不埒な天国 ~Il paradiso irragionevole

道理だけでは進めない世界で、じたばたした生き様を晒すのも一興

Congiura di Pazzi e Montefeltro

2008-10-21 02:03:57 | アート・文化

1478年4月26日、フィレンツェのドゥオーモを舞台にした、
メディチ家の若手当主として台頭しつつある
ロレンツォとジュリアーノ兄弟の暗殺を謀ったパッツィ家の陰謀。
この陰謀によりジュリアーノは他界、
ロレンツォは命を取り留めます。
半分失敗に終わった陰謀後、
首謀者とされるパッツィ家を中心に
暗殺グループは徹底的に追跡・処刑され、
メディチ家はその後の地位確立に
いっそうの力を注ぐことになります。

どの時代にも陰謀事件の裏には
複雑な政治的な思惑が関わっていますが、
もちろん上記のパッツィ家の陰謀も複雑な背景がありました。

1400年代後半のイタリアは小さな自治都市国家の集まり。
各都市で異なった政治体制を持ちながら、
それぞれが似通った一種の君主制で成り立っていた時代。
ミラノではスフォルツァ家(gli Sforza)、
フィレンツェではいうまでもなくメディチ家(i Medici)、
ナポリ以南ではアラゴン家(gli Aragonesi)、
ヴェネツィアでは裕福で勢力のある貴族や
商人による寡頭政治、
ローマでは有力な貴族が順番に地位に就く教皇庁。
地方の小さな都市部でも
フェッラーラのエステ家(gli Estensi)、
ウルビーノのモンテフェルトロ家(i Montefeltro)、
リミニのマラテスタ家(i Malatesta)、
マントヴァのゴンザガ家(i Gonzaga)などが台頭し、
傭兵隊の結成などの外交政策を駆使し
機会に合わせて周辺有力都市部との
協力体制を築いていました。

その中でも特に外交手腕に長けていたのは
ウルビーノのモンテフェルトロといわれています。
Federico Montefeltro(フェデリコ・モンテフェルトロ)は
Guidantonio da Montefeltro
(グイダントニオ・ダ・モンテフェルトロ)の
庶子でありながら、父の後を次いで当主となった人物。
義兄弟であり、後継者としての正当な資格を持っていた
オッダントニオ(Oddantonio)が暗殺された陰謀事件を
彼が裏で操っていたことは当時から良く知られており
そのためにフェデリコは「カイン」の俗名をつけられています。
フェデリコは傭兵を生業としており、自ら傭兵隊を組み
周辺の強国へのサービス提供を行っていました。
彼は傭兵隊派遣の期間と目的、装備などを元に
より細かい料金表を作成し、
非常に巧みに外交交渉を行ったといわれています。

彼は公的にはフィレンツェのメディチ家との友好関係を主張し
メディチ家と常に友好な関係を築いていました。
しかし、同時に、先のパッツィ家の陰謀の存在を
敏腕傭兵隊長として良く知っていたにもかかわらず、
メディチ家に一切情報を渡しませんでした。
微妙なバランスの上に成り立っていた
都市国家間の関係をよく読み
自分に有利な流れに乗るのが
当時の君主にとっての
最重要項目であったことは間違いありません。

メディチ家への嫌悪感を示し、
フィレンツェの専制体制の覆しを狙う
シスト4世が1471年教皇の座に就きます。
教皇庁の財産を管理する銀行には
メディチ銀行も含まれていましたが
その変更も含め、
メディチ家の勢力を削るために様々な策を練ります。
当時教皇庁はエミリア・ロマーニャへの勢力拡大を狙っており
そのためにはメディチ家が邪魔であったこと、
そして同じく銀行家のパッツィ家は
教皇庁の北部進出に賛成の立場を取っていたことなどから
シスト4世が企んだのがパッツィ家の陰謀だったのです。

