昨日は小橋町から主計町(かずえまち)へ歩いた。
最近、何かと五木寛之に絡むわけだが、
その五木氏が好んだ町がこの主計町である。
(拝借)
金沢には三つの茶屋街があるわけだが、
観光客が圧倒的に多い「ひがし茶屋街」
芸妓さんが一番多い「にし茶屋街」
それに比べ、「主計町茶屋街」は少し規模が小さい。
ひがし茶屋街の1.8ヘクタールに伝統的建造物が99あるのに対し、主計町茶屋街は0.6ヘクタールで伝統的建造物が35である。
規模でいえば面積・建造物ともに三分の一程度である。
この町のなにが五木氏の心を引き付けるのだろうか?
それを少しでも感じたくて、
同シリーズ#03ひがし茶屋街のついでにブラついたことがあるが、
今回その点を意識してあらためて主計町をブラついてみた。
主計町に入った。
まずは貴船です。
二階より贅沢そうな音が聞こえていた。
こういう雰囲気の良い板の壁にフタが・・・
失礼、こうなってます
こういうところが重要ですよ。
中の橋です。
着物を着たカップル×2組が写真を撮っていました。
そしてここには金沢城惣構跡があります。
かって金沢城を二重に囲っていた惣構という防御用の土居があった。
おそらくこの場所が唯一、当時の様子がわかる場所なのではないだろうか?
旧西内惣構とある。
高山右近が作りました。
向こう側にはひがし茶屋街があり距離は近いです。
こういう狭い小路が魅力的です。
ね!
主計町は金沢の三文豪の一人、泉鏡花のゆかりの地でもあります。
へぇ~
そして主計町の最大のポイント
暗がり坂です。
日中も日の当たらない暗い坂からその名がつきました。
登ってみると
こういう場所に出ます。
上から見下ろすと
ほんと20段程度の短い小さな階段なんです。
そして少し歩くと
あかり坂があります。
この坂は五木寛之さんが命名しました。
いい雰囲気ですね。
五木さんもほら
(拝借)
晴れ間が出てきました。
上からの眺めはこうです。
暗がり坂とあかり坂の距離と位置関係はこうです。
まぁ、主計町茶屋街は
裏道がこんな感じで、
表道がこんな感じなのです。
どっちもいい感じではある。
主計町は日本初の旧町名復活した町です。
ふむふむ
少しだけ、五木寛之の愛した主計町の魅力がわかったかな・・・。
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最近、何かと五木寛之に絡むわけだが、
その五木氏が好んだ町がこの主計町である。
(拝借)
金沢には三つの茶屋街があるわけだが、
観光客が圧倒的に多い「ひがし茶屋街」
芸妓さんが一番多い「にし茶屋街」
それに比べ、「主計町茶屋街」は少し規模が小さい。
ひがし茶屋街の1.8ヘクタールに伝統的建造物が99あるのに対し、主計町茶屋街は0.6ヘクタールで伝統的建造物が35である。
規模でいえば面積・建造物ともに三分の一程度である。
この町のなにが五木氏の心を引き付けるのだろうか?
それを少しでも感じたくて、
同シリーズ#03ひがし茶屋街のついでにブラついたことがあるが、
今回その点を意識してあらためて主計町をブラついてみた。
主計町に入った。
まずは貴船です。
二階より贅沢そうな音が聞こえていた。
こういう雰囲気の良い板の壁にフタが・・・
失礼、こうなってます
こういうところが重要ですよ。
中の橋です。
着物を着たカップル×2組が写真を撮っていました。
そしてここには金沢城惣構跡があります。
かって金沢城を二重に囲っていた惣構という防御用の土居があった。
おそらくこの場所が唯一、当時の様子がわかる場所なのではないだろうか?
旧西内惣構とある。
高山右近が作りました。
向こう側にはひがし茶屋街があり距離は近いです。
こういう狭い小路が魅力的です。
ね!
