青い鳥を常に求めて

人生の理想を追求する姿勢で何事にも当たりたい。

七五三祝いの赤飯

2005-11-19 14:20:00 | Weblog
裏のお医者Yさんの奥さんが赤飯を持って挨拶に来る。

こちらの孫二人にもお祝いを頂いていたので、二人目のお孫さんの誕生のお祝いを少ししてあった。

お姉ちゃんが七五三らしい。今から神社ということであった。

私の大好物の赤飯をお昼にいただけるとおもったら、昨日新潟の知人が送ってくれた、手作りコシヒカリを試食の日であった。

グラタンの出来が良く美味しい。すぐ、孫たちに食べさせたくなる。

夜はお赤飯を頂こう。朝は小春日和かとおもっていたが、風が出てきて、こ寒くなってきた。

今は亡き、母の編んでくれたカーデガンを出して着た。暖かい。プラス母の愛か。

手先の器用な人で、戦後物資のない時、みなが飼っていた羊の毛をつむぎ、それでセーターなどを編んでいた。

われわれは殆ど母の手編みのセーターだった。近所の人から頼まれて、生の羊の毛を洗ってつむぎ、セーターに加工することを頼まれていた。

男だが、母の手助けの出来るのは兄弟の中で私一人だった。

自転車の車輪を利用した簡単な足踏みのつむぎ機械だが、田舎の女性がつむぐと縄のような太さになる。

これを極細につむぐのはなかなかの技術を要したが、母が休んでいる隙に、私がよくつむいだ。

そんなことで、私も、セーターと靴下程度は編むことができる。昔の海軍さんはよく船内でしたと聞いている。

今様の機械編みのように、部分を作ってつなぎ合わせる方法ではなくて、全部胴の部分から始まって、袖付けまで、編み棒を変えるだけで、通して仕上げてしまう。

上が男三人だったから、良く、母「このこが女の子だったら良かった」と言ったものだ。

人のすることは何でも出来るという自惚れも手伝って、何にでも挑戦した。

時計屋さんが疎開してきて、隣に来ると、その友達の家へ行っては、時計の分解掃除を手伝った。

今の子供も大人も愛玩に動物を飼う。私の時代は小遣い稼ぎも加わった。

ウサギは十数頭で、次々に子供を増やし、最後は業者へ。鶏も同じであったが、軍鶏は別の愛玩をかねていた。

中学時代、強い軍鶏をかごに担いで、よその地へ持っていって、戦わせた。血統の良いものを手に入れる手助けは父であった。

資産家の息子で、近郷近在に顔の広い父は、どこからかそれを仕入れてくれた。

当時は進学に皆、がり勉をしていた時だつたが、家の前を通る先生が見るのは、庭で軍鶏の世話をしている私の姿だったという。

どこかで記したかもしれないが、農家の鶏を飼っている主たちが、私に雌鳥が卵を産まなくなった時、私に相談に来るようになった。

手にすると分かるのだが、「今、季節で羽が生え変わる時、一休みしたが、一週間先には、また、生み始めるよ」と返事してやる。

その通りになるから、お礼と報告に来る。
そんなだから、高校に入試は300人中100程度の悪い成績であった。

今思うと、やりたい放題の幸せな少年時代であった。今の子供は何事も月謝を払い、教室で教わらないと、物事が出来ない。

数学の参考書が欲しくて、懸命に軍鶏の卵を後輩に買わせたり、川原にイタチのわなを仕掛け、イタチを捕獲して、稼いだ。

夏は都会から来る大人は立派な釣竿で一日10匹ぐらいで喜んでいる時代、私たちは、近くの竹やぶから切ってきた竹製の釣竿で、かご満杯の川魚を釣った。

それを竹串で、炉辺で焼いて、近くの町の叔父宅へもって行ってやると、喜んで、お遣いをくれる。

それで得た書物は私の宝だった。赤線だらけのぼろぼろになるまで読んだ。

東京から疎開してきた友人たちの家へ行くと本棚には何十の書物が飾ってあった。

羨ましかったが、全部頭に入っていないのは気の毒だつた。

秋は、学校帰り道は必ず途中の山や林によって、キノコを採って帰った。

私も隣の大きな市から疎開したのだが、すぐにその土地に馴染んだ。地元の友達と何でも競いあつた。

