CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

花隈公園に移設された東郷井の石碑 on 2015-6-6

2015年06月09日 05時39分15秒 | 神戸情報
2015年6月6日、花隈公園に移設された東郷井の石碑の写真を撮って
きましたので紹介します。

「東郷井(せい)」が神戸市中央区花隈町7番16号、川崎重工健康保険組合前から
花隈公園に移設され記念式典が行われたのは2015年5月10日で5月11日の
神戸新聞朝刊で紹介されています。

花隈公園の基本情報
住所:神戸市中央区花隈町1
TEL:078-511-0515 (神戸市中部建設事務所)

花隈公園のFacebook:https://www.facebook.com/pages/%E8%8A%B1%E9%9A%88%E5%85%AC%E5%9C%92/186340851422507


上の写真は移設された東郷井です。 




上の写真は裏面の写真です。2015-6-13に撮影 追加写真



上の写真は東郷井の石碑の遠景です
東郷井の石碑の右手は花隈城跡の石碑です。


上の写真は現地の説明書きです。

東郷井の由来について現地の説明板に若干補足を加え記述します。

日露戦争で活躍した東郷平八郎元帥が中将時代の明治18年(1885)7月、初代大和
の監督官の任務に就き来神した。

初代の戦艦「大和」は 明治16年(1883)2月23日、イギリス人のE.C.キルビー
が創設した「小野浜鉄工所」をルーツに持つ小野浜造船所が受注し建造が進められ

起工  明治16年(1883)11月23日
進水  明治18年(1885)5月1日 まで進んでいました。

但し小野浜造船所は明治16年(1883)10月にはイギリスに発注した部品が
ストライキの影響で届くのが遅れたことを理由に工期延期の申し出がなされ、
12月には資金繰りが行き詰ったキルビーが自殺してしまうという事態となった為
明治17年(1884)に海軍が引き取り官営造船所として存続、呉鎮守府開設後は
その管轄とされた。
同時期に設置された呉造船部(後の呉海軍工廠)が軌道に乗ると設備は呉に移転
され小野浜造船所は閉鎖された。

大和の就役は 明治20年(1887)11月16日で 東郷平八郎 中佐は
明治19年(1886)5月10日 - 11月22日の間 大和の艦長を務めました。

その関係で約1年間(いつからいつまでかは確定できず)神戸の神港倶楽部
寓居されていました。
推察では明治18年(1885)7月から明治19(1886)年5月までの約1年間
神港倶楽部に寓居か?

神港倶楽部は木造二階建て洋館造りで財界人の社交場として造られたものですが、
一般向けの催しにも開放されていました。先の第2次大戦で焼失。

明治29年(1896)11月25日に、日本初の活動写真(キネトスコープ)が
神港倶楽部で一般公開されたことで知られています。

東郷平八郎の神戸での宿舎は上記神港倶楽部でその敷地内にあった古井泉
と親しんでいた

東郷は昭和3年(1928)この井戸のために「清水流芳」と書かれた額を
神港倶楽部に贈呈し神港倶楽部にその額が飾られていました。

昭和5年(1930)神港倶楽部の有志この古井泉を記念するために「東郷井」の
石碑を建立し同年5月19日に除幕式が行われました。

東郷井の命名者は財部彪海軍中将(当時のちに大将)文字は小笠原長生海軍中将の
筆である。


2015年11月30日の夕刊及び神戸新聞NEXTに神港倶楽部の写真が
発見されたとの記事が掲載されました。

 2015-11-30追記
「「神港倶楽部」として写真が掲載されていたのは、写真集
「神戸港花月(かげつ)能栞(のしおり)」(非売品)の4巻。
のぞき箱式の「キネトスコープ」公開の4年余り後、1901(明治34)年
3月に発行された。近代史研究家安井裕二郎さん(59)=芦屋市=が、
神戸の写真や絵はがきを収集する中で確認。」


 写真などの詳細は下記サイトへ
  http://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/201511/0008608022.shtml

 神戸と映画に関する参考ブログ
  神戸と映画 in 神戸映画資料館 on 2013-6-8

   日本で初めて映画が上陸

  「さよなら、さよなら、さよなら」の映画評論家、淀川長治さんが眠る須磨寺の墓 on 2015-6-29


上の写真は川崎重工健康保険組合前にあった東郷井の石碑の遠景です
撮影時期:2014-4月


上の写真は2015-6-13現在の元川崎重工健康保険組合跡で三菱地所レジデンスが
跡地を購入しマンション?が建設されるようです。

花隈公園にあるもう一つの石碑(下の2枚の写真)について下記のブログで
書いています。花隈城跡(花隈公園) on 2014-1-29




碑文の内容は下記のとおり

原文(碑文のとおり)
花隈城阯 侯爵池田宣政書
室町幕府ノ末期ハ綱紀頗ル紊レ 所謂戦国時代ニ遷リ群雄割拠シ兵馬息ム 莫シ當時摂州矢田部花隈ノ地ハ海陸ノ咽喉要衛タリシヲ以テ大阪石山城ニ籠レル一向宗ノ門徒ノ織田信長ニ攻メラルルヤ遙ニ援ヲ芸州ノ毛利氏ニ求ム 毛利氏粮米ヲ運上スルニ當リ 先ツ之ヲ花隈城ニ貯フ 紀州雑賀ノ門徒野口與一兵衛之ヲ守ル 信長偵知シ急ニ攻メシム 城将野口戦死ス永禄十一年信長荒木摂津守村重ニ命シテ城ヲ修セシム村重ノ弟志摩守元清之ヲ守ル 蓋シ花隈ハ伊丹ノ支城ナリ 天正七年五月村重信長ニ叛キ伊丹城ニ據ル 信長大挙之攻ム同年十二月伊丹城陥ル 信長池田信輝ニ命シ花隈ヲ攻メシム 城兵固守ス信輝父子城外ニ附塁五箇所ヲ設ケ包囲攻撃ス 翌年七月城終ニ陥ル信長此地方ヲ信輝ニ領セシムルヤ花隈城ノ舊材ヲ兵庫ニ移ヂテ築城シ池田城ト呼ビタリ 而シテ花隈城ノ故址ハ高城ト称シ明治ノ初年迄ハ一幹ノ老松亭々トシテ聳ユルモノアリシモ廃墟空シク叢中ニ埋マレル 只地ノ官有タルヲ以テ地勢ニ激甚ナル変化ヲ見ス 明治三十四年四月神戸港務局カ表時球ノ地下工事ナスニ當リ地下六尺ニシテ五輪塔ヲ発掘セリ 之レ築城以前ニ在リシ建武年間創立ニ係ル吟松庵ノ遺物ナルベシ 昭和二年十月此処ニ電信ノ校舎ヲ建築スルニ際シ愈舊城タリシ證跡歴然タルモノアルヲ見ル 神戸郵便局長水野此呂文舊蹟ノ堙城セシコトヲ慨キ之ヲ地方有志ニ謀ル 偶新潟縣人後藤文司之ヲ聞キ其挙ヲ賛シ工費ノ全部ヲ支出シ 茲ニ建碑シ以テ史蹟ヲ不朽ニ傅フト云爾
昭和三戊辰年二月   會下山人 福原 潜 撰
               華   城 小島 錬 書


読み下し文
「花隈城址

室町時代の末期は国の治世が大いに乱れ、いわゆる戦国時代へと遷りかわり、群雄割拠し互いの兵馬の力を競い合う時代だった。当時の摂州(摂津国)花隈の地は陸海の咽喉で要衝の地であり、織田信長に攻められていた大阪石山城(大坂本願寺)に籠る大坂門徒が芸州(安芸国)の毛利家に救援を求めて、兵糧物資が運びこまれて蓄えられていた。ここを野口與一兵衛が守っていたが、これを知った織田信長が急襲させ野口は戦死した。永禄11年(1567)織田信長が荒木村重に命じて城を修理させた。荒木村重の弟荒木志摩守元清が城を守った。花隈城は伊丹の支城となった。
天正7年(1579)5月荒木村重が織田信長に背いて伊丹城(有岡城)に籠る。信長大挙してこれを攻め、天正7年12月に伊丹城(有岡城)は落城した。織田信長は池田信輝(恒興)に命じて花隈を攻める。花隈城兵の守りは堅く、池田信輝(恒興)父子は城外に拠点5カ所を設けて包囲攻撃をした。天正8年(1580)7月、遂に城が落ち、織田信長は池田信輝(恒興)にこの地を領有させ、花隈城の旧材を兵庫に移して築城しこれを「池田城」と呼んだ。明治の初年までは城は廃墟となって一幹の老松があることは知られていが、廃墟空しく草むらの中に埋まっていた。
明治34年に神戸港務局が地下工事に当り地下6尺(約180㎝)で五輪塔を発掘したが、この遺物は築城以前からあった建武年間に創立された「吟松庵」に関わる遺物であった。昭和2年(1927)電信の校舎を建築するにあたって、神戸郵便局長水野此呂文が有志を募ったところ、新潟県人の後藤文司が工事費を全額出資し、ここに碑を建てて史跡を永久不変に伝えようとするものである。

昭和3年(1928)2月 会下山人 福原潜 撰  華城 小島錬 書」







上の2枚の写真は北狭北向地蔵尊と石垣で、石垣に摂津守荒木村重末孫20代
福田とよさんの名前が見られます。また供養墓と思われるものもあります。

東郷平八郎についてWikiprdiaより引用紹介します。

東郷 平八郎(とうごう へいはちろう、弘化4年12月22日(1848年1月27日)
- 昭和9年(1934年)5月30日)は、日本の幕末のから明治時代の薩摩藩士、軍人。
階級は元帥海軍大将。栄典は従一位・大勲位・功一級・侯爵。



Edward Charles Kirby(1836~1883)

Edward Charles Kirby is  a British expatriate merchant during late Bakumatsu
period and early Meiji period Japan. Kirby came to Japan in 1865.
He established a chandlery, Kirby & Co in the foreign settlement at Yokohama.
However his business is not well successful.
He move to Kobe in 1868 and opened a branch in Kobe.
In 1869, together with two British partners, Robert Huggin and John Taylor,
he established the Kobe Iron Works on the Ikuta River about a mile from
the foreign settlement, which had an iron foundry, blacksmiths,
and a deepwater dock.
In 1878, Kirby bought out his partners and established the Onohama Shipyards,
bringing his brother Alfred from Karachi as engineering director.
The company engaged in repair work, marine salvage, and built small vessels.
In 1882, the company launched Japan’s first commercial iron-ribbed steamship,
the Dai-ichi Taiko Maru (第一太湖丸), which operated on Lake Biwa.
The success of this venture led to a contract from the Imperial Japanese Navy
to construct the second of the Katsuragi-class corvettes, the Yamato. However,
due to problems with financing, and delays in completion of Yamato caused
when suppliers in the UK went on strike, Kirby faced foreclosure on a 50,000
Mexican dollar loan from the Hong Kong & Shanghai Bank,
and committed suicide in 1883.




 















コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする