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播州名所巡覧絵図で描かれた「六騎武者の塚」比定地

2022年07月13日 04時06分00秒 | 神戸市以外の兵庫県

本日は表題のテーマで記事を書いていきます。

六騎武者の塚とは、児島高徳の父児島範長主従の六人が自害した跡に建てられた墓のことです。

児島範長(こじま のりなが)は生年不明-1336年没 鎌倉-南北朝時代の武将。

児島高徳(たかのり)の父。建武3年=延元元年(1336)新田義貞に呼応し,足利尊氏方の

赤松則村の動きを牽制するため、高徳らと備前(岡山県)熊山で挙兵。

播磨(兵庫県)で赤松軍に敗れ,同年5月に自害した。通称は和田二郎。

児島範長の墓については下記サイトに詳しく書かれています。

 児島範長墳墓考 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)

自害した場所には諸説あり本日紹介する播州名所巡覧絵図で描かれた「六騎武者の塚」は

その候補地の一つです。

播州名所巡覧絵図の六騎塚は現在の住所で高砂市阿弥陀町1985。大日寺があった場所です。

 

上の写真は播州名所巡覧絵図(作者は秦石田、絵師:中井藍江)文化元年(1804)刊
で描かれた

「六騎武者の塚」の図絵です。第3巻三十五

本文に「豆崎村の西駅、道の傍」と書かれているので、この場所は西国街道沿いの大日寺五輪塔

であると結論。

人が往来しているのは西国街道で男2人は歩行で東に向かい、その背後の女性は傘に手をやっています。

歩く方向から豆崎より南に分岐する曽根道・十輪寺道に向かうのであろと思われます。

宿駕籠で西に向かっているのは俳諧師であろうか。案内役のお付きの人もついている。

掲載ページの前に編照山・時光寺、石宝殿が記載されページの後には曽根天神が掲載されて

いることからも高砂市の大日寺・五輪塔と石仏であると推論できます。

ここからは、現在の大日寺跡の五輪塔と石仏をバーチャル訪問します。

上の3枚の写真はGoogleストリートビューに掲載の大日寺跡の五輪塔と石仏及び現地説明板です。

上の写真は大日寺跡の遠景 出典:Googleストリートビュー

上の2枚の写真は石造五輪塔と石仏さらに大日池(阿弥陀池)を中心に撮ったGoogle地図

下台公民館のGoo地図も添付しておきます。

以下の文は大日池と大日寺に関して書かれた神戸新聞NEXT(2021年8月5日 21:07)からの引用です。

高砂市のJR曽根駅から北東へ数百メートルの所に、大日池という小さな池がある。この池の表面が今、真っ赤な藻に覆われ、水面が見えなくなっている。

 池の隣には、かつて大日寺という寺があったが、2009年に火災で本堂が全焼した。境内には、南北朝時代の軍記物語「太平記」で英雄の武将、児島範長(のりなが)らを弔った六騎塚という碑が立つ。範長は1336年、新田義貞に呼応し、足利尊氏が大軍を率いて九州から東上してくるのを迎え撃ったが、最後に主従6騎となり、播磨・阿弥陀宿の辻堂(つじどう、現在の大日寺跡)で自害したという。

 この時期になると赤く染まる大日池を見て、地元では範長ら6騎の怨念ではないかと、おののいている。

六騎塚の伝承地としては姫路市別所町にも残っています。紹介記事は下記サイト。

 歴史の風景-播磨伝説異聞-206消された英雄 六騎塚 (dti.ne.jp)

 

児島範長の子、児島高徳は坂越のお寺に留っていたので難を免れることができました。

児島高徳は湊川の戦いで戦死した楠木正成と共に天皇の忠臣として知られています。
後醍醐天皇が隠岐から還幸した元弘2年(1332)以降、南朝方の武士として活躍
したとされ太平記で多く記載されています。
児島高徳の別称としては三郎、備後三郎の他に三宅三郎高徳、児島三郎入道志順
などがあります。

児島高徳の墓(供養塔)は坂越にあり以前ブログ記事を作成しています。(下記リンク)

 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その24 児島高徳の墓 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

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