昨日より今日を!今日より明日を! 夢と希望がある限り命輝かせて生きていこう!

「夢を描こう!」「 夢を語ろう!」 「夢を形にしよう!」 楽しもう76歳を!

フレッシュマン、ようこそ!

2010-03-31 21:36:06 | 輝いて生きる
新大阪駅を新人さんらしい若者たちが
大きな荷物を持って引率者らしい人に
先導されて歩いているのを見かけた

ここ数日、毎日のように見ているが
この時期には毎年おなじみの光景だ

明日は4月1日
多くの会社で入社式がおこなわれ
新人さんたちは社会人として
スタートをしていく

いまどんな思いでいるのか
どんなことを期待しているのか
どんな人生を送りたいのか

そして

どんな夢をもっているのか

聞いてみたい気がする

先行き不鮮明な厳しい時代を生きていく
若者たちに夢や希望を持てというのは
無理な話だと思われるかもしれないが
こんな時だからこそ「夢や希望」を
持ってほしいと思う

自分が社会人としてスタートしたその日
のことは今でもはっきりと覚えているが

日本が成長時期に向かっていたあの頃
夢や希望など特に必要なものではなかった
なくても先輩の背中が道標だったから

厳しい就活を経てやっとこの日を迎えた

しかし

明日からはもっと厳しい現実が待っている

一歩、一歩、じっくりと進んでほしい

2日から自分も若者たちと合宿に入る。


世界遺産「姫路城」を訪ねて!

2010-03-30 22:34:00 | ウォーキング
たまたま約束していた午後の打ち合わせがなくなったので、まもなく大天守の保存修理工事が始まる姫路城へ行くことにして、11時39分新大阪からJRで姫路駅へ向かった。
姫路城は、わが国で世界遺産に登録された第一号、日本を代表する城であることはよく知られているが、来月11日から始まる工事で長らくあの白鷺にたとえられた美しい姿を見ることはできなくなる。工事期間中は平成22年4月12日から平成27年3月末まで、自分の年齢を考えると果たして修理後を見ることができる保障はないので急に行きたくなった。

姫路駅には入場まで40分待ちの案内が張り出してあった。混雑していることは覚悟して行ったので天守閣に登ることは諦め、ほどほど見学をしたあとは周辺のウォーキングをすることに切り替えて、姫路駅前の大手門通りをまっすぐにすすみ城への入り口、桜門橋に行った、すでに長蛇の列、入場門までちょうど40分かかった。



さらに、天守閣へ登るには2時間半か3時間かかると城内放送が繰り返されていた。とにかく人、人、人、すでに13時50分になっていた。二の丸まで行って引き返し、千姫ゆかりの西の丸へ移動、ここも40分待ちという。何度も来ているので中に入ることはやめた。


千姫について少し・・・七歳で豊臣秀頼と政略結婚をした徳川家康の孫姫(徳川秀忠の長女)は、大坂夏の陣で秀頼の死後、江戸へ戻る途中、桑名城主の本多忠政の子・忠刻と恋に落ち結ばれた。後に忠刻とともに姫路城へ移った。このとき、本多忠政が千姫のために西の丸を築き、そこから千姫は自分が築いた男山千姫天満宮を遥拝したという。
幸せな日々を過ごした千姫も結婚して11年目に忠刻が亡くなり、江戸城へ帰る千姫を藩士や城下の人々は泣いて送ったと伝えられている。
サクラは三分咲き位だったが西の丸の広場からの天守閣の眺めは見事だった。来週あたりは大変な人出になることだろう。


ここからは9年前にウォーキング倶楽部の例会で歩いたコースを逆に行くことにした。
桜門橋を出て城見台公園を北へ向かう。もう工事の準備が始まっている。



美術館前を左折して外堀にそってそびえる天守閣を左に見ながら人の姿もほとんどない道を清水橋へ。


ここから川沿いに北へすすむと男山へ登る急な階段が続く、登りつめると男山排水池公園へ、ここは姫路市内が一望できる眺望スポット。左手向こうに高くそびえる姫路城の大きさが実感できる。距離にして2キロほどか。


少し下って千姫天満宮へ行く。ここが千姫が建立し、城内の西へ丸から遥拝したと伝えられている天満宮だが、ここにも人の姿はなかった。


再び、清水橋へ戻り、中堀にそって続く千姫の小径をすすむ、堀の左上に千姫の西の丸がそびえて見える。


千姫の小径の途中に千姫、忠刻のふたりの歌碑があった。

 「初秋の風を 簾(すだれ)にまきとりて」(忠刻)

 「軒はにおほふ 竹の葉の露」     (お千)

裏に説明が彫られていた。
この歌は、千姫(1597-1666)が徳川第二将軍家忠から大安宅船(おおあたかぶね)を預けられたことを記念し、一家一族の繁栄を祝福するため、八月十四日の待宵を期して月見かたが「船」の題で歌の会を催した時の連歌の一部で、千姫が姫路で残した唯一の歌と言われています。


市之橋へ出て左折すると日本庭園が素晴らしい好古園へ、入園はパスして大手前通りを歩いて姫路駅へ、JRで戻ってきた。



サクラには少し早かったが、お天気がよくて姫路城天守閣を眺めることができて満足した。まもなく大工事が始まる、五年後の改修された姿を見られるのを楽しみに待ちたい。

金魚の故郷・城下町大和郡山」お花見ウオーク。

2010-03-29 16:46:53 | ウォーキング
お世話をしているウォーキング倶楽部の月例会で奈良・大和郡山へ行った。(28日)
大和郡山は、筒井順慶、豊臣秀長、柳沢吉里らが城主を務めたきた奈良を代表する城下町で、とくに秀吉の弟・秀長ゆかりの寺院や史跡、屋敷などが多くあり、街並みにもかっての面影が残されているなど、自然にも恵まれた落ち着いた町で歴史好きには格好の散策コース、また、日本一の金魚の養殖をしている町としても知られている。
法隆寺の斑鳩と薬師寺・唐招提寺の西の京との真ん中に位置して、JRと近鉄も走っており大阪から簡単に行くことができる。

個人的には三度目の郡山ウォークになるが、かなり以前に訪れままでなので久しぶりの郡山を歩くのを楽しみに、9時20分、JR大和路線大和郡山駅へ集合した。


今回の担当者より手作りの資料が手渡され、コースの紹介、新人さんの自己紹介、ストレッチをしてスタート、郡山は近鉄郡山駅が中心なのでJR駅前の一角を過ぎるとすぐに静かな住宅街に入った、しばらくすると田園風景が広がる、最初に東西南北260メートルほどの環濠に囲まれた集落が残っている稗田環濠集落を訪れた、環濠とは、村の周囲に濠をめぐらして外敵を防いだ中世の遺構で、ほぼ完全な形で残されているのには驚いた。環濠の外は田園、中は密集した古い家々が建てこんでいる。


