「お姉さん」

「ちょっとお姉さん」

何度も掛かるその声に、河村静香は一向に応えなかった。
目の前には、野暮ったい顔の年配男性が見える。
「お姉さん!ほらしっかりして!ここがどこか分かります?交番ですよ、交番!」

「お姉さんってば!」

警察官は返事をしない静香に痺れを切らし、彼女の鞄の中を調べ始めた。
そして唯一の身分証明らしきものを見つけはしたが、警官は苦い顔だ。
「お姉さんはA大生?本人の学生証じゃないみたいですけど」
「拾ったのよ‥」

静香はそう呟いた後、いつかA大の中を胸を張って闊歩した場面を回想した。
ガラスに映った自分は、まるで魔法に掛けられたかのように美しく聡明な、
どこから見ても一流の大学生だった‥。

けれどあれは本当の自分ではない。
誰しもが振り返ったあの時の彼女は、束の間の幻のように儚い幻想だった。
いつしか魔法は溶け、今静香は身分も知れない曖昧な者として、こうして尋問されている‥。
「連絡先は?随分沢山番号が入ってるな‥どこに掛ければいいですか?」

「‥‥‥」

静香は警官からの問いに応えることなく、がっくりと頭を下げて机に突っ伏した。
警官は苦々しく溜息を吐くと、静香ともう一人の女性の方を向いてこれ見よがしに嘆いて見せる。
「女性が二人共朝から酔っ払っちゃって‥」
「ちょっと!違いますってば!何度言わせるんですか!
あたしは昨日飲み会があって!それで今この格好なんです!」

女はボロボロになった身なりで、静香の方を指差しながら事の顛末を口にし始めた。
「二日酔いに効くドリンクを買おうとしたら、
この人が残り一つだったそれを押し退けて奪ったんです!
それでもあたし、耐えたんですよ?!」

「そしたらこの女がカードの限度額で引っ掛かって、
それを買おうとしたあたしに問答無用でいきなりー‥」

ギャンギャンと捲し立てる女の話を聞きながら、静香はぼんやりとその時のことを思い出していた。
店員は言葉を選びながら、通らないカードを手にこう口にする。
「あのお客様、カードが‥」

リジェクトされるカード。
それを見た静香の心の中に、絶望が広がって行く。
静香は頭を抱えながら、小さな声で憂う。
「ああ‥もうキャッシュカードまでもが‥」

「あたしを‥」

受け入れ不可の烙印が、静香の頭上から大きな音を立てて降って来る。
暗く翳って行く瞼の裏に、微かに記憶に残る祖父の姿が浮かんだ。

こちらを見て笑っていた祖父。
しかしいつしか祖父は自身に背を向け、
手の届かないところへと歩いて行ってしまった。

おじいちゃん、と呼び掛けても届かない。
祖父の背中はゆっくりと、暗闇へと飲み込まれて行く。

不可。

「本当の父親だと思って接してくれ」
会長は微笑みながら何度も静香にそう言った。
けれど手を伸ばそうとした途端、その微笑みは跡形もなく消える。

不可、不可。

初めてお屋敷に入った時に見た彼は、静香を見てニッコリと笑顔を浮かべていた。
「やあ」

ようやく現れた、と思った。
可哀想なシンデレラの元に白馬の王子様が現れたのだと、確かにあの時、確信したのに。
「勘違いするな」

王子様はその確信を、冷笑しながら粉々に踏み砕いて行く。
彼を理解出来るのはあたしだけだと、誰よりも確信していたのにー‥。
「勘違いするな、静香」

不可、不可、不可。

今やたった一人の肉親は、荷物を持って去って行く。
傷つき傷つけられた身体と心を、いつまでもこの場に引き摺るようにして。

たった一人の肉親。
たった一人の弟。
不可、不可、不可、不可ーーー‥。

亮、と呼び掛けても届かない。
けれど今の状況を作ったのは他でもない、自分なのだ‥。
「元気か?」

あれは数年前のこと。

街角に佇む静香の耳に届いたのは、すでに忘れ掛けていた弟の声だった。
静香は舌打ちしながら、低い声で通話先の弟へ言葉を返す。
「あークソッ 別の奴と思って電話出ちゃったじゃん。連絡してくんなっつったでしょ?」
「は?連絡すんのいつぶりだと思ってんだよ?もっとマシな言い方出来ねーのか?」

