チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

フリッツ・クライスラー来日(1923年)

2016-09-07 13:14:00 | 来日した演奏家

(2014年9月10日の記事に新聞広告と演目を追加しました)

フリッツ・クライスラー(Fritz Kreisler, 1875-1962)が大正12年(1923年)4月に来日し、まずは5月1日から5日まで帝国劇場で演奏しました。(毎日7時30分開演)

↑ 当時の新聞広告。これから判明する帝国劇場での曲目は

5月1日(火) ヴィヴァルディ:協奏曲ハ長調、バッハ:ソナタト短調

5月2日(水) ベートーヴェン:クロイツェル・ソナタ、メンデルスゾーン:協奏曲ホ短調

5月3日(木) バッハ:ソナタホ長調、ブルッフ:協奏曲第1番ト短調

5月4日(金) ブラームス:ソナタ第1番「雨の歌」、ヴィオッティ:協奏曲第22番イ短調

5月5日(土) ベートーヴェン:ソナタ第7番ハ短調、バッハ:シャコンヌ

 

。。。バラエティに富んだメニューですね。協奏曲はピアノ伴奏編曲版。


大正12年5月というと9月1日の関東大震災のちょっと前。帝国劇場も震災で焼失してしまいました。

↑ 西洋風劇場として1910年(明治43年)に開場した帝国劇場。

 

ちなみにクライスラーはヴァイオリニストとしてもちろん有名ですが、作曲家としても優れています。「愛の喜び」「愛の悲しみ」等の小品の他、中でも弦楽四重奏曲イ短調(1919)は本気度MAXのとってもヨイ曲だと思います。

さて、そのリサイタルの感想などを探していたところ、大田黒元雄氏の本にありました。

『新洋楽夜話』(第一書房、昭和14年戦時体制版)に簡単ですがその時の様子が書いてあります。

以下、抜粋です。

「クライスラアが日本へ来たのは大正十二年の秋(※1)でした。当時、四十七、八だった彼の芸術はもう円熟し切っていましたので、その演奏を聴いていると技巧というものが頭に浮かんで来ませんでしたが、何となくそこに疲労の色の附きまとっていることを私は感じないではいられませんでした。その後、この人が格別病気もしないで、老境に入った今でもそう変わらず立派な演奏をしているところから考えると、あの時分はどこか身体がわるかったのだろうと思われます。

クライスラアの東京滞在中に、三島子爵のところで歓迎園遊会の催されたことがありましたが、その時にこんなことを言いました。
『今日は大層いいところへ行って来ました。そして日本に来てから一番感動しました。』
どこへ行って来たのですかと私が尋ねると彼はこう答えたのです。
『ジェネラル・ノギ(※2)の家です。』

私はその時にこの一代の音楽家が祖国オーストリアのために銃を執って戦ったのが偶然でないことを知りました。」

※1 春の間違いでしょう。同年11月に来日したハイフェッツと勘違い??
※2 乃木希典(1849-1912)。日露戦争を代表する軍人。『戦時体制版』だからこそこんなことが書かれているのかも


。。。コンサートの現場に立ち会い、しかもクライスラー本人と話していたとは、さすが、大田黒さん!ちょっと大田黒公園行って来ます。

↑ 来日時のクライスラーと夫人。(『別冊歴史読本 幕末・明治・大正古写真帖』 新人物往来社より)

 

(追記)当時の新聞記事です。大正12年(1923年)4月23日読売新聞。

クライスラーは4月20日に横浜に入港し、山田耕筰氏らの出迎えを受け帝国ホテルに入ったんですが、上海での2回のコンサートのために22日午後6時に長崎を発ち、その後29日には長崎経由で再び東京に戻りリサイタルを開いたということです。めっちゃハードなスケジュールで、大田黒さんが指摘したクライスラーの「疲労の色」にも納得しました。

帝国ホテルでは偶然チェリストのジョセフ・ホルマン(Joseph Hollmann, 1852-1926)と10年ぶりに再会しています。それとクライスラーのピアノ伴奏はミヒャエル・ラウハイゼン(Michael Raucheisen, 1889-1984)だったんですね。おそらく、2つ上の画像の右端のひと。

↓ 右はしの人の顔が切れてないバージョン