昔の人は、東海道を12日から15日で歩いていたそうだ。
一日にすると約40キロ、十里くらいだろうか・・・それにしても大変な距離だ。
道の事情や、衣服、履きもの、食べ物等の条件は、いまとは比較にならないほど悪かっただろう、しかも、歩き続けるのだから大変な難歩行だったに違いない。
その東海道五十三次を三年計画で、4月に京都三条大橋から、東京日本橋をめざして歩き始めたが、完歩に要する日数は28日前後を想定している。その半分の日数で昔の人は歩いたというのだから、いかに健脚であったかということだ。比較にもならない。
その東海道五十三次シリーズ第4回を祭日の16日に歩いてきた。
今回のコースは、石部から水口を経て土山まで(いずれも滋賀県)、それぞれ石部宿、水口宿、土山宿があるところだ。
5月にゴールした石部宿道の辺広場(石部中央交差点)を8時30分にスタート。
宿場町の風情の残る早朝の石部の街道を歩く。日の丸が掲げてある旧家が続く。
古い街並みの残る街道をどんどんすすむ。歩道のない道、車に神経をつかいながら歩く。花の手入れをしていたご婦人が”おはようございます”と声をかけてくれた。とても気持ちがいい。
落合橋の手前にあるという石部宿東口跡を探すがないので、草刈りをしていたお父さん軍団に聞いてみた。二人三人と寄ってくるが、結局誰も知らない。
”気をつけて”という声をもらって先を急ぐ。長い距離になるので、早朝に距離を歩いておきたい、ここは、ピッチを上げる。
やがて右側、北島酒造の前に来た。個人的なことだが、普段から、ここ造り酒屋北島酒造のお酒を愛飲している。鈴鹿山系の水を使っているらしいここのお酒はうまい!どうしても見ておきたかった。なるほど、とても風格のある作り酒屋さんだ。このあとも銘酒造り酒屋さんの前を通り写真に収めているが、今回はこちらだけということでお許しを!
川底が道路より高い天井川になっている由良谷川の下のトンネルを通りぬける。
夏目の一里塚で最初の休憩。昨日までの雨で湿度は高く、首にまいたタオルももう汗を含む。今日は、水分補給を十分にすること。
しばらく歩き、また天井川の大沙川のトンネルをくぐる。堤防に樹齢750年という弘法杉の老木がそびえている。弘法大師が通りかかったとき、景色がよくてこの場所で昼食をとり、その時に使った杉の箸を堤防に差し込んだら、のちに成長して大杉になったという伝えのある杉。
さらにすすむ、いつのまにか曇り空、田園風景を楽しみながらどんどんすすむ。
JR三雲駅をすぎ野洲川にかかる横田橋をわたる。
湖南市から甲賀市に入る。野洲川にそって1キロくらいか、ひときわ目立つ横田の常夜灯が見えてきた。ここは、かって横田の渡しがあったところ。常夜灯は遠くからでも旅人の目印になるように10.5メートルの高さがあり、東海道でも最大級のものだそうな。
横田の渡しの常夜灯
野洲川、かっては、このあたりを横田川といったらしく、ここに渡しがあった。当時の石段の一部も残っている。ここで休憩。予定時間より早い到着で、5時にゴールという目処がついた。・・・あとから雨に遭うとは想像もできなかった。
泉川をわたると泉一里塚があり、広い道に出ると、そこからは、道は一直線に伸びている。選挙もまじか。ポスターも至るところに貼られているが、この日、まったく選挙カーには出会わなかった。
街道の名残の松並木があちこちに残っている。ただ、道を拡張したり整備したりして、どうやら、ほとんどの松並木は消滅したらしい。
予定より30分も早く昼食場所と予定していた水口の五十鈴神社に到着した。一角に林口一理塚があった。ここで、ゲートボール帰りのおばさん達としばし談笑。どうやら、ひとり歩きのこのじじいに興味をもったらしい。
こういうことも、ひとりウォークの楽しみの一つ。やっぱり女性の会話力はたいしたもんだ。いろいろと話しかけてくる。楽しい。一人でさびしくないかと盛んに聞かれる。”男は、一週間、黙っていてもなんともないんですよ”というたら、”女性は、しゃべり相手がないと楽しくない”と言い返してきた。そうだろう! 神社の鳥居の横で昼食。
時間に余裕があったので、予定していなかった水口城跡へ足を伸ばした。自然の湧水の堀をめぐらせた城で、別名「湧水城」というこの城は、三代将軍家光が上洛する際の宿館として築いた将軍家専用のもの。周辺を散策して元の道へ、ここで、ほぼ、本来予定していた時間になった。
近江鉄道を渡ると正面にからくり時計のある三筋につきあたり、真中をすすむ、ここが旧東海道。いまは、アーケードの商店街になっているが、往時を偲ぶ古い建物も多い。
問屋場跡・・この碑に書かれていること→【問屋場】は、宿駅本来の業務である人馬の継ぎ立てを差配したところで、宿駅の中核的施設として、公用貨客を次の宿まで運ぶ伝馬と、人足を用意しました。水口宿では、江戸中期以来はここ大池町南側にその場所が定まり、宿内の有力者が宿役人になり、運営にあたりました。
水口本陣跡の碑・碑文から この地は江戸時代水口宿の本陣が置かれていたところです。本陣とは大名・旗本・宮家・公家・幕府役人などが休泊するための施設でこれわ補助するものとしては脇本陣があり、水口宿ではその両方が宿の東部の昨坂町にありました。本陣は規模が大きく、一般の旅籠屋に許されない門・玄関・書院などがあって格式を示し、その経営には宿の有力者があたりました。この本陣は代々鵜飼氏が経営にあたり、間口も一般の三軒分に相当する広大なものでしたが、明治二年に行われた明治天皇の宿泊をもって、その歴史を閉じ、その後建物も撤去されました。
水口宿の町並みをすすむ。
さらに進むと脇本陣跡、ここは、そのまま個人の家として使われている。
国道一号線を横切りすすむと水口宿東見付けにつきあたる。東見付(江戸口)跡という碑が立っている。
【見付け】とは、城郭の門など、外と接し警備を行う場所と書いてある。この地が水口宿の東端、すなわち江戸口となっていた。水口藩が成立し城下町になったので東西に警備所として見付が設置されたようだ。
ここを右に急な坂を下っていく。このあたりから、しばらくは、上り下りの道が続く。いよいよ空模様があやしくなってきた。
道の向い側を反対から来る男性がいるが、地図を盛んに見ているので声をかけなかった。リュックもなしの軽装なので遠くからの人ではないのかなあ・・
しばらく静かな街道をどんどんすすむ。今郷一理塚の前にきた。石碑は、選挙看板でふさがれていて撮れない。お役所仕事はこんなもん、ちょっと横に立てればいくらでもスペースはあるのに。
再び一号線と合流する地点に水口宿の石碑が立っている。とうとう、ぱらぱらと雨が降ってきた。ここで振られても、どこにも雨宿りするところはない。足は大丈夫だが、ついついペースが落ちてくる。クラブで行くと、交代しながらだれかが、ペースメーカーとなって歩くのだが、一人で歩く時は、そこがむずかしい。全体の進み具合と、次の目的地までの距離と時間を設定して、大きくタイムオーバーしないように、しかも、見どころは押さえていかないといけない。写真も撮りたい。忙しい。ついつい、行きすぎて諦めることになる。
右手には「デジカメ」、左手に「地図」
しばらくは、田園の道が続く。かんかん照りも困るが雨はもっと困る。
茅葺屋根の旅籠・東屋跡
名産の土山茶畑
国道一号線を歩道橋で横切ると、ここからの道は、ずっと旅籠跡の石碑が続く。その数はいくらになるやら・・・ここらで雨足が激しくなり軒先で雨宿りしながら、少しずつすすむ。店はないし、もちろんコンビニなどありはしない。
写真を撮りたいし、雨は気になるし・・・道の両側が旅籠跡ばかりだから、写真を撮っていると進まない。
明治天皇聖蹟碑、旅籠跡の続く海道にひときわ大きな碑が立っている。明治天皇の行幸碑はあちこちで見かけた。
東海道五十三次ひとり歩きの証明写真。倉庫の軒先で30分ほど雨宿り、小雨になったので通りかがった男性に撮ってもらった今回たった一枚の証明?写真。
小雨になったのでまた歩き始める。とにかく急ぐ、まだまだ土山宿の中心、本陣跡までは距離がある。足も今が一番しんどいとき。
しばらくすすむと夕立のような雨になってきた。とても歩ける状態ではない。運がよかったのは、ちょうど野洲川にかかる自転車歩道専用橋が目の前、ここは、橋に屋根がかかっていてここで20分の雨宿り、さびしい何もないところだ。
雨の国道一号線をすすむ。東京から441.5キロ地点。これから歩く距離だ。
写真を撮ってくれた男性が、国道一号線に出るとコンビニがあると教えてくれていたのでカサを求めてコンビニや、どこや!と進んで見つけたコンビニは、なんと、閉鎖していた!こらっ、こらこらこらー!
国道から右の街道をすすむ、ここは、両側の至るところに旅籠の碑が続く、一般の家にも、元旅籠○○屋という標識が付けられている。
その数から想像しても、土山宿の規模の大きさには驚いた。
大黒橋に書かれた鈴鹿馬子唄の絵
坂はてるてる 鈴鹿はくもる あいの土山雨が降る
土山陣屋跡・・【陣屋】とは、代官、その他の役人が在住した屋敷のこと。
高札場跡【高札場】とは・・幕府が発した法令などを記した「高札」を掲示した場所のこと。人の目につきやすいところに設置した。
大黒屋本陣跡・問屋場跡【問屋場】とは・・宿の公用を行う事務所のこと。仕事は、幕府の公用旅行者のための人足や馬や宿泊所の手配をしたり飛脚の管理をしていた。
土山宿本陣跡
土山宿本陣は、宝永11年(1634年)、三代将軍家光が上洛の際に設けられた。本陣は、当時の大名、旗本、公家、勅使が宿泊したもので、屋内には現在でも当時の使用されていたものが数多く保存されており、宿帳から多くの諸大名が宿泊したことを知ることができる。
明治時代になると、皇室の東京・京都間の往来も頻繁になり、土山宿に宿泊されることもしばしばであった。なかでも明治元年九月、天皇行幸の際には、この本陣でで誕生日を迎えられて、第一回天長節が行われ、土山の住民に対し、神酒が下賜され、今なお土山の誇りとして語り継がれている。本陣は、明治維新で大名の保護を失い、明治3年(1870)宿駅制度の廃止に伴いなくなった。(説明板を抜粋)
土山宿問屋場跡
問屋場は、公用通行の客や荷物の人馬継立、宿泊施設の世話、助郷役の手配など宿にかかわる業務を行う場所て、宿の管理を司る問屋とそれを補佐する年寄、業務の記録を行う帳付、人馬に人や荷物を振り分ける場指・人足指らの役人が詰めていた。土山宿の問屋場は、時代とともに場所を移り変わってきた。宿駅廃止にともない問屋場も廃止されたが、その施設は成道学校として利用された。。(説明板を抜粋)
二階本陣跡
雨上がりの土山宿町並み、どこまでもこのような街並みが続き、まるで映画のセットのような感覚になりながら歩いた。
旅籠平野屋には、森鴎外も泊まった。
来見川にかかる来見橋に描かれた東海道の絵
雨も上がったし、ゴールはもうまじかのはずだ。
あいの土山・道の駅が見えてきた。ゴールはその向かいの田村神社。
午後5時37分に田村神社にゴール!
予定より少し遅れたが、雨に足止めされながらよく歩いた。
歩数 約47,000歩 距離 約34キロ
☆交通経路 往路 JR新大阪→草津乗り換え→石部
復路 あいくるバス田村神社前→JR貴生川→草津乗り換え→新大阪
☆この日、新潟でまた地震災害が発生した。亡くなられた方にはお悔やみを、災害に遭われた皆様には、お見舞い申し上げます。