チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

バーンスタイン来日中止で急遽日本に来たマルタ・アルゲリッチ(1978)

2014-06-15 22:37:22 | 来日した演奏家

1978年のニューヨーク・フィルの来日にバーンスタインが同行できなくなり、代役でラインスドルフが日本にやって来たことはちょっと前にこのブログにも載せたんですが、そのときマルタ・アルゲリッチもバーンスタインの穴埋めをするために来ていたんですね。(※↓日程)

1978年7月5日、アルゲリッチは普門館でプロコフィエフの協奏曲第3番を弾いたそうですが、その日、そのコンサートのあとで三善清達氏(音楽評論家で元東京音大学長、昨年亡くなった作曲家三善晃氏の兄)、音楽評論家の野村光一氏(1895-1988)、そしてピアニストの伊藤京子氏はアルゲリッチとホテルオークラで食事をしています。(出典:音楽の友1978年10月号。「アルヘリッチ」と表記されています)

↑左からアルゲリッチ、野村氏、三善氏、おそらくアルゲリッチのお母さん(同席されたと思われる伊藤氏のお母さんではないふうに思いっきり見えます)


↑右はピアニストの伊藤京子氏。この会の開催はアルゲリッチと懇意の伊藤さんが発端ということです

記事の中から面白そうな話をピックアップします。

1.演奏後ほとんどしゃべらなかったアルへリッチも食事が始まる頃になるとすごく調子が出てきた。「お酒はあまりいらない」とは言ったが、つがれた白ワインを少し飲み、肉をペーストにしたような料理を「美味しい、美味しい」と食べ、お母さんの皿から「それ欲しい」と少し分捕ったりして、まるで屈託のない普通のお嬢さんだ。



2.アルへリッチが「最近ショパンは一番より二番が好きになってきた」というので野村さんが「それなら今度来る時はその二番を弾いてくださいよ」というと「オーケー」と答えて大きくうなづく。



3.アルヘリッチが「さっき弾いたプロコフィエフは、ロマンティックなのかクラシックなのか、私は今はクラシックとしてとらえているけれど......」と切り出すと、待っていましたとばかり野村さん。「貴方は正しい。そしてそのプロコフィエフの三番こそ、彼が日本に来た時一部のヒントを得たんだ。私は彼に会って話をききましたよ」といい出すと、あどけない顔で「本当?何処で?」と聞く。こうなるとアルヘリッチといえども十九世紀生れの野村さんにかなわない。甘える調子になる。「本当とも」と野村さん、すこぶる御満悦だ。とうとう野村さんは確か前回来日したときに「音楽の友」の表紙になっていた彼女の写真を取り出してサインを貰うことになる。「よくとれて美しい」と野村さんは御機嫌だが、彼女のほうは首をすくめてイタズラっぽい顔になる。確かこの写真、彼女の御機嫌の好くない時で、撮るのに大分苦労したとかきいたことがあるような気がするが、かえって鋭さが出ている。


(↑ 音楽の友1976年8月号。撮影・竹原伸治。アルゲリッチがサインしているのはこの表紙自体でない。もしかしたら関係者だけが貰える写真とか?)


4.(終電で野村氏が帰ったので【なんともったいない!】三善氏が伊藤氏とそのお母さんと一緒にアルゲリッチを)帝国ホテルまで送っていった。車の中でもアルヘリッチは上機嫌で、美しく魅力的な目で夜の東京を眺めていた。(中略)(三善氏は)「お休み」と手を握った【くぬゆる~】。柔らかい、力を抜いた自然の手だった。この手が、ピアノ演奏の世界を変えた手、音楽の魅を迸らせ、リストやプロコフィエフに新しい生命を与えたその手だ......。


→野村光一さんも三善清達さんも当時37歳のツンデレ・アルゲリッチに魅了されまくってるご様子!このあとに続く文章を読むと特に三善さんはメロメロです。アルゲリッチと食事して握手できるなんてうらやましい~

(ところでこのとき、南米から来て日本で落ち合ったというアルゲリッチのお母さんは一緒に帝国ホテルに帰ってきたのか?レストランにおき忘れてないか心配。どうでもいいですけど。)

 

※1978年アルゲリッチ日本公演日程(ラインスドルフ指揮NYP、プロコフィエフ協奏曲第3番)

6月26日(月)19:00 大阪フェスティバルホール

6月28日(水)19:00 名古屋市民会館

7月 3日(月)19:00 東京 普門館

7月 5日(水)19:00 東京 普門館