昨日より今日を!今日より明日を! 夢と希望がある限り命輝かせて生きていこう!

「夢を描こう!」「 夢を語ろう!」 「夢を形にしよう!」 楽しもう76歳を!

新東海道53次を歩く(四日市→桑名)

2016-05-17 22:15:09 | 東海道五十三次

★東海道53次 爺婆の珍道中

 

昨年の4月、京都三条大橋から東京日本橋をめざして東海道53次

「孫姫を訪ねて爺婆の東海道53次を行く」を夫婦でスタートして

1年あまり、15日、やっと三重県の旧桑名宿まで完歩しました。

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5年かけ東京オリンピックの2020年、80歳の誕生日に孫が待つ

日本橋にゴールするのを目標にしておりますが

なにしろ二人合わせてただいま149歳の高齢者コンビですから

日本橋に着くのが早いか

命が尽きるのが早いのか

明日のことはわからないぎりぎりの年齢です。

よくぞ、桑名まで!と夜はビールで乾杯しました。

 

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今回は京都を出て9回目で旧四日市宿から旧桑名宿を目指して9時半、

スタートして快晴の空の下をすすみます。

四日市にはかっての宿場町の面影を残すものはほとんどありません。

市街地を外れると右手、海側にコンビナートの建物が目立ちます。

電柱には「海抜×メートル」の表示が目立ちますが

ほとんどが1.5~3メートルの範囲内で津波なら町中が全滅?

これは桑名に移動してもさほど変わりありませんでした。

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街道歩き(もちろん東海道も)の楽しみはかって多くの旅人や大名行列が

歩いて刻まれた足跡をひとつひとつ訪ねて行くのが最高の楽しみです。

何が彫り刻まれたのやら判別できない道端の石からは長き歴史を感じ

旅人を見守った顔もわからないお地蔵さんには一礼をしてすすみます。

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四日市は軒先に<ここは東海道・四日市>と書かれた小さな木の表示板が

道案内をしてくれて大助かり、これがないと迷ってもわかりません。

 

暑いので水補給をしながらさして変化のない道をすすんでいくと運よく

食堂があったので日陰とトイレと昼食を兼ねて40分を過ごしました。

 

ちょうど正午過ぎ旧西富田村で高い石の柱の「富田一里塚の碑」に到着

さらに炎天下をすすみ朝明川の手前の小さな公園でしばらく休憩しました。

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朝明橋を渡ると街道を行き来する人の街灯となった大きな常夜灯があります。

東海道には結構、大きな常夜灯がいまでも残っていますが興味がなければ

意外と気がつかないかもしれません。

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かっては松並木が続いたという道もいまは桜並木になって続いています。

それもて日陰になって暑く助かりました

相棒は頭からすっぽり日焼け対策、うしろから相棒の足取りを見ながら

すすみますがこの婆さま、意外とよく歩くので助かりました。

軽量級で足腰へ負担が少ないからか73歳、歩き歴5~6年でよく歩きます。

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三重郡朝日町は古い民家が続きラインの引かれた車道横を歩くのでそれは怖い!

旧桑名藩の菩提寺だった浄土真宗の「浄泉坊」は山門に三つ葉葵の紋が入り

徳川家との深いつながりがあったようで参勤交代の大名も駕籠から降りて一礼を

して通ったとか、ちょっと寄らせてもらった。

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近鉄朝日駅、ここで9年前の11月に写真を撮ったので今回も同じ場所で撮って

みましたが、あー、やっぱりそれなりに歳をとっています。

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(↑2007.11.23)

桑名市に入るとここはかっての宿場町の雰囲気と史跡がかなり多く残っていて

石柱を頼りにひとつひとつ訪ね歩くのは意外と難しくて時間がかかりました。

城下町であったためか迷路のように曲がりくねった道になっているんです。

ゴールの七里の渡し跡に着いたのが午後4時20分

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かって東海道を行き来する人は、ここ七里の渡しと名古屋の宮の渡し間を

海路を使っていてそうでその距離が七里あったからそう呼んだそうです。

四日市をスタートして7時間近くもかかりました。

日陰のない暑い街道は熱中症の危険との闘いでした。

本日の歩数は約36,000歩 。

これで京都、滋賀、三重を歩いて次回から愛知県の東海道へ移動します。

 


新東海道五十三次(庄野→四日市)

2016-04-30 16:37:36 | 東海道五十三次

(今日の一枚・東海道を歩く-庄野→石薬師→四日市)

一泊二日で東海道53次の三重県関から四日市まで歩く二日目の
4月14日は前日の雨が上がり天気は回復してきた
25度の夏日になるというので雨も嫌だが暑いのはもっと嫌なんだ

昨日のゴール、JR加佐登駅から9時半にスタートした
しばらく街道とはかけはなれた田圃道をのんびりとすすむ
石薬師の一里塚を経ると一本道のかるた道にさしかかる

ここは歌人の佐々木信綱の出身地で信綱の句をいろはかるたにして
街道に立てかけてあるのを探して歩く・・・9年前もやった
今日は相棒が句碑さがし、ランさんは撮影係

途中で石薬師寺に立ちよる
この宿場はこのお寺を中心に栄えたらしい
童の地蔵さんが旅の安全を祈願してくれていた

石薬師から四日市へ向かう国道1号線にそってかなりの距離を行く
騒音と暑い日差しが厳しいが休むところはない
やっと探したカフェで昼食、店の夫婦と話し込んで50分もいた

前回苦労して探した采女の一里塚からさらにすすむと四日市の
コンビナートが見えてきた
相棒がさかんに写真を撮っていた

昨日の寒さから一変して午後からのコースは暑さとの闘い
さすがに相棒も堪えているらしくてお互いに口数が少なくなる
あーアイスクリームが食べたい!これは一致!

そのアイスを確保したのは四日市についてコンビニだった
おそいよ、コンビニもトイレもないんだからね

街道に残る一本松はいまも健在だった
まるで東北の震災の一本松のよう
四日市の街道には「海抜○○メートル」の標識が多い
2~3メートル、これでは津波ではひとたまりもないな、と
東南海地震の話しをしながら歩いた
その夜、まさか熊本で・・・そんなことは思いもしなかった

四日市のゴール標識についたのが午後3時40分でほぼ予定通り
一度苦労して歩いた道だから不思議なくらいよく覚えていた
歩数 約28,200歩
二日間合計 63,000歩  
相棒は初めての二日間ウオーク、最後までよく歩いた

こうして二日間の「じーばーの東海道歩き」は無事に終わった
合わせて149歳、こんな歳で、東海道を歩けるのだから面白い
はたしてお江戸日本橋まで完歩できるかどうかはわからないが
1年前に京都三条大橋をスタートして5年で80歳の誕生日に
お江戸日本橋まで歩くと目標を決めて1年がたった
これから4年を歩き続ける
いま1歳の孫娘が5歳になって迎えてくれる
それまで4年、たっぷりと夢を見させてもらえる
ありがたい。
・・・熊本県、および周辺地域の皆様にはこのたびの地震災害の
お見舞いを申し上げます。また、お亡くなりになった方々には
謹んでお悔やみ申し上げます。


新東海道五十三次(関→庄野)

2016-04-30 16:35:48 | 東海道五十三次

(今日の一枚・東海道を歩く 関→亀山→庄野)

ようやく暖かくなってきたので11月から休んでいた
「孫姫を訪ねて爺婆が東海道53次を行く」を再開した

再開日は4月13日、ランさんの76歳の誕生日
数えでは77歳で「喜寿」を迎えたということだ
その記念の日は東海道を歩いて旅先の宿場で一泊して
夫婦水入らずで祝おうと年の初めから目標に入れていた

早朝6時40分に自宅を出て前回ゴールの関西線の関へ
3時間近い長旅後、関宿を9時40分スタート
今日は亀山宿を通りゴールは庄野宿と決めていた

雨の関は人影もなく撮影前のセットと錯覚するくらい
亀山までの鈴鹿川沿いに続く桜並木は散ったばかり
東海道の1里ごと目印の一里塚があるが雨の中でも
野村の一里塚は遠くから目立って風格さえ感じた
このような樹木が残る一里塚は珍しくてその後をたどる
一里塚探しも街道歩きの楽しみの一つだ

城下町だった亀山宿は街道の雰囲気がいたるところに残り
城下町独特の複雑な地形は迷うと大変で慎重に歩いた
亀山白の天守閣はないが櫓が残っている

小雨と強い雨が繰り返し傘を閉じることが少なくて
足元はビショぬれ、靴の中は水が入って重くなった

あまりに寒いのでラーメン屋に飛び込んだ
初めて聞いた亀山ラーメン、有名なんだとか
亀山といえばローソク、会社の前を通り庄野宿をめざした

相棒のことが気になるので“足は大丈夫か”と聞くと
“なんともない”と疲れた様子もなかった
後ろから歩きをみてもきれいに歩いていたので一安心
あの年であれだけ歩けたら大丈夫、問題は明日だ

庄野に入ってとうとう神社で雨宿り兼休憩
持参の即席コーヒーで寒さしのぎをした
疲れると歩きの友、好物の羊羹がおいしい
実はこの神社、前回も雨宿りしたところで不思議な縁だ

当時の庄野は小さな宿場だったらしい
ここを有名にしたのは東海道53次の宿場を絵にした
歌川広重の「庄野の白雨」
この絵はたいていの人がみたことがあるはずだ

雨の中、ゴールのJR加佐登駅は午後4時半
歩数が約34,800歩
雨の中をよく歩いた
しかし、かなりエネルギーを消耗した

電車で亀山に戻りホテルで一泊
相棒と雨の街に出てレストランで「喜寿祝」の食事をした
夫婦で東海道を歩くことなど考えたことがなかったのに
こうして元気に歩くことができるのだからありがたい

古希を迎えた時も正直なところ「喜寿」は身近ではなく
意識したのは10年後の80歳をどう迎えるかだった
健康な体づくりに尽きると「体革命」と勝手に称して
真剣に強化策を講じてきたことがここまでは成功したと思う


新企画「再び東海道を歩く」に寄せて。

2015-04-27 19:05:17 | 東海道五十三次

一昨日の「再び東海道へ」のブログに数人の方から

ありがたい励ましのメールをいただいた

 

5年前に日本橋まで完歩した時には二度と歩くことなど

100%思っていなかったのに

なぜ?また歩く気になったの?

 

そもそもこの計画はどうして生まれたのか? 

それは4月13日の75歳の誕生会でこれから残された人生を

どんな生き方をするか!

その夢を発表することにしていた

そのために先月の後半から75歳以降のめざす夢を地図に

作成していた時に再び東海道を歩くことが頭に浮かんだ

 

それには孫姫の存在が大きくかかわっていたんだ

東京にいる孫に会いに東海道を歩いて行こう

孫がいなければこんなことを考えることはあり得なかった 

(5年前は「息子訪ねて・・・」で完歩したので)

東京でまだ0歳の孫姫に爺が元気なうちに会えるのは

大阪に住んでいる限り回数は少ないだろう

爺があと10年生きられたとしても85歳

その時に孫は10歳だ

 

口で何かを伝えたり元気な姿を見せても記憶に残すには

限界があるだろうと思った

それならインパクトの強い「伝説の爺」を残したい!

つまり「伝説の爺」になってやろう

 

18日に息子の招きで上京して金婚式を祝ってくれた席で

息子夫婦にその話をして日本橋へ行きたいと言ったら

お嫁さんと孫姫までが日本橋まで一緒に行ってくれた

再び孫姫が爺を東海道の舞台に立たせてくれるんだ

もう引返されないと覚悟を決めた

 

東海道を少しずつ歩いて完歩するとしても体力的には

5年後の80歳がせいいっぱいだろうと思う

5年の期間があればぼちぼちでも歩けるかもしれない

その年は2020年東京オリンピックの年で孫娘は5歳

ゴールのことは少しくらい記憶に残るかもしれない

少なくとも写真は撮ってメッセージとして残せる

 

爺が大阪から自分を訪ねて東京まで歩いてきたことは

爺がいなくなっても親からも聞いて育ってくれるだろう

自分のためにこんなことをしてくれた「伝説の爺」として

大事にしてくれたらそれでいいと思って歩くつもりだ

いわば遺書?遺歩、プレゼントだ!

 

正直なところ気は重い

前回に歩いた時のことを思い出すと自信より不安だらけ

歩ける確信はない

それを思うとしんどくなる

だから先のことは考えない

完歩も考えない

でも、80歳の誕生日には途中をカットしても日本橋に

たって孫姫にだけは会いたいと思っている

それでもいいんだ

  

これも人生

孫姫が与えてくれた爺へのプレゼントと思えば有難い

決めた以上は振り向かない

 

一番の不安は歩力を含めた体力と健康のこと

完歩には相当のエネルギーを消費し体力も消耗する

この半年の腰痛のせいもあるが体力の低下が著しい

先日の三条大橋から大津まで12キロ余りがいいとこ

もう一度、真剣に体力づくりをして歩ける体にしたい

スピードは不可能だから持久力で頑張る以外はない

 

また当時苦労して集めた資料の大部分はすでにない

当時の記憶はせいぜい20%もあればいいとこ

道の大半は覚えていない思うのでこれも心配なこと

それを乗り越える根気がどこまで続くかだ

 

いずれにしても人生の終盤に挑む爺の冒険は命がけ、

そう思って歩こうと決めている

この新企画はこんなところから始まった。


再び東海道へ。

2015-04-25 23:10:07 | 東海道五十三次

午前11時すぎ鴨川にかかる京都・三条大橋のたもとにある
弥次さん、喜多さんの像の前に立った、
5年をかけて旧東海道五十三次を歩き2020年4月13日の
80歳の誕生日に東京・日本橋にゴールをしたい


快晴、清い鴨川の流れも遠くかすむ比叡の山並みも力にして
孫姫の待つ東京へ11時半、いよいよスタート!

三条通りを直進し琵琶湖疎水に立ち寄り日の岡峠を越した
山科から大津市に入り逢坂山関所のあった逢坂山峠も越えた


大津宿まで歩いた距離は約12.8キロ


JR大津駅を経由して戻ってきた

後半はやはり腰痛が出てきてきつかった

8年前の初回の距離の3分の2だったがこれで十分
あの時とは体力が違うのでこんなもんだ
歩くスピードがなくなったので距離は歩けないが
腰さえよくなれば難関の箱根峠も超えられるかもしれない

それにしても三条大橋から日本橋まで旧東海道五十三次を
二度も歩くとは思っていなかったので我ながら驚いている

人生終盤は足腰が勝負、寝たきりや介護を受けるのは最悪
最後まで自分の足でちゃんと歩けるように相棒も真剣だ

後期高齢者になって最初のイベントは5年の長きに渡るもの
この活動がとくに高齢者の励ましになればうれしいと思う

これからは健康を考えて歩きたい人(初心者)のために

サポートをしたい。


感動のあの日から3年。

2012-12-21 23:04:59 | 東海道五十三次
今日は12月21日、去年は何をしていたかなあ・・
そして2年前の今日は?

3年前は・・と思いだしてみると、あの日、今ころは
小田原駅前のホテルに泊まっていた

次の日に歩く旧東海道五十三次の旧小田原宿から
平塚宿までのコースの確認と1時間ごとに到着目標
とする場所を地図に書き込んでいた頃だ

なつかしい
ほんとうになつかしい
楽しかった感動が蘇ってくる!

3年前の今日は青春18きっぷを使い新大阪から
神奈川県の小田原まで各駅停車で行ったのだから
今思えばすごい!

http://www.human-dy.com/tokaido-26.21.12.21.html
(その日の記録)

おまけに富士山がみたくて東海道線の「由比駅」で
途中下車、さった峠に登って冠雪の富士山を見た

天気もよく暖かくて伊豆半島もきれいに見えた
あの感激が思い出されてブログにしてみた

旧東海道で富士山がもっともきれいに見える場所











東海道五十三次の全歩行記録
http://www.human-dy.com/tokaido-53.html

あの夏の日の思い出。

2012-07-29 10:31:51 | 東海道五十三次
今日も朝から暑い、熱中症の警報が出ている
予想最高気温が、大阪市と京都市では36度の猛烈な
暑さになるということだからこの命を守らないと!