車道では路肩に停車した車の脇で、男達が何やら言い争っていた。
「そっちが信号を‥」「違うだろ!そっちが‥」と荒い声が切れ切れに聞こえている。
「つーかどこにいんの?何か変な声聞こえるけど」「あーちょっと取り込み中」

「男とドライブしてたらミスって人の車に突っ込んじゃってさぁ」「はぁ?!」

弟はその静香の言葉にブチ切れ、電話を震わす程の声を上げた。
「このクソが!運転すんじゃねーっつっただろ?!
ぶっちゃけお前、飲酒運転でサツに捕まった経験あんじゃねーか?!テメーいつか死ぬぞ‥!」
「切るわよ。今後連絡して来ないでね?」

「おい!お前もっとしっかり‥」

弟の説教はまだ続いていたが、静香は気にせず通話を終えた。
鼻歌を歌いながら、喧騒の隙間を縫って歩いて行く。

”河村亮”

もう数年間会っていない弟からは、たまに電話が掛かってくる。
けれど静香は携帯を手に取ろうとはしなかった。
震え続ける携帯を目にして、静香の前に居る男が口を開く。
「電話来てるぞ。つーか携帯何台持ってんだよ」
「ん?いいの。出なくて」

「お前他に男居るだろ?」

着信は終わり、その後メールが一件届いた。
亮からだった。
最近は問題起こしてねーだろうな?まともに生きろよ?

先程の男の言葉と、今目にした弟からのメールに、静香は口元に笑みを浮かべてこう応える。
「何のことぉ〜?」

「バカなカモばっかりよ」

見下し、嘲笑し、切り捨てて来た者達が、静香に不可の烙印を押す。
積み重ねて来たその業は、ジワジワと静香の身を焦がして行く‥。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<不可の烙印>でした。
静香が警官から尋問される場面は、
以前亮が負傷した遠藤さんを助けた後に取り調べを受けた場面を彷彿とさせますね。
<曖昧な自身>

二人共、確かなものを持ちたくても持てなかった過去が、今も彼らを縛っているような、
そんな悲しみの悪循環を感じました。静香‥幸せになれるのかなぁー‥
次回は<彼女の傷跡>です。
☆ご注意☆
コメント欄は、><←これを使った顔文字は文章が途中で切れ、
半角記号、ハングルなどは化けてしまうので、極力使われないようお願いします!
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「ちょっとお姉さん」

何度も掛かるその声に、河村静香は一向に応えなかった。
目の前には、野暮ったい顔の年配男性が見える。
「お姉さん!ほらしっかりして!ここがどこか分かります?交番ですよ、交番!」

「お姉さんってば!」

警察官は返事をしない静香に痺れを切らし、彼女の鞄の中を調べ始めた。
そして唯一の身分証明らしきものを見つけはしたが、警官は苦い顔だ。
「お姉さんはA大生?本人の学生証じゃないみたいですけど」
「拾ったのよ‥」

静香はそう呟いた後、いつかA大の中を胸を張って闊歩した場面を回想した。
ガラスに映った自分は、まるで魔法に掛けられたかのように美しく聡明な、
どこから見ても一流の大学生だった‥。


けれどあれは本当の自分ではない。
誰しもが振り返ったあの時の彼女は、束の間の幻のように儚い幻想だった。
いつしか魔法は溶け、今静香は身分も知れない曖昧な者として、こうして尋問されている‥。
「連絡先は?随分沢山番号が入ってるな‥どこに掛ければいいですか?」

「‥‥‥」

静香は警官からの問いに応えることなく、がっくりと頭を下げて机に突っ伏した。
警官は苦々しく溜息を吐くと、静香ともう一人の女性の方を向いてこれ見よがしに嘆いて見せる。
「女性が二人共朝から酔っ払っちゃって‥」
「ちょっと!違いますってば!何度言わせるんですか!
あたしは昨日飲み会があって!それで今この格好なんです!」

女はボロボロになった身なりで、静香の方を指差しながら事の顛末を口にし始めた。
「二日酔いに効くドリンクを買おうとしたら、
この人が残り一つだったそれを押し退けて奪ったんです!
それでもあたし、耐えたんですよ?!」

「そしたらこの女がカードの限度額で引っ掛かって、
それを買おうとしたあたしに問答無用でいきなりー‥」

ギャンギャンと捲し立てる女の話を聞きながら、静香はぼんやりとその時のことを思い出していた。
店員は言葉を選びながら、通らないカードを手にこう口にする。
「あのお客様、カードが‥」

リジェクトされるカード。
それを見た静香の心の中に、絶望が広がって行く。
静香は頭を抱えながら、小さな声で憂う。
「ああ‥もうキャッシュカードまでもが‥」

「あたしを‥」

受け入れ不可の烙印が、静香の頭上から大きな音を立てて降って来る。
暗く翳って行く瞼の裏に、微かに記憶に残る祖父の姿が浮かんだ。

こちらを見て笑っていた祖父。
しかしいつしか祖父は自身に背を向け、
手の届かないところへと歩いて行ってしまった。

おじいちゃん、と呼び掛けても届かない。
祖父の背中はゆっくりと、暗闇へと飲み込まれて行く。

不可。

「本当の父親だと思って接してくれ」
会長は微笑みながら何度も静香にそう言った。
けれど手を伸ばそうとした途端、その微笑みは跡形もなく消える。

不可、不可。

初めてお屋敷に入った時に見た彼は、静香を見てニッコリと笑顔を浮かべていた。
「やあ」

ようやく現れた、と思った。
可哀想なシンデレラの元に白馬の王子様が現れたのだと、確かにあの時、確信したのに。
「勘違いするな」

王子様はその確信を、冷笑しながら粉々に踏み砕いて行く。
彼を理解出来るのはあたしだけだと、誰よりも確信していたのにー‥。
「勘違いするな、静香」

不可、不可、不可。

今やたった一人の肉親は、荷物を持って去って行く。
傷つき傷つけられた身体と心を、いつまでもこの場に引き摺るようにして。

たった一人の肉親。
たった一人の弟。
不可、不可、不可、不可ーーー‥。

亮、と呼び掛けても届かない。
けれど今の状況を作ったのは他でもない、自分なのだ‥。
「元気か?」

あれは数年前のこと。

街角に佇む静香の耳に届いたのは、すでに忘れ掛けていた弟の声だった。
静香は舌打ちしながら、低い声で通話先の弟へ言葉を返す。
「あークソッ 別の奴と思って電話出ちゃったじゃん。連絡してくんなっつったでしょ?」
「は?連絡すんのいつぶりだと思ってんだよ?もっとマシな言い方出来ねーのか?」

車道では路肩に停車した車の脇で、男達が何やら言い争っていた。
「そっちが信号を‥」「違うだろ!そっちが‥」と荒い声が切れ切れに聞こえている。
「つーかどこにいんの?何か変な声聞こえるけど」「あーちょっと取り込み中」

「男とドライブしてたらミスって人の車に突っ込んじゃってさぁ」「はぁ?!」

弟はその静香の言葉にブチ切れ、電話を震わす程の声を上げた。
「このクソが!運転すんじゃねーっつっただろ?!
ぶっちゃけお前、飲酒運転でサツに捕まった経験あんじゃねーか?!テメーいつか死ぬぞ‥!」
「切るわよ。今後連絡して来ないでね?」

「おい!お前もっとしっかり‥」

弟の説教はまだ続いていたが、静香は気にせず通話を終えた。
鼻歌を歌いながら、喧騒の隙間を縫って歩いて行く。

”河村亮”

もう数年間会っていない弟からは、たまに電話が掛かってくる。
けれど静香は携帯を手に取ろうとはしなかった。
震え続ける携帯を目にして、静香の前に居る男が口を開く。
「電話来てるぞ。つーか携帯何台持ってんだよ」
「ん?いいの。出なくて」

「お前他に男居るだろ?」

着信は終わり、その後メールが一件届いた。
亮からだった。
最近は問題起こしてねーだろうな?まともに生きろよ?

先程の男の言葉と、今目にした弟からのメールに、静香は口元に笑みを浮かべてこう応える。
「何のことぉ〜?」

「バカなカモばっかりよ」

見下し、嘲笑し、切り捨てて来た者達が、静香に不可の烙印を押す。
積み重ねて来たその業は、ジワジワと静香の身を焦がして行く‥。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<不可の烙印>でした。
静香が警官から尋問される場面は、
以前亮が負傷した遠藤さんを助けた後に取り調べを受けた場面を彷彿とさせますね。
<曖昧な自身>

二人共、確かなものを持ちたくても持てなかった過去が、今も彼らを縛っているような、
そんな悲しみの悪循環を感じました。静香‥幸せになれるのかなぁー‥

次回は<彼女の傷跡>です。
☆ご注意☆
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半角記号、ハングルなどは化けてしまうので、極力使われないようお願いします!
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