昨日より今日を!今日より明日を! 夢と希望がある限り命輝かせて生きていこう!

「夢を描こう!」「 夢を語ろう!」 「夢を形にしよう!」 楽しもう76歳を!

歳を忘れて過ごした二日間。

2009-01-31 22:46:12 | 仕事
経営者の卵たちと二日間、みっちりと勉強をしてきた
きのうの初日は現役の経営者にも参加してもらい
課外の食事会はひさしぶりの「ちゃんこ鍋」を囲んで
遅くまで話がつきなかった

二日目の最終の時間は今年にかける決意の発表に
力強い発表に熱気が伝わる

回を重ねるごとに成長していく彼らを頼もしく思うが
同じ現役である限りこちらも引き下がるつもりはない
どこまで2009をいい年にできるか決意を新たに

    楽しく面白く!


参加者が持ってきた本はこの通り


二日間、三度のスピーチで総合優勝した北九州のHさんに
本をプレゼントした。

自分を駆り立てるには・・・自己宣言。

2009-01-29 20:29:45 | チャレンジ
この二日間、暖かくていい天気が続いたが
明日から雨、週末は天気が崩れると報じている

若手経営者の卵たちとシリーズの勉強会が
明日から二日間始まる

きのうもきょうも終日、最後の準備に追われて
慌ただしく過ごした

新年最初の勉強会だから今年一年にかける目標や
計画を持ってきてくれることになっており
発表の時間も用意して楽しみにしている

それを聞かせてもらい、あれこれと勝手なコメントを
つけて励ますだけなら気楽で楽しいが
コメンテーターでいる限り自分の成長にはつながらない

そこは自分も「参加」して
一年間の「約束を宣言」することで
自分の行動を駆り立て

昨日より今日を
今日より明日を
少しでも成長ができるように
日々のチャレンジが続けられる

すばらしい古希の年にしていくためにも
新たなチャレンジの一年にする決意

A4用紙にまとめて堂々と発表する

みんなはどんな反応をするやら・・・。

推薦本「絆が生まれる瞬間」高野登著
・・・読んでるかな


桑田さん(元巨人)が大学院生に!

2009-01-28 20:53:35 | チャレンジ
元プロ野球巨人、大リーグ・パイレーツの桑田真澄さん(40歳)が
早稲田大学院スポーツ科学研究科に合格したことが報じられている

桑田さんはPL学園高当時、早大への進学も希望していたそうで、
巨人のドラフト1位に指名されたために進学はしなかったが、その
夢は23年間持ち続けていたという

大学院では修士課程1年制のトップスポーツマネジメントコースで
スポーツビジネスなどを学ぶ

先日の山陰出張からの帰りに駅の書店で買った桑田さんの著書

  「試練が人を磨く」桑田真澄という生き方 

を読んだが、その中にも大学でスポーツ科学を学んでみたいと書い
てあったのでその夢を実現してすばらしいことだと思う


桑田さんは、生きる目的はと「自分を磨く、とくに人間力を磨く」こと
だと言っている

現役時代の桑田さんは大怪我でシーズンを棒にふったり、野球外
のことでも暗い話題を提供してマイナスイメージをもたれることもあ
ったが、多くを語らず、いつも淡々と野球に取り組み、克服してきた
裏には「試練が自分を磨く」という信念があったからだろう

大学で学び、お世話になった野球界の発展に貢献したいと語っている

桑田さんの今後に期待したい。



突然のなつかしい来訪者。

2009-01-27 20:17:50 | 交流
朝、出かけようとしていた時、思わぬ人が訪ねてきた

かって伺っていた会社の人事を担当して仕事の窓口に
なっていたMさん、お世話になった人だ

他部門へ異動し、その後、転勤を繰り返していたことは
年賀状のやりとりで知っていたが会ったのは10数年ぶり

頭に白い物が目立ち、年を重ねた姿に苦労の跡が感じられたが
さわやかな笑顔はちっとも変っておらずうれしく思った

近くに用事があったので早めに会社を出て寄ってくれたという
駅前のカフェでしばし旧交を温めた

定年まであと数年、出世とは縁がなかったようだが
会社思いで実直な人柄は昔のままで
さかんに会社のいく末を案じていたので

もう、十分に尽くしたのだから
そろそろ自分のことを考えなさいよと話した

真面目な人ほど、いつまでも会社と離婚できず
退いてからも会社の名前を支えに生きて行こうとする

いまから会社とすっきりと離婚ができるように
自分の名前で生きていく準備をしてほしい

これから自分のしたいことができるのだから

そう言って別れた

こちらのことを忘れずに
住所を頼りに訪ねてきてくれたMさん
絆をありがとう

恒例の震災モニュメント・ウォークを終えて。

2009-01-26 19:49:39 | ウォーキング
昨日は、お世話をしているウォーキング倶楽部の月例会で 新年恒例の阪神
大震災慰霊碑(モニュメント)を訪ねてきた
震災で亡くなった人の霊を慰め、復興への 誓いを新たにすることを目的に
して始めたこのモニュメントウォークも6年目

JR三ノ宮から集合場所へ急いでいると神戸市役所の横にある広場は相当数
の人が列をなし、立ちっぱなしで食事をしていた
職や食べ物を失っている人たちへの炊き出しと思われたが、現実にその姿を
見ると気持ちがふさがる・・・200人くらい?いや、もっといたか・・・


10時15分、三宮東遊園地の希望の灯り前をスタート(前回の下見ブログ
に写真掲載) 晴れたり曇ったりの天気だが風が冷たい

最初に公園内の震災跡を訪ねたあと海岸方面へ
浜手バイパス被災構造物展示モニュメントへ向かう、ここで先ずあの地震の
破壊力のすさまじさを見せつけられる

ここは86年に 開通した高架道があるが、72基の橋脚のうち52基が壊
れ、橋桁も最大で3.5メートル横ずれた、コンクリートがはがれ落ちて中
の鉄筋が曲がっている橋脚がそのまま保存されている
縦530トン、横94トンの力に耐えられるという支承も破断して計り知れ
ないエネルギーを伝えている




そこから海岸線を水上警察前を通って神戸港震災メモリアルパークへ
ここには崩れ落ちた波止場のうち南端から60メートルをそのまま残して海
に回廊を設けて被災の生々しいありさまを再現できるように保存されている


再度、東遊園地に戻り今日のコース、三宮から西灘方面にすすむ

三宮のビジネス街の真ん中にある小野神社では、両側に折れた鳥居が二本
ずつ置かれ左右の各一本に「甦れ神戸 復興祈願」と彫ってある


そこからしばらく寒風の中をすすみHAT神戸手前を右折、阪神春日野道駅を過
ぎまっすぐに商店街を上って行く 、このあたりの商店街も壊滅状態になった
ところで今は 新しい街が出現したような新しい建物が続く

商店街から路地を少し入り押絵千体地蔵がある 常光院へ。
休日で中へ入れず院の前で震災の体験談を話していると住職さんが外出から
戻ってきたところに遭遇して中へ招いてもらい押絵千体地蔵をみせていただ
いたどれ一つとして同じ顔 がない押絵千体地蔵は慰霊者の魂を慰めるために
自らも被災者であった押絵「みやび流」三代目の小西松甫さ んとお弟子さん
150人が制作、奉納したもの


高野山大学でも講義をしているという住職さんからたくさんの話を聞かせて
いただくというおまけつきのすばらしい出会いだった
自分が学習のために用意していた資料と寺に掲示してあった資料 が同一の
ものでびっくりした

メンバーの一人、Yさんがこの商店街のすぐ近くで被災しており、ここは案内・
説明役をしてもらう

Yさんの再建された家を突然訪ねて独りで生活をされている82歳の お父さ
んにお目にかかった、ご厚意で暖かい部屋で昼食の弁当をすませ、メンバーに
は、他に二人が神戸で被災を体験しており、お互いの震災当日のこと、その後
のことで話題が尽きなかった

Yさんが数か月避難していたという小学校の教室をみながらすすむ
避難場所の大変だった生活ぶりや地区の当時の状況を聞きながら進む

透析が必要だったお母さんのことを聞いた・・・どんなに辛い日々だったこ
とだろう(詳しくは前回のブログで書き込みずみ)

住宅街の一角、木々に囲まれてたたずむ若宮八幡神社へ、ここには再建した
鳥居がある柱に「復興阪神淡路大震災」の文字が彫られており、震災では社
殿も傾いたそうだそれでも境内は避難場所となり大勢の人が生活をしていた
とお寺の人が話してくれた鳥居の上の部分が折れて落下、今はその部分を接
続した鳥居が立っている


本殿にお参りしたらここで結婚式をあげるというカップルが予行演習をして
いた・・・こんな幸せがいつまでも続いてほしい

またしばらく国体道路をウォーキング 、ここも家屋が倒壊、火災で大変な
被害があったところ、Yさんの説明には説得力がある

JRの線路下をくぐり西灘小学校へ

ここ西灘小学校校庭横の花壇の中に悲しい物語のある時計のモニュメントが
ある

背丈3mの「時計になって帰ってきたアッコちゃんの時計 」と
「あの子は天使です」と彫られた碑がある

卒業できなかった浅井亜希子ちゃんをしのぶソーラー時計だ
あじさいをあしらったプレートには「あの子は天使です」という母、 鈴子さ
んのことばが刻まれている


浅井さん一家の住んでいた灘区の家は震災で全壊した11歳の亜希子ちゃん
は8時間後に救出されたが、破壊された筋肉から出る毒素による「クラッシ
ュ症候群」に侵されていた、そして、2月10日、短い生を終えた