これでは下手に動かぬことだがわが家は今日も改装後
の整理で暑いといって休んでいるわけにはいかない
自分の居場所を確保するためにも整理に帰宅してくる

昨日は全国で5人が熱中症で死亡、3人が意識不明の
重体、1500人超が救急車で搬送されたそうだから
この暑さ、高齢者には地獄への前触れみたいなもの

こんな時は高齢者組に入って睡眠と水分と食事の3S
をしっかりとるように心がけたい!

昨夜、夢の中で炎天下の旧東海道を道にまよって行け
ども行けども同じ場所に戻ってきてとうとう夜になり
無人の家の軒下で休んでいるところをおじいさんに声
をかけられたシーンで目が覚めた

そういえば4年前のこの時期に東海道五十三次の静岡
県新居町(新居宿)から浜松を経て磐田市(見附宿)まで
酷暑の中を二日間歩いたことを思い出した

さっそくHPの記録を見ると2008年7月27日と28日の
二日間で約50Kmも歩いていた

(7月27日)
http://www.human-dy.com/tokaido-14.20.07.27.html

新幹線を見ながら浜名湖を渡る


あの時の暑さ、苦しかったことはいまでもはっきりと
覚えていて熱中症にかからなかったことが不思議な
くらい無茶な歩きをしていた

(7月28日)
http://www.human-dy.com/tokaido-15.20.07.28.html



それも旧東海道で最も楽しみにしていたあの天竜川を
渡りたいという強い気持ちが歩かせたものだと思うが
その日が4年前のきのう28日だった



それだけ歩いて静岡県磐田駅から青春18切符を使い
新大阪まで約5時間かけて東海道線を乗り継いで無事
に戻ってきたのだからよくもまあとあきれるやら

あの時が68歳、いま72歳、もう一度歩けと言われたら
すぐその気になるほうだがあの条件ではやっぱり命が
あってこそ、自重するだろう


昨日、旧東海道鈴鹿越えを予定していたHさんも急遽
取りやめたと聞いてほっとした

この時期のアスファルトは下からの照り返しがきつく
上からの熱線をさえぎる帽子のひさしが下からの熱線
を止めて顔中が痛く感ずるほど苦しかったことを経験
した、Hさんにも伝えた

まだまだ大丈夫だと気力はあってもそれを上回る自然
の猛威には年齢を考えて謙虚にならないといけないと
最近は妙におとなしくしている

でも引っ込んでばかりいてはいけない
そのへんの調整をうまくやってこの猛暑を乗り切って
いきたい、その前に家の片づけで汗をかくことからだ

珍しく朝からブログを書いてみた
さあ、これから隠れ家から自宅へ日曜出勤だ!

旧東海道五十三次の歩きリレー!

2012-04-26 22:00:34 | 東海道五十三次
ひと月前にネット上で知り合ったHさんからメールがきた
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ランドセルさんの『息子を訪ねて500キロ』を拝見してから
わたしも挑戦してみたくなったのです。
http://www.human-dy.com/tokaido-53.html

ある理由から20年間、好きな酒を断つと誓いました。
2015年の夏が、その満期明けです。

ランドセルさんが、満面の笑みで立たれた日本橋で
待望の缶ビールを開けることを楽しみにしております。

5月から出発したいと思っています。
これから3年間はランドセルさんの「東海道ひとり歩き記録」に
ずっとお世話になります。・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
3年かけて2年前の70歳の誕生日に完歩したことを記録した
HPの 息子を訪ねて500キロ「東海道53次ひとり歩き」が
どうやらきっかけになったらしい



旧東海道53次を歩くことは、なにも特別なことではないが
Hさんは自分より2歳年上の74歳、2015年のゴールには
77歳で喜寿を迎える年齢になる

Hさんの歩力や歩き歴についてまったく知らないので判断する
ことはできないが、決して楽なことではないと思う
ウオーキングのことは聞いていないのでほんとうに驚いている

年齢から思うに、Hさんにとってこれからの人生ではもっとも
大きなチャレンジになるのかもしれない
それを自分の記録を見て思い立ったというのなら光栄なことだ

そのHさんの心意気をなんとしても実現させてあげたいと思う
自分にできる限りのサポートをさせていただきたいと返信した
5月から3年も一緒に歩き続ける気持ちで応援したい

そう思うと熱くなる
久しぶりにHPを開いて歩いた東海道を振り返ってみたら
また歩きたくなった、まだ、歩く自信はある!

ふとした出会いから、こんな繋がりに発展することがうれしい
Hさんには、楽しい人生の旅にしていただきたい
京都三条大橋で待っています!

思わぬプレゼント!

2010-05-19 15:55:44 | 東海道五十三次
先月の13日に東海道五十三次歩きで

お江戸日本橋にゴールした時に

出迎えてくれたひとり


Fさんから

あの時の写真をきれいに編集して

アルバムにしたものが送られてきた



小さなアルバムだが

一枚一枚に簡単なコメントがつけられ

あの日の感動がよみがえってきた


忙しいのに手間のかかることを

時間をかけて作ってくれていたことを

思うとなんとやさしいことか!


アルバムはもちろんうれしいが

その気持ちがもっとうれしい

二つのプレゼントをいただいた


特別な努力もいらない

何の能力も必要としない

旧東海道を歩いただけのことなのに


Fさんありがとう!

大事な宝物にします!

新しい旅立ちの日の記念です!


再び三条大橋から東海道五十三次へ・・・

2010-05-02 22:56:44 | 東海道五十三次
先月13日に東海道五十三次を
日本橋ゴールしたばかりだが
3年間の東海道歩き納めのためにも

無事に完歩ができたお礼?のためにも
3年前のスタートの日に歩いた
三条大橋から瀬田唐橋まで歩くことにした

三条大橋の西詰めにある
弥次さん、喜多さんの像の前で
そばにいた人にシャッターを押してもらって


快晴の三条大橋をスタート
加茂川の流れもはるか比叡の山も
穏やかに見送ってくれるかのよう思えた


今日はあれから3年と19日目
あの日歩いたコースを覚えているか
試してみるのも面白いと思った

いざ歩いて行くと3年のブランクなど
まったく感じられないくらいで
ついこの間歩いたような錯覚を覚えた

さわやかな春の風
行く手正面の東山連峰の緑
目に映る古都は春一色

しかし三条通にも新しい発見があった
坂本龍馬 お龍「結婚式場」跡の碑
ブームに乗ってか昨9年9月に建立されたもの


「当地は青蓮院の旧境内で、その塔頭金蔵寺跡です。
元治元年(1864)8月初旬、当地本堂で、坂本龍馬と
妻お龍(鞆)は「内祝言」、すなわち内々の結婚式を
しました・・・以下略。説明碑より


蹴上まで行くと浄水場の一般公開中で
大勢の人が訪れ早いつつじ見物をしていた
南禅寺の山門を眺めることもできた


日ノ岡峠をこえて山科へくだり
山科三条通りの東海道碑の前にいたら
通りかがりの青年がシャッター押しましょうか?

別に頼んだわけでもないが
せっかくの申し出を断ってはいけない
ありがとう!よろしく!

