CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

野口富蔵の墓 in 追谷墓園 on 2015-6-24

2015年06月26日 04時57分31秒 | 神戸情報

2015年6月24日、義父の命日だったので追谷墓園に墓参りに行った。

その時、幕末の会津藩士で英国公使館書記アーネストサトウの私設秘書兼
用心棒として勤めた野口富蔵の墓を見つけたので写真紹介します。


上の写真が野口富蔵の墓です。墓碑には「野口富蔵之墓」と刻まれています。


上の写真は墓碑の裏面で野口富蔵の命日明治16年(1883)4月11日が刻まれて
います。

墓のある場所は10区で真ん中あたりにあります。

上の写真は現地の看板で10区の位置を確認できます。

野口富蔵(天保13年(1842)~明治16年(1883)4月11日)について紹介
します。


天保13年(1842)  会津藩の300石の家系の次男として、天寧寺町で生まれる
       兄の野口九郎太夫成元が家を継ぎ 会津戊辰の役で奮戦
         彰義隊に加わった弟留三郎は上野で戦死、
          伯父の四郎三郎は白河で戦死

万延元年(1860) 藩命で英語を学ぶため郷里を出て、箱館の英国領事で働く
          この時の英国領事 ヴァイスに師事

慶応元年(1865) アーネストサトウと同居するようになった
          (アーネストサトウに気に入られ私設秘書兼用心棒となる)

慶応3年(1867) 最後の日光例幣使一行の暴徒が掛川で江戸に帰る途中の
         アーネストサトウの宿泊所に乱入、そのとき、右手に刀を握り、
         左手に拳銃を構えて暴徒を追い払ったのが野口富蔵だった。
     この時の日光例幣使は小説家武者小路実篤の祖父である武者小路公香

明治2年(1869) アーネストサトウの帰国に伴い渡英 ロンドンの学校で
           紡績を学ぶ帰国後は京都西陣織の技術革新に貢献
           ロンドンの学校で西郷従道と会い、日本政府留学生に

明治6年(1873) 帰国
           内務省出仕のあと、陸軍省・工部省を経て京都府に出張
           京都府時代に西陣織の指導をした

明治16年(1883) 42歳の若さであるが急死
           当時、兵庫県庁に出仕していた為、追谷墓園に墓が作られた
           と推測した。
         



上の写真は兵庫県立図書館に所蔵の野口富蔵関連の書籍である。
これらを読み込み、上記記事をもっと内容のあるものに改善していきたい

國米重行氏(1932-)の書籍紹介
http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/creator/663507.html

アーネスト・サトウの回顧録「一外交官の見た明治維新」
(坂田精一訳)にこの野口富蔵成光の記述がある
私にとっての家族と言えば、第一に用心の野口である

野口富蔵成光が正直で誠実な人柄であったことも好印象につながったと
推定します。

【文献資料】
 『会津史談会誌 第50号』会津史談会 P117-128 宮崎十三八「野口富蔵のこと」

  霊山歴史館紀要 通号12(1999)
アーネスト・サトウの私的秘書 会津人野口富蔵の生涯 / 市居浩一/p13~32



追谷墓地にある墓碑に関して過去に記事を書いたのは下記のとおり。

鈴木商店所縁の人達のお墓 in 追谷墓地 on 2013-6-24


河原兄弟の墓 on 2011-9-22

追谷墓園には村上華岳、歴代神戸市長、天下の金貸し乾新兵衛、花隈開発に貢献
した関戸由義、川西航空機の川西清兵衛、生田神社の社家の後神(ごこう)家
など名前を挙げればいとまがない程、著名人の墓があります。

エピソードを添えて墓碑に関する記事も書いていきたいと思っています。

追谷墓園の問い合わせ先
 神戸市保健福祉局健康部斎園管理課斎園係 078-322-5251(ダイヤルイン)

 神戸市鵯越墓園管理事務所 078-621-5667~9













 



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする