阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。あちこちでShootする写真日記。お遊びもあり。

新シリーズが始まったけど 以前に制作された<プロジュエクトX>シリーズの終わりの頃の 番組の造りがひどかった話      茶話27

2024年05月15日 | エッセイ

2005年1月11日の夜、何年かぶりでNHKの「プロジェクトX」を見ました。

自分が大阪勤務時代10年間通勤駅として利用したJR東海道線の六甲道駅復旧工事がテーマと新聞に紹介記事が出ていたからです。


   地上の星 / 中島みゆき [公式]


1)「プロジェクトX」はだいぶ前に「新潟のコシヒカリ」をテーマにした番組を見てからは、身内にご縁があった古野電気さんの

「漁船用魚群探知機の開発」の回を見たくらいで、後は殆どまともに見たことがありません。

「コシヒカリ」の開発のプロセスをテーマにした回は、開発者の苦労やプロセス自身は面白かったのですが、

番組の構成とナレーションのシナリオに驚きました。

この回は「善玉」の開発者に対し、立ちはだかる障壁として「悪玉」に時の新潟県知事を配し、完全な勧善懲悪ドラマに仕立てられていました。

何度も何度も大写しされ、全てに邪魔をし続けたかのように表現される悪代官ヅラそのものの当時の知事さんが、だんだん気の毒になってきました。

もう亡くなれていたようですが、遺族の方々はとても正視出来ないだろう内容でした。構成には、なんのヒネリもわずかなエスプリもありませんでした。

日本各地に、NHKの放送内容は絶対間違いないと思っている日本人がまだまだ多いのに、こんな取り上げられ方をして、

もし奥さんなど遺族が新潟に住んでおられたらお気の毒と思いました。そんな配慮は微塵も伺えませんでした。

このとき「プロジェクトX」も、番組の創生期に汗を流したスタッフが去って、

安定して視聴率を取れるようになってから担当した第二世代の連中が、人気の上にあぐらをかいて傲慢で楽な方法で作りだしたなあと思いました。

2)もともとこの番組は、対象がどんなに素晴らしい開発や社会的功績のあるプロジェクトであっても、ラジオ番組ではなくテレビ番組ですから

「映像」が入手出来ない場合は番組化出来ないという大きな制約があります。

つまり、成るか成らないかわからないままプロジェクトに専念し、記録写真やスナップ写真が残っていなければ、

その事柄の価値とは無関係に番組として取り上げられないのです。

おそらく「プロジェクトX」という番組の企画を発案し、実現した初期の製作者とそのスタッフは、持ち込まれるネタではなく、

自ら全国を走り回って対象を探し、しかも選別し吟味して製作していたような気がします。

番組スタート時に見ていた私は、文句をつける余裕も無く、♪風の中のすばる~と「地上の星」が流れだし、「ヘッドライト・テールライト」の

エンデイングが消えていく時間まで、この番組にじっと身を浸らせてもらっていたような気がします。

3)今回の<「鉄道分断 突貫作戦 奇跡の74日間」~阪神・淡路大震災~>を見ていたら、自分が経験した「JRも阪急、阪神も甲子園あたりで不通になったため、

始めは代替バスで一番近い駅まで行くしかなかった。通勤ルートは毎日変わった。最寄りのJR六甲道駅は地震の瞬間に崩壊して東海道線がここで長いあいだ断絶した。

阪神青木まで2時間ほど歩いた事もあった。」頃を思い出しました。 (阪神淡路大震災の体験記click)

ここまで大変な工事だったことは、この番組を見るまで知りませんでした。

映像的には、震災で崩壊した駅のシーンは、当時を思い出してあまり見たくはなかったのですが、今も乗り降りする駅がこんなんだったんだと、

自分が今は記憶から当時の情景を押しのけていることにも気がつきました。

 そして最後の完成試験で、上下逢わせて4軌道のレール上を各2両連結の機関車が4台同時にスタートし、

平行走行して、桁のタワミをチエックする場面は迫力がありました。

当時我々に聞こえてきたのは、東海道線がここでブチ切られ、日本列島全国輸送の大動脈が機能しなくなったことから、

また戦争突発に備え、国家として威信をかけて金に糸目をつけない突貫工事にかかったという話でした。

この24時間昼夜を問わない、金に糸目をつけないお上の工事のため、重機や建設資材、工事人員がこの工事現場に独占され、

阪急や阪神のような私鉄では、六甲道駅が復旧するまで工事の着手も出来ないということでした。

確かに阪急と阪神の復旧工事は大幅に遅れました。ただ利用者にとっては大阪と神戸の間のいわゆる阪神間には阪神,JR、阪急という

3本の路線が平行して走っているため、どれか一本が復旧すれば何とかなるという面がありました。この震災の後、復旧費用がかさんだこと、

乗客の減少などで両私鉄のバランスシートが一挙に劣化したことはまた別の話としてあります。

今回の番組のシナリオは、工事業者の奥村組が提供した工事記録ビデオと写真類をメインに構成されたためか、

 余震をかいくぐり短時間で大変な工事を貫徹したという美談仕立てに終わり、番組制作者の固有の視点が初めから終わりまで感じられませんでしたし、

近辺の住民からの感謝と暖かい応援という添え物の時間も結構長く感じられました。

なんか作る方に「泣かせるノン作ったやろ、人間の思いやりの気持ちを思い起こそう」という、上からさとしてくれるような傲慢さがあるのを少し感じました。

ほぼ5年間、同じコンセプトのドキュメンタリー番組を作り続けるのはしんどい。

毎週毎週、企画当時のレベルを維持するのは、ネタ切れもあり、もう無理なんだろうとも思いました。

     浮かれ節(講談の前身)のイントロではありませんが、テレビは、

「・・・これじゃからとて皆様方、現場見てきてやるのやおまへん、昔作者が暗い行燈のその陰で書いて残した筆のあと、筆に狸の毛がまじる。

嘘かほんまか知らんけど、本当らしゅうにやりますさかいに聞く皆様もその通り、たとえ嘘じゃと思うても本当らしゅうに聞いてもらわにゃ仕様がない、

一生懸命に勤めまするで、しばらくの間お遊びを給わる。」なんだと思います。

テレビが普及しだした頃に大宅壮一という人が、テレビのことを「電気紙芝居」と言いましたが、作る方もかっこつけずにそう思って作り、

見るほうもそう思って見れば、テレビも「なかなかおもろいもんではないかいなア・・・・」

この年の12月にこの番組は終了し、最後の番組に【中島みゆき】さんがライブで登場してエンディング曲を歌った

  2005年1月12日記

ヘッドライト・テールライト 中島みゆき【cover】

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岡山県の「星の降る町  美星町」に行った時の話                 茶話26

2024年04月30日 | エッセイ

  雲がかかってはいたが、久しぶりに満天の星を見てきました。

☆六甲山トンネルを抜けて神戸北ICで山陽自動車道に入り、岡山JCTで岡山自動車道へ、 そして総社ICで下りて、まず総社市の友人三上君の家を訪ねた。

総社駅近くの陸橋を渡り、市街地を通り抜けて高梁川を渡り、濃い緑の稲の葉が光る一面の 水田の中を走って到着した。

 


ここまで家を出てから2時間40分、179㌔のドライブだった。

 ☆神戸から先着していた近藤君と阿智胡地亭は車を置いて、三上君の車に乗り換え美星町の彼の言う “星の野原という茶室空間”へ向かった。

途中、矢掛町を通過して30分ほどで美星町に着く。矢掛とか笠岡とか聞いた事のある地名が 案内標識にも沢山出てくる。


大阪支社の同じ職場で何年も一緒に仕事をした川上隆弘さんは、ここ矢掛町の出身だ。

 ああ、彼はこの町で生まれ育ったんだと思いながらづっと窓から外を見ていた。

「確かこのまっすぐ南が 玉島になるんだよね」と聞くとそのとおりと言われた。

玉島には元勤務先の工場があって、 何度も行ったことがある土地だ。今、JRの駅名は「玉島」ではなく「新倉敷」に変わってしまったのは残念だ。


 車の窓から見る総社から美星町のあたりの竹林と山林と水田の緑のアンジュレーションがとてもきれいだった。 そして全般的に地味が良い豊かな土地柄だなあと思った。

農家の屋根がどこも全部立派な黒い瓦葺だ。 昔から竹林が大好きなので、久しぶりに綺麗な竹林を沢山見ることが出来たのも嬉しかった。

このあたりは筍の名産地でもあるそうだ。  


 ☆3000坪はあるという彼の領地に作られたコッテージが今日の宿だった。 露天風呂に入り、黒ビールをジョッキで飲むともう独りでに顔がゆるむのがわかる。


☆殆どが畠と丘陵と山林の町内を車でまわって、彼の活動のスポット(農協の倉庫を利用したジャズ演奏や美術品展示空間など)を案内してもらった

そのあと、ここに来るまでにスーパーで仕入れた材料やビール、焼酎でメシになった。彼がうまい肉と玉葱やピーマンなどを次々手際よく焼いてくれた。


 この土地の彼の協力者である農家の川上さんも加わってくださり、楽しい飲み会になった。 川上さんは兵隊に取られていたとき以外はこの土地で生まれ住んでこられた。

岐阜の各務原航空基地の航空兵として出征していた経験談や果物作りの苦労話、美星町の歴史など次々話してくれた。


この飲み会に持参してくれた握り飯と自家製の漬物は本当にうまかった。

 
 話はどれも興味深かったが、彼が復員して村にたどり着いたとき、村の分校で遊んでいた子供達が、リュック姿の彼を認めたとたん一斉にいなくなった。

どうしたのかと思ったら、子供達みんなで川上さんの家に走り、そして 川上さんの母親の手を引き、背中を押して彼がほっとして座り込んでいた所へ連れてきてくれた

というエピソードは胸にぐっと来た。徴兵されて軍隊経験をしたおそらく最後の世代の一人だろう。  


 三上君はこの土地の化石の研究を続け論文を書くという。これからやることが山ほどあって後60年生きるという。 君達も一緒に60年生きようという。

これから60年生きる、そんなことは思ったこともなかった。 この3000坪の土地は、あと10年掛けて屋外劇場にするという。


そしてこの場所のどの場所でも貸すから好きなことをやったらと言う。

☆少しモヤがかかっていたが北斗七星や星座で見た星たちをしっかり眺め、

そんな話しを聞き その晩はこの標高303mの場所でぐっすり眠った。そして翌朝、朝5時前にウグイスの声で目が覚めた。 彼の総社の家へ戻って朝食後、

高梁川沿いに岡山自動車道の有漢ICまで地道を先導してもらい、 ここで友人達と別れ、北房JCTで中国自動車道にのって院庄ICへ向かった。

 奥津温泉近くで、広島の呉に本社がある二社目の勤務会社の時に出来た別の友人達と合流し、

日曜、月曜と二日続きでゴルフをして家に帰ったら 車のトリップメーターは476.2㌔になっていた。

  2004年11月頃記


星空のある風景 タイムラプス 4K #86 ~願いかなう星空/美星町星空公園~ Starry Night Timelapse 4K#86 星景微速度撮影

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転校で三重県と兵庫県の県立高校に通学したが、二つの高校はともに夏の全国高校野球大会の県立の優勝校だった。  茶話25