はい、ポーズ!
こんな優しい青年もいる
ほのぼのとした気持ちになった


前回と同じ山科十禅寺で昼食にした
日差しの強い道を歩いて日影はありがたい
しばらくベンチでのんびりと休憩をして



京都市山科から滋賀県大津市へ
1号線にそって日本橋からの距離表示がある
なつかしい、これを見て歩いたなあ・・・

487.8(キロ)・・ 487.7キロ
周り道、出入りの激しい旧東海道はもっとある
気が遠くなる思いがしたものだったが



月心寺


先日、それも日本橋ゴールで「0」になった
もう一度歩いてみるか?と自分に問うたら
もう、結構です!ともう一人が答えた

中間点の関所のあった逢坂山峠で休憩
3年前になかったトイレとベンチができていた
5人のウォーカーと東海道話で盛り上がった


東海道で一番景色の良かったところは?
”さった峠です”と答えたら
”そうですか、やっばり”と言ってきた


歳はいくつですか?
なぜか知らないが必ず年齢を聞かれる
同輩に見えるのだろう、気になるのかも

聞くなら自分の歳を言うのがマナーや(つぶやき)
それでも気持ちのいい会話が続いた
あのウォーカーさん、53次に興味があったみたい

蝉丸神社へ寄り大津宿跡を過ぎ
大津市の中心街を通り抜けて
前回ゆっくりできなかった義仲寺へ


義仲寺は、平家討伐の兵を挙げて都に入り帰りに
源頼朝軍に追われて近くの粟津の地で壮烈な最期
を遂げた木曽義仲(1154-1184)を弔うために
義仲の愛妾巴御前が、義仲の墓のそばに結んだ
草庵をはじめとしている



美しい景観を愛した松尾芭蕉(1644-94)の生前の
遺言によってここに墓が立てられている

  芭蕉の辞世の句

 「旅に病て夢は枯野をかけめぐる」

わが国俳諧第一聖地として多くの俳人の句碑が
立っており、境内全域が国の史跡に指定された
西日の差しこむ境内は一段と薄緑が鮮やかだった

木曽義仲の墓


芭蕉の墓


前回休憩した石坐神社に寄ってみると
明日から始まる五社祭りの豪華なお神輿が飾られて
代表の方が神社のいわれから祭りまで説明してくれた


ここまで3年前の記憶通りにすすんだが
続きの前回迷って苦労した膳所神社からまたまた
今日もてこずってしまった


そのあたりへ行くと不思議に記憶がぷつりと
消えて前回間違った場所へまた行ってしまい
軌道修正に手間取った

ここの東海道は複雑に右へ左へ曲がりくねって
ひとつ筋を入り間違えるとまるでわからない
又引っ返してはやりなおし

途中で休憩を取りすぎたこともあったが
予定より大幅におそくなって
前回ゴールの瀬田川にかかる瀬田唐橋についた


3年前より約1時間も長かったのは
二回目なのに意外だったが
まあのんびり歩いたことが原因だろう

ただ、それだけ体力、歩力が落ちていると
自覚したほうがいいと思った
約36.200歩、よく歩いた


瀬田川畔に腰をおろしてしばらくは
琵琶湖朝日レガッタ大会中の大学生の
ボートの練習風景を見て楽しんだ。

驚き!まだまだ4月13日が続く。

2010-04-17 23:35:19 | 東海道五十三次
4月13日にお江戸日本橋で

迎えてくれた垂れ幕に

思わぬメッセージが書き込まれていた


今日、よく見ていたら

なんとメンバー以外の人の

書き込みを発見!

しかも

ちゃんと名前が入っている

驚いた



 飛び入りで

 拝見しておりました

 何かをなし遂げるのは

 素敵なことですね!


と書かれている

親子なのか連名で

ほんとうに驚いた


たまたま日本橋に辿りついた

その瞬間の出迎えてくれた

仲良しの皆さんの姿に


たまたま通りすがった人まで

感動が伝わったのだろうか

たかが一歩一歩のことなのに。




まとめ・東海道五十三次、日本橋へゴール!

2010-04-15 23:52:14 | 東海道五十三次
(4月13日の記録)
とうとう東海道五十三次ひとり歩きシリーズの最終日を迎えた。2007年4月14日、3年計画で京都三条大橋をスタートする時、最終日は、70歳の誕生日2010年4月13日と宣言をして、HPにすべての予定と経過を公開し続けてきたが、ほぼ計画通りに順調に楽しく歩き続けることができた。

あれから3年、30日目は「品川」から「日本橋」まで8キロ。これまでは、ひとり歩きというタイトル通り、ひとり歩きに徹してきたが、今回はお二人が同歩を申し出てきたので一緒に歩くことにした。


日本橋では応援を続けてくれたまだ見ぬ応援コミュニティの皆さんが待ってくれている、ゴールは16時30分とお知らせしてあるので、到着時間を約束したプレッシャーもあるが、それより会ったことのない皆さんに会える楽しみを思うと、新大阪9時37分の新幹線のぞみが12時16分に品川に着くまでわくわくわどきどきが続いた。

12時30分、背中に鯉のぼりをたてて、待ち合わせ場所タクシー乗り場横でりょうさんとスズさんと合流。スズさんは、ずっと応援をしてもらってきた一番古い応援団員?昼食代わりのパンを買っていざ出陣!スタート。


15号線をすすむ。やっぱり一人で歩くのとは違ってなんとなく自分のほうにぎこちなさがあって、泉岳寺へ行くまでは足も戸惑っていた。

最初に訪れた泉岳寺は、慶長17年(1612)、江戸城近くで創建されたが、寛永の大火で焼失、浅野家他、五大名の協力で寛永18年(1641)に現在地に移されたらしい。浅野家との縁はこのときに始まった。曹洞宗・江戸三カ寺のひとつ。赤穂浪士・浅野長矩と大石良雄をはじめとする義士の墓で知られている。境内には浪士の墓の他、浅野内匠頭切腹の際にその血がかかったという血染めの梅と石、吉良上野介の首を洗ったという首洗いの井戸が残っていた。47義士の墓前には線香の火が絶えることはないという。ゆっくりする間もなく去って行くのは気が重たかったが仕方がない。




高輪2丁目を過ぎ高輪神社へ寄った、いつものように今日の交通安全を祈願。少しすすみ道路右側にあるという高輪木戸跡を探す、高輪の木戸は宝永18年(1710)に江戸の南の入口として道幅約6間の旧東海道の両側に石垣を築き、夜は閉めて通行止めして、治安の維持と交通規制を持っていたところらしい。いまでも立派な石垣の一部が残っている。


このあたりが日本橋から6キロ地点。13時40分、スタートして約1時間、かなりのスローペース。内心やばいかな?
三田歩道橋、高輪郵便局を過ぎ左手にある八幡神社へ寄ってみた。和銅2年(709)創建の古い歴史を持った神社だ。このあたりから三田という地名、もともと朝廷に献上する米を作っていたために御田と呼ばれたのが由来で風光明媚な台地だったらしい。


さらにすすむと札の辻交差点に出た。
地図は、スズさんに渡した、えらそうに次の見所は?と指示をする。地図には見所に印をつけているので見逃さないようにとお願いをした、付いてくるならそれくらいの仕事しろ!というわけ。

田町駅前の交差点からより道をして息子が6年間学んだ大学へよってみた、院の卒業式に来てから何年振りか・・・レンガ造りの建物がなつかしい、図書館前の福沢諭吉像を訪ねてみたかったが、時間的なことと、そこまで二人をひっぱりまわすことはできないのでパス。


通りから東京タワーが目の前に見えた、ああ東京タワー。青信号を待ってあの交通の激しい道路のど真ん中で東京タワー撮影、二人には来ないように言って・・・これ、ランドセル撮影術なり。素人?はやらないこと。


元の東海道に戻るのに三人でもわからなくなった。初めて地元の人に尋ねた、三菱自動車角の薩摩藩鄭跡がみつかってほっとした。三人が1つの地図に額をよせて、どうじゃらこうじゃら・・・なにしろ手持ちの地図は日本橋から書かれていて、こちらは逆を歩いている、これがむずかしい。京都からずっとそれに悩まされ続けて歩いてきた。14時38分。ゴールまで2時間弱、すこしきついかなあ・・・心配になってきた。

西郷・勝会見の碑と薩摩藩邸のきれいな碑が立っていた。江戸城無血開城を取り決めた勝・西郷会談の行われた薩摩藩邸、当時は屋敷のすぐ裏は海に面した砂浜で、薩摩から送られてくる米などがここから陸揚げされていたという。


三田を過ぎ芝へ、やがて金杉橋へついた、川に屋形舟がたくさん停泊していた、花見シーズン、毎日、ここは夜になると風流な宴が繰り広げられるのだろう・・・神野美伽の歌に金杉橋、屋形船のくだりがあるのを思い出した。


次は増上寺へ、大門の交差点から左へ入ると増上寺の大きな山門が見えてきた。高校生の時、東京の伯母に連れられてきて以来50年余りになる、まったく記憶にない。
明徳4年(1393)、聖しょう上人によって開基、江戸幕府成立以降は、徳川家康の手厚い保護があり、徳川家の菩提寺として選ばれ、2代秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂の6人の将軍の墓がある。


ご朱印をもらって東京タワーを背景にデジカメをかまえたら・・・・おっ、おっ!だれ?
目の前にマスクをして顔を隠した怪しい男がたちはだかった!あの人だ!また、やられた、箱根で待ち伏せされて以来、横浜でも待ち伏せに遭った山賊さんだ!