「お母さん、泣いたらあかんで、私、大丈夫やから」

手術の前に、お母さんの首に両手をまわし、逆に励ましたのが 最期の言葉
になったという

ここも4年ぶりに来たが、碑文を読み、資料の読み合わせをしていると自然
に涙が出て・・・メンバーに言葉もない
はるかのひまわりのはるかちゃんも同じ5年生だった、子供のモニュメント
はいたましい

再びJRをくぐって西灘公園のモニュメントへ
阪神大石駅のすぐ南側、西灘公園の一角にある慰霊碑だが ここ西郷地区は
八割が全半壊113名が亡くなったという 、名前が彫りこまれた慰霊碑に
同姓の名前が目立つのは家族で亡くなられたのだろう


ここから、都賀川公園に沿って再び六甲山方面に上って行く
この那賀川沿いも被災地、復興の桜並木が続く、向いは被害を受けた灘の酒
蔵が続く

遊歩道が川の両側にきれいに設置されているが、そこを歩いていた人が昨
年、鉄砲水で数名の人が亡くなっている

しばらくして石碑「復興の誓い」の前へ
碑には”協働と調和の精神を財産とし、 さらなる復興へと力強く歩む”と
メッセージが込められ、933名が亡くなった灘区の街づくりのシンボルにし
ている



寒さも増し陽も六甲山に沈んで夕闇になったのでここでゴールのJR六甲道駅
へ向かう

六甲道駅には復興の誓いの全線開通記念モニュメントが立っており鉄道員の
復興への誓いも壁面に刻み込まれている

大震災でJR西日本は、137両が脱線、転覆した、山陽新幹線の橋げたは
8ケ所で落下した駅舎の中で唯一全壊したのがこの六甲道駅だった
しかし、わずか2ケ月半で復旧、4月1日に全線開通させた

そのJR六甲道駅復旧に賭けたJRマンと支援した地元住民とのことが、
NHK「プロジェクトX・挑戦者たち」 「鉄道分断 突貫作戦 奇跡の74日間」
で17年1月11日で放映された物語の場所
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
その放送について当時のNHK神戸の記事の一部・・・

1995年の阪神・淡路大震災で壊滅的な被害を受けた神戸の鉄道網。道路
は大渋滞で麻痺し、神戸は他都市と隔絶され、陸の孤島となりました。
しかし、わずか2か月半後、驚異的な早さで全線開通した路線がありました。
最大の難所となった六甲道駅一帯(神戸市灘区)。高架化されていたこの区
間は、がれきの撤去、新たな高架橋の建設など大規模な工事が必要でした。
「鉄道の復旧なくして、神戸の街は蘇らない」とJR西日本と共に果敢に挑
んだのは、関西の建設会社・奥村組の技術者たち。変わり果てた故郷の姿を
目の当たりにし、今こそ土木屋の力を出すと誓いました。
工事は難航を極めました。1200トンもある巨大な高架橋は大きく傾き、
二次災害を起こすおそれがありました。さらに度々、強い余震が襲い、工事
中断を余儀なくされました。真冬の現場で24時間体制で闘ってきた技術者
たちは疲労の限界に達しようとしていました。そのとき建設マンを励ました
のは地元の被災者たちでした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

16時過ぎに六甲道駅へゴール、モニュメントの前で資料による最後の学習
を終えた、駅を行きかう人が不思議そうな目を向けるがそんなことはお構い
なし


寒いので近くの店でコーヒータイム、話が弾んだ

夜にクラブの掲示板を見るとメンバーの一人ひとりが、 参加してよかったと
この日の思いを掲示板に書きこんでくれていた

今年で6年目の震災モニュメントウォークだが、亡くなられた人のこと、震災
のことを忘れないように自分が このクラブを続ける限りこのウォークはずっ
と続けて行きたい

そういえば、住職さんからくれぐれも気をつけてほしいと言われたことがある

被災された人に接する時の心得として

慰めてあげたいという気持ちで神戸にこられることはわかるが
震災を受けた人たちに接する時はことばには気をつけてほしい・・・

重みのある言葉だった

そういえばYさんが
10年目になってやっと震災の話ができるようになったと言っていた
被災者の方々の心の復興にはまだまだ道が遠いのだろう。

ささやかな土曜日の楽しみ!

2009-01-24 22:42:01 | ひとりごと
古都奈良に新春を告げる若草山の山焼き行事が午後6時から
行われ、冬枯れの草地に点火されると暗い山肌が赤い炎で染
まり、幻想的な光景がテレビに映し出されていた
16万人もの見物客があったらしい

日中は、この冬、初めて大阪で雪がちらついたがそれもほんの
わずかな時間、でも寒い一日だった

今朝は、出張の疲れが出たのか身体が重かったので遅めに起床
いつもの土曜のささやかな行事、毎週というわけではないが
よくコーヒーを飲みに行くレストランで昼食をとった

ここの昼食メニューがおいしくて、とくにハンバーグランチは
口に合うのかうまい


食事の前後1時間半をくつろぎタイムにして、隣の書店で買った
本と手製の手帳の役目にもしている「明日のーと」を持参、思い
つくままにのーとに記入していく


本田直之著 レバレッジ・シンキング


そのまま仕事場にきて、のーとに書き出した滞っている仕事の
整理や処理にとうとう夜まで追われた

いまは・・・とにかく、時間から構造改革、時間の流れを渋滞
させている要因を取り除いて、新しき習慣をつくるために集中
して取り組むことにしている

自分への投資時間を確保し、拡大していかないと現役としての
賞味期限が切れるてしまう

同じことを何度も書いているような気がするが、正直なところ
危機感がある

仕事が一番楽しい、その楽しみを失うことがないように、今日
より明日が成長できているようにしたい

オバマさん流に「チェンジ-変革」!


満足だった山陰での勉強!

2009-01-23 22:42:56 | 仕事
21-22日の二日間、山陰のT大学へ出張してきた
2003年から春、秋、通うようになって6年目
去年からこの時期にも行くようになってなんだか
自分の母校のような親しみを覚えている

先週が大雪だったそうで除雪された雪がキャンパスの
あちこちにうず高く積まれていた

出席してきた23名の管理職のみなさんと二日間、
三単元の管理者研修の内容をみっちりと学びあった

付属病院の参加者が
"病院はサービス業です"と力強く
言いきった言葉が印象的だった

それだけ自分たちへの期待と課題も大きいという
自覚と責任から出た言葉だろう

心配していた体調に問題もなく
熱心な皆さんにも後押しされて
立ちっぱなしで務めることができ
満足の二日間を過ごすことができた

初日の夜、学生食堂で開かれた懇親会にも招かれ
現場の話が聞かれる貴重な交流の時間になり
楽しいひとときを一緒にさせてもらった

また、昨年のメンバー、春に勉強した若者たちも
休憩時間にわざわざ顔を見せにきてくれた

最近は、どこの仕事も
今回が最後になるかもしれない
と思うようにしている

いい仕事をしたいというより
悔いのないように
楽しい時間にしたいと思うので
変な気負いもなく
リラックスできてよい

今回も満足してキャンパスを後にして
昨夜遅く戻ってくることができた。

読書から得られるもの。

2009-01-20 18:13:16 | 本・読書・音楽
明日から二日間、宿泊で某大学へ行って来る

与えられたテーマについては年末に準備をしたが
昨日、今日と内容を再確認していると
ついつい手直し、追加をしたくなり
一か所をさわると他にも影響して四苦八苦

いまはコーヒー休憩中、頭を冷やさず温めて・・

完璧はないのだからといつも言い聞かせているのだが
これが自分の仕事スタイル、変わらない

集中力、持続力の減退は感ずるが
よりよいものにしたいという意欲はいささかも
変化していないのでまあいいか
それがこの年齢まで現役でいる要因だと思っている

行き先、対象によって違うが
大抵の場合は図書の推薦をすることにしている

読書を学びの力にするなら本から得られる情報や知識や
疑似体験は刺激や指針や課題や気づきを与えてくれる
本はかけがえのないプラスをもたらせてくれるもっとも
手近で安価な財産だ

以前書いたいまヒット中の勝間和代さんが「読書進化論」で

"自分を進化させるリアルな本との出会い方"

について書かれているが、良書との出会い、著者から学ぶ
ことが実践行動に結びつくような本選び、読み方をしたい


明日は、三冊ほど紹介してくることにした

来週末も別のところで二冊の推薦本を用意している
とにかく本との闘い、時間をうまく活用する以外ない

自分の場合、テレビはニュース以外見ないが
惰性的になりがちなインターネットとの付き合いを
うまくやることで時間の浪費を注意したい

インターネット、この時間もまさにその通りかもしれない

ここでストップして明日の詰めをしないと・・・。

年下の友人がたくさんいますか?

2009-01-19 19:30:54 | 交流
先週の金曜日、年末に声をかけておいた所属
している会のメンバーと梅田で会った

この会はメンバーがだれであろうと必ずその時間内に
やることがある

近況報告という時間、これが滅茶苦茶に盛り上がる
黙っているといくらでもしゃべるので進行係りは大変

今回はとくに新年初顔合わせということもあり
去年のこと、スタートした今年の抱負や目標について
アルコールが入ってほろ酔い気分もあり
熱気がむんむん
しかし、内容はまじめ、真剣そのもの。

参加者のほとんどが40代の現役ばりばりの男女だから
同席して熱気や新鮮な情報をもらえてこちらも熱くなる

資格取得(この話が多い、よく勉強している)、転職成功
人事異動、セミナー講師、会社のPR、海外演奏活動・・
10数年ぶりに社長の営業、新製品の売り出し、震災の体験等
話はつきない

とくに今年から勉強を始めて取得したいと思っていた資格を
二人が取得していた話には、一歩遅かった!

二次会に繰り出して地下鉄終電までつきあった

もちろん自分も発表した
古希になる話と東海道五十三次ウォークとある検定試験の
受験のこと

帰りがけにママさん社員のPさんが

”ランドセルさん(ここは本名)は、いつも若い人の中に
入って最後まで楽しんでいるのに感心しています"

と話しかけてくれた

"こちらこそ、いつも遊んでくれてありがとう"


昨日、読んだ口癖理論で大活躍の佐藤富雄さんの本に


「年下の友人がたくさんいますか」

「若い人に好かれ、誘われるかどうかで、生き方の完成度がわかる」

こんなことが書かれていた、生涯現役脳をつくるには、若い人と
接することが必要だということなのだろうが

その点、自分の場合は、若い人が大勢いる会に所属しているの
で恵まれている、親子でもおかしくない年下のメンバーが遊んで
くれるのだからありがたい

もちろん、こちらから出かけて行くフットワークと
一緒になって楽しむハートワークがないと
若い人とネットワークは組めない

いつも自分に言い聞かせている
ウォーキングが単なる歩きで終わったら実りはその範囲
好奇心と経験と勇気を持って自分から一歩踏み出せば
すばらしい人脈や情報や刺激や出会いがもらえる
視野も広がり脳の活性化につながり老化を防いでくれる
と信じている

いつまでも遊んでほしいので自分から出かけたい
そして誘ってもらえるように元気でいたい。

18日、雨の希望の灯り。

2009-01-18 18:34:16 | ひとりごと
きのうの1.17、震災14周年の日
東京から戻ってきた息子と夕食をしながら
話題はあの日のことになった

お互いがあの瞬間に交わしたことば
あの日にとった行動
記憶は鮮明でつながっていた

今日、お世話をしているウォーキング倶楽部の来週の
「震災モニュメントウォーク」例会の下見を兼ねて
神戸を訪ねた

三宮駅を降りたら雨になっていた
体調のこともあるので雨の中の下見は中止することにして
おなじみの東遊園地へ

市役所のすぐ南側にあるマリーナ像は冷たく濡れていた
かかえている時計はあの時間5時46分で止まったまま
このマリーナ像も震災で倒れた


昨日は竹筒のろうそくで1.17の文字がともされた
遊園地もきれいに整理されて普段の広場に戻っていた

冷たい雨の遊園地を訪れている人は少なかったが
希望の灯り前で手を合わせている人が見られた


{1.17希望の灯り}に刻まれていることば

1995年1月17日午前5時46分
阪神淡路大震災

震災が奪ったもの
命 仕事 団欒 街並み 思い出

・・たった一秒先が予知できない人間の限界・・

震災が残してくれたもの
やさしさ 思いやり 絆 仲間

この灯りは
奪われた
すべてのいのちと
生き残った
わたしたちの思いを
むすびつなぐ


希望の灯りのすぐ近くにある
慰霊と復興のモニュメントへ寄った


このモニュメントは階段を下り地階にある
神戸市で亡くなった人の名前がプレートになって
壁に埋め込まれている

4年前にはここにウォーキングクラブメンバー全員で
半年間かけて折った6433羽の折鶴をささげたところ
(当時聞いた亡くなった人の人数分、現在は6434人)


ここには友人の息子さんのプレートがある
そっと手を触れて目礼してきた
ご自慢のK大学の学生だった

その友人は、震災関連NPOの中心になって
各地の震災のたびに心の復興にまでかけずりまわっている
はるかのひまわり運動を中心に推進している人だ

公園内の震災跡に寄り道して
雨の神戸から戻ってきた

(60cmの段差がついた跡)


(道路の陥没、波打つ石垣)

来週の日曜日はメンバーと再びここを訪れる。


大震災から14年目の日。

2009-01-17 18:48:15 | ひとりごと
あれから14年目、今日は阪神淡路大震災記念日
お世話をしているウォーキングクラブでは
「1.17ひょうごメモリアルウォーク2009」を例会にして
西宮からHAT神戸まで参加することにしていたが
自分がいけなくなってメンバーは自由参加とした。

ゴールのHAT神戸(神戸東部新都心)の未来防災センターでの
防災イベントに参加したかったので残念。

来週は、例年行っている「震災慰霊碑めぐり」を例会にして
モニュメントをめぐってくることにしている。

相変わらず体調が思わしくないので午前中は病院へ
午後には緊急の用事で帰阪してくる息子を待った。

時間が遅れるようだが
まもなく戻ってくるだろう

14年前の今日は、息子も自分も忘れられない日
あの日の二日前に息子のセンター試験が終わっていた
そしてあの日は火曜日だった。

前夜の16日から17日になるまで
センター試験の自己採点から
受験校を変更することになり話し合いを続けた
その結果17日は息子と変更する受験校の見学を兼ねて
願書をとりに行く予定にした。

しかし

背中から突き上げられるような衝撃に目を覚まし
激しい揺れにはどうすることもできず身を任せ
たままだった。

さいわいわが家は被害がなかったが
それでも廊下や壁にひびがはいった
隣の公園は至る所で大きな亀裂や断層ができていた。

電車はストップ
電話は通じない

テレビで惨状が広がるのをただみるだけで
なにもすることができないまま過ごしたことを覚えている。

息子は受験のことが気になっていたが
どこまで被害が及んでいるのかもわからず
学校にも受験する学校にも連絡がとれず
あの日の夜

心配するな、お父さんが歩いてでも願書を取りに行って来る!

と言って励ましたことを覚えている。

あれから14年

息子はまったく予想もしていなかった東京へ
結果的には震災が息子の進学先を変えることになり
それから14年目の今夜

新たなスタートの話し合いに戻ってくる
1月17日、不思議なめぐり合わせだ。

亡くなられた6434人の御魂に心から哀悼の意をささげます。

新井選手の護摩行に思う。

2009-01-15 21:25:03 | チャレンジ
阪神の新井選手が、鹿児島の最福寺で護摩行をしていること
が報じられている

今年で5回目という修行は、4日間で7度も℃500度、高さ
3メートルの炎の前、1メートルの距離で座禅を組み約2時間、
一度の行でくべる護摩木は、昨年の2000本から大幅に増え
て3000本。

行の後は、炎に焼かれて両ほおが赤く腫れ、唇の回りには水ぶ
くれができているらしい、何度も失神寸前になったという。

それに同行している選手もおり、別のお寺でも護摩行を始めた
選手がいるという。

そこまでやって技術が上がるわけではないだろうし、野球がう
まくなるわけでもないだろう。

なぜ、やるのだろうか。

清原選手から始まり金本選手が続き、そして新井選手へ
やっているのは一流といわれる選手、なぜ、だろうか・・・。

一流といえどもスランプはあるし、一流の技術を維持し、
さらに高め、チームやファンの期待にこたえるだけの成績
を残さなければならない、そのプレッシャーは、並み大抵の
ことではないと思う。

プロのスポーツ選手が、よく、最後は「気持ち」と言うが
それだろうと思う。

不安、ピンチ、それに打ち勝つには、技術を超えた精神力が
最後の砦になることを知っているからだろう。

護摩行だけでなく、スポーツ選手は、この時期、さまざまな
トレーニングをしている、お相撲もそうだ。

それに引き換え、自分はどうなんだろうか・・・?

昨日の自分のブログが、いかにもだらしない、身体を酷使
する仕事ではないが、自分もプロ、ビジネスマンもプロだ。

いずれ自分の賞味期限は来る
スポーツ選手は、それをよく知っている
一年でも長く現役でいたい。

自分もそうだ
自分を磨き、鍛えて賞味期限を延ばすことが現役の条件
そのためになにをしているか問われていることを肝に銘
じておかないと引退させられる。

新井選手の護摩行は、決して他人事ではないと思う。

今日は、身体の不調を顧みず、たまっている仕事のため
に外出、夕方から仕事場で資料作りに取り組んだ
その気になれば不調も忘れられる。

自分をごまかしてはいけない
甘やかしてはいけない
言い訳して逃げてはいけない。

本日休刊。

2009-01-14 21:54:49 | 健康
先月19日からずっと書き続けてきた日記を
今日は休刊することにした

昨夜から激しい腹痛が続いて寝られず
今日一日も痛みが治まらず
仕方なく昨日のブログ整理で
なにをする気にもなれず一日を過ごした

先月から続いていて薬はたくさん?もらって
三食後に服用してきたのだが効き目がないのか
奈良の寒さもこたえたのかもしれない

明後日が担当医の診察日なので行くことにして
今日は休刊とすることにした

まず健康、損なうとつらい。



古寺巡礼ウォーク(第1回)①東大寺②興福寺

2009-01-13 15:37:02 | 古寺巡礼
ウォーキングを始めて9年目、その間、4年間、協会に所属して多くの例会に参加してきたし、ウオーキングサークルを主宰して7年、個人でも熊野古道、琵琶湖一周、しまなみ海道を歩いてきた。東海道五十三次ひとり歩きも順調にすすんでいる。

そして今回から新たなウオーキング・シリーズ

「古寺巡礼ウォーク」100寺を訪ねてのスタート!

東海道五十三次に続く二つ目のシリーズウォーク、三年かけて関西の100寺をしっかりと歩いてみることにした。もしかしたら、これが求めていた最終のウオーキングのような気がする。

簡単な記録でも残しておけば、お寺巡りとカメラの好きな息子やまだ見ぬ孫に足跡として残せるだろうと思う。

成人の日、その一歩を踏み出した。
奈良は寒かった、12時過ぎに近鉄奈良駅についたらちらちらと雪が寒い出迎えをしてくれた。
温かいそばを食べて天気の回復を待ち12時45分、駅前の行基菩薩像前から巡礼ウォークのスタート


後から行く興福寺の五重塔が見える奈良公園。




こんなに寒くても奈良は観光客でいっぱい、おなじみの鹿もせんべいをねだってすり寄ってくる。


順番、鹿せんべい売りのおばちゃんのところで待ってる鹿たち
おーい、誰か早くせんべいを買っておくれ!


国立博物館前を通り右へ、最初の巡礼古寺は、奈良の象徴的な「東大寺」


若草山は山焼き前の冬景色、鹿は元気!


東大寺、もう、何度来ていることか、周辺も含めてよく分かっているのだが、それは白紙にして、しっかり巡礼ウォークにこだわることにした。
東大寺の総門にあたる正門の南大門から大仏殿(金堂)へ向かう、南大門には左右に運慶、快慶の大きな金剛力士像(国宝)が力強い表情で迎えてくれる。


南大門を入ると大仏殿(後ろの建物)がある中門(左前)へ、そこを壁にそって左へすすむと大仏殿へ入る入口がある。


中門を左へすすみ拝観受付から入ると目の前に木造建造物世界一の大仏殿が寒空に威容を誇るように立っている。そして、中に入ると目の前に本尊の大仏さん(盧舎那仏・国宝)、高さ15メートル、見上げるようにして、久しぶりに写真を撮らせてもらった。




柱の根元に大仏様の鼻の穴と同じ大きさの穴があいていてそこをくぐり抜けると幸運がくるとか・・・子供たちが親の写真撮影にモデルにされて、何人も挑戦している姿がほほえましくて思わずこちらもシャッターを押した。


東大寺は、奈良時代の8世紀中ごろ神亀5年(728)、聖武天皇の皇太子、基王の菩提を追修するために建てられた金鐘山寺(きんしょうせんじ)が始まり。745年に東大寺となり、大仏は752年に開眼供養が行なわれたが、大仏殿や講堂などの伽藍が完成したのは789年。現在の伽藍は1709年に再建されたものである。華厳宗大本山。本尊は盧舎那仏で天平勝宝5年(753)に完成。

この巡礼ウォークでは、「朱印」をいただくことにした。朱印帳は、熊野古道巡りで完歩した熊野本宮大社で買ったもの。熊野古道から古寺巡りへと引き継いで行く。



次に訪れたのが「戒壇院」、大仏殿中門から西へゆるい坂道を降りて行くと右手にある。
戒壇院は、天平勝宝6年(754)に唐から来日した鑑真和上が、東大寺大仏殿の前で、日本に初めて戒律を伝えたことが建立の由来になった。
戒壇とは、僧侶が戒律を守ることを仏前に誓う儀式を行うところ、戒壇院では、僧侶のためにの資格認定の儀・授戒が行われていた。いまの本堂は、江戸時代に再建されたもの、厳粛な雰囲気の静けさの中にひっそりとたたずんでいる本堂は、戒壇の名にふさわしい趣がある。

堂内では、誰もいない、自分一人だけで国宝の四天王立像を身近に拝観できて感動を覚えた。朱印には「国宝四天王」と書かれていた。でもここを訪れる人は少ない。


お堂の石畳の両側を白砂が敷かれ若草山をきれいに臨める、おすすめの戒壇院。


次は、二月堂へ向かうが、途中、少し寄り道して正倉院へ、ここは宮内庁管轄なので土日祭日は閉まっていることを知っていたので塀にそって歩き、やや遠回りして柵の外から建物が見える場所まで移動してみた。寒いのに柵の間からカメラを向けたりのぞいたりしている人がいたが、遠くから来た観光客なのだろうか・・・。



二月堂には、東大寺の裏参道を通る、大仏殿の背中を歩くのもかくれた楽しい道、やがてゆるやかな坂、やわらかな曲がり道は土塀の続く石畳の小道になり、向こう正面に二月堂が見えてくる、ここの風情は大好きだ。カメラスポットで写真でもよく紹介されているところ。ここは女性の散策している姿がいつもみられる、外人さんも多い。



二月堂は、春の到来を告げるお水取りで広く知られている。二月堂は、下から見上げても美しい建築様式だが、舞台のある回廊からの眺めはすばらしい。東大寺の大仏殿も正面下に見え、奈良市内も一望できる。


ここから生駒山に落ちる夕陽の美しさは格別で毎年、夏の夕刻に写真撮りにきているところだ。


寒いので境内にある茶店でおはぎ抹茶を頼んだ、おはぎの大きかったこと、でも温まった。社務所で、朱印をお願いした。


すぐ隣の三月堂の前を四月堂を右にして東大寺方面に石段を下りながら、鐘楼、行基堂、俊乗堂へ寄ってみた。

東大寺の前にある鏡池を散策、ライトアップの時期、ここの池に映る東大寺の姿はカメラスポットとして気に入っている。
そこで「古寺巡礼ウォーク」と書きこんだ用紙とリュックと帽子の記念写真を撮った。