2024年04月19日 | エッセイ


「夏の甲子園大会」

テレビで2003年八月の夏の第85回高校野球の入場式というのを始めから終りまで見た。

入場行進の先頭の方に歴代優勝校の全校旗がそれぞれ掲げられて行進するということを初めて知った。

一緒に見ていた相方に「ボクが在籍した高校と卒業した高校の二つの校旗があそこに入って行進してるんや」とつい自慢気に言ってしまった。

「もう何回も何回も聞いてるから知ってる。ホントに良かったね」と返事がかえってきた。

   三重県立四日市高校

昭和30年の第37回大会は初出場の三重県立四日市高校が高橋投手の力投で優勝した。高橋投手はその後ジャイアンツに入団したが、
投手としては芽が出ず長くスコアラーとして巨人軍に在籍したと思う。当時四日市市で中学一年だったボクの同じ学年には出場選手の弟もいて、
中学も大騒ぎだったし、四日市市そのものも沸きに湧いた。

  現在の四日市高校


3年後の昭和33年に憧れの四日市高校に入学出来た。野球部はその後はだいぶたってもう一度だけ代表になったことがある。
ボクは父親の転勤で一年の一学期だけ在学して四日市高校を出てしまった。

 兵庫県立芦屋高校

昭和27年の第34回大会は兵庫県立芦屋高校が優勝している。データによるとこの優勝チームからプロ野球選手に植村や本屋敷*
(立教で長島茂雄と同期)が出ている。豊田泰光も水戸商業の選手としてこの大会に出場している。

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*(internet 「ミスター日記」から引用)

「立大に進んでから感じたことですが、甲子園に出場した選手というのは、その背中から自信のオーラを発しているように感じられました。
大学の同期で、その後、阪急(現オリックス)、阪神で活躍した本屋敷錦吾さんもその一人です。本屋敷さんは芦屋高校で甲子園に出場して
いたのですが、入学当初から技術の高さもさることながら、非常に洗練さたプレーぶりに圧倒された記憶があります。やっぱり甲子園経験者は
違うな、というのが私の第一印象でした。」

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 ボクが兵庫県立芦屋高校に転校し、在学した昭和33年から36年当時も、学校は報徳や育英など強豪の多い兵庫県でも常に代表を狙う位置にいた。

友人の田中昭氏が送ってくれた資料によると彼の出身校である大阪府立北野高校とは、昭和24年に春の選抜大会の決勝戦で対峙しており、

この大会では延長戦の熱戦の末、芦屋高校は準優勝だった。

 このように昭和20年代、30年代は常に兵庫県大会の上位校を維持し、ボクの在学中の34年だったか35年の春の選抜大会にも
藤投手を擁して、(もうその頃は野球では名前が出なくなった大阪有数の大学進学校である府立北野高校と違って)バリバリの兵庫県代表として出場した。

 現在の芦屋高校


この選抜大会の試合当日は全校で授業は早めに終り、学校から歩いてすぐの阪神芦屋川駅から全学年の生徒が電車で甲子園に移動した。
乗車時間は15分ほどの近さである。甲子園球場のアルプススタンドで応援したのはその時が始めてだった。

野球部の練習は狭い校庭でやはり強豪だったサッカー部(全日本の加茂元監督も芦屋高校のOB)やラグビー部と同時に入り乱れて
練習していたが、藤投手はひときわ身体が大きく目立っていた。

 社会人になって入社した会社で、藤投手のお兄さんに懇意にして頂くとは当時知る由もなかったが。

自分がたまたま在籍した二つの高校が、夏の高校野球で優勝したことがあると言うだけの事なので「それがどうした」と切返されることも多いが、

入社した企業でずっと営業をやっていたボクは、高校野球のシーズンになると 初訪問の会社の技術部や資材部の方々との会話の糸口のネタとして、

通った二つの高校の夏の野球大会優勝校の話を随分利用・活用させてもらったものだ。

 四日市高校&芦屋高校の野球部員の皆さんどうもありがとう。

         2003.8.23記

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 イタリアのシエナへケーキパテシィエ修業に出た神戸の女性  今時の若いモン        茶話 24

2024年03月22日 | エッセイ

先日、今日えっちゃんと食事をしてきたと次女が話した。えっちゃんは中学からの次女の親友だ。

そして、えっちゃんがイタリアに出発する日が5月15日に決まったという。

 彼女は大学を出て、暫らく三ノ宮のイタリアレストランで働いていた。

ヴィッセル神戸の三浦カズ夫婦がよく来店し彼女も時々話をしていたそうだ。

その店にいる間に調理師の免許を取ったあと、今や神戸でもケーキ店の最大激戦地になった阪急御影駅周辺にあるケーキ専門店に移ってケーキ職人の修行を始めた。

朝早くから夜遅くまでひたすらケーキ作りに励んでいた。でもその店は従業員の長時間労働が度を越していたので暫らく働いてやめた。

 店はその後、労働基準局の立入り検査があったほど深夜労働がひどかったらしい。そしてこのところ、ズカガールだった女性がやっている北野町のレストランで働いていた。

その女性オーナーに気に入られて、新たに出す支店の責任者になって欲しいと言われたが、彼女には夢があった。必ず自分はパテシィエになるという夢だった。

今、日本ではケーキ職人になりたいと思って修行している女性が相当な数になるらしいが、彼女は一度はケーキの本場のヨーロッパのどこかでケーキ修業をしたいと思っていた。

あるときよく店に来るイタリア人にそんな話をしたところ、「憧れだけなら誰でも出来る、イタリアにはローマ帝国時代からのケーキの伝統があるから、イタリアに行ったら」と言われた。

そして「本気でやるならイタリア語が使えなくては修行にならないよ」とも。 

彼から京都に日本イタリア京都会館というのがあるのを教えてもらいすぐに訪ねていった。そしてイタリア各地の語学学校の情報を仕入れ、イタリア語の勉強もスタートした。

父親の説得が一番の難関と言っていたらしいが、それも何とかOKを取って、いままで働いて貯めた金を全額使ってシエナの語学学校へ行く事に決めたとのことだった。

 「私、関空で乗る飛行機間違えへんかなあ」「シエナに行くのにローマで乗り換えやけどできるやろか」

食事を一緒にしながらそんな事を言っていたというので、そんな状態でイタリアへ行って大丈夫かなあと聞いたこちらが心配になった。

(シエナの風景は2006年夏イタリア旅行の時に撮影した画像)
 

そして昨日次女の携帯にシエナのインターネットカフェから彼女のホットメールが入ったそうだ。

 「シエナの空港で車がなかなか拾えず苦労したけど、無事学校の寮に到着したこと。

イタリア人はいい加減なところがあるから心配やったけど、ちゃんとした学校やったこと。

学生はスイスから来ている人が多いこと。まだコミュニケーションが取れないけど皆と一緒に食事したり買い物にも行きだしたこと。

先生に一人日本人、学生にも何人か日本人がいること」などなど。

 「あの子、学生時代親からバイト禁止されていたくらいなのに、働きだしたら自分で自分のやる事決めて全部実現していく」と次女が言った。

  私は「イタリア人はいい加減なところがあるから心配やったけど・・」という彼女のセリフを聞いて内心感嘆した。

行く国のことはちゃんとわかって行っている、このオジサンが心配することは何もないと。
 

それでも彼女のお父さんは毎日心配で堪らないだろうな、よく出されたなとも。

今の日本の男は甘やかされて自己中ばかり、出来る事は国内で威張る事だけ、他国でも通用するのは女の方が多いという持論がまたまた強化されそうだ。

   2004.05.20 記

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新居浜の友人が庭木の剪定を知り合いに頼んだらその庭師はやんごとなきあたりに連なる方だった。    茶話23

2024年03月20日 | エッセイ

<庭木の剪定を頼んだら・・> 

先日、新居浜の旧友から下記のようなメールをもらいました。
 
日本という「近代国家」が持つ多面性・連続性・劇場国家性?などの一端を示す
エピソードかと思い、旧友の了解を得てここにご紹介します。
 
・・・千五百年ほど前に数百年間(あるいはその後も長く)、西国の大和朝廷系部族に
こてんぱんに蹂躙された東国諸国の一部族の末裔の一人としては、これを読んで
ちょっとした感慨を持って「へぇ-、へぇ-」というしかありませんでした。
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阿智胡地亭さん、お宅も知っとる新居浜の某社に旧皇室に連なる方がおられることは
ご存知でしたか?(はよから丁寧語口調になってしもとるわね...)
  「有栖川宮家の詐欺事件」は滑稽な笑い話としてすでに記憶からほとんど
消えていましたが、今回、歴代皇室の本物の末裔にお会いして、家内ともども
しばらくこの話題で盛り上がりました。
 少し前になるけど、庭木の剪定をその某社のOさんにやってもろたんです。
もう10年も前からそこの会社のグリーン部隊に剪定をお願いしているんやが、
このOさんが実は第29代欽明天皇(きんめい)の末裔であることが分かりました。
 しかも百人一首で有名な小野道風や小野小町(美人で有名)とも親類にあたることが
家系図から判明し、我々はただ絶句と言うか、人は見かけとちゃうなーと、聞いてビックリしたんよね。 
ではOさんのお話を下記します。