大門交差点に戻ると15時36分。残り時間は54分、距離は3.5キロ。普通に歩けば問題ないが、まだ見どころを何か所も残しているのできついかも。浜松町を過ぎ新橋5丁目、新橋駅手前、ごちゃごちゃして、漂うにおいが鼻をつく、こんな空気の悪いところで・・・JRのガードをくぐって表通りへ出た。ここでゴールまで2.5キロ。
15時57分。やばいなあ・・・。もう、日本橋で待ってくれているのだろう。
高速道路の下にあるという新橋の親柱さがし、三人で必死で探す、気の毒に鯉のぼりを背中にたてた変なおじさんと一緒では、りょうさんもスズさんも大勢の人からなんと思われるやら。親柱に銀座の柳碑を発見した。あたりは外人観光客がバス待ちして人があふれていた。ひどい悪臭がただよっていた。


このあたりから天下の銀座か、道路の色が違う、柳色なんだろうか。スズさんがゴールのメンバーに携帯で刻々と連絡をしてくれる。もう、みんな揃っているらしい。
ピッチをあげる、急げ急げ、しかし、見所は見逃すな!と言い聞かせて銀座の人波の中を松坂屋、銀座4丁目は16時9分になった。1.6キロ地点。うーん、時間がない!


4丁目交差点、三越、松屋、写真で見なれた景色もほっとけ!速歩、速歩。
きっと後ろの二人は、慣れぬ東海道歩きに戸惑っていることだろう!

マロニエ通りを過ぎ銀座発祥の地の碑前を通過。


高速道路手前の京橋親柱、すぐ見つかった。かってここには京橋川があり橋がかけられていたが昭和34年に埋め立てられ橋は撤去されたらしい。その親柱が残されていた。京橋は、日本橋を発って最初に渡る橋だったそうだ。日本橋と同じ慶長8年(1603)につくられたそうだ。


高速をくぐるとりっぱな江戸歌舞伎発祥之地碑が立てられていた。寛永元年(1624)、中村勘三郎が付近の中橋で江戸歌舞伎を始めた記念碑だ。


すぐ近くに京橋大根河岸青物市場蹟碑もあった。寛文4年(1664)以降、青物市場がもうけられていたところ。16時22分。時間との闘い、もう時間的に30分到着は無理。まずいなあ。ゴール日本橋までちょうど1キロ地点になった。あと少し。


八重洲通の中央分離帯にある八重洲の名前の由来になったヤン・ヨーステン記念碑に寄った。


丸善、高島屋の前を通過、前方を見ながら急ぐ、日本橋がはっきりと見える、向こうで背伸びするようにして手を振っている、こちらも帽子で応える、スズさんが鯉のぼりを振る・・・あっ、カメラをこちらに向けた・・・


お待たせしました!ありがとう!


向こうからこっちへ寄ってきた、ついに日本橋へ着いた!やった!16時38分。万歳!

応援隊の隊長、九州のよっくんさん手製の横幕の両端を持った二人に従って真ん中をすすむ、あいさつの度に立ち止まるのでとにかく橋を渡れとだれかが叫んだ。
初めて会う人ばかりなのでひとりひとりと挨拶もしたい・・・

ここまで来たらスターの行軍みたいなもの、人通りの多い日本橋をそのままの姿ですすむ。
まるでパレードのような気分だった。


ゴールは、高速道路下をすすみ北側の一角にある日本国道路元標。
ここが五街道の起点。やっとそこにたどり着いた、Yさんが約束通りハグしてくれた!
あー、初めての経験に新米の70歳は足から解けていきそうな気分、脳みそはぐちゃぐちゃになっていた、ハグでバクバク、酸欠状態。

そこから撮影ラッシュ、知り合いのプロカメラマンの指示に従って何枚撮ってもらったやら、道行く人たちが立ち止まって人の輪ができた。
NHK来てる?アサヒは!インタビューは共同にしてください!サインは後で!と言いたい放題、一度でいいから言いたかった。

ハプニングの「完歩賞」を道路上でもらった。びっくりした。



全員で記念撮影。


場所を移して夕食会、2次会、70歳の誕生日を日本橋で大勢の仲間と一緒に迎えられた幸せは、生涯の思い出。こんなすばらしいプレゼントをしてくれた応援隊の仲間たち、古い友人たち、多忙な時間をさいて遠くから来ていただいた人たちになんとお礼をしたらいいのやら。居酒屋「北海道八雲町」にて


2次会「高田屋」にて


2次会で席が隣り合わせになった紳士グループと帰りも出口で一緒になった、店の前でそのグループが誕生祝いのコーラスをしてくれた。日本橋ロータリー倶楽部の人たちだった。こんなことがあるだろうか・・・夢のような時間だった。

ホテルに帰ると携帯へはお祝いのメールがたくさん入っていた。興奮してなかなか寝付けなかった。こうして、70歳の初夜はお江戸日本橋近くのホテルで一人で迎えた。
みんなありがとう、ありがとう。


●プロカメラマンの目
https://www.walking-sns.com/u/sakky/QFM7ly8AbkwUImdOThGn

●紹介記事
http://www.walking-sns.com/u/sakky/

東海道五十三次を行く(29)神奈川→川崎→品川

2010-03-24 17:42:04 | 東海道五十三次
東海道五十三次ひとり歩きシリーズ、京都三条大橋をスタートして29日目、②川崎から①品川をめざして歩く。東海道は、神奈川県からいよいよゴール日本橋の東京都へ移動して行く。朝から快晴、前日より気温も低くウォーキングには絶好の条件に恵まれた。

[3月14日(日)-「神奈川→川崎→品川」] (JR鶴見駅→JR品川駅)
午前8時35分、前泊したJR新子安駅前のホテルを出発し電車で鶴見へ移動。京急鶴見駅高架下から9時に合わせてスタートした。


駅前通りをすすみ最初に訪れたのが鶴見神社、一日の安全祈願のために寄った神社で意外なことを知った。境内に貝塚があるという、このあたりは東京湾に注ぐ鶴見川河口近くの沖積低地に位置して平成20年の発掘調査で本殿前に良好な状態で貝層が発見され写真も公開されていた。


鶴見川をめざして図書館前、寺尾稲荷道の道標前を通過、静かな日曜日の通りには花があちこちに春の陽光をいっぱいに浴びて嬉しそうに咲いて歓迎してくれているようだった。
やがて鶴見川にかかる鶴見橋の白いアーチが見えてきた。


向かい側の道に鶴見橋関門旧跡があるらしいので橋元まで行き、反対の道を戻るようにして関門旧跡へ行った。交通の激しい大きな道路わきを行く時は向かいに史跡等がある場合、横断歩道がなかなかないので、あきらめるか渡れる歩道まで行き引き返すかどちらか、どちら側を歩くかは、見所を確認して決めているが両方にあるとそれはつらい。


鶴見橋関門旧跡には立派な碑がたてられていた、安政六年(1859)年6月に横浜港が開港すると多くの外国人が日本に上陸したが、生麦事件後も攘夷派の浪士による殺傷事件が続くなど治安が不安定で、外国人に対する危害もあり横浜へ通ずる主要道路に番所や関門を設けて不審人物の見張りをしていたところ。
このあたりが品川宿と神奈川宿の中間の鶴見立場(休憩所)で茶屋があったらしく、米まんじゅうが名物だったとか。

鶴見橋を渡ると右に菜の花が満開の公園があったので寄ってみた、おばあさんがベンチに腰をおろしてうつむいていた、どうしたんだろう・・・まるで人形のようにまったく動かないおばあさんに亡き母が重なった。


