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洲本市五色町都志の散策記 on 2023-6-14&6-15 その8 高田屋嘉兵衛邸宅跡

2023年07月19日 05時37分33秒 | 神戸市以外の兵庫県
2023年6月14日と6月15日に高田屋嘉兵衛の生まれ故郷&晩年を過ごした淡路島 洲本市五色町都志を
散策してきましたので写真紹介します。訪問先をシリーズで紹介していきます。
本日はその第8回で6月14日に訪問した「高田屋嘉兵衛邸宅跡」について書いていきます。


洲本市五色町都志の散策シリーズ過去の記事
 






五色バスセンターの向かい(北側)にある小さな園地が、高田屋嘉兵衛邸宅跡です。

上の写真は高田屋嘉兵衛生誕地の碑 
嘉兵衛が生誕した頃の家は小さく、後に文化年間(1804~1816)に大規模な邸宅が建てられました。
この文化年間の嘉兵衛に関する主な出来事をピックアップしておきます。
文化元年(1804) 36才 箱館港の改築、造船場の建設
文化2年(1805) 37才 箱館の開墾(大坂、淡路より農民数十戸を移住)
            江戸、大坂に出店
文化7年(1810) 42才 場所請合制を復活させようとする幕府からエトロフ島場所請合を命じられる
文化8年(1811) 43才 ロシア軍艦ディアナ号艦長ゴローニンら8人クナシリ島で捕らえられる。        
文化9年(1812) 44才 幕府によりロシア軍艦ディアナ号艦長ゴローニンが捕えられた報復として、
     高田屋嘉兵衛は観世丸でエトロフ島から箱館に向かう途中国後島のケラムイ沖で
     8月13日(or14日)、リコルドにより捕えられた(ゴローニン事件)。   
文化10年(1813)45才 帰国後の嘉兵衛は松前奉行を説き伏せ、ロシア側に侵略の意図が無い
     ことを納得させ、人質解放に尽力した。
     日ロ双方に対し、献身的に折衝し、両国から賞賛された。
     9月26日、リコルドは函館でゴローニンらの引き渡しを受ける
     9月29日、リコルド、ゴローニンらを乗せたディアナ号は箱館を出航(ゴローニン事件の解決)
文化11年(1814)46才 嘉兵衛、許されて再び幕府の蝦夷地定雇船頭となる
        ゴローニン事件解決の功を賞せられ、幕府より金十両を下賜

新邸は主屋だけで9間半に5間(約157㎡)。これ以外に7棟あり、周りに高い塀をめぐらした
屋敷の総面積は543坪(約1,892㎡)に及んでいたと言われています。
上の写真は高田屋嘉兵衛生誕地の碑が建つ商業施設の駐車場から旧邸跡及び顕彰碑への案内板


上の2枚の写真は高田屋嘉兵衛邸宅跡に建てられた休み処と復元された塀及び現地説明板
上の写真は高田屋嘉兵衛屋敷跡の平面図
出典:五色町教育委員会編「高田屋嘉兵衛」(1960)Page10 著作権消滅 

上の写真は平成7年(1995)までに撮影された高田屋嘉兵衛屋敷跡の一部(厩など)
平成7年(1995)の阪神淡路大震災で倒壊し解体されました。
出典:嘉兵衛の里めぐりウォーキングコースのリーフレット 

次に高田屋嘉兵衛の顕彰碑について写真紹介していきます。

上の2枚の写真は高田屋嘉兵衛の顕彰碑の遠・近景です。
正式名は「高田屋嘉兵衛翁記念碑」 碑には「贈正五位高田君 碑」と書かれています。
高田屋嘉兵衛の功績が後に認められ明治44年(1911)正五位が追贈されました。
これより都志の有志が中心となり全国中等学校からの寄付金等、各方面の協力を得て
大正4年(1915)11月、この地に記念碑が建立されました。(高さ6.3m、幅3.0m)
碑石は香川県庵治産の花崗岩で当時の金額で6千5百余円を要した。

上の写真は高田屋嘉兵衛翁記念碑の現地説明板
 高田屋嘉兵衛の生まれから死亡までの経歴と主な業績が記されています。
明治44年(1911)8月、政府は高田屋嘉兵衛の生前の功績に対し、正五位を追贈した。


上の写真は高田屋嘉兵衛記念館
高田屋顕彰館・歴史文化資料館(菜の花ホール)が平成7年(1995)に開館してからは
記念館の資料や嘉兵衛の遺品などは高田屋顕彰館・歴史文化資料館に統合され、閉館となりました。

最後に記念館近くに鎮座する高田屋嘉兵衛像の写真を添付して筆を置きます


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