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呉錦堂の供養墓 in 垂水墓地 on 2015-6-17

2015年06月18日 06時14分32秒 | 神戸情報
2015年6月17日、神戸市垂水区の猿倉の垂水墓地にある呉錦堂の供養墓
の写真を撮ってきましたので写真紹介します。

垂水墓地の住所は神戸市垂水区名谷町猿倉301番の8
呉錦堂の供養墓は呉家の墓所に宝篋印塔として昭和20年3月21日に
呉俊一郎氏により建立されました。



上の写真は垂水墓地 ①-1区の呉家の墓所に建てられた呉錦堂の供養墓の遠景
右手の宝篋印塔が13世呉錦堂など累代の供養塔です。

呉錦堂氏は安政2年(1855年)に中国浙江省に生まれ、明治18年31才の時に日本に
渡り神戸で行商から身を起し自分で錦生丸(1427t)と名づけた船で日中貿易を行い
大実業家となり、明治37年には日本に帰化され凶作年には難民を助けたり貧しい子供
を学校へやったり、日本のために大変つくされ数々の表彰を受けて大正10年には
政府より紺綬章を受章されました。
明治37年日露戦争勃発前に軍債45万円を献納した功も大きい。
大正9年(1920)当時、神戸華僑ビッグ3と称されその資産額は100万円とも
合昌号が50万円、裕貞祥は30万円とも言われ資産ナンバー1であった。
大正15年(1926)71歳 1月14日 
神戸市葺合区の自宅(養和山荘)で死去されました。





上の2枚の写真は呉錦堂氏の供養墓。

呉錦堂氏の墓は生まれ故郷中国寧波府慈渓県(現在の慈渓市)にあるようです。
中国の墓について写真とともに紹介されたサイトにリンクさせていただきます。
 http://www.eonet.ne.jp/~yuzo/gokindou102.html

上記サイトの説明文を引用させていただきます。
1926年、呉錦堂は急性肺炎により神戸で没した。31年、遺言に基づき、子の啓藩、
姪の啓夏、甥の啓鼎などは棺を慈渓の白洋湖畔へ運んだ。墓の東には低い山があり、
岩山と木々の中、寺が見える。寺の黄土色の壁と緑の木立は池畔まで続いている。
この寺は金仙寺といい、ここで、呉錦堂追悼の儀式が行われた。
墓は、呉錦堂が生前、自ら建てておいたものである。












上の写真は宝篋印塔の基礎部に書かれた一世から十三世の呉錦堂氏に至るまでの
呉家累代の方々の名前が刻まれています。 奥様の名前も記載されています。


上の写真は呉錦堂の供養搭(宝篋印塔)建立した呉俊一郎氏夫妻の墓(一番右手)
宝篋印塔と同じ昭和20年(1945)3月21日に建立されたようです。

中央の墓は昭和57年8月吉日に呉秀子氏が建立した夫婦墓。



上の写真は昭和55年9月吉日に建立された呉家の墓(4基あります)


呉錦堂関連のブログ(小生のブログ)
 呉錦堂池と呉錦堂氏を称える碑 on 2013-5-22

 移情閣

 旧武藤山治邸 訪問記 on 2011-1-29



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