環濠の中にある売太神社は「古事記」の伝承者として知られる稗田阿礼(ひえだのあれ)を祀っており、皇室の方々も訪れたという碑が立てられ由緒ある神社であることを知った。
環濠集落からしばらく田園の中を歩き続け、佐保川を渡りそのままそって上って行くと道の両側の田んぼが水をはったプールのような形に変わったきた、ここが金魚の養殖日本一の養殖場なのだ。


金魚資料館に寄って珍しい金魚をたくさん見せてもらった。通りに沿って流れている小川にも金魚が泳いでいるのには、さすがに金魚の町だと感心した。金魚すくい全国大会が毎年開かれているようだが、どこでもイベントには「金魚すくい」が定番、ここで育った金魚たちが全国で祭りやイベントの盛り上げに一役をかっているのだろう。

そもそも郡山の金魚の養殖は、下級武士の内職であったものが、水利の便利さから農家の副業になり、いまに続いているらしい。


古い街並みを曲がりくねりながら歩いて豊臣秀長の墓所、大納言塚に寄った。大きな五輪塔が立てられた立派な塚がきちんと管理されていたのには、秀長の郡山での存在が大きいことがわかった。


そこから秀長の何代か後の郡山城主だった柳沢家菩提寺の永慶寺へ、ここは黄檗宗の善寺、見事に手入れされた広い庭園にはさくら、椿、など数々の花が咲いて目を楽しませてくれた。
郡山高校前をすすむとさくら祭りが始まって大勢の人で賑わっている郡山城跡へ着いた。
ここのお城もさくらで有名だが、ちょうど五分咲きくらいか、その下で弁当を広げている人たちでいっぱいだった。


郡山城は、天正8年(1580)に筒井順慶が築城し、5年後に豊臣秀長が入って大増築、後に柳沢家が城主となった。現在は建物はなく、石垣と外堀と天守台と復元された追手門があるのみ、しかし、城郭は残っているので雰囲気を味わうことはできる。堀に映ったさくらがひときわきれいに見えた。


天守台近くの広場で、メンバー持参のシートに全員の顔が見えるように座って楽しいお食事、ここで近況報告やさまざまな話をしながら交流タイム。出店で「いちご大福」を買って午後への元気づけをした。



近鉄郡山駅を過ぎて再び古い城下町の名残のある街並みをすすむ、担当者が下見をして地図にコースを示し、見学場所の解説もすべてにわたって資料に作成してくれているので、とてもわかりやすく、それを現地で交代で読み上げるのだから学習効果は抜群、知らない人たちは、何事かとこちらを注目するが、これがわが倶楽部の伝統?だからおかまいなし。みんな現役で勤めている者ばかりだから、そこまで資料づくりをしなくていいと言うのだが、ますます資料づくりに熱が入っている。本人が一番勉強になるので楽しいのだろう。

古い通りを入り秀長の菩提寺の春岳院を訪ねた。


秀長は郡山の町づくりに「箱本制度」を導入した、町の治安や消火活動や伝馬の内容などがみられる歴史資料館によって詳細を知ることもできた。


その名残がうかがえる古い通りを歩いていると桜祭りのメインの行列に遭遇した。さまざまな工夫がされた華やかな行列が続き、しばし足を止めて見学をした、順慶、秀長等、お殿様にふんした人も馬に乗り行列に華を添えていた。


最後に昔の城全体を取り巻く外堀の一部が復元された公園式の遊歩道を歩いてスタートのJR郡山駅にゴール、15時、約15キロだった。


駅前の喫茶店でしばらくミーティングをして戻ったきた。午後から雨予想だったがむしろ天気は回復し、さして寒くもなくいいウォーキングができた。

感動の修了式!

2010-03-28 22:34:26 | 仕事
金、土曜の二日間、経営者の卵たちの勉強会の
最終回を開催した

半年間続けてきて勉強会の最終回の二日目は
それぞれの親(現役のオーナー)の出席も得て
今後の計画についてプレゼンテーションを行う

本人も緊張するがそれ以上に緊張するのが親の
オーナーさんたち

北は山形県から西は長崎県まで、息子がどれだ
け勉強を続け、後継の意思を固め、引き継ぐた
めにどんなビジョンや具体的な計画を持ったか
を親にプレゼンテーションを行った

感動に涙してしばらく声にならなかったオーナー
はっきりと期限を明示して経営のバトンタッチを
約束したオーナーさんありで、終了後の食事会や
二次会まで盛り上がって再会を約束して別れた


今日は、さっそくそのメンバーの掲示板に様々
なメッセージが書き込まれていた

メールももらった

金曜日は、夜、大阪のおいしいお好み焼きが
食べたいというので、法善寺横町に案内して
楽しいひとときを過ごした

みんな満足してくれたようだったがなかでも
埼玉から来ていた1人が、大変おいしいと言って
くれてうれしかった

これからは掲示板を通して励まし続けて行く

過去の他の期の修了生もいるのでますます掲示板
への対応が必要になってくる

すばらしい経営者になってほしい!


智弁和歌山の高嶋監督から学ぶ。

2010-03-25 20:07:31 | スポーツ-トレーニング
冷たい雨が一日中降り続いた
これできのうから二日間連続の雨

甲子園の高校野球も二日連続の中止
まさに水をさされた球児達には風邪を
ひかないように・・・

一昨日、智弁和歌山が勝利したが
これが高嶋監督の甲子園通算59勝目
大変な記録だと思う

3月19日の日経夕刊で高嶋監督に
ついて大きな記事が載っていた


2008年9月の練習試合で態度の
悪かった選手を戒めるつもりが
足げりになって3ケ月の謹慎期間

このニュースを聞いた時高嶋さんも
このまま高校野球から消えるのでは
と思ったことを記憶している

謹慎期間中もやもやした思いを抱えて
四国へ遍路に出かけたそうだ

41日間で約1,400キロを踏破したが
浮かぶのは野球への思いばかりだった

ある時、遍路道の木札に目が留まった

「一瞬の感情で地獄に落ちる人もいる」

 ”なんやこれは、オレのことや・・”

白星を重ねても、指導者としては未熟で
あることを悟ったという

「あそこで踏みとどまれてこそ真の指導者
私の遍路は、この札に出合うための修行だ
と思った」と語っている


ウォーキングにでかけるとお寺の掲示板の
ことばに出合うのが楽しみの一つ
だが、出合うばかりで身についていない

同じ和歌山の21世紀枠で出た向陽高校に
負けた相手校の監督さんはどんな謹慎期間
を送るのだろうか

この新聞記事、切り抜いて保管していたので
今日のブログに活用できたが・・・
切り抜きが目的にならないように。


東海道五十三次を行く(29)神奈川→川崎→品川

2010-03-24 17:42:04 | 東海道五十三次
東海道五十三次ひとり歩きシリーズ、京都三条大橋をスタートして29日目、②川崎から①品川をめざして歩く。東海道は、神奈川県からいよいよゴール日本橋の東京都へ移動して行く。朝から快晴、前日より気温も低くウォーキングには絶好の条件に恵まれた。

[3月14日(日)-「神奈川→川崎→品川」] (JR鶴見駅→JR品川駅)
午前8時35分、前泊したJR新子安駅前のホテルを出発し電車で鶴見へ移動。京急鶴見駅高架下から9時に合わせてスタートした。


駅前通りをすすみ最初に訪れたのが鶴見神社、一日の安全祈願のために寄った神社で意外なことを知った。境内に貝塚があるという、このあたりは東京湾に注ぐ鶴見川河口近くの沖積低地に位置して平成20年の発掘調査で本殿前に良好な状態で貝層が発見され写真も公開されていた。


鶴見川をめざして図書館前、寺尾稲荷道の道標前を通過、静かな日曜日の通りには花があちこちに春の陽光をいっぱいに浴びて嬉しそうに咲いて歓迎してくれているようだった。
やがて鶴見川にかかる鶴見橋の白いアーチが見えてきた。


向かい側の道に鶴見橋関門旧跡があるらしいので橋元まで行き、反対の道を戻るようにして関門旧跡へ行った。交通の激しい大きな道路わきを行く時は向かいに史跡等がある場合、横断歩道がなかなかないので、あきらめるか渡れる歩道まで行き引き返すかどちらか、どちら側を歩くかは、見所を確認して決めているが両方にあるとそれはつらい。


鶴見橋関門旧跡には立派な碑がたてられていた、安政六年(1859)年6月に横浜港が開港すると多くの外国人が日本に上陸したが、生麦事件後も攘夷派の浪士による殺傷事件が続くなど治安が不安定で、外国人に対する危害もあり横浜へ通ずる主要道路に番所や関門を設けて不審人物の見張りをしていたところ。
このあたりが品川宿と神奈川宿の中間の鶴見立場(休憩所)で茶屋があったらしく、米まんじゅうが名物だったとか。

鶴見橋を渡ると右に菜の花が満開の公園があったので寄ってみた、おばあさんがベンチに腰をおろしてうつむいていた、どうしたんだろう・・・まるで人形のようにまったく動かないおばあさんに亡き母が重なった。


鶴見橋は、江戸を出て最初に渡る大きな橋だったそうだ。(多摩川は渡し)。
しばらくすすむと右に日本橋から五番目の市場一里塚の前に来た、立派に史跡として保存されていた。


熊野神社へお参りしてさらに一直線、市場銀座商店街を歩き続けると京浜急行八丁畷駅前に着いた。八丁畷とは、田んぼの中を一本道が八丁(870m)続いていたということらしい。「八丁畷の由来と人骨」という説明板と無縁仏の供養塔が立てられていた。江戸時代、川崎宿では、震災や大火、洪水、飢饉にしばしば襲われて多くの人が亡くなり、また、道に倒れた人や亡くなった遊女がこのあたりに埋葬されたようで、その人骨が道路工事などで数多く出てきたという。


踏切を渡りすぐ左の道をすすむと京浜急行と道路との間のわずかなスペースに芭蕉句碑が立てられていた。芭蕉が、元禄7年5月に江戸深川を立ち郷里の伊賀への帰途、川崎宿へ立ち寄り、門弟たちとの惜別の思いを詠んだ句が句碑として立てられていた。
「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」、この年の10月に芭蕉は大阪で亡くなった。


川崎警察署前を通り賑やかな商店街をまっすぐにすすむ、川崎宿の京都側入口があったという案内板があるらしいので三度もあたり100メートル内を行ききしたがみつからなかった。こういう時が一番悔しい。
賑やかな新川通りと交差している小土呂橋交差点へ着いた、ここは、かって新川堀で小土呂橋の石橋の欄干跡が残っていた。現在、新川堀は地下にあるそうだ。
さらに賑やかな商店街が続く、「旧東海道川崎宿いさご通り」という標識がところどころに立てられていた。JR川崎駅へ通ずる市役所通りの砂子交差点前に佐藤本陣跡、交差点を渡ると問屋場跡、さらに宗三寺、一行寺入り口前を行く。
川崎宿には三つの本陣があったが、嘉永五年(1628)に設けられた宿内最古の本陣であった田中本陣跡にすすむ。しかし、宿場の面影はまったくない、宝暦11年の大火(1761)では、小土呂からこれから行くたま川の六郷渡しまでほぼ全焼したそうだ。


川崎宿はたびたび大火で焼けたためにそれ以前の記録が焼失してないそうだ。
このように川崎宿の面影を残す建物や史跡はなくて、案内ガイドによるものばかり、それでも案内板や道標は整備されていた。

[川崎宿]
川崎宿は、東海道宿駅伝馬制度がもうけられた後、大きく遅れて元和9年(1623)に設置された。品川宿と神奈川宿との間が5里(20キロ)もあり伝馬の負担を軽減するためにもうけられたという。

川崎大師へ通ずる道なのだろうか大師通りの本町交差点を超えると道は右へ大きく曲がり前方に高架道が見えてきた、六郷の渡しへの標識が立っている。
いよいよ多摩川だ!


橋への入口手前に万年屋跡の古い案内板があり、このあたりにあった万年屋は奈良茶を売っていた茶屋だったそうだ。

多摩川の堤防へ上った、目の前を流れる多摩川は想像してより川幅は広くなかったが、それよりここまで来たことに感動、向かいはお江戸だ!


「明治天皇六郷渡御碑」が目に入った、明治初年に明治天皇が行幸の際、船をつないで臨時の橋をつくり川を渡ったそうだ、その様子がレリーフに描かれている。そばに、六郷渡しの案内板と川崎大師の燈篭があった。


さあー六郷橋を渡るぞ!・・・11時22分。渡り始めるとすぐ川崎市から東京都大田区になった。普通、自治体の境になる橋は、真ん中が境界になっていると思うが、川崎と東京の力関係か、まさか?橋の上は、ほとんど東京側だった。河川敷のグランドも東京側。
おじさん、おばさん達が楽しそうにゲートボールに興じていた。


この六郷橋の起源は、慶長5年(1600)に徳川家康が作らせたものだが、貞享5年(1688)の洪水で壊れて以来、明治まで再建されなかった。その間は六郷の渡しで結ばれていて川崎宿は渡船収入が宿の財政を大きく支えたそうだ。
橋を渡って東京側の橋のたもとにある六郷の渡碑のある小公園に行ってみた。ついでに上流側の橋上に出てみた。欄干が渡船をデザインしたのか独特の舟形になっていたので、こ
こで証明写真を撮っておきたくなった。

やってきた60歳くらいの男性に事情を話したら快く引き受けてもらえて、わざわざ位置を変えて2枚撮ってくれて、東海道を歩いていることに興味をもってくれたのか話しかけてくれた。


これがお江戸に入って最初に出会った人。11時59分になっていた、六郷橋を渡り始めてから37分、渡るだけなら5分ほどなのに・・・
12時を知らせるサイレンを聞きながら気を取り直して、第一京浜国道と合流したところで六郷神社に寄った、この神社は、天喜5年(1057)、源頼義・義家親子の創建で頼朝が社殿を造営したといわれている。ここには六郷の一里塚があったそうだが今は不明。

ここから第一京浜国道に沿って品川を目指して歩き続けることになる、通行量の激しい騒音の中を歩き続けるのは自然派の人間には物足らない。ここは大田区、日本を代表する中小企業、町工場のある地域、歩いている国道から一歩入って行くと町工場が見られると思うが、そこまでの時間をとることはできなかった。


しばらく進んで蒲田消防署前を通過、12時38分になっていた。
コンビニ弁当を買って銀行横にある駐輪場の広場でのんびりと食べた。南蒲田で環状8号線を横切るあたりから、ますます騒々しい国道沿いを歩く。

13時14分、前方に踏切が見えてきた、近づくと遮断機が下りて電車が通る、遮断機が上がるかと思うと上がらずまた電車が来た。写真、写真、電車好きにはシャッターチャンス!ここまではよかったがなかなか遮断機が上がらない・・・・
もしや?ピンときた!(くるのが遅い?)ここが箱根駅伝で走るランナーまで足止めを食ってしまう蒲田の踏切か?きっとそうだ!そばに立っていた人に思わず聞こうとした、いま、工事がすすんでいるのは高架にするのかもしれない。


踏切を渡り呑川(のみかわ)にかかる夫婦橋を渡る・・・しばらくすすむと左手に木々に囲まれた公園が見えてきた、木陰で休憩にしようと寄ってみたら梅屋敷公園で、明治天皇も行幸の際、訪れたという碑がたっていてすでに散っていたが梅の名所だそうだ。広重も蒲田の梅園として描いている。木戸孝充や伊藤博文らが園内で新年会を開いたこともあるそうだ。
六郷橋から公園らしきところ、緑のまったくない第一京浜国道に沿って歩いてきたのでほっとする。13時31分。
このあたりが日本橋から国道で15キロ地点。もちろん東海道はそれより長い。左手の高架を電車がひんぱんに走り、道路は車ばかり、騒音に汚れた空気、歩くのには条件が悪すぎる。大田区体育館、梅屋敷駅を過ぎ、まっすぐに歩き続けるだけ。


貴船神社へ寄って水分補給、大森駅、大森警察署を過ぎると第一京浜から右の道へ入りどんどんすすんで行く。
日本橋から3番目の大森一里塚の跡は不明、羽田街道という標識があったが空港方面なのだろうか。内川にかかる内川橋を渡りさらにすすむ。このあたり古い構えの店が結構ある。平和島駅前を通りさらにすすむと再び、騒音の第一京浜に合流した。磐井神社で休憩、おやつに買っていたパンでしばらく休んだ。

夜はゴールする品川で息子と会うことになっているが、仕事の都合で19時が約束なので早く品川へ着いても時間待ちをするだけ、できるだけゆっくりと、暗くならない程度、17時頃に着けばいいので急ぐことはない・・少しずつ行けばよい。
この磐井神社は転がすと鈴の音がするという鈴石で知られている神社、東海7福神の南の終点だそうだ。神社前の国道の横に磐井の井戸跡があった、東海道を往来する旅人が利用した美水として有名だったらしい。
14時17分。大森海岸駅前を通過、あれ?第一京浜国道が国道15号となってるぞ?
どういうこと?
このあたりは海苔の店が目につく、海に近いのか、海苔の業が盛んなところなんだろう。
さらにすすみ、歩道橋で15号線から右の細い道へ入って行く。ここには鈴ケ森刑場跡があるというので寄ってみることにした。14時50分。

処刑された人々を供養した髭題目碑や、処刑に使われた礎石も残っていて不気味な雰囲気、八百屋お七や白井権八、天一坊などもここで処刑されたらしい。


しばらく行くと立会川の浜川橋に出る、浜川橋は鈴ケ森刑場へ向かう罪人と肉親との別れの場所であったことから別名涙橋と呼ばれている。
立会橋を渡り立会川にそって下るとすぐ浜川砲台跡に出た。この一帯は江戸時代、土佐藩の屋敷があった場所で、黒船来航に際し、防衛のため土佐藩もこの屋敷内に砲台を築いたそうだ。


商店街に戻り通りから左に入る道を見ると龍馬の町と書かれた幟が目についたので行ってみたら、浜川砲台跡と龍馬の町を散策する集団が講師の説明を聞いているのに遭遇した。神社の入口に龍馬の大きな像が立っていた。こんなところに龍馬がいるとは・・びっくりした。


白玉稲荷神社、鮫洲八幡神社、鮫洲駅、青物横町駅を過ぎ鮫洲商店街をすすむ。鮫洲は漁師の町で鮫洲八幡神社はその守り神。鮫洲は品川宿のはずれにあったらしい。

岩倉具視の墓がある海雲寺を過ぎ、東海七福神の品川神社(ほんせんじ)には江戸六地蔵があった。15時51分。


このあたりから通りに品川の地名が入る・・・通りのあちこちに小ぶりの松が植えられていたが静岡県や神奈川県の宿場から寄贈された松だそうだ。

街道松の広場で休憩。目黒川を過ぎ、新馬場駅前を通り過ぎると右手に聖蹟公園が見えてきた。ここは品川本陣があったところ、いまは公園になって碑が立っているのみ。


そのまま商店街をすすむ、このあたりの商店はシャッターに浮世絵が描かれたり宿場の雰囲気を出そうと商店街で取り組んでいる様子がうかがえた。まもなく商店街は左へ曲がり京浜急行北品川駅近くの踏切へ出てきた。踏切の手前に日本橋から二つ目の八ツ山一里塚があったらしいが不明。視界が急に広がり前方にビル群が現れてきた、品川だ。


八ツ山コミュニティ広場を通りぬけてビル群を右に見ながらJRにかかる八ツ山橋を渡る、そのまま第一京浜国道にそって緩やかな下りを進むとJR品川駅前に着いた。16時52分。


これで東海道五十三次の29日目③神奈川→②川崎→①品川を完歩した。
次回はいよいよ品川→日本橋ゴール!
その日は2010年4月13日(火)、3年で30日完歩計画の30日目になる。

所属しているSNSの応援コミュニティのメンバー、休会中のSNSのメンバーが
最後の日、集まってくれるようで段取りも進んでいるようだ、わくわくしている。

ゆううつ。

2010-03-23 23:26:08 | 健康
昨日の昼ごろから頭痛が続いて

昨夜、今朝も血圧が高かったので

病院へ行った

たまたま土曜日で薬が切れていて

それが影響したのかどうか

冷たい雨のゆううつな一日だった


それにしても簡単な会話だけで

 処方箋料  1,440円

 薬代60日分4,360円 

 計5,800円

高血圧は母方の家系だと思われるのだが

こればかりはウォーキングの効き目はない

家内の医療費はさらにかかっている

歳をとるとある程度のことは仕方がないが

健康で医者とは仲良くしたくない

こんなブログは書きたくないけど

ひとりごとだからいいか。


岡本敦夫さん、あっぱれ!

2010-03-22 22:38:38 | 輝いて生きる
今夜NHKで「家族で選ぶにっぽんの歌」という
番組を放映していた

本を読みながら流れる曲をBGMにしていたが
岡本敦夫さんが「白い花が咲くころ」を歌いだして
思わずテレビに目がいった


岡本敦夫さんも「白い花が咲くころ」も大好きだし
昔はよくカラオケで歌った

しかし、あの岡本さんが今も歌っているのに驚いた
85歳、あの美声はかわらないが
さすがに声はか細くなり張りのある声はなくなった
それでも椅子に座って歌っている姿はプロ魂そのもの

続いて五木ひろしさんが「千曲川」を聞かせてくれた
この曲も自分が歌えたカラオケ曲の一つだったが
いつのころからか歌うことができなくなった

あの曲の後半部分の高音が出なくなったからだ
五木さんもさすがに昔とちがって苦しそうに聞こえた

あれだけのプロでも年齢とともに声量は弱くなる
だから素人の声が出なくなるのは当たり前のこと


声が小さくなったと言われて以来数年になるが
自分でも自分の声が弱くなったことがわかる

70歳だから仕方がないとは思いたくないが
相手に伝わる声はこちらの命のパワーだから
メリハリの聞いた、元気な声で話したい

声は健康のバロメーター
声も現役として通用したい

と言いながら何も訓練をしていないのだから
ごちゃごちゃ言っても始まらないのだが・・・


ビルの前の街路樹のこぶしが満開になってきた
サクラも咲き始めた・・・
あと22日で70だ。


(白い花が咲くころ・・・まもなく70歳を前に)

京都・東山-花灯路。

2010-03-21 19:19:26 | ウォーキング
先週末に東海道五十三次を歩き、あわただしく過ごしたので、きのうはリフレッシュ日にして、開催中の京都・東山の花灯路(はなとうろ)へ出かけた。

午後5時、JR京都駅から花灯路のスタート、清水寺の茶わん坂をめざしてウォーキング、鴨川を渡り国立京都博物館、三十三間堂前を通り清水寺入口の茶わん坂まで行くとせまい上り道はいっぱいの人でのろのろ歩き、まだ明るかったので時間待ちに、かねてから一度入ってみたいと思っていた京銘菓の店に入ってお茶にお菓子でしばらくくつろいだ。


茶わん坂を上り切り仁王門が見えるあたりに行くとすでにサクラが開花、その下に写真撮影の人が集まっていた。


18時からライトアップ、清水寺仁王門前はすでに大変な人出、清水の舞台、奥の院も大変な人だった、それでも京都の夜景がきれいに見えた。



ここから京都・東山の散策定番コース、お土産物屋の続く清水道から三年坂へ行く、ここも雑踏、右側にある坂本竜馬なじみの明保野亭の桜はすでに満開、三年坂を上り下りする観光客を歓迎するように見事な咲きっぷりで目を楽しませていた。


雑踏状態の三年坂を人の流れにのんびりと歩く気にはなれず、二年坂はさけて法観寺(八坂の塔)へまわってみた、ここには写真ファンが集結?していてライトアップされた聖徳太子建立の五重塔を撮る人が大勢きていた、お茶のサービスをいただいた。



維新の道を上がり高台寺下のねねの道に向かったが、こちらも雑踏に近い人ごみ、三連休の初日ということでライトアップの花灯路に人々が集まったのだろうが、それにしても高い気温に汗をふきふき歩いた。
そのねねの道で思わぬ行列に遭遇した。狐のお面をかぶった白無垢姿の人(狐)が人力車に乗って・・・「狐の嫁入り」と書かれていた、どうやらこの狐の行列も花灯路のイベントのひとつらしい。

この行列は、秀吉とねね由来の高台寺から出て知恩院へ行って戻ってくるそうだ。昔から、この高台寺あたりには、無縁仏が多くて毎夜のように狐火が見られたことが、どうやら狐の嫁入り行列の由来らしいが、ほんとうにびっくりした。
偶然とは言え、その瞬間に出会えて、これはラッキーなことがあるかもしれないぞ。


ねねの道から石塀小路を歩いたが残念ながら小路も人が多くて、とても灯りが撮れる状況ではなくて歩くだけだった。


祇園八坂神社からは花灯路をしばらく離れて祇園花見小路へ、ご出勤中の舞妓さんの姿も見られたがこちらは二月に訪れた時のような人はいなくて静かな花街の夜を見せてくれた。
もしかして桜が開花しているかもしれないと桜並木が続く白川まで足を延ばしてみたら開花しているサクラもあったが大半はまだ開花前だった。
白川通りはサクラ開花を待つようにライトアップがまもなく始まる。



そのまま知恩院、青蓮院へ向かいひと歩き、こちらも大勢の人が来ておりとくに青蓮院では受付前が長蛇の列で庭園のライトアップを楽しみにしていたが諦めて再びや八坂神社まで戻り、知り合いから聞いていた四条大橋近くのロシア料理店に入った。

(知恩院山門)

ここは加藤登紀子さんおなじみの店らしく(亡くなったご主人が京都の人だった)店内には加藤さんの曲も流れ、書籍やCDも売られ、加藤さんのイベントも紹介されていた。
夜の鴨川が眼下に見えるテーブルでおいしいビールにロシア料理をいただいたあと、いつの間にか降ってきた雨の中を映るネオンの高瀬川をカサさして散策しながら五条通りまで歩き、そこからバスで京都駅へ出て戻ってきた。


早春の京都東山の有名寺院を結ぶ行燈の灯りをたどったリフレッシュウォーキングはそれなりに楽しむことができた。
この日は、パソコンは一切さわらないことにしてみたが、これからもNO、PCデーは取り入れていこうと思う。

捨てる!捨てない!でも捨てよう!

2010-03-19 23:03:08 | ひとりごと
先日の続き・・・

70歳の誕生日まであと25日

少しでもすっきりして迎えたい

見えるところからと仕事場の整理

から始めたが広げてみると何から

どうしてよいのやら・・・

この資料は?

この切り抜きは?

この原稿は?

とてもすすまない


捨てようか?

捨てないでおこうか?

そんな場合は

えいっ!

思い切ってすてよう!

ということにした


日経新聞にノンフィクション作家の

久田 恵さんが

「捨てられない資料」というテーマで

記事を書いていた

部屋をなんとか片付けようとしては

挫折を続けているという


うんうんよくわかる

まったく一緒や

ため込んだものを見ていると

賞味期限が切れたものが多い

1年もたつと半分くらい

3年もたつと9割は古いだろう

それを後生大事にとっていても

無駄というもの


ということで今日は

書類、資料等の紙だけを大型の紙袋

3個に詰め込むだけさよならした

でも全部整理するには

序の口だ


ためることは簡単

(お金だけは別やけど)

捨てることは難しいなあ


挫折してしまわないように

70までになんとかしよう。

ピーター・F・ドラッガー。

2010-03-18 20:36:53 | 本・読書・音楽
来週開催するシリーズ最終の勉強会が迫った
使用する資料を事務局に提出するために終日
過去のものを少し修正・追加してデータを
メールで送っておいた

終了には推薦する図書を紹介することにして
いるのでその本選びもひとつの楽しみ!

今年はP.F.ドラッガーの著書の中から選ぶこと
にした

昨夜のNHKクローズアップ現代でドラッガー
の本が最近よく読まれていることについて翻訳
を続けてきた上田惇生さんやコピーライターの
糸井重里さんが登場していた

ドラッガーといえば、経営者や少し古い年代の
ビジネスマンなら知らない人はいないくらい
多くの影響を与えてきた経営の神様的な人物

数年前に亡くなり、このブログでも取り上げた
ことがあるくらい自分にとっても多くのことを
学んだ忘れられない人だ

ところが最近のドラッガーを読んでいる人とは
ビジネスマンや経営にかかわる人だけではなく
商店主や女性など、組織に縁のない人まで広く
読んでいるらしい

実例として幾人か紹介されていたが"なるほど"
と感心するほど理解して読んでいるのに驚いた

翻訳されたものはどこか伝わりにくいものだが
今ドラッガーが静かなブームになりビジネスを
離れたところまで広がっているのは「今も将来」
も不透明な時代を生きていく上でドラッガーの
思いや哲学が心に響くからだろう

自分がドラッガーと出会ったのは昭和40年代
その頃に読んだ古い本は自宅の書棚にある

仕事場にある書棚からここ数年の間に読んだ本
を引っ張り出してみたらこんなものだった

来週、どれを推薦するか自宅の書棚にあるもの
からも比較検討して読んでもらおうと思う。

東海道五十三次(3月13日)戸塚→保土ヶ谷→神奈川

2010-03-17 20:52:01 | 東海道五十三次
(3月13日の記録)

東海道五十三次ひとり歩きシリーズ、3年計画で京都三条大橋をスタートしてから2年11ケ月、今日が28日目、明日が29日目、4月のゴールを前にコースは神奈川県からいよいよ東京都へ移動していく。気候もよくなってきたし、青春18きっぷを使って前泊して2日間を歩くことにした。

◎3月12日 -「由比→さった峠」(番外編)



◎3月13日 -「戸塚→保土ヶ谷→神奈川」(JR戸塚駅→JR鶴見駅)
◎3月14日 -「神奈川→川崎→品川」  (JR鶴見駅→JR品川駅)

[3月13日(土)-「戸塚→保土ヶ谷→神奈川」]
午前8時40分、前泊した藤沢駅前のホテルを出発し電車で戸塚へ移動。前回のゴール地点の戸塚バスセンター前へ。戸塚本陣まで少し逆戻りして気分を高め「いざ、出陣!」
天気はよし、見上げる空は真っ青、お天気をチェックしてこの日をスタートにしたのが当たって最高の日和になった。これならいい歩きができる!

まず清源院へ寄る、徳川家康の死後、側室であった於万(おまん)の方が尼となって入った浄土宗のお寺で芭蕉の句碑があった。


東海道線の踏切を渡り、お寺にはおよそ似つかわしくない本堂がモダンな石造りの浄土真宗善了寺へも寄ってみた。街道を歩く楽しみの一つはお寺や神社へ立ち寄ること、もちろん旅の安全祈願もあるが、なによりも時が止まったような静粛さとくつろぎが乾いた心に潤いを与えてくれるからかもしれない、気持ちが落ち着くのだ。

1号線にそってすすむとやがて柏川にかかる吉田大橋へ、広重の絵に描かれた橋だ。
さらにすすむと道路わきに江戸から10番目の戸塚一里塚の説明板が立てられていたが何の跡も残っていなかった。
少し行くと戸塚宿の江戸側の出入り口だった戸塚江戸見付跡につく、今日のコースではここで戸塚宿を出て保土ヶ谷宿に向かうことになる。