鶴見橋は、江戸を出て最初に渡る大きな橋だったそうだ。(多摩川は渡し)。
しばらくすすむと右に日本橋から五番目の市場一里塚の前に来た、立派に史跡として保存されていた。


熊野神社へお参りしてさらに一直線、市場銀座商店街を歩き続けると京浜急行八丁畷駅前に着いた。八丁畷とは、田んぼの中を一本道が八丁(870m)続いていたということらしい。「八丁畷の由来と人骨」という説明板と無縁仏の供養塔が立てられていた。江戸時代、川崎宿では、震災や大火、洪水、飢饉にしばしば襲われて多くの人が亡くなり、また、道に倒れた人や亡くなった遊女がこのあたりに埋葬されたようで、その人骨が道路工事などで数多く出てきたという。


踏切を渡りすぐ左の道をすすむと京浜急行と道路との間のわずかなスペースに芭蕉句碑が立てられていた。芭蕉が、元禄7年5月に江戸深川を立ち郷里の伊賀への帰途、川崎宿へ立ち寄り、門弟たちとの惜別の思いを詠んだ句が句碑として立てられていた。
「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」、この年の10月に芭蕉は大阪で亡くなった。


川崎警察署前を通り賑やかな商店街をまっすぐにすすむ、川崎宿の京都側入口があったという案内板があるらしいので三度もあたり100メートル内を行ききしたがみつからなかった。こういう時が一番悔しい。
賑やかな新川通りと交差している小土呂橋交差点へ着いた、ここは、かって新川堀で小土呂橋の石橋の欄干跡が残っていた。現在、新川堀は地下にあるそうだ。
さらに賑やかな商店街が続く、「旧東海道川崎宿いさご通り」という標識がところどころに立てられていた。JR川崎駅へ通ずる市役所通りの砂子交差点前に佐藤本陣跡、交差点を渡ると問屋場跡、さらに宗三寺、一行寺入り口前を行く。
川崎宿には三つの本陣があったが、嘉永五年(1628)に設けられた宿内最古の本陣であった田中本陣跡にすすむ。しかし、宿場の面影はまったくない、宝暦11年の大火(1761)では、小土呂からこれから行くたま川の六郷渡しまでほぼ全焼したそうだ。


川崎宿はたびたび大火で焼けたためにそれ以前の記録が焼失してないそうだ。
このように川崎宿の面影を残す建物や史跡はなくて、案内ガイドによるものばかり、それでも案内板や道標は整備されていた。

[川崎宿]
川崎宿は、東海道宿駅伝馬制度がもうけられた後、大きく遅れて元和9年(1623)に設置された。品川宿と神奈川宿との間が5里(20キロ)もあり伝馬の負担を軽減するためにもうけられたという。

川崎大師へ通ずる道なのだろうか大師通りの本町交差点を超えると道は右へ大きく曲がり前方に高架道が見えてきた、六郷の渡しへの標識が立っている。
いよいよ多摩川だ!


橋への入口手前に万年屋跡の古い案内板があり、このあたりにあった万年屋は奈良茶を売っていた茶屋だったそうだ。

多摩川の堤防へ上った、目の前を流れる多摩川は想像してより川幅は広くなかったが、それよりここまで来たことに感動、向かいはお江戸だ!


「明治天皇六郷渡御碑」が目に入った、明治初年に明治天皇が行幸の際、船をつないで臨時の橋をつくり川を渡ったそうだ、その様子がレリーフに描かれている。そばに、六郷渡しの案内板と川崎大師の燈篭があった。


さあー六郷橋を渡るぞ!・・・11時22分。渡り始めるとすぐ川崎市から東京都大田区になった。普通、自治体の境になる橋は、真ん中が境界になっていると思うが、川崎と東京の力関係か、まさか?橋の上は、ほとんど東京側だった。河川敷のグランドも東京側。
おじさん、おばさん達が楽しそうにゲートボールに興じていた。


この六郷橋の起源は、慶長5年(1600)に徳川家康が作らせたものだが、貞享5年(1688)の洪水で壊れて以来、明治まで再建されなかった。その間は六郷の渡しで結ばれていて川崎宿は渡船収入が宿の財政を大きく支えたそうだ。
橋を渡って東京側の橋のたもとにある六郷の渡碑のある小公園に行ってみた。ついでに上流側の橋上に出てみた。欄干が渡船をデザインしたのか独特の舟形になっていたので、こ
こで証明写真を撮っておきたくなった。

やってきた60歳くらいの男性に事情を話したら快く引き受けてもらえて、わざわざ位置を変えて2枚撮ってくれて、東海道を歩いていることに興味をもってくれたのか話しかけてくれた。


これがお江戸に入って最初に出会った人。11時59分になっていた、六郷橋を渡り始めてから37分、渡るだけなら5分ほどなのに・・・
12時を知らせるサイレンを聞きながら気を取り直して、第一京浜国道と合流したところで六郷神社に寄った、この神社は、天喜5年(1057)、源頼義・義家親子の創建で頼朝が社殿を造営したといわれている。ここには六郷の一里塚があったそうだが今は不明。

ここから第一京浜国道に沿って品川を目指して歩き続けることになる、通行量の激しい騒音の中を歩き続けるのは自然派の人間には物足らない。ここは大田区、日本を代表する中小企業、町工場のある地域、歩いている国道から一歩入って行くと町工場が見られると思うが、そこまでの時間をとることはできなかった。


しばらく進んで蒲田消防署前を通過、12時38分になっていた。
コンビニ弁当を買って銀行横にある駐輪場の広場でのんびりと食べた。南蒲田で環状8号線を横切るあたりから、ますます騒々しい国道沿いを歩く。

13時14分、前方に踏切が見えてきた、近づくと遮断機が下りて電車が通る、遮断機が上がるかと思うと上がらずまた電車が来た。写真、写真、電車好きにはシャッターチャンス!ここまではよかったがなかなか遮断機が上がらない・・・・
もしや?ピンときた!(くるのが遅い?)ここが箱根駅伝で走るランナーまで足止めを食ってしまう蒲田の踏切か?きっとそうだ!そばに立っていた人に思わず聞こうとした、いま、工事がすすんでいるのは高架にするのかもしれない。


踏切を渡り呑川(のみかわ)にかかる夫婦橋を渡る・・・しばらくすすむと左手に木々に囲まれた公園が見えてきた、木陰で休憩にしようと寄ってみたら梅屋敷公園で、明治天皇も行幸の際、訪れたという碑がたっていてすでに散っていたが梅の名所だそうだ。広重も蒲田の梅園として描いている。木戸孝充や伊藤博文らが園内で新年会を開いたこともあるそうだ。
六郷橋から公園らしきところ、緑のまったくない第一京浜国道に沿って歩いてきたのでほっとする。13時31分。
このあたりが日本橋から国道で15キロ地点。もちろん東海道はそれより長い。左手の高架を電車がひんぱんに走り、道路は車ばかり、騒音に汚れた空気、歩くのには条件が悪すぎる。大田区体育館、梅屋敷駅を過ぎ、まっすぐに歩き続けるだけ。


貴船神社へ寄って水分補給、大森駅、大森警察署を過ぎると第一京浜から右の道へ入りどんどんすすんで行く。
日本橋から3番目の大森一里塚の跡は不明、羽田街道という標識があったが空港方面なのだろうか。内川にかかる内川橋を渡りさらにすすむ。このあたり古い構えの店が結構ある。平和島駅前を通りさらにすすむと再び、騒音の第一京浜に合流した。磐井神社で休憩、おやつに買っていたパンでしばらく休んだ。

夜はゴールする品川で息子と会うことになっているが、仕事の都合で19時が約束なので早く品川へ着いても時間待ちをするだけ、できるだけゆっくりと、暗くならない程度、17時頃に着けばいいので急ぐことはない・・少しずつ行けばよい。
この磐井神社は転がすと鈴の音がするという鈴石で知られている神社、東海7福神の南の終点だそうだ。神社前の国道の横に磐井の井戸跡があった、東海道を往来する旅人が利用した美水として有名だったらしい。
14時17分。大森海岸駅前を通過、あれ?第一京浜国道が国道15号となってるぞ?
どういうこと?
このあたりは海苔の店が目につく、海に近いのか、海苔の業が盛んなところなんだろう。
さらにすすみ、歩道橋で15号線から右の細い道へ入って行く。ここには鈴ケ森刑場跡があるというので寄ってみることにした。14時50分。