鹿と観光客でごつたがえしている東大寺門前のお土産物屋の前を通り、巡礼ウォーク二番目の「興福寺」へ向かう。時間は午後3時半、日没までは時間がないのでここは速歩。


まず、猿沢の池から興福寺の五重塔を眺めたい、ここは、夏の燈火会のビューポイント、珍しく人がいなくてのんびりと池の周りを歩くことができた。


興福寺は、藤原鎌足が、大化改新(645年)の成功を願って建立した釈迦三尊像を安置するため、669年に妻の鏡女王が京都山科に建てた山階寺を起源とする、そして、和銅三年(710)の平城京遷都に際して、寺は左京三条七坊の地に移して興福寺と称された。以降、藤原氏や朝廷が深くかかわったために絶大な権力をもつに至り、その結果、わが国の宗教界はもとより政治、経済、社会、文化に多大な影響を及ぼしてきた。
1998年に世界遺産に登録、国宝26件、重要文化財44件、うち国宝彫刻17件は、わが国の国宝彫刻の14%を占めるという。(興福寺パンフレット参考)

すでに4時をまわり日は西に傾き、その夕日から受ける影が五重塔が一層に引き立たせ、若草山を背にする位置からの五重塔は奈良1番の高さを見せつけてくれた。
光明天皇によって天平2年(730)に建立された五重塔は5回焼失し、いまの塔は応永33年(1425)に再建されたもの、高さ51メートル、五重塔では、京都・東寺に次ぐわが国2番目の高さ、国宝。


なにしろ広大な敷地、建物、じっくり見るには半日もかかるといわれているくらいでとても時間がないので、五重塔の隣り、国宝の東金堂を拝観することにした。
興福寺を訪ねると五重塔とこの東金堂は必ず目にする建物で、聖武天皇が奈良時代の神亀3年(726)に元正天皇の病気回復を願って造立した薬師三尊を安置するお堂、焼失あと応永22年(1415)に再建された。堂内の真中に座する薬師如来座像は手の届く位置にあり、その美しさと堂々とした威厳が格調の高さを感じさせてくれた。朱印をいただいて100メートルほど南にある南円堂へ



南円堂は、西国33ヵ所の9番札所だけに、リュックサック姿やウォーキング姿の人が大勢きていた、興福寺の中では、すこし雰囲気の違うところと感じた。
八角形の朱塗りのお堂で、ここにも堂内に国宝の観音像と四天王立像がある。



興福寺のはしの目につきにくいところに国宝のある北円堂、下がったところにある
国宝の三重塔をめぐるうちに日没、薄暗くなり予定コースを巡ったので近鉄奈良駅へ、寒風の奈良公園内を約4時間、拝観を含めて12000歩、しっかりと歩いた。17時2分の快速電車に乗った。

普段から仏像は、しっかりと観ていると思ったが、改めて時間をかけて訪ねてみると違った見方があるものだと気がついた。

古寺巡礼ウォークは、自分が自分と向かい合うウォーキングだと感じた。眺めている仏像の中に実はもう一人の自分がいるような、その自分がこちらの自分を見ているような、そんな気がしてならなかった。
自分の中にいる仏様、仏心、それを忘れてはならない。

その思いをしっかり持って、自分をしっかり見て、しっかりと対話して、しっかり歩くことにしたい。

100寺巡礼ウォークはスタートした、3年後の100寺はどこの古寺やら、楽しみだ。

うれしいふるさとの高校生の快挙!

2009-01-12 23:40:52 | チャレンジ
成人の日、自分にとっては、はるか昔のこと。

ただ、はっきりと覚えている
当日は、盲腸の手術で入院をしていた。

当時、人気コーラスグループのダークダックスが
記念式典で歌ってくれることになっていたので
出席できなくて悔しかった思い出が今でもある。

さて、今日は「私の古寺巡礼ウォーク」スタートの日
それについては明日に譲るとして

久しぶりに高校サッカーの優勝戦に出場する
ふるさとチームの戦いが気になって
奈良を歩いていても携帯でニュースを探っていた。

結果は、自宅に戻ってきてやっとわかったが
41年振りのふるさと高校生の勝利、うれしかった。

この高校は県下有数の進学校で
(陸上の為末選手、歌手の吉田拓郎、奥田民生の出身校)
実兄が、定年まで長く教員生活を送った学校でもあるので
余計にうれしかった。

自分が高校の頃は、広島県はサッカー強豪県
弟の出身高も在籍していた時、単独全国優勝をしている
西宮で全国大会をやっていたはるか昔のことだが

いくつになってもふるさとはふるさと
よくやった、皆実高校おめでとう!