チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

イーゴリ・マルケヴィチ来日と「春の祭典」(1960年)

2014-12-11 18:42:09 | 来日した演奏家

この前、このブログにも載せた『藝術新潮』昭和30年3月号の20世紀の名曲50選(1955年)という座談会記事ではストラヴィンスキーの春の祭典が全く無視されていて意外でした。当時の日本人は音楽だと思っていなかった??

しかしその後、我が国で「春の祭典」が受容される一つのキッカケになったかもしれない出来事がありました。

それは1960年9月に初来日し、日本フィルを数回指揮したイーゴリ・マルケヴィチ(Igor Markevitch, 1912-1983)の記者会見と演奏です。

↑ 日比谷公会堂で日本フィルを指揮するマルケヴィチ



以下、『藝術新潮』昭和35年11月号にマルケヴィチ自身が書いた文章からです。

『私が来日直後の記者会見で「春の祭典」をベートーヴェンの「第九」や「トリスタン」と比肩する音楽史上のエポック・メーキングな作品であると語ったことから、以後この作品ならびに作者ストラヴィンスキーに関したさまざまな質問を受けることになってしまった。

 「祭典」がエポック・メーキングな作品であるという理由を簡単に述べれば、まずこの作品において音楽の全要素が従来の伝統的なものから完全にくつがえされ、革命的な変化が生じたに他ならない。例えばリズム上のことを考えてみると、史上あれ以前にあれほど複雑で新奇斬新なものが集積されたためしがあったであろうか?和声的に考えてもそれまで考えられもしなかったような音の組合わせが全曲にくまなく用いられている。楽器法からいっても同様で、伝統的なオーケストラ楽器を用いると同時に、当時としては極めて新奇で特殊な楽器が用いられている。例えば、バス・フルートの活躍などがそれである。

 形式の上からいっても新しさは見出されるが、とりわけ旋律的な新しさには特別の注目が値する。曲のはじまりの部分の抽象への昇華された自然の目覚めとでもいったような部分を一聴すれば作曲者が旋律の書き方にいかなる革新をもたらしたかが悟れると思う。またこの部分は特に日本人の興味をそそり、日本人の心に親近感を覚えさせるにちがいないと考えている。なぜなら、ある意味では、これは禅の精神に全く則ったものであるということができるからである。』

。。日本フィルとの「春の祭典」の演奏も素晴らしいものだったらしいし、このようなことをマルケヴィチに発言されてしまったら日本の楽壇もハルサイの素晴らしさに注目せざるを得なかったでしょうね。



おまけですが、同じ記事の中でマルケヴィチは「日本のおもてなし」を二つ書いています。リップサービスだとしてもうれしいです。

1.「私は特に庭園に興味を持ち、自分で庭造りをするのが興味であるので、鎌倉をたずね、京都や日光の庭園を徘徊するのは、まことにすばらしいもてなしだったと言わねばなるまい。(中略)私個人の内的なものを満たしてくれるものはといえば、鎌倉の円覚寺ほどこれにかなったものはなく、ここにあった時ほどの幸福感を感じさせるものには、稀にしかめぐり会えないといわねばならない。もし再び日本を訪れ、ある期間ここに滞在できるとしたら、私はためらわず鎌倉に居を選ぶことになるだろう。」

2.「(日本人が)与えられたものをできるだけ完璧なものに近づけようとする熱意はオーケストラとの仕事でも誠に高く、決してオーケストラに対して過ぎた要求をしてしまったと感ずることなしに仕事が出来るのである。これは日本人がパーフェクショニストで、作品ができるかぎり完成の域に達していなければ満足しないということを物語っている。このような態度は芸術家一般にとって、特に指揮者にとってはこの上もないもてなしだと言わなければならない。」

2020年オリンピックのおもてなしの参考になる?

能楽堂でのマルケヴィチ。右は渡辺暁雄。