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姫路藩 酒井家筆頭家老「高須隼人 屋敷跡」現在の「家老屋敷跡公園」見学記 on 2022-4-27 

2022年05月07日 03時53分29秒 | 神戸市以外の兵庫県

姫路城大手門の南に家老屋敷跡公園があります。かっては姫路藩筆頭家老の高須隼人が

屋敷を構えていた土地を整備した公園です。

現在は観光客相手の飲食店、土産物店が建っており「いの屋敷」「ろの屋敷」「はの屋敷」

「にの屋敷」の4棟に分かれています。

2022年4月27日に家老屋敷跡公園に寄り現地説明板などの写真を撮ってきましたので紹介します。

上の写真は家老屋敷跡公園の遠景です。

上の写真は現地説明板の文章部分です。解かりずらいのでそのまま転記しておきます。

姫路藩 酒井家家老(ひめじはんさかいけかろう) 高須隼人 屋敷跡(たかすはやとやしきあと)
 高須家は、酒井家中で家老職を務める家柄です。江戸時代末期には三千石の知行(ちぎょう)

があり、当主は代々「隼人」を名乗りました。
 高須家の屋敷地は、中ノ門から大手門に向かう大手門筋と大名町の通りが交差する個所の北西角に一します。屋敷地は東西約百三十五m・南北約七十五mの広さがありました。大手門筋は屋敷のところで鉤(かぎ)の手状(てじょう)に曲がっているため、中ノ門から大手門筋を城に向かうと、正面に高須家の長屋門(ながやもん)が目に入ります。
 この門は史料から推測すると、敷地の東端から西端におよぶ長大な建物で、石積基壇(いしづみきだん)の上に建てられていました。その外観は、瓦葺(かわらぶき)の漆喰塗籠(しっくいぬりごめ)です。また、他の絵図には東西の建物が三棟、南北の建物が一棟描写され、表書院(おもてしょいん)や奥向きの書院をもつ屋敷だったことが想像できます。さらに、立派な庭木が描かれていますので、庭園も備えた屋敷であったことがうかがえます。
 高須家の屋敷は、明治維新後撤去され、付近一帯は「城南練兵場(じょうなんれんぺいじょう)」として第二次世界大戦が終わるまで使用していました。そして戦後は、引揚者住宅等が建設されました。
 このたび公園整備に伴う発掘調査で、建物の礎石(そせき)・井戸等を確認し、屋敷の遺構が(いこう)が良好に残されていることが判明しました。

上の写真は姫路侍屋敷図の一部を抜粋したものです。 屋敷図の下には下記の文が記載。
上記「姫路侍屋敷図(19世紀初頃)」は姫路市立城郭研究室所蔵

前部の側面には下記の文が記載されています。
寄贈 姫路ライオンズクラブ
平成15年6月

家老屋敷跡公園の所在地住所は姫路市本町68-100

 Goo地図を添付しておきます

 

上の2枚の写真は家老屋敷公園の案内図

姫路藩の筆頭家老「高須隼人」について略歴を記載しておきます。

高須隼人は文化13年(1816)生まれ、没年は慶応3年(1867)10月23日に病死。享年51歳。

文久2年(1862)3月、姫路藩にも攘夷か開国かの議論が起こり、河合惣兵衛(宗元)らの

攘夷派と家老・高須隼人らの佐幕派に分かれます。元治元年(1864)頃までは尊攘派が

藩論の主導権を握っていた。

姫路藩主・酒井忠績(ただしげ)が老中首座になったことで、姫路藩では河合惣兵衛ら

勤王派藩士の過激な行動を快く思っていませんでした。高須隼人は藩主の意を汲み

尊攘派粛清の機会を狙っていました。そこで下に述べる「甲子の獄」を主導していきます。

元治元年(1864)2月、河合惣兵衛の子・河合傳十郎宗貞らが脱藩、すぐに捕らえられると

攘夷派の取り締まりが強まり、惣兵衛も捕らえられるのです。

元治元年(1864)12月26日、惣兵衛以下6名は切腹、2名は打ち首、6名は永久投獄、

のべ76名が処罰を受けました。この事件は「甲子(かっし)の獄」と呼ばれています。

これにより幕末の姫路藩は勤王派の勢力が一掃され佐幕派でまとまり沈静化しています。

譜代藩の宿命であるが明治新政府に姫路無血開城まではなんとかこぎつけたものの

姫路藩存亡の危機は続いていきます。

姫路城の存続危機を救った物語を下記ブログで書いていますので参照頂ければ幸いです。

 姫路城の恩人 北風家の第66代当主 北風荘右衛門正造貞忠(北風正造)と姫路城の危機 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

 

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