洛北の紅葉めぐり、今回は3回目の金福寺です。
金福寺は先の圓光寺や詩仙堂と違って余り有名でないのか、拝観の人も少なく会ったのは数人でした。圓光寺、詩仙堂では見かけた外国の方も見かけませんでした。
パンフによれば佛日山金福寺:開基は慈覚大師、芭蕉・蕪村・村山たか女 ゆかりの寺とありました。
また、江戸時代中期、荒廃していた同寺を圓光寺沢雲長老の法嗣鉄舟和尚が再興し臨済宗南禅寺派として今日に至っているとありました。
詩仙堂から金福寺への途中に本願寺北山別院。
緑の生け垣越に真っ赤な紅葉が陽を受けている金福寺(こんぷくじ)、門前が少し窮屈そう。
白砂が映えています。
本堂には残念ながら今回もあがりませんでした。
蕪村とその門人寺村百池の句碑。
[芭蕉庵」つっかい棒がないとだめなのかな? パンフの写真には棒がありません。
芭蕉庵の由来:元禄の昔、芭蕉は山城(京都)の東西を吟行した頃、当寺の草庵で閑居していた住職鉄舟和尚を訪れ、風雅の道について語り合い親交を深めた。芭蕉を敬慕していた与謝蕪村がその後当寺を訪ね荒廃していた庵を再興し、天明元年、俳文「洛東芭蕉庵再興記」を当寺に納めた、とありました。
その時の蕪村の句
耳目肺腸 ここに玉巻く 芭蕉庵
また、当寺で詠んだ芭蕉の句
憂き我を さびしがらせよ 閑古鳥
だそうです。また、虚子なども訪ね来て俳句を詠んでいるとのこと。
そして、村山たか女についても案内パンフレットで初めて知りました。井伊直弼が彦根城の埋木舎で不遇な部屋住の生活をしていた頃の愛人だった。大老が桜田門外の変で暗殺されたあと、勤皇の志士に捉えられるが後、尼僧となって金福寺に入り67歳の波乱の生涯を閉じ、本墓は先に訪ねた圓光寺にあり、当寺には御位牌などが伝わっているという。
芭蕉庵の裏手にある「洛東芭蕉庵再興記」。
「呉春の碑」ひょっとしてと思い、帰ってからネットで検索しました。やっぱり池田の酒「呉春」に関係がありました。
上の案内看板で愛宕山を確認できました。
与謝蕪村の墓、右は蕪村門下の江森月居の墓。
右が呉月渓(松村呉春:江戸中期の絵師で四条派の始祖)、左が呉景文(呉春の異母末弟で弟子)の墓。
呉春:与謝蕪村の内弟子になり俳諧や文人画を学び、後年、妻や父親を相次いで亡くし、しばらく現在の池田市に転地療養する。この地の古名である「呉服(くれは)の里」で新春を過ごした事に因み、呉春、伯望の画号を名乗るようになる(この縁で、池田市には今でも「呉春」と言う名の地酒がある)とネットにありました。松村呉春とお酒の呉春が繋がりました。次回仲間との飲み会にうんちくが出来ました。
芭蕉庵の草屋根に根付く草ともみじ葉。
庵の中に立てかけてありました。蕪村ここでよめる句
「冬ちかし 時雨の雲も こゝよりぞ」が後ろから。2行目にありました。
帰りに気付いて一枚。
前回この三寺を訪ねたときは、JR京都駅まで歩いて帰ったのですが、今回は松ヶ崎駅へ引き返すこととし白川通を横切って途中小学校傍の公園で遅い昼飯にして、高野川沿いまで出ました。
北山通の下(南)の松ヶ崎の家並みなど大きな屋敷もあり、京都らしい町歩きは天気も好く、初めての帰り道だったこともあって気持ちよく歩けました。
帰ると1万9千歩でした。