処刑された人々を供養した髭題目碑や、処刑に使われた礎石も残っていて不気味な雰囲気、八百屋お七や白井権八、天一坊などもここで処刑されたらしい。


しばらく行くと立会川の浜川橋に出る、浜川橋は鈴ケ森刑場へ向かう罪人と肉親との別れの場所であったことから別名涙橋と呼ばれている。
立会橋を渡り立会川にそって下るとすぐ浜川砲台跡に出た。この一帯は江戸時代、土佐藩の屋敷があった場所で、黒船来航に際し、防衛のため土佐藩もこの屋敷内に砲台を築いたそうだ。


商店街に戻り通りから左に入る道を見ると龍馬の町と書かれた幟が目についたので行ってみたら、浜川砲台跡と龍馬の町を散策する集団が講師の説明を聞いているのに遭遇した。神社の入口に龍馬の大きな像が立っていた。こんなところに龍馬がいるとは・・びっくりした。


白玉稲荷神社、鮫洲八幡神社、鮫洲駅、青物横町駅を過ぎ鮫洲商店街をすすむ。鮫洲は漁師の町で鮫洲八幡神社はその守り神。鮫洲は品川宿のはずれにあったらしい。

岩倉具視の墓がある海雲寺を過ぎ、東海七福神の品川神社(ほんせんじ)には江戸六地蔵があった。15時51分。


このあたりから通りに品川の地名が入る・・・通りのあちこちに小ぶりの松が植えられていたが静岡県や神奈川県の宿場から寄贈された松だそうだ。

街道松の広場で休憩。目黒川を過ぎ、新馬場駅前を通り過ぎると右手に聖蹟公園が見えてきた。ここは品川本陣があったところ、いまは公園になって碑が立っているのみ。


そのまま商店街をすすむ、このあたりの商店はシャッターに浮世絵が描かれたり宿場の雰囲気を出そうと商店街で取り組んでいる様子がうかがえた。まもなく商店街は左へ曲がり京浜急行北品川駅近くの踏切へ出てきた。踏切の手前に日本橋から二つ目の八ツ山一里塚があったらしいが不明。視界が急に広がり前方にビル群が現れてきた、品川だ。


八ツ山コミュニティ広場を通りぬけてビル群を右に見ながらJRにかかる八ツ山橋を渡る、そのまま第一京浜国道にそって緩やかな下りを進むとJR品川駅前に着いた。16時52分。


これで東海道五十三次の29日目③神奈川→②川崎→①品川を完歩した。
次回はいよいよ品川→日本橋ゴール!
その日は2010年4月13日(火)、3年で30日完歩計画の30日目になる。

所属しているSNSの応援コミュニティのメンバー、休会中のSNSのメンバーが
最後の日、集まってくれるようで段取りも進んでいるようだ、わくわくしている。

東海道五十三次(3月13日)戸塚→保土ヶ谷→神奈川

2010-03-17 20:52:01 | 東海道五十三次
(3月13日の記録)

東海道五十三次ひとり歩きシリーズ、3年計画で京都三条大橋をスタートしてから2年11ケ月、今日が28日目、明日が29日目、4月のゴールを前にコースは神奈川県からいよいよ東京都へ移動していく。気候もよくなってきたし、青春18きっぷを使って前泊して2日間を歩くことにした。

◎3月12日 -「由比→さった峠」(番外編)



◎3月13日 -「戸塚→保土ヶ谷→神奈川」(JR戸塚駅→JR鶴見駅)
◎3月14日 -「神奈川→川崎→品川」  (JR鶴見駅→JR品川駅)

[3月13日(土)-「戸塚→保土ヶ谷→神奈川」]
午前8時40分、前泊した藤沢駅前のホテルを出発し電車で戸塚へ移動。前回のゴール地点の戸塚バスセンター前へ。戸塚本陣まで少し逆戻りして気分を高め「いざ、出陣!」
天気はよし、見上げる空は真っ青、お天気をチェックしてこの日をスタートにしたのが当たって最高の日和になった。これならいい歩きができる!

まず清源院へ寄る、徳川家康の死後、側室であった於万(おまん)の方が尼となって入った浄土宗のお寺で芭蕉の句碑があった。


東海道線の踏切を渡り、お寺にはおよそ似つかわしくない本堂がモダンな石造りの浄土真宗善了寺へも寄ってみた。街道を歩く楽しみの一つはお寺や神社へ立ち寄ること、もちろん旅の安全祈願もあるが、なによりも時が止まったような静粛さとくつろぎが乾いた心に潤いを与えてくれるからかもしれない、気持ちが落ち着くのだ。

1号線にそってすすむとやがて柏川にかかる吉田大橋へ、広重の絵に描かれた橋だ。
さらにすすむと道路わきに江戸から10番目の戸塚一里塚の説明板が立てられていたが何の跡も残っていなかった。
少し行くと戸塚宿の江戸側の出入り口だった戸塚江戸見付跡につく、今日のコースではここで戸塚宿を出て保土ヶ谷宿に向かうことになる。


五太夫橋を渡ると左にブリジストン横浜工場前の前に出た、そこから右の歴史の小径へ入り迂回するようにしばらくすすむとまた1号線に戻り、この区間で何度も迷って人に尋ねたが聞き方が悪かったのか、15分ほど余計なところまで行ってしまった。
ゆるやかな不動坂をすすみ、増田家のおおきなモチノキの下を通り左にポーラ、山崎パン横浜工場前を通って赤関橋交差点に出た。

赤間橋を渡り左の平戸永谷川べりにあった標識の地図と手持ちの地図とが違っていたが、正式な地元の標識に沿って平戸永谷川にそってすすみ花壇の手入れをしていたおばさんと話し込んでしまった。その人に聞く赤関橋を渡ると少し進んで柏尾川へ行くのが正しいと教えられた。あわてて交差点まで戻って仕切り直しとしたが、ここでも25分ほどロスタイム、もっともおしゃべり時間が半分くらいあったな。
桜のつぼみがほころびかけた柏尾川の桜並木から住宅街に入りゆるやかな曲がり道をすすんで行くとバイパスの下に出たのでここで最初の休憩にした。


携帯を見ると2通のメールとブログにも応援メッセージが入っていた。一人で歩いているつもりなのに、こうして気にしてくれている人の気持ちがうれしい。遠く離れた知らない土地を歩いている時のメール・メッセージはとても元気をもらう。さらにすすむときつい上り坂が続く、ここが品濃坂らしい。


このあたりから風が一層強くなり、環状2号線にかかる品濃坂歩道橋に出た時は、とても帽子をかぶってはおられないほどの強風が吹き荒れていた。曲がりくねった果樹園の中をすすんでいくと静かでこざっぱりとした住宅街に入った。

前方にこんもりとして木立が見えてきたので急いで近づくと品濃一里塚があった。
江戸から9番目のこの一里塚は神奈川県に完全な形で残っている唯一の一里塚だそうな。向かいから若い男性が一人、後ろから年配の男性二人とここで合流したが、さっさと行ってしまった。


ここから緩やかな下りを行くと竹林の陰に古い道祖神がたたずんでいたので
お参りして無事を祈った。こうして気がつかないところで自分の無事を手を合わせて祈ってくれていることを忘れてはいけない。

やがて三叉路に出ると正面に植木地蔵尊が見えてきた、ここが武蔵の国と相模の国境だったところ、かって戸塚宿と保土ヶ谷宿の中間、植木立場として茶店が並び旅人の休憩所としてにぎわっていたところ、ここから富士山や江戸湾が見えた景勝地だったらしい。この地蔵尊の到着予定時間を10時30分と設定していたが11時5分になっていた、迷った分が遅れの原因で歩くペースは間違っていないと思った。



植木小、中学校前から左の道へ入っていく、ここから地名が権太坂になる、箱根駅伝の花の二区、難関区間でおなじみのあの権太坂、ただし駅伝の権太坂は別にあるらしい。上り下りしながら約17分で権太坂の入口へ下りた。江戸側から京を目指すとここはかなりの上り坂だ。



