま川の六郷渡しまでほぼ全焼したそうだ。
川崎宿はたびたび大火で焼けたためにそれ以前の記録が焼失してないそうだ。
このように川崎宿の面影を残す建物や史跡はなくて、案内ガイドによるものばかり、それでも案内板や道標は整備されていた。
[川崎宿]
川崎宿は、東海道宿駅伝馬制度がもうけられた後、大きく遅れて元和9年(1623)に設置された。品川宿と神奈川宿との間が5里(20キロ)もあり伝馬の負担を軽減するためにもうけられたという。
川崎大師へ通ずる道なのだろうか大師通りの本町交差点を超えると道は右へ大きく曲がり前方に高架道が見えてきた、六郷の渡しへの標識が立っている。
いよいよ多摩川だ!
橋への入口手前に万年屋跡の古い案内板があり、このあたりにあった万年屋は奈良茶を売っていた茶屋だったそうだ。
多摩川の堤防へ上った、目の前を流れる多摩川は想像してより川幅は広くなかったが、それよりここまで来たことに感動、向かいはお江戸だ!
「明治天皇六郷渡御碑」が目に入った、明治初年に明治天皇が行幸の際、船をつないで臨時の橋をつくり川を渡ったそうだ、その様子がレリーフに描かれている。そばに、六郷渡しの案内板と川崎大師の燈篭があった。
さあー六郷橋を渡るぞ!・・・11時22分。渡り始めるとすぐ川崎市から東京都大田区になった。普通、自治体の境になる橋は、真ん中が境界になっていると思うが、川崎と東京の力関係か、まさか?橋の上は、ほとんど東京側だった。河川敷のグランドも東京側。
おじさん、おばさん達が楽しそうにゲートボールに興じていた。
この六郷橋の起源は、慶長5年(1600)に徳川家康が作らせたものだが、貞享5年(1688)の洪水で壊れて以来、明治まで再建されなかった。その間は六郷の渡しで結ばれていて川崎宿は渡船収入が宿の財政を大きく支えたそうだ。
橋を渡って東京側の橋のたもとにある六郷の渡碑のある小公園に行ってみた。ついでに上流側の橋上に出てみた。欄干が渡船をデザインしたのか独特の舟形になっていたので、こ
こで証明写真を撮っておきたくなった。
やってきた60歳くらいの男性に事情を話したら快く引き受けてもらえて、わざわざ位置を変えて2枚撮ってくれて、東海道を歩いていることに興味をもってくれたのか話しかけてくれた。
これがお江戸に入って最初に出会った人。11時59分になっていた、六郷橋を渡り始めてから37分、渡るだけなら5分ほどなのに・・・
12時を知らせるサイレンを聞きながら気を取り直して、第一京浜国道と合流したところで六郷神社に寄った、この神社は、天喜5年(1057)、源頼義・義家親子の創建で頼朝が社殿を造営したといわれている。ここには六郷の一里塚があったそうだが今は不明。
ここから第一京浜国道に沿って品川を目指して歩き続けることになる、通行量の激しい騒音の中を歩き続けるのは自然派の人間には物足らない。ここは大田区、日本を代表する中小企業、町工場のある地域、歩いている国道から一歩入って行くと町工場が見られると思うが、そこまでの時間をとることはできなかった。
しばらく進んで蒲田消防署前を通過、12時38分になっていた。
コンビニ弁当を買って銀行横にある駐輪場の広場でのんびりと食べた。南蒲田で環状8号線を横切るあたりから、ますます騒々しい国道沿いを歩く。
13時14分、前方に踏切が見えてきた、近づくと遮断機が下りて電車が通る、遮断機が上がるかと思うと上がらずまた電車が来た。写真、写真、電車好きにはシャッターチャンス!ここまではよかったがなかなか遮断機が上がらない・・・・
もしや?ピンときた!(くるのが遅い?)ここが箱根駅伝で走るランナーまで足止めを食ってしまう蒲田の踏切か?きっとそうだ!そばに立っていた人に思わず聞こうとした、いま、工事がすすんでいるのは高架にするのかもしれない。
踏切を渡り呑川(のみかわ)にかかる夫婦橋を渡る・・・しばらくすすむと左手に木々に囲まれた公園が見えてきた、木陰で休憩にしようと寄ってみたら梅屋敷公園で、明治天皇も行幸の際、訪れたという碑がたっていてすでに散っていたが梅の名所だそうだ。広重も蒲田の梅園として描いている。木戸孝充や伊藤博文らが園内で新年会を開いたこともあるそうだ。
