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世界を見た愛知県美浜町出身の漂流民 山本音吉の一生

2022年04月01日 04時33分53秒 | Weblog

愛知県美浜町出身の漂流民の山本音吉(1819-1867)の一生を調べてみました。

山本音吉はイギリスに帰化した最初の日本人で聖書の和訳、漂流民の日本への帰還

に注力したが自身はついに日本に帰還できずシンガポールの地で49歳で永眠した。

山本音吉の帰化名はジョン・マシュー・オトソン (John Matthew Ottoson)

音吉は乙吉とも記される。にっぽん音吉の別名もあります。

愛知県美浜町には山本音吉と共に漂流し生きながらえた岩吉と久吉の三吉を顕彰する

石碑や山本音吉の生誕200年を記念して建立された銅像がある。

さらに廻船と音吉記念館もある。機会があれば是非訪問したいと思っています。

山本音吉の名前は歴史ノンフィクションの「にっぽん音吉漂流記」(春名徹氏著、1979年)

で広く世の中に知られるようになっています。

上の写真は岩吉、久吉、乙吉 頌徳碑 (愛知県美浜町) 1961年に建立

出典:Googleストリートビュー

上の写真は247号線沿いの三吉碑(頌徳碑)の案内板と「にっぽん音吉漂流記」の抜粋文

出典:Googleストリートビュー

上の写真は山本音吉の銅像と顕彰碑文 出典:Googleストリートビュー

上の2枚の写真は廻船と音吉記念館と現地説明板 出典:Googleストリートビュー

廻船と音吉記念館の所在地は愛知県知多郡美浜町野間 小野浦福島62

廻船と音吉記念館は宝順丸の船主・樋口源六、船頭・樋口重右衞門、音吉の許嫁・樋口琴の

実家と音吉が奉公人として寝泊まりしていた蔵を、その子孫が改築した私設ミュージアムです。

  記念館のFB:廻船と音吉記念館 | Facebook

前置きが長くなりましたが本論の山本音吉の生涯についてまず年表形式で概観していきます。

文政2年(1819)音吉0歳 尾張の国知多郡小野浦に山本家の3男として生まれる

天保3年(1832)10月、音吉14歳 船頭、樋口重右衞門の宝順丸に乗り組んで鳥羽を出航後、

    嵐で漂流した。14ヶ月の漂流で14人の乗組員のうち音吉、久吉、岩吉の3人のみ生き残る。

天保5年(1934)2月、音吉16歳 米国西海岸のケープ・アラバに漂着、インディアンに救助される。

    イギリスのハドソン湾商会に引き取られ、3人はフォート・バンクーバーに連れてこられる。

    ハドソン湾会社の太平洋岸総責任者マクラフリンは音吉たちの日本送還をイギリスと

    鎖国中の日本との交易開始に利用しようと考えたのである。

    フォート・バンクーバーで約半年逗留。初めて英語教育を受け、ラナルド・マクドナルド

    (日本初の米国人英語教師)来日のきっかけとなる。

    3人はマクラフリンによってイーグル号でロンドンに送られることとなる。

天保6年(1835)音吉17歳 ロンドンに着く。イギリス政府は日本との交渉に熱心でなかった為

    政治利用することもなく、ロンドンでの逗留は10日間程度で3人を日本に帰還すべく

    中国のマカオへ送った。(南アの喜望峰、アラビア、インド、タイ経由)

天保7年(1836)音吉18歳 ドイツ人宣教師カール・ギュツラフに預けられ、世界初の聖書の

    和訳に1年がかりで協力、シンガポールにて出版される

天保8年(1837)音吉19歳 アメリカ商人のC.W.キングが3人に加えフィリピンに漂着した4人の

    漂着民を日本に送り日本政府と国交を持ちたいと考えていたのでモリソン号で日本へ

    送られるが、江戸湾浦賀港にて幕府の「無二念打払い令」による砲撃のため退去。

    鹿児島湾にも入港したが、またしても砲撃に遭い、この日を境に祖国を捨て、

    マカオへ戻った後、イギリス船で水夫として働く。

天保9年(1838)音吉20歳 音吉はアメリカへ行く

天保14年(1843)音吉25歳 音吉はオトソンと名乗り上海のデント商会に就職

天保15年(1844)音吉26歳 上海で日本人漂流民を援助。摂津の永住丸、紀伊の天寿丸、

    摂津の英力丸、半田の永栄丸などの漂流民を帰国させる。 

嘉永2年(1849)音吉31歳 中国人林阿多(リン・アトウ)と名乗り、イギリス海軍

    東インド艦隊の軍艦マリナー号の通訳として浦賀へ来航、大英帝国の一員

    として海図の製作に係る。

嘉永6年(1853)音吉35歳 アメリカのペリー艦隊に同行予定だった日本人漂流民(仙太郎、

    徳兵衛ら栄力丸船員)の脱走を手引きし、後に清国船で日本へと帰国させている

嘉永7年(1854)音吉36歳イギリス海軍スターリング艦隊の通訳として来日、日英和親条約の

    締結をする。「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」に音吉の談話

    (日本の国家、宗教について)が掲載される。

文久2年(1862)音吉44歳 家族と共に上海からシンガポールへ移住し、幕府の遣欧使節団で

    寄港した福沢諭吉や森山栄之助(ペリー来航時の幕府主席通訳)に会い、中国や

    世界の情勢について伝える。この時の記録は福澤の著した「西航記」に残っている。

元治元年(1864)音吉46歳 ジョン・M・オトソンとしてイギリスへの帰化を許される。

慶応3年(1867)1月18日 音吉49歳 シンガポールのシグラップ地区アーサーズ・シート

    において永眠。翼1月19日に旧ブキティマ通り墓地に埋葬される。

    息子(John William Ottoso)に自分の代わりに日本へ帰って欲しいとの遺言を残しています。

音吉の家族

1843年頃同じデント商会に勤める英国人女性(名は不明)と最初の結婚をしている。

この最初の妻との間には娘メアリーが生まれたが、娘は4歳9ヶ月で他界、妻もその後、

他界している。このメアリーの墓は、晩年、音吉が住まいとしたシンガポールに残っている。

その後、上海で同僚だったスコットランド系の両親に持つシンガポール人の女性、

ルイーザ・ベルダー(Louisa Belder)と再婚する。

この2度目の妻との間には、一男二女がいた。息子の名前はJohn William Ottosonで1847年

7月7日の生まれで横浜で日本人女性と結婚し1879年に日本国籍を取得し山本乙吉と改名

しています。2代目山本乙吉が神戸市の造船所や商社で働いていたことまでは判っている。

さらに乙吉には2男1女がおり台湾に渡ったことも判明しています。

この頃、音吉の住む上海では、太平天国の乱などにより、混乱が始まりつつあった。

山本音吉の遺灰の帰郷について

以下Wikipediaより引用(一部加筆)

音吉のシンガポールでの埋葬は後に記録が確認されるが、1970年に都市開発のため

墓地全体が改葬されたことから、その後の捜索は難航した。2004年2月になってシンガポール

日本人会の杉野一夫事務局長及びシンガポール土地管理局の梁福綿氏らの精力的な調査で

ようやく墓が発見(シンガポール国立墓地)され、遺骨の発掘に成功する。遺骨は荼毘に

付されてシンガポール日本人墓地公園に安置され、一部が翌2005年に音吉顕彰会会長で

美浜町長(1991年 - 2007年)の斉藤宏一らの手によって、漂流から実に173年ぶりに、

祖国日本に戻ることになる。現在、遺骨は美浜町の音吉の家の墓と、良参寺の宝順丸

乗組員の墓に収められている。

山本音吉のスケッチ画

林阿多(山本音吉)(『海防彙議補』[国立公文書館蔵]より)
 
関連サイト
 
 
 
 
 
 
 
 
 
江戸時代の主な漂流民
2021年10月22日に放送の高校講座「日本史」で漂流民に関して整理した資料があったので
添付しておきます。(下の写真)
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