ここでしっかり地図を確認すればよかったのに坂の入口にいた子供連れの若い男性に軽い気持ちで確認したら東海道は右という、すすんでいくが様子がおかしい、しかし、聞いた男性がずっとこちらを見ているので戻るわけにはいかない、姿が見えなくなるのを待っていると、ちょうど歩いてきたサラリーマン風の40歳くらいの男性に尋ねたらカバンから地図を取り出して、こちらが持っている資料と確認しながら丁寧に教えて切れた。やはり右ではなく左だった、とても親切な男性で「お気をつけて!」と声を残して行った。

しばらくすすむと保土ヶ谷二丁目交差点で1号線と合流、このあたりでも強風が吹き荒れてしばし建物の陰に身を寄せてしまったほど、メガネをしているのに目に砂が入ってこまった。1号線と今井川の間の整備された遊歩道をすすむと一里塚跡と上方見付跡の碑がたっていた。このあたりが保土ヶ谷宿の京側の出入り口だったところ。


今井川の向かいにある地元では「お仙人様」といわれている外川神社へお参りした。1号線をそのまますすむと右側に古い建物が見えてきた。旅籠風の趣のある脇本陣跡(大金子屋)、続いて当時の門がそのまま残っている本陣跡だ。このあたりが保土ヶ谷宿の中心だったのだろう。



[保土ヶ谷宿]とは、江戸を出た旅人が最初に迎える難所が権太坂で、その坂を越えるために多くの旅人は保土ヶ谷宿で休息し、坂を越えて行ったそうな。本陣が1軒、脇本陣が3軒、旅籠は70軒もあったらしい。

本陣跡前を1号線から左の商店街へ入りすすんで行くと右角にめずらしい四つの道標が並んでいた。「金沢横町道標」と呼ばれているらしくて、金沢・浦賀往還の出入り口だったところだそうだ。金沢八景、杉田梅林など景勝地と富岡など信仰の地が多くあったので東海道と分岐する要所だったところ。


狭い商店街の行きあたりは相模鉄道の天王町駅前の公園だった。ここで近くのスーパーで弁当を買ってきて木陰で昼食 温度が上がって木陰に入らないと暑い。ここまでも予定時間を40分ほど遅れたが、暑いから無理して急ぐことはやめることにした。天気がいいので5時までなら十分に明るい道を歩くことができる、休憩25分。昨日、さった峠の無人スタンドで買った5個100円のミカンがおいしかった。こいつが背中の重りになっていた。

駅前からまた商店街をすすむ、左の橘樹神社に寄り、保土ヶ谷宿の江戸川の出入り口があった江戸見付跡を探すがみつからない。このあたりを2往復して立て看板式の説明板を発見、宝物を見付けた心境になった。続く松原商店街の雑踏のような人出のにぎわいには驚いた、頑張っている商店街もあるのだ。

しばらく歩いていると?? やや? 正面からこちらを見ている人がいる??
あっ!箱根の山賊さんだ! 急いで近づいて再会の握手。
去年の9月に箱根の山下りで会ってから半年ぶり、なつかしい、ほっとする再会だった。今日は、戸塚から待ち伏せしながら自分を追って歩いてきたそうだが、実は戸塚を自分より早くスタートしていたようで追いつきようがない、半ばあきらめて戻ってくる途中でうまく遭遇したというわけ。

ここからゴールまで山賊さんと即席の弥次さん、喜多さんになる。
静かな住宅街の道を行く、高速の下を通り緩やかな上り道が続く、車以外は人影もほとんどない道を上台橋まで来た
かってこの上台橋あたりは潮騒の聞こえる海辺の道だったらしい。
少し行くと神奈川台関門跡の碑、袖ヶ浦見晴所碑の前に着いた。
ここから右側は崖下で神奈川の港が見える景勝の地であったところで、開港後、外国人が殺傷される事件が多発したために外国政府の要請で幕府が安政六年に警備体制強化のために関門や番所を設けたその一つ。


[神奈川宿]日本橋を出て3番目の宿場町です。現在の台町あたりは、かって神奈川湊を見おろす景勝の地でした。この神奈川が一躍有名になったのは、安政元年(1854)の神奈川条約締結の舞台になってからです。その4年後に結ばれた日米通商条約では神奈川が開港場と決められていましたが、後に横浜に変更されました。(説明板より)

道路右側(当時は崖上になっていたのだろう)で料亭田中屋が営業しているが、この田中屋は神奈川宿がにぎわっていた当時から続いている唯一の料亭で、文久3年(1863)に創業した。
この田中屋で、坂本竜馬の妻「おりょう」が働き始めたのが明治7年、勝海舟の紹介で働いていたという。英語が話せ、月琴も弾くことができたので外国人の接待に重宝されたという。


大鋼金比羅神社・一里塚前を通過、まもなく横浜市内のビル群が見える高台に出てきた、山賊さんに聞くと横浜駅周辺だとのこと。少し歩くと繁華街に行かれるのだろう。
青木橋の信号からすぐ左の階段を上っていくとかって開港当時にアメリカ領事館があった本覚寺へ。高台にあり眺めがすばらしい、きっと開港当時は、ここからすぐ近くに港が見えたに違いない。


JR線を越えて坂道を下っていくと左側にお寺が続く、最初に訪れたのが開港当時のフランス公使館のあった甚行寺。次に訪れたのがイギリス士官宿舎に当てられていた普門寺へ。
続いて源頼朝が安房国一宮の安房神社の神をこの地に招いたのが始まりという洲崎神社へ。滝の橋の両側に本陣があったらしいが今は何もない。

開港当初、アメリカ人宣教師で医者だったヘボン博士が診療所を開いていた宗興寺へも寄ってみた、ヘボン博士は「ヘボン式ローマ字」でおなじみの人だが、こんなところでヘボン式のルーツを知るとは思いもしなかった。


続いて、そのヘボン博士が宿舎にしていた成仏寺を訪ねた。そのすぐ向かいの神奈川地区センター前に復元された高札場の大きなものがあった。


さらにオランダ領事館跡のある長延寺・見付跡も尋ねた、ここが神奈川宿の江戸への出入り口だったところ。いまは公園になっていてここで休憩。



国道15号線に合流して滝野川を渡り、そのまま車の通行量の激しい15号線にそってまっすぐにすすむ、横浜の繁華街は過ぎたらしくて落ち着いた街並みが道路の両側に続く
近くを並行して走っている京急の仲木戸駅、神奈川新町駅、子安駅、新子安駅前を通過、実は今夜泊まるホテルはこの新子安駅前、ホテルを確認してさらにすすむ。

めざすは、生麦事件のあった現場、やがて左手にキリンビール横浜工場の大きな建物が見えてきた。
15号線からキリンビール工場に通ずる道を入って行くと右手に生麦事件の碑が立っていた。1862(文久2)年、薩摩藩の島津久光の行列を乗馬したまま横切ったイギリス人を薩摩藩の藩士が殺傷、その犠牲になったイギリス人の死を悼んだ黒川荘三が私費で明治16年に建てたものらしい。この事件をきっかけにして翌年、薩英戦争が起きたのだから決して小さな事件ではなかった。ずいぶん古い碑、なんとかきれいにできないものか・・・・



ここから今日のゴールのJR鶴見駅まで3キロ地点、このあたりから道の両側を独特の海辺近くの佇まいが続く。「生麦」は地名のことで、ここを生麦街道というらしい。
その生麦の生麦魚河岸通りをどんどん歩き続ける、朝市はにぎわうらしいが夕方なのでお店はすべてしまって人影もあまりなかった。
歩き続けて、JR鶴見線を横切り京急鶴見駅高架下をくぐるとゴールのJR鶴見駅前に着いた。


JRで新子安駅へ、ホテルに入ってしばらくゆっくりして明日の準備にかかった。
ここでも携帯に励ましのメールが入っていた、ありがたい。
約44,000歩 約30キロ、正式にはもっと短い区間だが迷ったり寄り道した結果でそうなったものと思う。

(神奈川→川崎→品川の記録は後日ブログアップいたします)