この陰謀の真相を知りながら、
友好関係のあるメディチ家に知らせなかったフェデリコは
教皇庁のエミリア・ロマーニャ進出により
自分も多少の恩恵にあやかれると考えたのかもしれません。
しかし、陰謀は失敗に終り、陰謀の表にたったパッツィ家が
全面的にその罪を負う形で終着。
陰謀失敗後はフェデリコはロレンツォに対し
引き続き友人として手紙を書き、
陰謀無関係の立場を保持します。
一方ロレンツォは首謀グループの聞き込みから
フェデリコ自身がこの陰謀事件に
足を染めていたことを知っていましたが、
あえてそれを口に出さず
フェデリコの話を信じるふりをしています。
それは当時の政治的バランスから考えて
メディチ家が孤立することを避けるためであり、
フェデリコのような有能な傭兵隊長を敵に回すことは
自分にとって不利であると判断したからに他ありません。

陰謀の処理などにも不満を抱えていた教皇庁が
メディチ抑圧に動き出す前に
メディチ家が先手を打って秘密裏に、
ナポリを支配するアラゴン家と同盟関係を結び
自身の保身に努めると
フェデリコもアラゴン家に対し、
このメディチ家との協力体制同意による
フィレンツェ包囲・占拠は無意味であることを
徹底して道理的に説明し、
フィレンツェの自治を守るための裏役を担っています。

つまり一度はメディチ家を裏切りかけたものの、
状況の変化に合わせて古い友好関係を保ち、
メディチ家に便宜を図ったのです。

ルネッサンスの時代の政治は微妙なバランスの上に成り立ち
そこをどれだけ巧みにやっていくか、
どれだけ上手に立ち振る舞うことができるかが
君主となる人物の持つべき資質のひとつでもあったのです。


Non rinuncia un caffe del mattino...

2008-10-17 01:11:52 | 日記・エッセイ・コラム

9月の半ば過ぎに暖房器具の点検をしたときに
一緒にやってもらったトイレの修理。

ガス点検はその日のうちに支払いが完了したのに
トイレ修理はずっと保留のまま。
同じ会社なんだけど…。

修理に来たおじさんが
なかなか書類をオフィスに届けなかったからですが
この会社ではよくあることです。

先週金曜日に自宅の留守電に
「請求書の準備ができたのでいつでも来てね!」と
メッセージが入っていたので
あぁ、こりゃ早く払いに行かなくちゃと思って
月曜日に行ってみました。
8:30オープンなのに、誰もいません。
火曜日に行ってみました。
やっぱり開店(予定)時間には誰もいません。
水曜日に行ってみました。
状況は変わりません。
今日も行ってみました。
シャッターはやはり下りたままです。

しかし、そろそろ払わないと私もすっきりしないので
仕事に遅れるのを覚悟で待つことに。
待っていると知り合いが通りかかり、
前のバールでカフェでも飲もうということになり
どうせ待っているなら知り合いと話していたほうが
有意義であると思ってバールに。

と、そこに、水道屋のおばちゃんが!!
開店時間過ぎているのに、優雅に朝のコーヒーを堪能中。

つい、
「月曜日から毎日来ているのに、
8:30に開いていないから支払いできなくて困ってるの。
仕事に行かなくちゃいけないから、今すぐ払わせて。」

と、当然こういう答えが返ってきます。
「ちょっと待ってなさいよぉ。
私は朝の一杯のコーヒーは放棄しないわよぉ。」

コーヒーゆっくり堪能したいなら
開店前・始業前に飲もうよ・・・。
なぜ今悠長に飲んでいる!?

「急いでいるんだけど…。」

「あと10分くらい平気よ。」

なぜあなたが私の予定を決めるのですか。
と思ったけれど、言っても仕方ないので、
諦めてコーヒー飲み終わるのを待つことに。

こんなことで仕事遅刻するのは日常茶飯事のイタリア。

コーヒー飲むなとは言わないけど、
何でわざわざ開店時間過ぎてから
ゆっくり飲んでいるのか理解できません。

まぁ、おばちゃんには私がなにをそんなに急いでいるのか
一生わからないと思いますが。


Apertura Straordinaria del Corridoio Vasariano

2008-10-14 13:27:17 | アート・文化

通常は一般公開されておらず、
グループ予約をして入館する以外に
なかなか入場機会のない「ヴァザーリの回廊」が
10月14日から12月31日まで
期間限定で個人客に対しても門戸を開きます。