五太夫橋を渡ると左にブリジストン横浜工場前の前に出た、そこから右の歴史の小径へ入り迂回するようにしばらくすすむとまた1号線に戻り、この区間で何度も迷って人に尋ねたが聞き方が悪かったのか、15分ほど余計なところまで行ってしまった。
ゆるやかな不動坂をすすみ、増田家のおおきなモチノキの下を通り左にポーラ、山崎パン横浜工場前を通って赤関橋交差点に出た。

赤間橋を渡り左の平戸永谷川べりにあった標識の地図と手持ちの地図とが違っていたが、正式な地元の標識に沿って平戸永谷川にそってすすみ花壇の手入れをしていたおばさんと話し込んでしまった。その人に聞く赤関橋を渡ると少し進んで柏尾川へ行くのが正しいと教えられた。あわてて交差点まで戻って仕切り直しとしたが、ここでも25分ほどロスタイム、もっともおしゃべり時間が半分くらいあったな。
桜のつぼみがほころびかけた柏尾川の桜並木から住宅街に入りゆるやかな曲がり道をすすんで行くとバイパスの下に出たのでここで最初の休憩にした。


携帯を見ると2通のメールとブログにも応援メッセージが入っていた。一人で歩いているつもりなのに、こうして気にしてくれている人の気持ちがうれしい。遠く離れた知らない土地を歩いている時のメール・メッセージはとても元気をもらう。さらにすすむときつい上り坂が続く、ここが品濃坂らしい。


このあたりから風が一層強くなり、環状2号線にかかる品濃坂歩道橋に出た時は、とても帽子をかぶってはおられないほどの強風が吹き荒れていた。曲がりくねった果樹園の中をすすんでいくと静かでこざっぱりとした住宅街に入った。

前方にこんもりとして木立が見えてきたので急いで近づくと品濃一里塚があった。
江戸から9番目のこの一里塚は神奈川県に完全な形で残っている唯一の一里塚だそうな。向かいから若い男性が一人、後ろから年配の男性二人とここで合流したが、さっさと行ってしまった。


ここから緩やかな下りを行くと竹林の陰に古い道祖神がたたずんでいたので
お参りして無事を祈った。こうして気がつかないところで自分の無事を手を合わせて祈ってくれていることを忘れてはいけない。

やがて三叉路に出ると正面に植木地蔵尊が見えてきた、ここが武蔵の国と相模の国境だったところ、かって戸塚宿と保土ヶ谷宿の中間、植木立場として茶店が並び旅人の休憩所としてにぎわっていたところ、ここから富士山や江戸湾が見えた景勝地だったらしい。この地蔵尊の到着予定時間を10時30分と設定していたが11時5分になっていた、迷った分が遅れの原因で歩くペースは間違っていないと思った。



植木小、中学校前から左の道へ入っていく、ここから地名が権太坂になる、箱根駅伝の花の二区、難関区間でおなじみのあの権太坂、ただし駅伝の権太坂は別にあるらしい。上り下りしながら約17分で権太坂の入口へ下りた。江戸側から京を目指すとここはかなりの上り坂だ。



ここでしっかり地図を確認すればよかったのに坂の入口にいた子供連れの若い男性に軽い気持ちで確認したら東海道は右という、すすんでいくが様子がおかしい、しかし、聞いた男性がずっとこちらを見ているので戻るわけにはいかない、姿が見えなくなるのを待っていると、ちょうど歩いてきたサラリーマン風の40歳くらいの男性に尋ねたらカバンから地図を取り出して、こちらが持っている資料と確認しながら丁寧に教えて切れた。やはり右ではなく左だった、とても親切な男性で「お気をつけて!」と声を残して行った。

しばらくすすむと保土ヶ谷二丁目交差点で1号線と合流、このあたりでも強風が吹き荒れてしばし建物の陰に身を寄せてしまったほど、メガネをしているのに目に砂が入ってこまった。1号線と今井川の間の整備された遊歩道をすすむと一里塚跡と上方見付跡の碑がたっていた。このあたりが保土ヶ谷宿の京側の出入り口だったところ。


今井川の向かいにある地元では「お仙人様」といわれている外川神社へお参りした。1号線をそのまますすむと右側に古い建物が見えてきた。旅籠風の趣のある脇本陣跡(大金子屋)、続いて当時の門がそのまま残っている本陣跡だ。このあたりが保土ヶ谷宿の中心だったのだろう。



[保土ヶ谷宿]とは、江戸を出た旅人が最初に迎える難所が権太坂で、その坂を越えるために多くの旅人は保土ヶ谷宿で休息し、坂を越えて行ったそうな。本陣が1軒、脇本陣が3軒、旅籠は70軒もあったらしい。

本陣跡前を1号線から左の商店街へ入りすすんで行くと右角にめずらしい四つの道標が並んでいた。「金沢横町道標」と呼ばれているらしくて、金沢・浦賀往還の出入り口だったところだそうだ。金沢八景、杉田梅林など景勝地と富岡など信仰の地が多くあったので東海道と分岐する要所だったところ。


狭い商店街の行きあたりは相模鉄道の天王町駅前の公園だった。ここで近くのスーパーで弁当を買ってきて木陰で昼食 温度が上がって木陰に入らないと暑い。ここまでも予定時間を40分ほど遅れたが、暑いから無理して急ぐことはやめることにした。天気がいいので5時までなら十分に明るい道を歩くことができる、休憩25分。昨日、さった峠の無人スタンドで買った5個100円のミカンがおいしかった。こいつが背中の重りになっていた。

駅前からまた商店街をすすむ、左の橘樹神社に寄り、保土ヶ谷宿の江戸川の出入り口があった江戸見付跡を探すがみつからない。このあたりを2往復して立て看板式の説明板を発見、宝物を見付けた心境になった。続く松原商店街の雑踏のような人出のにぎわいには驚いた、頑張っている商店街もあるのだ。

しばらく歩いていると?? やや? 正面からこちらを見ている人がいる??
あっ!箱根の山賊さんだ! 急いで近づいて再会の握手。
去年の9月に箱根の山下りで会ってから半年ぶり、なつかしい、ほっとする再会だった。今日は、戸塚から待ち伏せしながら自分を追って歩いてきたそうだが、実は戸塚を自分より早くスタートしていたようで追いつきようがない、半ばあきらめて戻ってくる途中でうまく遭遇したというわけ。

ここからゴールまで山賊さんと即席の弥次さん、喜多さんになる。
静かな住宅街の道を行く、高速の下を通り緩やかな上り道が続く、車以外は人影もほとんどない道を上台橋まで来た
かってこの上台橋あたりは潮騒の聞こえる海辺の道だったらしい。
少し行くと神奈川台関門跡の碑、袖ヶ浦見晴所碑の前に着いた。
ここから右側は崖下で神奈川の港が見える景勝の地であったところで、開港後、外国人が殺傷される事件が多発したために外国政府の要請で幕府が安政六年に警備体制強化のために関門や番所を設けたその一つ。


[神奈川宿]日本橋を出て3番目の宿場町です。現在の台町あたりは、かって神奈川湊を見おろす景勝の地でした。この神奈川が一躍有名になったのは、安政元年(1854)の神奈川条約締結の舞台になってからです。その4年後に結ばれた日米通商条約では神奈川が開港場と決められていましたが、後に横浜に変更されました。(説明板より)

道路右側(当時は崖上になっていたのだろう)で料亭田中屋が営業しているが、この田中屋は神奈川宿がにぎわっていた当時から続いている唯一の料亭で、文久3年(1863)に創業した。
この田中屋で、坂本竜馬の妻「おりょう」が働き始めたのが明治7年、勝海舟の紹介で働いていたという。英語が話せ、月琴も弾くことができたので外国人の接待に重宝されたという。


大鋼金比羅神社・一里塚前を通過、まもなく横浜市内のビル群が見える高台に出てきた、山賊さんに聞くと横浜駅周辺だとのこと。少し歩くと繁華街に行かれるのだろう。
青木橋の信号からすぐ左の階段を上っていくとかって開港当時にアメリカ領事館があった本覚寺へ。高台にあり眺めがすばらしい、きっと開港当時は、ここからすぐ近くに港が見えたに違いない。


JR線を越えて坂道を下っていくと左側にお寺が続く、最初に訪れたのが開港当時のフランス公使館のあった甚行寺。次に訪れたのがイギリス士官宿舎に当てられていた普門寺へ。
続いて源頼朝が安房国一宮の安房神社の神をこの地に招いたのが始まりという洲崎神社へ。滝の橋の両側に本陣があったらしいが今は何もない。

開港当初、アメリカ人宣教師で医者だったヘボン博士が診療所を開いていた宗興寺へも寄ってみた、ヘボン博士は「ヘボン式ローマ字」でおなじみの人だが、こんなところでヘボン式のルーツを知るとは思いもしなかった。


続いて、そのヘボン博士が宿舎にしていた成仏寺を訪ねた。そのすぐ向かいの神奈川地区センター前に復元された高札場の大きなものがあった。


さらにオランダ領事館跡のある長延寺・見付跡も尋ねた、ここが神奈川宿の江戸への出入り口だったところ。いまは公園になっていてここで休憩。



国道15号線に合流して滝野川を渡り、そのまま車の通行量の激しい15号線にそってまっすぐにすすむ、横浜の繁華街は過ぎたらしくて落ち着いた街並みが道路の両側に続く
近くを並行して走っている京急の仲木戸駅、神奈川新町駅、子安駅、新子安駅前を通過、実は今夜泊まるホテルはこの新子安駅前、ホテルを確認してさらにすすむ。

めざすは、生麦事件のあった現場、やがて左手にキリンビール横浜工場の大きな建物が見えてきた。
15号線からキリンビール工場に通ずる道を入って行くと右手に生麦事件の碑が立っていた。1862(文久2)年、薩摩藩の島津久光の行列を乗馬したまま横切ったイギリス人を薩摩藩の藩士が殺傷、その犠牲になったイギリス人の死を悼んだ黒川荘三が私費で明治16年に建てたものらしい。この事件をきっかけにして翌年、薩英戦争が起きたのだから決して小さな事件ではなかった。ずいぶん古い碑、なんとかきれいにできないものか・・・・



ここから今日のゴールのJR鶴見駅まで3キロ地点、このあたりから道の両側を独特の海辺近くの佇まいが続く。「生麦」は地名のことで、ここを生麦街道というらしい。
その生麦の生麦魚河岸通りをどんどん歩き続ける、朝市はにぎわうらしいが夕方なのでお店はすべてしまって人影もあまりなかった。
歩き続けて、JR鶴見線を横切り京急鶴見駅高架下をくぐるとゴールのJR鶴見駅前に着いた。


JRで新子安駅へ、ホテルに入ってしばらくゆっくりして明日の準備にかかった。
ここでも携帯に励ましのメールが入っていた、ありがたい。
約44,000歩 約30キロ、正式にはもっと短い区間だが迷ったり寄り道した結果でそうなったものと思う。

(神奈川→川崎→品川の記録は後日ブログアップいたします)

ぼーっとしていると捨てられる。

2010-03-16 22:29:00 | ひとりごと
昨夜は遅くまで強い雨がふっていたが

今日はいい天気になった

桜の開花も早くなるかもしれない


過去の申告書類を整理して

少し仕事場の整理をして

捨てる本や書類を紙袋につめたら

4個になった


去年、まだ必要なことがあるかもしれないと

保存しておいた書類や資料は

結局、何の出番もなかった


もしかしたら要るかもしれないと

思うものはきっぱりと捨てよう

捨てる勇気が整理上手


ぼやぼやしていると

自分が捨てられてしまうぞ

おーこわい。


(今日のドクターイエロー)

確定申告。

2010-03-15 23:10:17 | ひとりごと
午後から税務署へ確定申告に行った

最終日だから混雑しているかと思ったら

例年より少なかったかなあ


それほど待つこともなく提出だけは完了

毎年のことなのにぎりぎりになって

あわてて提出にかけこむ


知り合いは今日も税理士さんのところへ

最後の相談に行くとメールが入った

金額にかかわらず申告は気が重い


家内の医療費関連の領収書が

異常に多いのにびっくりした

ちょうど160枚もあった


支払い金額も去年よりかなり多い

ウォーキングを楽しんでいるのはいいが

相棒は年々痛んでいる


東海道五十三次歩きに

いい気になっていてはいけない

複雑な心境だ。

東海道五十三次、品川に着いた!

2010-03-14 17:40:32 | 東海道五十三次
予定通り
無事に
品川に着いた!

天気もよく
足の疲れも
さほどなく

のんびりと
楽しく歩いた
足をほめてやりたい

息子と待ち会わせ
久しぶり会って
大阪へ帰る

三日間
コメントや
メールで
励ましてもらった

ありがたかった
お礼を申し上げます

(品川駅で)