六郷橋から公園らしきところ、緑のまったくない第一京浜国道に沿って歩いてきたのでほっとする。13時31分。
このあたりが日本橋から国道で15キロ地点。もちろん東海道はそれより長い。左手の高架を電車がひんぱんに走り、道路は車ばかり、騒音に汚れた空気、歩くのには条件が悪すぎる。大田区体育館、梅屋敷駅を過ぎ、まっすぐに歩き続けるだけ。
貴船神社へ寄って水分補給、大森駅、大森警察署を過ぎると第一京浜から右の道へ入りどんどんすすんで行く。
日本橋から3番目の大森一里塚の跡は不明、羽田街道という標識があったが空港方面なのだろうか。内川にかかる内川橋を渡りさらにすすむ。このあたり古い構えの店が結構ある。平和島駅前を通りさらにすすむと再び、騒音の第一京浜に合流した。磐井神社で休憩、おやつに買っていたパンでしばらく休んだ。
夜はゴールする品川で息子と会うことになっているが、仕事の都合で19時が約束なので早く品川へ着いても時間待ちをするだけ、できるだけゆっくりと、暗くならない程度、17時頃に着けばいいので急ぐことはない・・少しずつ行けばよい。
この磐井神社は転がすと鈴の音がするという鈴石で知られている神社、東海7福神の南の終点だそうだ。神社前の国道の横に磐井の井戸跡があった、東海道を往来する旅人が利用した美水として有名だったらしい。
14時17分。大森海岸駅前を通過、あれ?第一京浜国道が国道15号となってるぞ?
どういうこと?
このあたりは海苔の店が目につく、海に近いのか、海苔の業が盛んなところなんだろう。
さらにすすみ、歩道橋で15号線から右の細い道へ入って行く。ここには鈴ケ森刑場跡があるというので寄ってみることにした。14時50分。
処刑された人々を供養した髭題目碑や、処刑に使われた礎石も残っていて不気味な雰囲気、八百屋お七や白井権八、天一坊などもここで処刑されたらしい。
しばらく行くと立会川の浜川橋に出る、浜川橋は鈴ケ森刑場へ向かう罪人と肉親との別れの場所であったことから別名涙橋と呼ばれている。
立会橋を渡り立会川にそって下るとすぐ浜川砲台跡に出た。この一帯は江戸時代、土佐藩の屋敷があった場所で、黒船来航に際し、防衛のため土佐藩もこの屋敷内に砲台を築いたそうだ。
商店街に戻り通りから左に入る道を見ると龍馬の町と書かれた幟が目についたので行ってみたら、浜川砲台跡と龍馬の町を散策する集団が講師の説明を聞いているのに遭遇した。神社の入口に龍馬の大きな像が立っていた。こんなところに龍馬がいるとは・・びっくりした。
白玉稲荷神社、鮫洲八幡神社、鮫洲駅、青物横町駅を過ぎ鮫洲商店街をすすむ。鮫洲は漁師の町で鮫洲八幡神社はその守り神。鮫洲は品川宿のはずれにあったらしい。
岩倉具視の墓がある海雲寺を過ぎ、東海七福神の品川神社(ほんせんじ)には江戸六地蔵があった。15時51分。
このあたりから通りに品川の地名が入る・・・通りのあちこちに小ぶりの松が植えられていたが静岡県や神奈川県の宿場から寄贈された松だそうだ。
街道松の広場で休憩。目黒川を過ぎ、新馬場駅前を通り過ぎると右手に聖蹟公園が見えてきた。ここは品川本陣があったところ、いまは公園になって碑が立っているのみ。
そのまま商店街をすすむ、このあたりの商店はシャッターに浮世絵が描かれたり宿場の雰囲気を出そうと商店街で取り組んでいる様子がうかがえた。まもなく商店街は左へ曲がり京浜急行北品川駅近くの踏切へ出てきた。踏切の手前に日本橋から二つ目の八ツ山一里塚があったらしいが不明。視界が急に広がり前方にビル群が現れてきた、品川だ。
八ツ山コミュニティ広場を通りぬけてビル群を右に見ながらJRにかかる八ツ山橋を渡る、そのまま第一京浜国道にそって緩やかな下りを進むとJR品川駅前に着いた。16時52分。
これで東海道五十三次の29日目③神奈川→②川崎→①品川を完歩した。
次回はいよいよ品川→日本橋ゴール!
その日は2010年4月13日(火)、3年で30日完歩計画の30日目になる。
所属しているSNSの応援コミュニティのメンバー、休会中のSNSのメンバーが
最後の日、集まってくれるようで段取りも進んでいるようだ、わくわくしている。