************************************
その日の剪定が済んで、Oさんが帰りしなに私にこう言うたんが事の発端やわね。
 こないだ、会社から帰ったら家内から、「お父さん、宮内庁から電話があって、歴代天皇大鑑が出来上がりました。無料です。
御入用ですか?と電話あったよ」と言うんで、宮内庁に電話して歴代天皇大鑑を送ってもろたんです。明日また剪定に来るんやけど、
見られるんやったらそのおり持ってきますが。 Oさんからの突然の話でしたが見せてもらいます、と返事した。
 翌日は午前中に剪定が終わり、Oさんの独演会を約1時間あまりお聞きすることになりました。(もう完全に敬語になってしもとるがね)
 桐の箱に丁寧に梱包された、日本皇室図書刊行の【新歴代天皇大鑑】と家系図を見
ながら有難く拝聴させて頂いた内容は、まず日本の天皇の始まりは天照大神(あまてらすおおみかみ)である、からスタートした。
第一代 神武天皇 (御名:神日本盤余彦尊:かんやまといわれひこのみこと)
            在位:76年
            崩御:西暦紀元前585年(御年137歳)
            皇后:媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)
            陵(所在地):畝傍山東北陸(うねびやまうしとらのみささぎ=奈良県)

第二代 すい靖天皇(すいぜん)     84歳
第三代 安寧天皇(あんねい)       57歳
第五代 教昭天皇(こうしょう)      114歳
第六代 教安天皇(こうあん)       137歳



第29代 欽明天皇(きんめい)     63歳
            御名:天国排開広庭尊(あめくにおしひらきひろにわのみこと)
            在位:32年 西暦571年
            皇后:石姫皇女(いしひめのひめみこ)
.

第122代 明治天皇    在位45年、 61歳
第123代 大正天皇    在位15年  48歳
第124代 昭和天皇(裕仁)        87歳
第125代 今上天皇(きんじょう)(明仁)  皇后:正田美智子

と現在に至るまでのまさに天皇家の歴史が記載された厚さ10㎝もある
御肖像、皇統譜を見せて頂いた。
Oさんは第29代 欽明天皇の末裔にあたり、鼻から上にかけては、見れば見るほど
欽明天皇の御肖像とそっくりであった。
 また、滅多に人には見せない家系図をOさんは手を合わせて一礼しながら
巻物(長さ6から7mはあった)をユルリと開帳させながら拝見させてくれた、もとい、下さったが、
系図の中には小野道風や小野小町も記されており、まさに本物と信じるに足る証拠となるもので、
有栖川なんとかとは対照的ではあった。

  Oさん自身は植木職もやってるという仕事柄、真っ黒に日焼けして
お見かけはお世辞にも皇室関係とは...。
 ビックリはしたが、そやけど後で考えてみるとかなりの時間、自慢話を聞かされたような
印象しか残っていないのはなんでやろ?

 いずれにしても摂政関白政治からより武家政治中心で天皇の政治力が落ちながらも時代、時代に適応しながら
形式的儀礼的であるが永く存続してきた秘訣はまさに驚異と想像するものです。
昔の天皇が100歳を越しているのは粗食が要因だとOさんは言っておりました。
 しかし、Oさんをはじめ皇族の末裔の方々は近代社会とはいえ、現在もかなりの自覚を持って庶民には理解できない
ご苦労な生活がされておられるように感じました。 

ちなみに新居浜市役所の東に立派な小野神社(今は名前は違うが)があり、境内の長さは大変立派で今も実在しています。
 チョット浮世離れした経験でしたがアーァおもろかった。
 
*******************************
 
解釈、分析はいかようにも出来ると思いますが、この話自体はまごうかたなき現実のやりとりです。
 これを読んだとき、私が知ってる新居浜の何人かのOさんたちのお顔が浮かび、
みなさん全員がお公卿顔だったような気がしてきたのも面白いことでした。
 
  かしこみかしこみまおしました。

   2004.02.17記

<庭木の剪定を頼んだら・・>続き 

西からメールを頂けば、東からも便りを頂く。似非椅子徒(エセイスト)としては嬉しい限りです。
 前回の阿智胡地亭便りの内容の真偽を、いささかなりとも問うものではないとの
但し書付きで、東の方から下記のような彼の総務部門責任者時代の経験談を頂きました、
これまたへぇ-へぇ-と面白く読ませてもらいましたのでご紹介します。
 
*********************************
 
新居浜のOさんなる方が、何と第29代欽明天皇の末裔! 
しかも家系図付きでお顔立ちもそれなりに尊い由、あなかしこ。
俄かには信じられんが、なかなかにロマンもある実話かなと思いました。
 小生、京都時代、職業柄怪しげな人名録商法とか家系図作成商法という
のにちょくちょくお目に掛かりましたもんです。

最初は無料奉仕と言いながら、実際には、なんだかんだと数10万円を
ふんだくられた方々や脅され途上で困り果て、相談を受けた身近なヤクインや
カンリショクが存外に大勢居ました。

 さて、このお話は、そんなことは無いと思いますものの、桐箱入りで10cm厚の
貴き御本や巻物系図などは、宮内庁関連を標榜する出版社(右翼系の方々が多い)
サン達が最もお得意とする題材(商品)でして、特に、褒章や叙勲をもらった後に
「丁重なお祝いと共に売込まれるモノ」に 酷似しているようにも感じます。

 今後、かのやんごとなきお方に、法外な金額の請求書が来ないことを祈りつつ、
興味深く 拝読させて頂きました次第です。 

 
 信じる 信じないとは別次元のコメントですんません。
 
                                                  以上  
**************************************
 
追伸;将来、褒章や叙勲を受けられる方へ。
 
宮内庁が関係し、発行される正規の書籍・文献類は全て「宮内庁書陵部」編修と
なっているそうですのでご参考まで。

 2004.02.19記

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東京赤坂・溜池のひとに さよならを             茶話 22

2024年03月09日 | エッセイ

25年お店やってきて結局借金しか残らないんだから、私ってお人よしなんだよね。
でも、まっいいか、いろんな人とお会いできてそれなりに私も楽しかったし。

この店 私40の歳で始めたんだよ。この頃なんか疲れた気がする。もうやめようかなって近頃時々思う、とママが言った。

   2003年の7月始めのことだった。

  学校の先輩に連れられて、店に初めて来たのは 1978年 昭和53年の秋だった。店が開店して半年後くらいだったらしい。
東京勤務になって4年目だった。同窓の集まりの後、同じ会社に勤務していた先輩二人がそれぞれ別の時に、
連れてきてくれたからその会社が使っていた店かもしれない。

何回かこの店で先輩たちに飲ませてもらったが、当時は貿易部に所属していて、赤坂国際ビルにあった商社に月に何回か仕事で行っていた。

商社から歩いて10分ほどのこの店に、打合せが遅くなると、いつの頃からか寄るようになった。
勤務先がある神田美土代町周辺の麻雀屋や居酒屋には職場の仲間と毎晩のように行っていたが、
カウンターのあるスナックは他に行ったことがなかったし知らなかった。

店から地下鉄千代田線の国会議事堂前駅までも歩いて10分程で、地下鉄に乗れば会社のアパートがある南柏まで
一本で帰れたのも理由の一つだった。




一人で飲みに行くのもサラリーマンになって初めてだった。自分より年配の客ばかりの店でずっと小さくなって座って飲んでいた。
あるとき客が少なくてママと長く話をしたとき、彼女が三重県の松阪出身だと知ってこちらも四日市に住んでいたことを言い、
東京の悪口や、いややっぱり東京は凄くて面白いねなどといろいろ話をしたことから、夜遅くなって彼女が酔うと説教をされることになってしまった。

アナタはねえ、もっと自分の思ったことを先輩にもいいなさいよ。ただニヤニヤ笑いながらハイハイ人の言うことだけ聞いて
ここにいても仕方ないでしょ。キミはなんかじれったいよ、顔には言いたいことが出てるんだから。

言われても自分でも自覚していることだから腹は立たなかった。そのうち社内の飲み会の後などに仲間とも行くようになり、
結局昭和62年に大阪に転勤するまでの9年間、年に3、4回顔を出していた。

そして大阪から出張で東京に宿泊したある日、2年ぶりに店に顔を出すとちょっと待ってねと言いながら椅子に乗って、高いところの棚を探し埃だらけのボトルを見つけて出してきた。

たしかウイスキーのお湯割りに丁子を入れるのよねと言って、女の子にそう指示した。そして新しい名刺を頂戴と言われて出すと、
それを見て、良かったね、こんな肩書きがついたんだと喜んでくれた。

この商売をやってるとね、自分の為でもあるんだけど店の永いお客さんがだんだん上がっていくのを見るのが本当に嬉しいのよ。
特にキミはへらへらしてるだけでどうなるか心配だったから。

それから10年ほど毎月のように大阪から東京への出張があったが、店には年に1,2回くらい寄った。ボトルはだんだん素早く出てくるようになった。

最初はクラシックしか流していなかった店にもそのうちカラオケセットが入り、客はますます年配者が増え、客の数も少しづつ減っていった。
そしてママはいつも酔っ払っているようになった。ただよく変わっていた女の子は、落ち着いた四十代の人が定着するようになっていた。

一人客が多い店で、皆大体たまたま隣に座った客と話すのだが、あるとき隣の席の客にママが、清家さんと名前を呼んで話をしているので、
もしかしたら宇和島のご出身ですかと話しかけてみた。

その65,6才に見える客は、良くご存知ですね、退職して今大分に住んでいますがもともと宇和島ですと言う。

清家姓の出身地はほぼ100%宇和島だ。東京や大阪の新規引き合い先で、お客さんと初めて名刺を交わすとき空気がほぐれるのは、
その苗字で出身地を当てて苗字の話をするときだ。

彼はH製作所に勤務した人で今回は同期会のため上京して何年かぶりにこの店に寄ったと言う。Sが今苦労していましてと言われるので
もしかして社長のSさんのことですかと聞くと彼も同期なんですという。

広い畑で野菜や果物をもう何年も作っているという彼は良く陽に焼けて健康そうだった。

こうして昔のお客様に寄っていただくのは本当に嬉しい。皆さん退職するとき部下に律儀に店を引き継いで下さるけどやっぱり好みが違うんだよね。
これってしょうがないわよねとママが口をはさんだ。

 続く

(続きを書くつもりでしたが、書かないままになりました。これで店に顔を出すのは最後になるだろうと言う出張の夜、ママさんにその旨を伝え、
長いお付き合いのお礼を言い、お互い別れの挨拶を交わして店を去りました。その後のママさんと「雅瑠」という店のことは知りません。)

 

  2003.11.25 記

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御影郷の<酒蔵の道> を歩く    茶話 21

2024年03月07日 | エッセイ

<酒蔵の道>  
 
家から浜の方へ真っ直ぐ下っていくと阪急神戸線、山手幹線道路、JR神戸線、国道2号線、阪神電鉄本線、

国道43号線を直角に横切って、灘五郷のうちの御影郷の酒造会社が並ぶ地域に辿り着く。歩いても40分くらいの距離だ。
 
江戸時代から灘五郷と言われているが、魚崎郷、御影郷、西郷の三郷が現在の神戸市東部にあり、今津郷、西宮郷が西宮市内にある。

神戸市の三郷は阪神電車の駅名で言えば、東の方から西へ魚崎、住吉、御影、石屋川、新在家ときて大石駅までの狭い範囲に全て含まれる。
 
大手の酒造会社はそれぞれ資料館や記念館を開設しており、昔の酒造りの有様や道具・器具類を展示したり、自社の酒を販売したり、

コーナーを設けておいしい出来立ての酒を有料ながら飲ませている。
 
桜正宗記念館、菊正宗酒造記念館、白鶴酒造資料館が魚崎郷にあり、御影郷と西郷には瀧鯉蔵元倶楽部酒匠館、泉勇之介商店(灘泉)、

神戸酒心館、こうべ甲南武庫の里、沢の鶴資料館があり白い壁の土蔵の間の道が「酒蔵の道」として整備されている。

そしてモデルルートの誘導標識も立っている。

  神戸酒心館

 
八年前に震災で壊滅的な被害を受けた地域だが、ようやく全ての施設が復旧して全行程五時間ほどのほろ酔いトリップを楽しむ人も増えてきたと聞く。
 
家から車で10分ほどで行ける福寿酒造の神戸酒心館には豆腐と蕎麦料理をメインとする和食レストランが併設されており、

酒もうまいが、豆腐と蕎麦そのものがうまいせいか豆腐と蕎麦好きの中老年でいつも流行っている。
 
神戸に立ち寄られモダンかつレトロ神戸のスタンダード観光コースを済まされたらこの「酒蔵の道」も一度ためされることをお勧めします。

ご一緒に歩きましょうか。
 
 <おから>と<いしる>
 
先日の晩、夕食のおかずに「おから」が出てきた。いつものおから料理よりおいしい。
このあいだ蕎麦を食べたあと神戸酒心館の売店で買った「おから」に、今日届いた
「いしる」を入れてみたと言う。いままでのおから料理と旨みが違う。
 
酒心館に併設されている販売店は全国各地の健康食品・調味料・酒器などを
扱っており、味は間違いないものばかりだ。おからもいいものだったのだろう。
 
「いしる」は初めて聞く名前だった。東北の「しょっつる」と同じ魚醤の一種だという。
瓶のラベルを読むと日本三魚醤の一つと書いてある。語源は「いお(魚)のしる」かと書いてある。
魚醤と言うものの中ではベトナムのニョクマムが一番有名だと思うが、日本にも昔からある調味料らしい。
この魚醤醸造法は南方照葉樹林文化にルーツがあると言われている。冷温物流チエーンの発達のお陰で
コープコウベが取り扱いだしたので家でも初めて買ってみたとのこと。生産者は金沢市にある会社だった。
 
酒は「福寿」ではなく買置きの「梅錦」を冷やでやったが、「おから」はこれに良く合った。
 うまいと言うと「でしょデショでしょ」とうるさい。「いしる」を入れたらどうだろうと閃いたのが大正解、
おからにちくわと平天を刻んで入れて、これに生姜、ゴマ、ミリン、お酒、しょうゆと砂糖で整えたと。
確かに好きなおからがこの日はもう一味違っていた。うちの「定番の一品」に登録が決まった。

  2003.12.23記

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

酒心館の「さかばやし」でせいろを一枚食べました。

 

2014年07月04日 | 食べる飲む

 

まあまあの手ごたえで打ちっ放しを終えた後、昼時になっていたので御影塚町の「丸亀製麺」に行きました。残念ながら駐車場は一杯で止める場所がありません。
止む無く隣の「酒心館」の「さかばやし」で蕎麦にしました。


支払金額は丸亀製麺の予定額450円の倍になってしまいましたが、「さかばやし」の「せいろ」はひさしぶりでおいしく食べました。



ショップの「東明蔵」はご婦人方で混んでいました。団体客のようでした。やはり山中教授のノーベル賞受賞晩餐会に供された
日本酒「福寿」の蔵元として知名度が上がったのかも知れません。

 朝日新聞の記事から。2012年12月8日03時00分
ノーベル賞晩餐会に神戸の酒
写真:ノーベル賞の晩餐会で振る舞われる「福寿」

 山中伸弥・京大教授が出席する10日のノーベル賞授賞式後の晩餐(ばんさん)会で、神戸市東灘区の神戸酒心館(しゅしんかん)が造る清酒「福寿(ふくじゅ) 純米吟醸」が振る舞われる。
益川敏英氏らが受賞した2008年の晩餐(ばんさん)会で、スウェーデンの取引先が主催側に薦めてくれたのがきっかけで、日本人が受賞した際の定番になった。
10年に続き3回目の納品だが、今年は地元・神戸大学医学部卒の山中教授とあって酒蔵の喜びもひとしお。「お酒好きと聞く。存分にうちの美酒に酔って下さい」
 

 

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たまたま出会った  桂文珍さんと笑福亭鶴瓶さん    またまた遭遇 六甲山の麓のイノシシ           茶話 20

2024年02月27日 | エッセイ

たまたま出会った    

 落語家二人

新大阪のホームで列車の入線を待っていた。

車内で読む「週間文春」と「お~いお茶」を確保した後は、
いつもの癖で目の前を行き来する人達をバードウォチングならぬピープルウォチングを楽しむ。

背をしゃんと伸ばして夏物を涼しげに決めた奥さんの後を、ゴルフウェアーらしいポロシャツを着た旦那が荷物を持って
トボトボついていく。アタッシュケースを持った紺のスーツの若い女性が男の同僚社員らしいのと急ぎ足で通り過ぎる。

若い男女の外人が6、7人でトランクの山を横においている。ツアーらしいがガイドはいないなあ。
女性が小柄だし、着ているものの色とコーデネイトが洒落てるからからアメリカ人じゃなくてラテン系みたい。

あら、向こうからくるおっさんあれは桂文珍みたいやなあ。荷物をカートで引っ張っている。
お伴なしで一人で動いてるんだ。彼は私のすぐ隣に来て立ち止まった。やはり文珍だった。

5、6年前に阪急六甲から梅田まで隣どうしに座った桂文珍とはこれで3度目の遭遇だが、
いままでになく自然体で周囲の人は誰も気付かない。気のせいか彼は少し仏頂面に見えた。

テレビと違うのは薄いサングラスをかけているだけだ。彼は早く来すぎたのか私の乗った列車には乗ってこなかった。

②21のB席は窓際3列の真ん中の席だった。

この伊丹空港発の羽田行きフライトは乗客に子供が多く満席だった。

シートベルトを締めてぼんやり乗って来る人をみていたら、笑福亭鶴瓶みたいな男が通路をこちらに来る。
その後ろに名前は知らないがテレビで顔は見たことがあるのが続いている。

みたいではなく間違いなく鶴瓶だった。彼は20のD席、若いのが20のC席に座った。
飛行中二人は半分の30分ほどスケジュールの話をしていた。あのダミ声の大阪弁で。

着陸して皆が席をたったとき、彼の前の席の女性が後ろを振り向いて握手を求め、それに対して笑って握手を返していたくらいで、
殆どの人は気付かないままで機内から下りていった。

運動会などの集団の中から自分の子供をすぐ見分けられる視覚の識別能力は、動物の始源的な能力の一つらしいが、
例え一度も会ったことがない他人でもいったんインプリンテイングされたイメージと同一人物が目の前に現れたら、
無意識かつ即座にその人だと認識するという経験は何度あっても面白い。

またまた出会った   イノシシ カンバック    

夜11時過ぎ、飼犬のうち若い方のムーが突然ワワーンと外に向かって異様な吠えかたをした。あっイノシシがまた現れた。
人に対する吠えかたと全然違うのですぐそう思ったそうだ。

相方が道路際の2階の部屋の窓から外を見ると、20mほど離れたゴミの集積所のところに大きなイノシシが1頭とウリンボウが
一匹ビニール袋に鼻を突っ込んでいる。時間が遅いのでバスはもう通らないが、乗用車が何台もそこを避けて大きくふくらんで減速して上がっていく。


集積所の前の一家は総員で玄関の塀ごしに顔を出してこわごわ覗いている。そのお隣はガレージのシャッターの前に置いていた
ビニールをあわてて取り込んでいる。(私は冷酒をやりすぎてこの時間は白河夜船だったので翌朝聞いた)

その一週間ほど前は真夜中にムーが吠えるか吠えないうちに、家の前のお宅の玄関でドーン、ドーンという大きな音がした。
覗いてみたらやはりウリンボウを連れたイノシシがアルミ製の柵に体当たりしているのが見えたそうだ。
前にアルミの柵の中に置いていた生ゴミをやられた事があるおうちだ。


一年ほど前近所の何軒もアルミ製の柵や玄関がイノシシの体当たりで捻じ曲げられ、取り換えざるを得なかった。
うちと隣は建ったのがほぼ40年前と古いので柵は鉄製だが、鉄製のものはどの家も被害がない。
推測だが鉄の(かなけ)のイオンの匂いを避けるのかもと思う。

つまり先祖代々、猟師のトラバサミなどの鉄のワナで痛い目にあってきたので、鉄から逃げるDNAがあるのかも知れない。
理由は不明だが鉄製の物には向かってこないというのは不思議な事実だ。

神戸市が六甲山麓の地区の住民の声を聞いて昨年ようやく「イノシシ迷惑防止令」を出して、餌をイノシシにやるのが禁止されてから、
彼らが近所をうろつくのが少なくなってほっとしていた。

今年の梅雨の長雨や気候不順で六甲山の自然のエサが少なくなったので、またもや人家の近くに出没しだしたのだろうというのが、
朝飯どきの我が家の結論だった。

   2003.8.10作成

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贅沢な夢を見た と 目が覚めた相方が言った。    茶話19

2024年02月13日 | エッセイ

明け方 贅沢な夢を見たと
相方が言いました。

どんな夢?と聞きました。

 立食パーテイでお皿に料理を取っていたら、
隣の男性が、私の皿に遠いプレートの料理を取って載せてくれた。

誰だろうと思って顔を見たら江口洋介だった。
お喋りしながら食べていたら、別の男性が
近寄ってきて新しいお皿に別の料理を取り分けてくれた。

この人は誰だろうと思ったら伊原剛志だった。
3人でいろんなお話をした。楽しかった。

 ほんとうに贅沢な夢を見てしまったわ。

   ああ、そうですか、良かったねと私は言いました。

                                             2009年10月 記

コメント (1)
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  宗次郎のオカリナ演奏会  大竹しのぶの「POP!一人舞台」を見た話  茶話 18

2024年02月04日 | エッセイ


宗次郎の「オカリナ演奏会」
 
コープこうべの優待チケットの抽選に当ったからと言われて、宗次郎の「オカリナ演奏会」に初めて行った。
優待チケットは正規料金より少し安く買えるので、行きたい催しがあると相方がコープこうべの抽選に申し込む。
 会場は大阪のNHKホールだった。NHK大阪放送局が新しく竣工していたが、まだ行ったことがなかった。

地下鉄谷町4丁目駅で降りて、地下道をかなり歩いて地上に出ると壮大な建物が現れる。
広島のNHKの放送局の建物も

名古屋のNHKの放送局ビルも
どちらも周囲を圧するような大規模の建築物だ。オイオイ大阪も一緒か、たかが容れ物に僕の受信料をこんなに使うなよなと思いながら入って行った。
 
政治家の放送族の利権がらみで、息がかかった設計事務所のデザインのままに歯止めがないまま、
豪壮な規模と豪華絢爛な仕様にふくれ上がり、放送局として機能的な構造かどうかは関係ないんだよなと
大阪放送局の建物を見ても思った。
 
NHKホールのロビーは自分達と同じようなシルバー夫婦が群れている。あとはご婦人の連れと
母親と娘というカップルが多い。バックに映像を流して演奏する「大黄河」や「コンドルは飛んでいく」も
あらためて新鮮だったが、「馬子唄」や「遥かなる尾瀬」は始めて聞いたが良かった。
 
オカリナ一本で(勿論伴奏はついているが)ほぼ2時間引っ張るのはちょっと大変とは思ったが、
もう30年近く演奏活動をしている強みで会場はリピーターが多いらしく、善男善女集団の観客は協力的な
拍手と笑みでおだやかに楽しんでいた。

 2004.01.22記

バラエテイー・パブのオカマショー
 
元の勤務先の同じ部門の東京のOB忘年会の2次会で、歌舞伎町のアルカザールというバラエテイー・パブに行った。

 幹事から事前にオカマのショーだとは聞いていたが、指定の席に座った15,6名の
初老の我がオジサン軍団は、司会の小太りの着物姿の司会者から、「アラマア、冥土
の土産にって、半分棺おけにアシ突っ込んだ白髪とハゲのジジイたちがニューハーフ
のお嬢を拝みに来たわよ」というセリフを浴びて、のっけから度肝を抜かれた。

ショーの間も罵詈雑言を投げられ続け、最初のペースのままに巻込まれて、いいように
おちょくられながらもオジサン連中はみんな大笑いで楽しんだ。
 後ろの席は「ハトバス」の(夜の東京観光コース?)の団体客とかで、司会者もそちら
にはあまりちょっかいをかけない。
 ショーそのものも抜群のShapeの美女?たちがソロ、群舞で踊りまくり、コントもおりまぜて、
いいテンポで流れていく。勿論規模や設備は全く違うが、もう25年も前にパリで見たムーランルージュや
ル・セクシーのショーと似ている。
 
どちらも客を徹底して楽しませるという点で、ショーに関わっている連中にプロの臭いがした。
”支払いした分ちゃーんと返してもろたか”という関西人の物差しで考えても満点だ。
関西人にとっては高いものは高いなりに、安いものも安いなりに中身が値段に見合っているかどうかが満足度の物差しだ。
 
終わって劇場を出るときもらったカードには「抱腹絶倒」「妖艶華麗」と売り文句が書いてあったが、
ホンマや、看板に偽りなしだったなと思った。座席数200とも書いてあったがそこまでは広い感じはなかったが。
 
  2004.01.22記

大竹しのぶの「POP!一人舞台」
 
大竹しのぶの「POP!一人舞台」というのが大阪にも来るよと相方から言われて、インターネットで探した。
すぐチケット会社のHPも見つかり、「POP」の情報画面も見つかった。チケットもネットで買えることが
わかったので、そのままネット会員になる手続きをした。
 
画面を見ていくと東京の7日間公演に引き続き、大阪は3日間公演になっており、
どうせなら全10日間公演の最終の「楽」の日が面白いかもと思って12月28日を申しこんだ。
幸いまだこの日に空席があり、インターネットバンキングを使いその場でチケット会社の
口座へ振込み手続きをした。
 
**朝日新聞社前のフェステイバルホールのすぐ近くまで大阪駅から地下街だけを通って行ける。
会場のリサイタルホールはフェステイバルホールの地下のこじんまりした劇場だ。
 
ロビーに入ると客筋が一ケ月前のオカリナの演奏会の時と全く違う。圧倒的に女性が多い。
しかも仕事を持っていて、その職場なり店を仕切っているという感じの元気一杯の女性が殆どだ。
たまたま目の前で「アラツ、貴女たち新幹線で来たの?私たち、なんとかフライト取れて飛行機で来たの」と
5人組が話しているのが聞こえた。この5人はクロウト筋の若手のようだった。
 この日が千秋楽でもあるので、しのぶさんの「おっかけ」が東京からも来ているらしい。
夫婦モンはほんの少数で、いてもかなりの年配者ばかりだ。男はサラリーマン経験者と思える人は殆ど見えない。
演劇・舞台関係者というかBox office業界の人がかなり多いように思えた。
 
**(あの子かわいやカンカン娘)と♪いながら彼女が下手から出てきた。真っ黒なフレヤースカートに大きな紅いバラが
一輪だけ刺繍してある。前後に身体を揺らして歌いながら、視線は会場の全部をずーっとなめていく。
 始まったばかりで誰も手拍子を取らなかったが、無意識に音を出さずに手拍子を取ったらこちらに彼女の視線が
スッと来た(と勝手に思った)。そのうちに座った反対側の席から手拍子が出だして会場に広がった。
 
「一人舞台ってあるので大竹しのぶが一人で劇をすると思ってこられた人には申し訳ないけど、
今回は歌とおしゃべりなんです」、最初の歌が終わったあと、彼女が話し出した。
 
銀座カンカン娘、花、悪女、見上げてごらん夜の星を、などを次々歌い、あいまに
「今も杉本さんが時々遊びに来てくれて、今年もクリスマスには例の調子で盛り上げてくれました」などと喋る。
客は全員子供のイマルちゃんの父親が明石屋さんまということも知っているからすぐに彼女と一体感の中で笑ってしまう。
 舞台で鍛えられたのか、口先でない腹の底からの声は厚みがあり、透きとおって良く通る。
そして、彼女は自分でもとても歌が好きなんだろうと思える情感がこぼれる。
 「奇跡の人」に出演するための勉強で知った施設の人たちとの交流の話なども、静かにそして長く話した。
 
**最後に「明日があるさ」を歌いながら狭いといっても結構ある会場を、彼女は右から左、真ん中から上から下まで
歌いながら殆ど走った。千秋楽でもあるせいか彼女の瞳が少し潤んで見えた。
席は最左端から二つ目と三つ目だったが、そのお陰で最後に左の端っこを走り上がってきた彼女が、
順番に握手していく中で、精一杯伸ばした僕の左手の3本の指をギュッと握ってくれた。
 
「握手してくれた」と上ずった声で隣の相方に言ったら、
「良かったね、長年の願いがかなって」と即、返ってきた。
 
阪神梅田の駅カレー店でビーフカレーを食べて帰宅し、次女にもしのぶちゃんに握手してもらったと言ったら、
「良かったねお父さん、その手アシタも洗っちゃあ駄目だよ」と彼女が言った。
 
 こういう事があるからには、清水美砂さん岸本加代子さん秋吉久美子さんの
あと3人の好きな女優さんにもいつか握手をしてもらえる日があるかも知れない。                            
 
**一ヶ月の間に3つもの劇場に行ったのは、これまでで始めてだったが、その舞台に接している時間の間、
非日常の世界に入るのは、旅行と同じだ。ビョーキにかかってしまい、働いた金は日常の全てを節約して切符に
かける人があちこちに沢山いるのもわかるような気がした。

そして舞台の世界も三日やったら止められないというのも。

 2004.01.22 記
 

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生卵かけご飯は日本だけのもの    神戸のインド料理店「Gay Lord ゲイロード」   茶話 17       

2024年02月01日 | エッセイ


 


 毎年、初詣のあとインド料理店に行くことにしているが、今年は出かけようと思った日が寒かったりして行っていなかった。

先日結構暖かい日があって、思い立って昼に「ゲイロード」に出かけた。

震災前に三宮の神戸市役所近くにあった「Gay lord(陽気な殿様)」は、当時ロンドンやパリにもチエーン店があって、

長身のインド人給仕頭が黒服に身を固め、広い店を笑顔で仕切っていた。ボーイも皆インド人で、店の雰囲気は高級レストラン風だった。

その店が震災後中山手通りに移転したのは知っていたが、移転先には行ったことがなかった。

   余談ながら 昭和55年ごろ、ボンベイ(ムンバイ)港湾局の施設部長を日本に呼んで四国の工場や神戸港に案内したことがある。

彼は、ベジタリアンの中でも厳密な方の菜食主義者で、東京のレストランで彼のために特注した焼き飯を、

「この焼き飯の前に肉を使った料理に使われたフライパンが、そのまま使われているようだ。米飯に肉の臭いがするから食べられない」と言ったりして、食事では大汗をかいた。

「ゲイロード」にはさすがにベジタリアンメニューが普通にあって、案内したこちらもも施設部長もホットした。

彼は驚くほど沢山食べた記憶がある。成田到着から何日も、腹を減らしていたのかと、少し気の毒だった。

 一緒に泊まった三宮のホテルの朝食で、私が和定食の白飯に生玉子をかけて食べだしたら目を丸くして驚いて見ていた。

聞くと生まれて始めてこういう食べ方を見たという。

後でなんかで読んだのだが、世界中でも、玉子をこうして食べるのは日本だけらしい。 
玉子の流通の全過程で衛生管理が出来ていないと生食は出来ないのだ。


それにしてもベジタリアンは海外に出るのは大変だなと思った。原理原則なき民である日本人の中でも、阿智胡地亭は、和洋中華印度朝鮮蒙古なんでも、

「うまければどこの料理でもいい」と思ってこれまで各国各地のものを例外なしで食べてきているのだが。



    新しい店は、神戸に多いインドレストランの中でも広い方だった。雰囲気は、前の店に比べると気安い感じの店になっていた。

入ってすぐのところのガラス越しに「タンドウール(タンドリ)」窯が置かれてインド人の料理人が二人いる。

接客は若手の男性1人とインドの民族衣装を着た女性が二人がしていたが、皆日本人だった。

ランチタイムメニューには定食が3種類あったけど、久しぶりのインド料理なので、定食ではなく、メニューからいくつか選ぶことにした。

こちらはまず、ボンベイ出張時に良く飲んだジントニック(インドではいいジンが出来る)を頼んで、料理のチョイスは相方に任せた。

奥の方に中年の男女10人くらいが、何かの集まりの昼食会をしているのと、若い二人連れと若い男一人客にサラリーマン風の男二人の客が居た。

オーダーしている間に隣の席に黒人とスーツをぴしっと決めた若い日本人が座った。

黒人は派手なウインドウブレーカーを着て、日本の食べ物では何が食べられるなどと話しだした。

オリックスの新しい外人選手と球団の通訳かも知れない。

オーダーはミックス・タンドリプレート(チキン、マトン、サカナ、エビ)、野菜のサモサ、チキンマサラカレーとドライカレーに決まり、それにプレーンナンを取ることにした。

食べ始めて暫らくすると、近くの窓側の席に大柄な老年のインド人が一人で来て座り、すぐ追いかけて別の同年輩の白髪の一人が来て握手をした後、向きあって座った。

long time no see・・・と話し出して、娘が18になり、ハイスクールを卒業・・と聞こえて来た。

久しぶりに友達どうしが、この店で落ち合い、一緒に食事をしてお互い近況を話しているのだろうと思った。

インドの言葉ではなく、英語で話をしているところからすると、同じインドでも言葉が違う別々の土地の出身者が、神戸に住み着いて知り合ったのだろう。

料理がおいしかったので、相方にブツブツ言われながら、ジントニックを追加でもう一杯頼んだ。

 どの皿もスパイシイーでおいしかったが、量がたっぷりあったのでドライカレーは少し残した。

一時間半ほどゆっくり居て、店を出た後どうだったと相方に聞きたら、前より料理が日本化していると言う。

どこが?と聞くとグリーンピースを使いすぎと言う。言われてみれば確かにそうだった。

何かの食材をグリーンピースに代用させているのかも知れないが、女の目は男と違う。

味は多少日本化しているかも知れないが、それなりにおいしく食べた。 前は法人客が多かったが、

今は主として日本人の個人客を主な顧客にしているようだから、多少日本化しないとやっていけないのだろう。

彼女は次回のインド料理は、北野町にある「ガンダーラ」の本店に行ってみようと言った。

いきつけだった阪急三宮駅前の「ガンダーラ」の支店は数年前に閉店してしまっていた。

  結局「ゲイロード」は新たなリピーターを作れなかったようだ。  

 2004.02.24記

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神戸御影で いかなごレシピの「蜂の子のつくだ煮」を買った。    茶話 16

2024年01月28日 | エッセイ

信州産ではなく、メイド・イン・コウベの「蜂の子のつくだ煮」を買いました。

     阪急電車の御影駅から阪神電鉄の御影駅へほぼ一直線に下りるバス道が、国道2号線と直交する角に東灘警察署がある。

歩くと家から30分かかる。入院前の33キロ速度違反による一ヵ月免停期間(*)が終了したので、免許証を受取りに警察署へ行った。

免許証を返して貰ってから、信号を渡って署の真向かいにある「ハチミツ屋」に入った。この「ハチミツ屋」は

阪神淡路大震災前にはあったような気がするが、中に入ったのは初めてだった。 (click → 入院)



免許証を提出する期限の日が退院してすぐだったので、私は歩くのがまだ覚束なく、本人の代わりに、買物ついでに、

相方と娘が行ってくれた。そのとき「蜂の子のつくだ煮あります」という大きな紙が、店のガラスに貼ってあるのを見つけたのだそうだ。

相方は蜂の子が私の大好物であることを知っているから、店に入りかけたが、

「歳を考えないでスピード出して捕まって、罰金払って家計に大損害かけた人に、買うことないよ。

甘い顔見せたら駄目だよ」と次女から言われて、その日は買えなかったとも相方から聞いていた。

店に入ると、菜の花、アカシア、レンゲ、みかん、クローバー、ソバ、トチ、オレンジ、ユーカリなどのレッテルが付けられた

大口瓶が並んでいる。ハチミツに、こんなに種類があるのかとびっくりした。値段も一瓶600円くらいから5000円くらいまでの幅があってこれまた驚いた。

店先に人は誰もいなく、奥に声を掛けると、中年の女性が出てきた。

「蜂の子のつくだ煮、どんなんか見せてください」と言うと店の端にあるガラスの冷凍ケースから、小さなガラス瓶を出してきた。

蜂の子はきれいな飴色に仕上がっていて、見ただけで、質が良くうまそうだと思ったので「それ貰います」と言った。

「えっ、試食しないでいいんですか」と言うので、「自分は信州に縁がある者なので、見たら分かりますから」と言うと、

女性の顔が急にほころんでニコッと笑い、「ああ、そうなんですか、実はこれ店におくとき、神戸で買うてくれはる人おるやろかて、

チョット心配やったんです」と言った。「それで売れてるんですか?」と聞くと、「お客さんみたいな年配の男の人が、時々入ってきて買うてくれはる。

そして少数やけど何回も買いにきてくれはる」と言う。

「作ってもろてるとこ、“イカノゴのクギ煮”とおんなじ作り方でやってもろてるんです。

仕上げにハチミツ使こてもらうとこだけは違うンやけど。もうちょっと、カズ売れたら値段も安うできるンやけど、

なんせ手間かかってるよって、すみませんネエ」と心底恐縮しながら言った。確かに50gで850円は高くて、

主婦の感覚では買えず、酒飲みがツマミ感覚で買っていくしか、まだ売れないだろうと思った。

それに元々神戸には、蜂の子を食べる人そのものが、殆どいない筈だしとも思った。

瓶を包んでもらうのを待つ間、店に何枚も掲示されている蜂蜜取りの写真を見るともなく見ていたら、

「父がもともと養蜂業者で、六甲山にミツバチ置いてやってたこともあるんです。95歳で今も、まだ元気ですワ。

連合いの一族も阿蘇の山麓で昔から今もずっと養蜂やってます。」と言う。今年の夏、岡山の三上君からテレビの宣伝で

有名になった通販のYD養蜂場が、中国から安い原料を輸入して、それを加工して大儲けしている。

250億の売り上げで50億の純益を出しているが、製品出荷量と本来の養蜂場の蜂蜜生産量が、どうみても見合っていないと聞いていた。

蜂蜜の品質も、素人にはわからないから、なんだか選ぶのは大変だなあと思っていたが、こうして聞くと、こういう家族経営でやっているところなら安心だろうと思えた。

帰って早速食べたつくだ煮はなんの添加物の味もしない、蜂の子そのものの旨味が出ていた。

まさか蜂の子を「イカナゴのクギ煮」の作り方でつくだ煮にしているとは、それがこんなにおいしいとは思わなかった。

信州と神戸のフュージョンの傑作だなと勝手に思いながら、冷蔵庫から少しづつ出して、酒のツマミに一人で楽しんでいる。

我が家の彼女達は「カタチを見たらとても食べられない」のだそうだ。
 
(*) 岡山県の奥津温泉近くの一般道路で、7月に33キロオーバーでネズミ捕りにやられた。昭和39年5月に免許を取ってから、

県外を走るときは、地元ナンバーの車の後を走ったり、危ないと思う場所は必ず減速したりして、

これまで41年間、近畿各地や四国、中国、信州・北海道を走ったが、一回も捕まったことはなかった。

自分は大丈夫と過信するようになったのか、そうは思いたくないが歳相応に、注意力が落ちてきたのか、

   今回は、見晴らしの良い田んぼのど真ん中に、一箇所、大きな自動販売機ステーションがあり、

その建屋の陰に彼らは巧妙に隠れていて、気づいた時は遅かった。警官から「神戸から、はるばるようきんさったのう。

お蔭でノルマがはかどるが」と言う感じで、丁重かつ慇懃無礼に扱ってもらった。

    いまさら、おえんが。

罰金6万円・免停一ヵ月。免停該当期間が退院後すぐの日程になったので、どうせ暫らく運転出来ないし、

講習に行っても、まだ1日通して座ることも出来ないから、そのまま免停を受けて免許書を預けていたのだった。

     阿智胡地亭便り#70 2004年10月19日記  当時友人知人にメールで送っていたシリーズから

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「賀茂泉」の奈良漬    茶話 15    

2024年01月27日 | エッセイ

広島の西条の酒 “賀茂泉”。「賀茂鶴」の方が名前が売れていて生産量は多いですが、広島には“賀茂泉”の熱いファンも沢山います。

広島に勤務しだした'97以来私も大好きになり、広島に来られる知人友人に勧めてきました。今も飲みに行った店の酒のリストに“賀茂泉”があれば、必ず頼みます。

娘たちが広島に遊びに来た時は、東広島市西条の本店の前で写真を撮ったりもしました。

 垂水の勝見さんから紹介された垂水・霞ヶ丘の寿司屋「伝八」にも酒のリストのトップに書いてあって毎回オーダーしました。

ご主人が亡くなり「伝八」が廃業したのは惜しいことでした。


  昨日、醸造元にご縁の方の来宅があり、賀茂泉ブランドの奈良漬を頂きました。最近、奈良漬を食べていないので楽しみです。(2009年9月記)

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 ある日の夕飯に日本酒の一合瓶が一本出てきた。ラベルを見ると「賀茂泉」とある。知らない銘柄だ。次女が大学に行きはじめて半年ほどたった頃だった。

このお酒はどうしたの?と聞くと「ビジュアルデザイン学科の同じクラスの子から貰った」と言う。

そう言えば、その女友達はマンションに下宿をしていて、次女はそこに仲間と時々遊びに行くようになったと聞いていた。

そんなある日、母が持ってきたからと言って彼女が一本ずつ一合瓶を渡してくれたのだそうだ。

女の子のお母さんが娘の下宿に日本酒を持ってくるって面白いねと言うと、その子は広島の西条って言う所から来ていて、

実家がそのお酒を造っているって云ってたと言う。それはいい友達ができたね、これからもどんどん貰って来てよと軽口を叩きながら飲んだら、辛口でおいしかった。

  それから半年した頃、転勤辞令が出てボクは広島の中国支社勤務になった。

そして2ヶ月ほどたった頃大阪支社のある営業部から連絡があり、排水装置だったかのPRに、西条の賀茂泉酒造に行くので同行して欲しいと言ってきた。

「西条の賀茂泉」?なんか聞いたことがあるなと思った。夜、家に電話して確認したら「そう、お父さんが飲んだのは賀茂泉だよ」と次女が言った。

翌日、広島の夜の繁華街である「流川」の酒屋で聞くと、良く知られて有名なのは賀茂鶴ですが、知る人ぞ知るで、結構酒飲みや酒好きにフアンが多い広島の地酒ブランドですと言うことだった。

JRの西条駅で降りて10分も歩くと「賀茂泉」の工場につく。西条は灘、伏見と並ぶ日本三大銘醸地と言われているのははじめて知った。杜氏の増田さんと面談した。

肩書きは常務取締役だった。仕事の話が済んで雑談になったとき、信州上諏訪に宮坂醸造という会社があって「真澄」という酒を出しています。ご存知でしょうか?と聞いてみた。

「協会7号酵母」の蔵元でしょう、杜氏なら誰でも知っていますよと言われた。

この7号酵母は戦後まもなく宮坂醸造の酒蔵から発見され、非常に質がいいのでかなりの全国の造り酒屋に移植されているという話を教えてもらった。

その後、あつかましい話ではあったが思い切って、かくかくしかじかでこちらの経営者のお嬢さんと思われる方から頂いたお酒を、半年ほど前に家で飲ませてもらいました、

お礼を申し上げたいのでご紹介いただけませんかとお願いしてみた。増田常務はきさくに専務を呼んできてくれた。

専務に挨拶をしたが、突然わが子のことを持ち出されたゆえか、さすがにちょっと戸惑われていた。それでも帰り際に流川の夜のマップを持ってきて、

この印をつけた店ならいつでも「賀茂泉」を飲んでもらえますと教えてくれた。

  あまり関西ではみかけない「真澄」が、どういうワケか広島ではあちこちの店においてあるし、勿論「賀茂泉」はあるしで、広島で日本酒を飲む場合はこのどちらかを良く飲んだものだ。

また東京や大阪からの出張者に広島の地酒で何がおいしいと聞かれたら、娘さんのご縁もあって、躊躇なく皆さんに「賀茂泉」をすすめた。

もっとも時々、広島へ掃除に来る相方は、ほんの一口か二口しか飲めないのに、マンションの近くの酒屋で試飲した同じ西条の「白牡丹」がお気に入りで、

彼女が神戸に帰ったあとの冷蔵庫の甘い一合壜を片付けるのはボクの役目だった。       阿智胡地亭便り#36  2003.9.23記      当時友人知人にメールで送っていたシリーズから

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「セリのおひたし」           中島隆一君を偲んで

2023年10月26日 | エッセイ

ブログ初出 03/01/26

東京に出張すると泊まるのはつい神田になる。
会社員になって連続して勤務した土地は神田美土代町の13年間が一番長い。

ホテルはインターネットの「旅の窓口」で予約するのだが、勤務先の本社がある芝公園や
浜松町の近辺よりまず神田のホテルを探してしまう。

 神田ステーションホテルに泊まると、だいぶ前から近くに気になる看板の店があった。
ホテルを出たすぐ右のガード下に「里」という看板が上がっている。

もうかなり前になるが、神田駅東口すぐ近くに「里」という4、5人も入れば
一杯になるカウンターだけの小さい飲み屋があって、おかみが一人でやっていた。
大阪から出張して同期入社の中島と二人で飲む時、時々彼に連れられて一緒に行った。
一人でやっている彼女はおかみさんというには痛々しい感じだが、
それでも、ものに動じない明るい人だった。客は誰もが彼女のことを〇〇ちゃんと
名前を呼んでママともおかみとも言ってなかった。当時の彼女はそういう年回りでもあった。

あるとき中島と店の前を通りかかったら、その店の電気が消えていて、聞いたら、
近くに店が移ったと言う。その晩は彼がそこへ行こうとも言わなかったので
自分としては「里」は、結局どこに移転したのかもわからずそのまま縁が切れた。
そしてそのあとは、神田駅に向かって店の前を通るたびに、ここで中島と時々
飲んだなあと思い出す場所でしかなかった。

  半年ほど前に一度、看板が出ている店の前に行ってみたことがあるが、
暖簾もなく障子がピシっと入り口を塞いでいて中の様子は一切何も見えず、
一見さんお断りのような、なじみ客相手の店のような感じがして、そのまま
入らずじまいだった。

先週久しぶりにこのホテルに泊まった時、また看板の「里」の字が目にとまり、
ロゴもやはり見覚えのあるロゴだったので、思い切って店に入ってみた。

いらっしゃいとこちらを見て言った人は少し歳をとったように見える彼女だった。
先客は一人で、なじみらしかった。二人で笑顔で話をしていた。
 店は前の二倍かそれよりちょっと広く、洗い場を囲んだコの字型のカウンター席が
12、3席でそれでも一人でやっているのは変わりなかった。ビールを頼んで2、3杯
飲んでから、ここへ移ってどれくらい経つのかと聞いたら5年だと言う。

前の店にいらしてくださっていたんですかと聞くので、中島君に連れられて時々
行ったことがあると答えると、すぐに、中島さん、ここんとこ暫く顔を出してくれないので
皆でどうされたのかなあって言ってるんですよと言った。
じゃあご存知ないんだ、一年ちょっと前に亡くなってしまいましたと答えると、
彼女の笑顔がとまってしばらく黙った。

病気ですか、そうですか、早かったのね。ちっとも知らなかった。
良く来てもらったんですよ。
 そして少し唐突に、中島さんにはうちの犬も貰ってもらったんですよ。
もし元気ならあの犬13才になるわと言った。

でもここんとこ、お酒の飲み方が凄くてね。そんな一遍にぐいーって飲み方しないほうが
いいよってよく言ったんだけど。

亡くなった前年の秋口から年が明けた2月頃まで、大田区の新しい勤務先の工場に時々
連絡して品川あたりで中島と何回か二人で飲んだのだけど、なんか怖いようなピッチで
飲んだのを思い出した。

 店は始めて32年だが、前の場所で最初4、5年手伝っているのを入れると、35、6年店を
やっていること、中島は間があいても20年以上は通ってくれたこと、大田区の工場の帰りに
もよく寄ってくれたことなど話してくれた。

 小さな黒板にその日出来る品が10品ほど書いてあり、その中に「セリのおひたし」が
あったのでお銚子とそれを頼んだ。暫くして大きな器に入って出てきたセリはちょうど
いい茹で加減で量が思いのほか多く、きれいな青い色の残るセリのほのかな香りと熱燗の日本酒がよくあった。

 話を聞いていた先客が、○○ちゃん今日はいい日だね、ずっと気にしてたことがわかってと
言うと彼女は微笑みながら、でもちょっと強い口調で、私にはちっともいい日じゃないよ、
悲しい日だよと返した。

その時、女性客が一人で入って来て、先客の横に座り、最初から熱燗を頼んだ。
この人、この店の数少ない女の常連客で、売れない女優なんですよと前からの
知り合いらしく先客が紹介してくれ、彼女もニコッと軽く目礼してきた。こちらは
一見の客なのに、この店の客は人懐っこい。

そのあと、ぼちぼち客が入ってきた。どの客もどの客も、今晩「里」に来ることが
出来て「うれしゅてたまらん」と田辺聖子さんなら表現するだろういい笑顔で入ってくる。

 ジャンパー姿の客が入って来て、おかみの真正面に座ろうとしたが、彼が
座るか座らないうちに、彼女が言った。

ねえ、中島さん亡くなったんだって、いまこのお客さんから聞いたとこなんだけど。

隅の席に座った自分の席から、入ってきたこの角刈りの客の横顔を見たとき、
自分と同年輩か少し上と見た。こちらに向きなおった彼は、精悍な顔の眼の
ひかりが強かった。

 よく海外出張もしていた人ですよね。ここんとこ大田区の工場に勤めていた中島さんだよね。

この店でよく一緒に飲んだ自分が知っている中島と、今亡くなったと聞いた中島が本当に
同一人物か無意識だろうが、確認する言葉が続いた。

 そうですか、いつ頃ですか、おいくつだったんですかねえ。まだ若いやね。
どこの土地の出の人だったんです? いつもここに入ってくるなり、今度こんなとこ行ってきて、
こんな事があったよなんて周囲おかまいなく喋りだしたりしてねえ。
まあ、だけど豪傑のように見えるけど神経のこまやかな人だとあたしは思ってたよ。

ひょっとして定年で会社を退いて、たしか家は市川かあっちの方よね?こっちへ来る事が
なくなったのかな~なんてお噂してたんですよ、とおかみが彼の言葉に続いた。

 中島の家に貰われた犬の兄弟犬が彼の家にも貰われていて、その犬はもう死んだらしかった。

こちらも、中島とは同期入社だったこと、彼の新婚家庭に寮の仲間で押しかけて、皆腰を据えて
しまい、すぐ飲んでしまうので新婦の奥さんがアパートの前の酒屋からビール瓶を数本ずつ、
何度にもわけて、皆にわからないように割烹着の下に隠して買って来た事、同じくらいしか給料を
貰ってなかったはずだから、その月の家計は大変だっただろうなとそのことが今も忘れられないこと。

お互い出張の時は若い時から大阪や東京で良く飲んだ事、千葉の家にも何回か泊めてもらったこと、
自分が神田勤務をしていた厄年の頃、会社に出ることが出来ない日々が長く続いた時、
当時東予に居た彼の家に電話して、東京の心療内科の医者を紹介してもらったこと。

お互い自分の知っている中島の話をしあって、お互いにうなずきながら飲んだ。

 こないだのあれはうまかったね、次はいつ入る・・。
かならず今度は、お出でよねというような話が客とおかみの間に流れていく。

この店では始めてのネクタイ姿の人が入って来て隣に座り、○○ちゃん、明日はこないだ
言ったように休みが取れて、松本へ行って来るよとおかみに言ってるので、
信州の方ですかと声をかけると、いや、自分は東京の人間だけど、学校が向こうでね。
明日が去年死んだ友人の祥月命日なんで、仲間が集まって奥さんと子供と仏壇の前で
一緒に飲むんですよ。   おいくつだったんですか?56歳でした。

そのうち、先程長く話した人が軽く会釈して、今日は供養になりましたと言って帰っていった。

この店はねえ、うまいもんが食べたくなると時々小岩から来るんですよと
明日無事有休が取れて友人の法要にいけるのでホッとしたのだろう、
隣の席に座ったサラリーマン風の彼が、こちらに向けて話をつづけた。

追加で頼んだイカの一夜干しもいい柔らかさで、あぶり加減もよく、うまみが一味違った。
おおぶりのコップの焼酎のお湯割を飲み終る頃、もう店もいっぱいになってきた。代金を聞いて
千円札3枚を出し100円玉一個のお釣りをもらい、中島が長年つきあっていたこの店のお仲間の
皆さんに心中さよならを告げ、おかみにごちそうさんと言って店を出た。

 ちょっと歩き、もう一度振り返ると前の店の入口にはあった「赤旗」の常設掲示板が
今度の店にはなかった。そういえば店の中にもそれらしい掲示は何もなかった。

時が移り、客も変わりおかみも変わったのか、それとも現実的になったサヨクの今のありよう
なのか、それはわからないが、中島はそれとは無関係にあの空間で店の常連に好かれ、
飲み仲間を作って長らく楽しんでいたのは間違い無いと思った。

長年気になっていた遅配物をようやく届けた郵便配達人のようにほっとしたが、
本当は、任務をおえても配達人はお届け先では飲んではいけなかったのかも知れない。
それとも、もしかしたら届けてはいけない郵便物だったかも知れない。

だが、彼が20数年間、気のおけない人達と過ごした会社を離れた異空間に、もう一度だけ
身を置かしてもらった。つい数日前、人間は死んだらどこへいく、知っている人たちの胸の中に
飛び込んで行くという文章を何かで読んだばかりだった。

あの中島がここにもまだ居るなあと店で感じ続け、二度とは入らないだろうあの店が、
あのおかみと常連客の皆さんと一緒に出来るだけ長く続いて欲しいと思いながら、
もう後ろは見ないでホテルに向かった。

 

   今日は2002年10月26日に亡くなった中島隆一君の祥月命日です。

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「ごもっとも、ごもっとも」      茶話 その14 

2023年10月19日 | エッセイ

 今年も節分の日に焼いたイワシを食べたあと豆まきをした。家中の窓という窓を順番に開けて、トイレや風呂の窓も忘れずに、

大声で「鬼は外福は内、ごもっとも、ごもっとも」と言ってまわる。子供の頃、この「ごもっとも、ごもっとも」と言うのが何とも気恥ずかしかった。

親の勤務地に付いてまわって転校した九州若松でも、尼崎の塚口でも、三重県の四日市でもクラスの誰に聞いても、家ではそんなこと言わないという。

酒の入った父親が「鬼は外、福は内」と大声で叫ぶとそれに続けて家族が「ごもっとも、ごもっとも」と大声で

囃やさないといけないのだが友達や近所の人に聞こえないように、つい小さな声で「ごもっとも、ごもっとも」と言ってしまう。

そんな時、父は後ろを振り向いて「声が小さい、鬼が家に入ってきたらどうする」と怒るので、もうやけくそで兄弟揃って父の後について

「ごもっとも、ごもっとも」と大声を張り上げたものだ。

そして今、自分が家族を持って、同じ事をしている。千葉県南柏や茨城県藤代町に住んでいた時も、そしてもう十数年住む神戸でも、

恥ずかしがり嫌がる娘達を幼稚園の頃から、叱咤激励、時には脅して「ごもっとも~」をやってきた。

もし「ごもっとも」を言わなかったらうちの家は、この一年大変なことになると言って。


そのお陰か、我が家では節分の日の定番としてしっかり定着し、私が3年強広島で単身赴任して不在の日にも、節分には二十歳過ぎの娘達が

ごもっとも」をやってくれていたそうだ。(ほんまかいなと多少は思うけど)

今年の豆まきは、家族の中でも「ごもっとも」発声に一番抵抗してきたヨメさんと二人でしたが、驚いたことには二人では張り合いがないから、

今年はやめとこかと言う私に「今まで続けてきたのに何いうてるの」と率先して彼女が大声を張り上げた。

震災の年だけはそれどころではなかったけれど、考えたら結婚して二十八年、我が家では出張や単身赴任で抜けた私の回数より彼女の

「ごもっとも」の発声回数が多いんやと思い当たった。今年はいつもよりキレイにハモッて「鬼は外、福は内、ごもっとも、ごもっとも」と言えたような気がする。

亡父にも故郷の従兄弟たちにも聞いたことはないが、おそらく父が生まれ育った信州の諏訪湖畔、北小路地区では江戸時代以前の昔から、

こういう風に言っていたのではないかと思う。

先祖は諏訪氏が高島城を築城する時に、(諏訪湖の高島という島から)立ち退きを命じられ、近くに集団移転させられた島民の一族だと言っていたから、

もともと古くから住みついていた住民だと思う。

今年も遠い諏訪のあの地区で「ごもっとも、ごもっとも」が飛び交ったか、あるいは本家のイギリスではとっくに廃れた習慣が

アメリカで残っているのと同じように諏訪ではもう廃れたかも知れないが、今年も神戸市の一軒の家から、

老年に差しかかってはいるが声は若い「ごもっとも、ごもっとも」の斉唱が、神戸の夜空に吸い込まれていきました。

  (2002年に「小和田満」の筆名で投稿し、幸い入選して5月27日の「神戸新聞文芸欄」に掲載されたエッセイ。)

注:高島城の築城は秀吉の配下で当時諏訪を支配していた武将の日根野高𠮷が行ったと 後日従兄から教示を受けたが、

  上記文は掲載された原文のままとして訂正していない。 

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