主計町は金沢の三文豪の一人、泉鏡花のゆかりの地でもあります。
へぇ~
そして主計町の最大のポイント
暗がり坂です。
日中も日の当たらない暗い坂からその名がつきました。
登ってみると
こういう場所に出ます。
上から見下ろすと
ほんと20段程度の短い小さな階段なんです。
そして少し歩くと
あかり坂があります。
この坂は五木寛之さんが命名しました。
いい雰囲気ですね。
五木さんもほら
(拝借)
晴れ間が出てきました。
上からの眺めはこうです。
暗がり坂とあかり坂の距離と位置関係はこうです。
まぁ、主計町茶屋街は
裏道がこんな感じで、
表道がこんな感じなのです。
どっちもいい感じではある。
主計町は日本初の旧町名復活した町です。
ふむふむ
少しだけ、五木寛之の愛した主計町の魅力がわかったかな・・・。
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今日の天気は小雨でした。
がっ!!! 当然行くさ、ブラっとね。
数年前に放送された大ヒットドラマ「半沢直樹」
(拝借)
なんと最終回は驚異の42%超えだった。
実は主人公の半沢直樹は金沢出身で地元の有名な飴屋の「じろあめ」が大好物という設定だった。
(拝借)
(拝借)
・・・・・・・・・・ということで、
小橋町周辺をブラオイラ
オイラは車を無料で駐車できる場所に置くのさ(キッパリ!)
東警察署近くのスーパー駐車場に・・・(ゴメンね)
さて歩くぞ
おっいきなりいい場所。
小橋用水です。
う~んいいね。
用水の暗渠とわかりやすい道である。
当然昔は開渠で生活用水として重要なものだったはず。
旧水車町(みずぐるままち)だ。・・・・復活できなかった町名のひとつである
昔この地で精米、製油用として水車を回していたとある。
おっ、きたきた
はい、「あめの俵屋」です。
創業天保元年
180年以上の歴史を持っています。
中にお客さんが数人おられました。
じろあめ
(拝借)
実はオイラ、じろあめは苦手歯にくっついて・・・
オイラ子供の頃、「飴買い幽霊」の場所はここの俵屋が舞台だと思っていた。
(ウィキより)
あるお寺の門前坂の飴(あめ)屋に、毎晩店を閉めようとする時間になると、ひとりの哀しげな女が飴を買いに来るようになりました。
6日目の夜、女は「これで銭がないのです。今夜が最後です。もう来られなくなります」と、寂しそうに一文銭を置いて、店を出て行きました。
主人は不審に思って、こっそり後をつけて行きました。
女はお寺の墓地に入って行くと、埋葬されたばかりの新しい墓の前でふっと消えました。
翌朝、お寺の住職や役人に立ち会ってもらって、墓を掘り返してみると、棺の中で女の亡骸にしっかりと抱かれた元気な男の赤ん坊が飴をしゃぶっていました。
亡くなった妊婦が埋葬後に赤ん坊を産んでいたのです。棺の中に入れておいた六文の銭は使い果たされて無くなっていました。
この赤ん坊はお寺で育てられ、りっぱなお坊さんになったといわれます。
石川県金沢市の道入寺には、道入寺住職となった子どもが旅に訪れた絵かき(円山応挙)に書いてもらった幽霊画がある。住職は幽霊画を母と慕い大切にしたという。
また金沢には他に4件の伝承があり、「あめや坂」という地名も残っている。幽霊が買った飴屋は全て不明。
そして小橋です。
この小さい橋をあなどることなかれ。
藩政時代、小橋は犀川大橋と浅野川大橋とともに金沢の三ツ橋と呼ばれ防衛上の重要な拠点であったとある。(へぇ~)
このあと主計町に行ったのだが、それは次回報告。
この主計町まで続く川沿いの道がいい感じです。
対岸から見るとこんな感じ
なかなかの景色でしょ
小橋町側を見るとこれまたなかなかいい感じでして、
それにしても、小橋町とはなかなか面白い町です。
全体的に雰囲気もいいし、
目立たない路地裏にいきなりおしゃれなお店が出てきたり、
それでいて、歴史があって、
関助馬場とある。幅24m、長さ300mの調馬場があったという。
石碑の前のこの道はその名残かな。
小橋町ってなんか積極的な町という感じがします。
オイラ小学校の時ソロバンを習っていたのだが、
小学校卒業までにどうしても3級まで取りたかったので、
6年生の夏にこの小橋付近にあったソロバン教室に一度だけバスに乗って日曜特訓に来た記憶がある・・・
(願いましては~♪)
などと昔を思い出して歩いていたら、満員の市内周遊のボンネットバスが横切って行った。
車の停めていた駐車場の近くまで戻ってきた。
浅野神社というなかなかの神社があったので最後に紹介します。
魔去る石(まさるいし)
疫塚
その後ろには意味ありげな結界が。
入らずの森まである?
なかなかのレベルの神社です。
さて帰りましょう。
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がっ!!! 当然行くさ、ブラっとね。
数年前に放送された大ヒットドラマ「半沢直樹」
(拝借)
なんと最終回は驚異の42%超えだった。
実は主人公の半沢直樹は金沢出身で地元の有名な飴屋の「じろあめ」が大好物という設定だった。
(拝借)
(拝借)
・・・・・・・・・・ということで、
小橋町周辺をブラオイラ
オイラは車を無料で駐車できる場所に置くのさ(キッパリ!)
東警察署近くのスーパー駐車場に・・・(ゴメンね)
さて歩くぞ
おっいきなりいい場所。
小橋用水です。
う~んいいね。
用水の暗渠とわかりやすい道である。
当然昔は開渠で生活用水として重要なものだったはず。
旧水車町(みずぐるままち)だ。・・・・復活できなかった町名のひとつである
昔この地で精米、製油用として水車を回していたとある。
おっ、きたきた
はい、「あめの俵屋」です。
創業天保元年
180年以上の歴史を持っています。
中にお客さんが数人おられました。
じろあめ
(拝借)
実はオイラ、じろあめは苦手歯にくっついて・・・
オイラ子供の頃、「飴買い幽霊」の場所はここの俵屋が舞台だと思っていた。
(ウィキより)
あるお寺の門前坂の飴(あめ)屋に、毎晩店を閉めようとする時間になると、ひとりの哀しげな女が飴を買いに来るようになりました。
6日目の夜、女は「これで銭がないのです。今夜が最後です。もう来られなくなります」と、寂しそうに一文銭を置いて、店を出て行きました。
主人は不審に思って、こっそり後をつけて行きました。
女はお寺の墓地に入って行くと、埋葬されたばかりの新しい墓の前でふっと消えました。
翌朝、お寺の住職や役人に立ち会ってもらって、墓を掘り返してみると、棺の中で女の亡骸にしっかりと抱かれた元気な男の赤ん坊が飴をしゃぶっていました。
亡くなった妊婦が埋葬後に赤ん坊を産んでいたのです。棺の中に入れておいた六文の銭は使い果たされて無くなっていました。
この赤ん坊はお寺で育てられ、りっぱなお坊さんになったといわれます。
石川県金沢市の道入寺には、道入寺住職となった子どもが旅に訪れた絵かき(円山応挙)に書いてもらった幽霊画がある。住職は幽霊画を母と慕い大切にしたという。
また金沢には他に4件の伝承があり、「あめや坂」という地名も残っている。幽霊が買った飴屋は全て不明。
そして小橋です。
この小さい橋をあなどることなかれ。
藩政時代、小橋は犀川大橋と浅野川大橋とともに金沢の三ツ橋と呼ばれ防衛上の重要な拠点であったとある。(へぇ~)
このあと主計町に行ったのだが、それは次回報告。
この主計町まで続く川沿いの道がいい感じです。
対岸から見るとこんな感じ
なかなかの景色でしょ
小橋町側を見るとこれまたなかなかいい感じでして、
それにしても、小橋町とはなかなか面白い町です。
全体的に雰囲気もいいし、
目立たない路地裏にいきなりおしゃれなお店が出てきたり、
それでいて、歴史があって、
関助馬場とある。幅24m、長さ300mの調馬場があったという。
石碑の前のこの道はその名残かな。
小橋町ってなんか積極的な町という感じがします。
オイラ小学校の時ソロバンを習っていたのだが、
小学校卒業までにどうしても3級まで取りたかったので、
6年生の夏にこの小橋付近にあったソロバン教室に一度だけバスに乗って日曜特訓に来た記憶がある・・・
(願いましては~♪)
などと昔を思い出して歩いていたら、満員の市内周遊のボンネットバスが横切って行った。
車の停めていた駐車場の近くまで戻ってきた。
浅野神社というなかなかの神社があったので最後に紹介します。
魔去る石(まさるいし)
疫塚
その後ろには意味ありげな結界が。
入らずの森まである?
なかなかのレベルの神社です。
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前に買った「金沢の気骨」を何気なく読んでいた。
旧町名を復活させていった苦労話が印象的だった。
昭和37年「住居表示に関する法律」という悪法により多くの市町村で、
郵便配達などの効率を上げるために多くの町名を変更したという。
平和町○丁目や緑が丘、自由が丘なんて・・・。
それでも、金沢市では主計町や飛梅町、柿木畠など11の旧町名を復活させた。
ちなみに主計町の復活は全国初でありこれ以降、他の市町村でも旧町名の復活が続く。
金沢で消えた町名としては、
桜畠、桃畠、茶畠、一本松、藤棚、水車町、大工町、桶町、塩屋町、味噌蔵町、材木町、板前町、象眼町、鍛冶町、弓ノ町、与力町、鷹匠町、母衣町、東馬場町などがあり、
その名から、景色が浮かんだり歴史を感じたりすることができた町名だった。
それにしても、効率優先でこれらの町名を○○町○丁目なんて変更して、
まったく愚かなことをしたもんだ。
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旧町名を復活させていった苦労話が印象的だった。
昭和37年「住居表示に関する法律」という悪法により多くの市町村で、
郵便配達などの効率を上げるために多くの町名を変更したという。
平和町○丁目や緑が丘、自由が丘なんて・・・。
それでも、金沢市では主計町や飛梅町、柿木畠など11の旧町名を復活させた。
ちなみに主計町の復活は全国初でありこれ以降、他の市町村でも旧町名の復活が続く。
金沢で消えた町名としては、
桜畠、桃畠、茶畠、一本松、藤棚、水車町、大工町、桶町、塩屋町、味噌蔵町、材木町、板前町、象眼町、鍛冶町、弓ノ町、与力町、鷹匠町、母衣町、東馬場町などがあり、
その名から、景色が浮かんだり歴史を感じたりすることができた町名だった。
それにしても、効率優先でこれらの町名を○○町○丁目なんて変更して、
まったく愚かなことをしたもんだ。
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清原和博、
黒い噂はやはり本当だったか・・・・。
高校野球、PL学園のKKコンビ。
それからのプロ野球の西武時代の活躍。
巨人軍の歴代の4番バッターといえば
オイラの世代だと
氏名(巨人4番時代での試合数と本塁打数)
長嶋茂雄(1460試合、本塁打314本)
(拝借)
王貞治(1258試合、本塁打392本)
(拝借)
原辰徳(1099試合、本塁打255本)
(拝借)
松井秀喜(535試合、本塁打138本)
(拝借)
清原和博(259試合、本塁打67本)
(拝借)
の5人が思い浮かび清原も入っている。
こんな時代もあった
(松井、清原、長嶋)
(拝借)
あの頃は輝いていた。
(拝借)
現役を終えて過去の栄光がどうのこうの・・・
実は心が弱いだの・・・・、
そんなことでイチイチ覚せい剤なんてすんなっつ~の!!!
かっての超一流選手が、
ここまで墜ちるか・・・・
とにかく、
小さいお子さんもいるとのことだから
猛省して、
何とか社会復帰してほしいものだ。
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黒い噂はやはり本当だったか・・・・。
高校野球、PL学園のKKコンビ。
それからのプロ野球の西武時代の活躍。
巨人軍の歴代の4番バッターといえば
オイラの世代だと
氏名(巨人4番時代での試合数と本塁打数)
長嶋茂雄(1460試合、本塁打314本)
(拝借)
王貞治(1258試合、本塁打392本)
(拝借)
原辰徳(1099試合、本塁打255本)
(拝借)
松井秀喜(535試合、本塁打138本)
(拝借)
清原和博(259試合、本塁打67本)
(拝借)
の5人が思い浮かび清原も入っている。
こんな時代もあった
(松井、清原、長嶋)
(拝借)
あの頃は輝いていた。
(拝借)
現役を終えて過去の栄光がどうのこうの・・・
実は心が弱いだの・・・・、
そんなことでイチイチ覚せい剤なんてすんなっつ~の!!!
かっての超一流選手が、
ここまで墜ちるか・・・・
とにかく、
小さいお子さんもいるとのことだから
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節分と言えば思い出すのは、
娘が保育園時代に、節分の日だけはずる休みしたこと。
最初の年の節分のイベントでの先生の鬼役がよほど怖かったのか、
・・・イメージ・・・(拝借)
これだったら、たしかに怖いわ・・・
娘は翌年から節分の日の保育園には行かなくなったのだ。
節分といえば思い出すのだ。
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娘が保育園時代に、節分の日だけはずる休みしたこと。
最初の年の節分のイベントでの先生の鬼役がよほど怖かったのか、
・・・イメージ・・・(拝借)
これだったら、たしかに怖いわ・・・
娘は翌年から節分の日の保育園には行かなくなったのだ。
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いや~すごかったねサッカーU-23日韓戦。
日本歴史的大逆転痛快でした!
(拝借)
そして選手も凄いが、
監督の手倉森さんの凄さですよ。
(拝借)
それしこの人のエピソードがオモシロイね。
(ウィキより)
住友金属時代はパチンコなどギャンブルに明け暮れていたといい、酷い時にはパチンコ店に手倉森を探しに来たジーコの目から逃れるため、パチンコ台の下に隠れたこともある。鹿島から戦力外通告を受けた1992年暮れには、やけになって中山競馬場に足を運ぶが、全財産を2日で使いきってしまった(なお具体的な金額については諸説ありはっきりしない)。結果として無一文となったが、翌1993年にNEC山形サッカー部(現:モンテディオ山形)から声がかかり移籍(ちなみにこのことを教訓に、以後ギャンブルはきっぱり止めた[5])。1995年に引退した。
同世代だから余計に応援したくなるわ。
そのうち、日本代表監督になってくれ!
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日本歴史的大逆転痛快でした!
(拝借)
そして選手も凄いが、
監督の手倉森さんの凄さですよ。
(拝借)
それしこの人のエピソードがオモシロイね。
(ウィキより)
住友金属時代はパチンコなどギャンブルに明け暮れていたといい、酷い時にはパチンコ店に手倉森を探しに来たジーコの目から逃れるため、パチンコ台の下に隠れたこともある。鹿島から戦力外通告を受けた1992年暮れには、やけになって中山競馬場に足を運ぶが、全財産を2日で使いきってしまった(なお具体的な金額については諸説ありはっきりしない)。結果として無一文となったが、翌1993年にNEC山形サッカー部(現:モンテディオ山形)から声がかかり移籍(ちなみにこのことを教訓に、以後ギャンブルはきっぱり止めた[5])。1995年に引退した。
同世代だから余計に応援したくなるわ。
そのうち、日本代表監督になってくれ!
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作家五木寛之氏が金沢大好き人間ということは昔から知っていた。
(拝借)
ただし小説は読んだことがなかった。
(ウィキより)
五木 寛之(いつき ひろゆき)は、1932年福岡県に生まれ、生後まもなく朝鮮半島に渡る。第二次世界大戦終戦時は平壌にいたが混乱の中で母死去、父とともに幼い弟、妹を連れて38度線を越えて開城に脱出し、1947年に福岡県に引き揚げる。
1952年に早稲田大学第一文学部露文学科に入学したものの生活費にも苦労し、住み込みでの業界紙の配達など様々なアルバイトや売血をして暮らし、1957年に学費未納で早稲田大学を抹籍された(後年、作家として成功後に未納学費を納め、抹籍から中途退学扱いとなる)。またこの頃に父を亡くす。
大学抹籍以降、業界誌『交通ジャーナル』編集長、ラジオ番組制作、PR誌編集などを経て、テレビ工房に入り、CMソングの作詞や放送台本を書き、ABC賞などを受賞。
1965年には、石川県出身の岡玲子と結婚、夫人の親類の五木家に跡継ぎがなかったからか五木姓を名乗る。
1965年にかねてから憧れの地であったソビエト連邦や北欧を旅する。帰国後は医師をしていた夫人の郷里金沢で、マスコミから距離を置いて生活する。
1966年、モスクワで出会ったジャズ好きの少年を題材にした『さらばモスクワ愚連隊』により、第6回小説現代新人賞を受賞、続いて同作で直木賞候補となる。1967年にソ連作家の小説出版を巡る陰謀劇『蒼ざめた馬を見よ』で、第56回直木賞を受賞。同年『週刊読売』連載したエッセイ『風に吹かれて』は、刊行後から2001年までの単行本・文庫本の合計で460万部に達した。1969年には雑誌『週刊現代』で『青春の門』掲載を開始した。1970年に横浜に移る。
五木氏の書籍は1年ほど前に買った「五木寛之の金沢さんぽ」くらいである。
中身をチラリと
へぇ~
まぁ、ヘビー級の金沢好きということは理解できた。
そして先日「自分という奇蹟」という本を買った。
辛い時には少し元気が出る本です。
ブラオイラ#80(寒風の石引町編)で、五木寛之氏のゆかりの地を巡らなかったことに後悔をしていた。
だからせひ行ってみたかったので、
土曜の夜の兼六園ライトアップ編の後で行ってみたのだが、
暗闇の中で写メ撮ったりしてるオイラが、
まさに不審者その者だったのですぐさま立ち去った。
・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・
なので、翌日の日曜リベンジで行ってまいりました。
午前中は天気が良かったものの所用があったので午後からのお出掛けさ
「自分という奇蹟」の本を開いてみましょう。
ふむふむ
小立野ですね。
東山荘ですか。
あれですな。
おぉ~東山荘です。
1965年(昭和40年)ですから、相当古いですよ、よく残ってるなぁ~
オイラ生まれる前で50年以上も前となる
2階の一番奥の部屋に住んでいたとあるから
どっちかです(おそらく右側)
50年前にあそこから顔を出したのかなぁ・・・
今では偉大な大作家が若かりし頃にあそこに夫婦で住んでいたんだね。
アパートの裏手に廻ってみます。
ここは小立野台地のまさに縁になります。
台地から降りる坂道が続きます。
裏から見る東山荘
東山荘は、旧金沢刑務所の裏手にありました。
右手の建物が昔金沢刑務所があった地ですが、今は大学の施設です。
石引通りに出てみます。
ここに五木氏が本を借りていたというお店があるのです。
(「五木寛之の下宿探訪記」より抜粋)
…石引通りの道に面して、橘書店という小さな貸本屋があった。五木さんは頻繁にこの店へかよい、本を借りて帰った。店の奥に中年のおばさんが座っている。五木寛之さんが、よく来られたそうですが、と訊ねると、「ええ、あれはいつ頃でしたかねえ、よく覚えていますよ。毎日のように来てくれまして、こんなに小説本を(と、十冊くらいの高さを示して)1度に借りて行くんですよ。多いときは、お昼まえに借りて、それを夕方にはもう返しに来られて…」、おばさんの眼には、最初、学生にしては老けて見えるし、それにしても余程何もすることがないヒマな男に思われたそうだ。五木さんはいつも下駄履きで店内に現われた。店の前にある銭湯「亀乃湯」の帰りなのか、濡れた手拭をぶらさげている日もあった。…」、とも書かれています。
ここです。
今は釣り具販売がメインなのかな?閉まっています。
ちゃんと貸本とあります。
すごいですねぇ~。
できれば書籍が積んである風景を撮りたかったぜ!
そして五木氏が通った銭湯「亀湯」跡地にも向かってみる。
(エッセイ「小立野刑務所裏」より抜粋)
「…東山荘には風呂がなかったので、私は週に何回か、手拭いをさげて銭湯に通った。小立野の坂の入口にある(亀湯)という銭湯は、見晴らしがよく、私は大いに気に入っていた。」とのことである。
昔の亀湯はこの付近にあったらしいが今はもう無く。近くの亀の湯に移転したのかな?
たしかにここは亀(がめ)という名がつく。
がめざか
谷の痕跡があります。
(エッセイ「小立野刑務所裏」より抜粋)
少し懐が暖かいと、(わか葉)というおでん屋に顔を出した。金沢のおでんは独特である。冬場はコウバコというズワイ蟹の雌がうまい。香りのいい芹もよかった。亀湯のことを、地元の人たちは濁って、ガメ湯と呼んでいたようだ。ガメ湯からあがって、きびしい寒気のなかを(わか葉)に駆けこむ気分は最高だった。
近くにあるおでんの若葉は今でもありますが写真撮り忘れた・・・
(オイラのバカ~)
(拝借)
その後しばらくこの付近をブラついていました。
ワオ!ビックリ!
さて帰りましょう。
【ヒゲ親父】
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(拝借)
ただし小説は読んだことがなかった。
(ウィキより)
五木 寛之(いつき ひろゆき)は、1932年福岡県に生まれ、生後まもなく朝鮮半島に渡る。第二次世界大戦終戦時は平壌にいたが混乱の中で母死去、父とともに幼い弟、妹を連れて38度線を越えて開城に脱出し、1947年に福岡県に引き揚げる。
1952年に早稲田大学第一文学部露文学科に入学したものの生活費にも苦労し、住み込みでの業界紙の配達など様々なアルバイトや売血をして暮らし、1957年に学費未納で早稲田大学を抹籍された(後年、作家として成功後に未納学費を納め、抹籍から中途退学扱いとなる)。またこの頃に父を亡くす。
大学抹籍以降、業界誌『交通ジャーナル』編集長、ラジオ番組制作、PR誌編集などを経て、テレビ工房に入り、CMソングの作詞や放送台本を書き、ABC賞などを受賞。
1965年には、石川県出身の岡玲子と結婚、夫人の親類の五木家に跡継ぎがなかったからか五木姓を名乗る。
1965年にかねてから憧れの地であったソビエト連邦や北欧を旅する。帰国後は医師をしていた夫人の郷里金沢で、マスコミから距離を置いて生活する。
1966年、モスクワで出会ったジャズ好きの少年を題材にした『さらばモスクワ愚連隊』により、第6回小説現代新人賞を受賞、続いて同作で直木賞候補となる。1967年にソ連作家の小説出版を巡る陰謀劇『蒼ざめた馬を見よ』で、第56回直木賞を受賞。同年『週刊読売』連載したエッセイ『風に吹かれて』は、刊行後から2001年までの単行本・文庫本の合計で460万部に達した。1969年には雑誌『週刊現代』で『青春の門』掲載を開始した。1970年に横浜に移る。
五木氏の書籍は1年ほど前に買った「五木寛之の金沢さんぽ」くらいである。
中身をチラリと
へぇ~
まぁ、ヘビー級の金沢好きということは理解できた。
そして先日「自分という奇蹟」という本を買った。
辛い時には少し元気が出る本です。
ブラオイラ#80(寒風の石引町編)で、五木寛之氏のゆかりの地を巡らなかったことに後悔をしていた。
だからせひ行ってみたかったので、
土曜の夜の兼六園ライトアップ編の後で行ってみたのだが、
暗闇の中で写メ撮ったりしてるオイラが、