フィレンツェのヴェッキオ宮殿(Palazzo Vecchio)から
ウフィツィ美術館(Galleria Degli Uffizi)と
ヴェッキオ橋(Ponte Vecchio)を通り
ピッティ宮殿(Palazzo Vecchio)までを繋ぐ廊下。
1565年にトスカーナ大公コジモ1世
(Granduca Cosimo I de' Medici)が
息子フランチェスコ(Francesco)と
ジョヴァンナ・ダウストリア(Giovanna d'Austria)の
婚姻を記念して
既にウフィッツィ(行政庁舎)を完成させていた
ヴァザーリ(Giorgio Vasari)に命じ
竣工後わずか5ヶ月で完成。

この二人の婚姻を機会に集うメディチ家の主要メンバーが、
ライバルや外敵の襲撃から護られた状態で
市庁舎であるヴェッキオ宮殿と
居住宮殿であるピッティ宮殿を
自由に往来するために考案されたもの。
当時はそれまでの共和制が倒され
メディチ家の独立権力に移ったばかりで
まだメディチ家の大公としての政権が
確固たるものになっていなかったために
市民からの反発や反感も根強く残っており、
そうした攻撃から
君主一族を護るためには必須の回廊だったのです。

ヴェッキオ橋の上で営業していた肉屋は、
高貴な人々が上層階を通過するのに
悪臭を放ってはならないというだけの理由で全店撤去され
代わって貴金属店が軒を連ねるようになり現在に至っています。

ヴェッキオ橋の南端の
マンネッリの塔(Torre de' Mannelli)の部分で
回廊は一部迂回しているのが橋の上からも確認できます。
この中世の塔の所有者であったマンネッリ家は
自分の所有建物をメディチ家の廊下が通過することを
毛嫌いし、粘り強く反対しました。
回廊の完成を急いでいたメディチ家は
このマンネッリ家の根強い抵抗を見て
一部迂回という苦策をとったのです。
またヴェッキオ橋の中央部分で
下流のサンタ・トリニタ橋(Ponte Santa Trinita)
に向かって、大きく開かれている窓があります。
回廊の経路上にある窓はどれも
ルネッサンス時期の開口部の狭い小さな窓ですが、
この端の中央部分だけパノラミックな窓になっているのは
ムッソリーニ(Mussolini)が望んだから。
1939年にヒトラー(Adolf Hitler)が
イタリアとドイツのナチ政権の連帯を強めるために
イタリアを訪問し、
その際にフィレンツェにも立ち寄ったのですが、
この機会にムッソリーニが大きな窓に取り替えて、
ヒトラーはここからの非日常的な眺めを堪能したのです。
このときに見た風景が感動的であったために
ドイツ・ナチ軍のフィレンツェ撤退時の市街爆撃の際にも
他の橋はすべて爆撃したものの
ヴェッキオ橋だけは爆撃しなかったのだとも言われています。

ヴェッキオ橋を越えると回廊はサンタ・フェリチタ教会
(Chiesa di Santa Felicita)の正面ファサードへ繋がります。
この教会内にはメディチ家のメンバーが
外に出ずとも、他の人の目に触れずとも
神に祈りを捧げることができるように、
教会内側にバルコニーが設けられています。

現在ヴァザーリの回廊はウフィツィ美術館の一部とされており、
世界的に有名な肖像画コレクションで飾られています。
フィレンツェで仕事をした画家たちの肖像画や
海外で活躍したイタリア人画家たちの肖像画などが中心。

今回一般公開になるのはウフィツィ美術館3階西翼から
ボボリ庭園のブオンタレンティ(Buontalenti)の洞窟彫刻まで。

たった2ヶ月だけの特別開館です。
この機会にイタリアにいらっしゃる方は是非足を運んでみてください。

Apertura Straordinaria del Corridoio Vasariano
会期:2008年10月14日から2008年12月31日まで
開館時間:火曜日・木曜日:9:00と11:30、
                  水曜・金曜:14:00と16:30
       それぞれ定員20人の完全予約制
入場料:14,00ユーロ
予約先: ウフィツィ予約センター +39-055-294883

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