今、保護保護と駄目になった、渡り鳥などを霞み網で捕獲することを業とする人たちがいた。本当の焼き鳥の材料である。

だから、都会で、鶏の肉で串に刺して焼いているものは、焼き鳥ではなくて、焼き鶏だと笑ったことがある。

それも父の知り合いで、その中の良く鳴くものを分けてもらった。先祖の松林へ行き、45メートルのものを一本切ってきて、近くの田んぼへ立てる。

その下に「おとり」をおいて鳴かせると、渡り鳥が松ノ木に寄ってくる。その先へ「鳥もち」と称する接着剤を付けた木の枝を二本立てておくと、何羽もそこへ止る。

早朝、通学の前のひと遊びである。その中の優秀なものをまた、「おとり」に育てる。

それを見て、近所の同級生や後輩が真似る。
その「おとり」が役に立つ。

お金はないから、彼らは、お米や、こごめという、小粒の食用にならないが鶏のえさに必要なものをお礼に持ってくる。

ウサギのえさが欠乏する草刈の出来ない季節は、友人の畑へ行って、残っている白菜を失敬する。

そのこと二人ですることだから、盗みではない。と勝手に決めている。ウサギ、鶏、軍鶏や小鳥わ育てる捕獲することの先生にされていた。

門弟は同級生と下級生だ。よその町から来て大きな顔の出来たのはお先祖様のお陰だつた。

転校のときに、校舎へ入るのは、一般は昇降口だつた、私は中央玄関だった。正面には祖母が贈った大きな鏡に名前が入っていた。

横の時計は叔父の名前が入っていた。民営化騒動の郵便局も代々本家のものだった。

その日の放課後、学校一番のならず者だつた番長に呼び出された。

同級生と近所の子達は、きっと私は顔を張られて、怪我をしてくるものと慄いた。

「年はいくつだ」という彼に「同級生だからお前と同じだ」「お前はいくつだ」と言った具合に、私は負けず嫌いだったらしい。

小学五年生だった。彼の後ろにいる子分たちは高等科のでっかいやつが何人もいたのだから、普通なら恐ろしい筈。

今、思ってもどうしてそれを感じなかったのかは私自身分からない。

後で知って、学校きっての悪で、先生も手に負えない子供だったらしい。

隣町では同じクラスでは相撲で負けたことがなかったという程度の自信だつた。

背丈も体重も中程度。足腰が強かったので、組むとすぐ相手を投げ飛ばすのは得意であつた。

それでいて、長距離走は大嫌いで、短距離も50メートルはトップ。100メートルとなるとぐんと順位は落ちた。

今思うと、母譲りの低血圧タイプだった。瞬発力だけが優れていたと思う。

中学時代は相撲部をまかされ、横の野球部から助っ人を頼まれる有様だった。

グロープはなく、軍手を左手に軟式野球をした時代。祖母が着物の帯芯で手製のグローブを作ってくれた。

痛いからなり手のないキャッチャー引き受けた。バットはまた、先祖の山へ行って、桜の木を切ってきて、何本か作った。

昭和の宮本武蔵である。試合になると、私の打球は殆どが外野へ飛んだ。

七五三から何故ここへ来てしまったのか。よそ道へそれるのが得意な私である。

ここで、一休み。




AYANEチャン募金に

2005-11-19 11:39:00 | Weblog
ちなみに募金目標額1億3000万円に対し、11/18 PM4:30現在の募金額は8576122円
(銀行振込のみ・郵便局含まず)だそうです。

地元養老町役場には募金箱が備えられ、岐阜新聞、朝日新聞にこの関係記事が掲載された

暗い話題の多いこのごろ、ささやかなみんなの善意が子供を救う。

生体移植の問題が、日本には影を落とし、1億何千万もの費用がかかることに私は不満ではある。

朝から好天小春日和そのもの

2005-11-19 11:13:00 | Weblog

E電気のセール攻勢に、昨日の私のデジカメ

をみて、家内も見つけた。現在使用十分間に合っているが、電子レンジ極安値を買うという。

1時間前に行って、整理券ゲット。娘を笑っていられない。そんなくらいなら、一眼レフが買えるが、ここは辛抱。

熟年離婚にならないように山の神の顔を立てる。ご馳走を喜んで作ってくれれば安いものだ。

さあ、仕事だ。