まさに不審者その者だったのですぐさま立ち去った。
・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・
なので、翌日の日曜リベンジで行ってまいりました。
午前中は天気が良かったものの所用があったので午後からのお出掛けさ
「自分という奇蹟」の本を開いてみましょう。
ふむふむ
小立野ですね。
東山荘ですか。
あれですな。
おぉ~東山荘です。
1965年(昭和40年)ですから、相当古いですよ、よく残ってるなぁ~
オイラ生まれる前で50年以上も前となる
2階の一番奥の部屋に住んでいたとあるから
どっちかです(おそらく右側)
50年前にあそこから顔を出したのかなぁ・・・
今では偉大な大作家が若かりし頃にあそこに夫婦で住んでいたんだね。
アパートの裏手に廻ってみます。
ここは小立野台地のまさに縁になります。
台地から降りる坂道が続きます。
裏から見る東山荘
東山荘は、旧金沢刑務所の裏手にありました。
右手の建物が昔金沢刑務所があった地ですが、今は大学の施設です。
石引通りに出てみます。
ここに五木氏が本を借りていたというお店があるのです。
(「五木寛之の下宿探訪記」より抜粋)
…石引通りの道に面して、橘書店という小さな貸本屋があった。五木さんは頻繁にこの店へかよい、本を借りて帰った。店の奥に中年のおばさんが座っている。五木寛之さんが、よく来られたそうですが、と訊ねると、「ええ、あれはいつ頃でしたかねえ、よく覚えていますよ。毎日のように来てくれまして、こんなに小説本を(と、十冊くらいの高さを示して)1度に借りて行くんですよ。多いときは、お昼まえに借りて、それを夕方にはもう返しに来られて…」、おばさんの眼には、最初、学生にしては老けて見えるし、それにしても余程何もすることがないヒマな男に思われたそうだ。五木さんはいつも下駄履きで店内に現われた。店の前にある銭湯「亀乃湯」の帰りなのか、濡れた手拭をぶらさげている日もあった。…」、とも書かれています。
ここです。
今は釣り具販売がメインなのかな?閉まっています。
ちゃんと貸本とあります。
すごいですねぇ~。
できれば書籍が積んである風景を撮りたかったぜ!
そして五木氏が通った銭湯「亀湯」跡地にも向かってみる。
(エッセイ「小立野刑務所裏」より抜粋)
「…東山荘には風呂がなかったので、私は週に何回か、手拭いをさげて銭湯に通った。小立野の坂の入口にある(亀湯)という銭湯は、見晴らしがよく、私は大いに気に入っていた。」とのことである。
昔の亀湯はこの付近にあったらしいが今はもう無く。近くの亀の湯に移転したのかな?
たしかにここは亀(がめ)という名がつく。
がめざか
谷の痕跡があります。
(エッセイ「小立野刑務所裏」より抜粋)
少し懐が暖かいと、(わか葉)というおでん屋に顔を出した。金沢のおでんは独特である。冬場はコウバコというズワイ蟹の雌がうまい。香りのいい芹もよかった。亀湯のことを、地元の人たちは濁って、ガメ湯と呼んでいたようだ。ガメ湯からあがって、きびしい寒気のなかを(わか葉)に駆けこむ気分は最高だった。
近くにあるおでんの若葉は今でもありますが写真撮り忘れた・・・
(オイラのバカ~)
(拝借)
その後しばらくこの付近をブラついていました。
ワオ!ビックリ!
さて帰りましょう。
【ヒゲ親父】
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