チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

日比谷野外音楽堂(大音楽堂)オープン時の広告(1923年)

2016-09-16 20:58:05 | 日本の音楽家

大正出版「新聞集録大正史」第11巻に、日比谷野音(大音楽堂)オープンの広告が載っています。



↑ 大正12年(1923年)7月8日「都新聞」より。当時の楽器店等の広告が興味深いです。



1923年7月8日の報知新聞より、開場時のようすです。↓

--------------------
雨晴れの日比谷に東京行進曲 聴衆五千の盛況裡に新音楽堂開場

日比谷公園にできた新音楽堂の開場式が、けふ午後二時から行はれた。あやぶまれた朝の雨もはれて薄日さへ洩れそめたので、正午過ぎから次第に人數を増して、五千の座席も定刻にはいつぱいとなり、來賓席には徳川頼貞氏や小村侯、澁澤子なども見えたが、席に着けない多勢の人々はそのまはりに群りたかつて黒山の如く、入場口はなほも押寄せた人々でもんでゐるといふすばらしい景氣で、忽ち起る東京行進曲に場内は靜まり返る。

永田市長の挨拶に次で、君が代の吹奏があり萬歳の聲は期せずして挙げられた。式はこれで閉ぢられて演奏會に移つた。先づ三越音楽隊の管弦楽「タンクレデー」がすむと海軍々楽隊の管弦楽「新世界より」が始まる。次で陸軍々楽隊吹奏楽「コーカサスの描寫」陸軍々楽管弦楽「正々堂々たる軍容」から漸次プログラムが進められ、最後に陸海軍三越の合同タンホイゼルの吹奏楽があって、酔へるが如き聴衆は我を忘れて拍手喝采した。
--------------------

。。。オープニング・コンサートはかなり盛り上がったようですね。以下、「東京行進曲」、「君が代」のあとの演目です。

 

↑ 上の画像の拡大。


1.ロッシーニ:タンクレーディ序曲(三越音楽隊)
2.ドヴォルザーク:新世界交響曲から第4楽章(海軍軍楽隊)
3.イッポリトフ=イワノフ:コーカサスの風景(陸軍軍楽隊)
4.エルガー:威風堂々(陸海軍三越)
5.シューベルト:ロザムンデより(陸軍軍楽隊)
6.サン=サーンス:「サムソンとデリラ」よりバッカナール(海軍軍楽隊)
7.ワーグナー:タンホイザー序曲(陸海軍三越)

指揮は久松楽長(三越音楽隊)、田中楽長(海軍軍楽隊)、春日楽長(陸軍軍楽隊)が担当。

合同演奏は迫力あったでしょうね!

 

(参考)戦前・小音楽堂での軍楽隊演奏 ↓


文部大臣に陳情する藤原義江(国立劇場問題、1959年)

2016-09-12 20:39:11 | 日本の音楽家

難航したという国立劇場建設に関して文部省や都庁に陳情を続ける藤原義江(1898-1976)が週刊新潮1959年9月14日号に大きく取り上げられており、彼の別の面を見たようでした。この頃は本業のオペラの稽古も手につかなかったようです。

↑ パレスハイツ跡(米軍接収地)にて藤原が担当する「現代芸能(第二劇場)」の構想を思案中。

 

↑ パレスハイツ跡には雑草が茂り、米軍接収当時の水道タンクがところどころに突っ立っている。

 

↑松田竹千代文部大臣(愛称・テキサス無宿、1888-1980)に国立劇場建設を陳情する藤原義江。大臣はあまりオペラに興味なさそうだし(?)ふんぞり返っててなかなか言うことを聞いてくれなそうな雰囲気ですね。

 

記事によると

------

国立劇場建設が順調に進まないのは、三つの難点があるためだそうである。都庁建設局から指摘された三点は

1. パレスハイツ跡が住宅地に指定されているため、予定した建物も高さ39メートルがとれないこと。

2. 駐車場に十分な敷地がないこと。

3. 地下に二本の高速道路を作る計画があるため地下や奈落を掘ることができないこと。

都庁の意見を調整して一日も早く着工したいと藤原さんは精力的にかけまわっている。「欧米ではどの国でも立派な国立劇場をもっています。ぜいたくな事はいえませんが、貧乏国なりにもぜひ国立劇場が欲しい。オペラやバレエの専門劇場が日本に一つもないことは文化国家として恥ずかしいことじゃあないでしょうか......」国立劇場問題に異常な熱意をもって語る。

「国立劇場が完成したにしてもその中の入れものが貧弱ではなんにもならない。オペラでもバレエでも欧米のものに比べて見劣りしないものを育てることが必要です。それには国がもっと暖かい目で見てもらいたい。政府からは一銭の援助もなく、オペラ・バレエ・シンフォニーなど逆に高い税金を支払わされているんです。ドイツなどでは政府が積極的に援助しているんですがね......」

------



↑ 藤原歌劇団稽古場でオーケストラ団員と語る藤原。なぜかシューベルトのシンフォニー(「未完成」か?)ですね。「最近、オペラを志す若い人たちは、すぐ主役ばかりをやりたがる。芸事ばかり昔の職人気質が必要だと思いますね。オペラの世界では約3分の2ほどが職業の選択を誤っているんじゃないでしょうか。」



。。。国立劇場は1966年に開館されましたけど、日本の伝統芸能向けの仕様に藤原さんの「コレジャナイ感」は半端なかったと想像されます。新国立(1997年開館)は彼の執念の賜物なのか?


ガスパール・カサド、原智恵子の結婚(1959年)と来日公演(1962年)

2016-09-10 22:44:46 | 来日した演奏家

(2015年4月1日の記事に情報を追加しました)

【ガスパール・カサドと原智恵子の結婚、1959年】

1959年5月9日、名チェリスト、ガスパール・カサド(Gaspar Cassadó, 1897-1966)氏とピアニスト、原智恵子(1914-2001)さんがイタリア・シエナのスタム・チェチーレ教会で結婚式を挙げました。

お二人の結婚は宗教的な問題から波紋を投げたそうです。原さんは幼時に洗礼を受けたカトリック信者。それだけに先夫・川添史郎氏との離婚とこの再婚は難しいと見られていたそうですが、よかったですね。

 

↑ 仲人はバチカン駐在大使の鶴岡夫妻。日本にいる2人の愛児はスペインに迎えてカトリック系の学校に入れることになったようです。

 

↑ 結婚式でのようす。新婚旅行後はフィレンツェにあるカサド氏の古城に住むことになったそうです。とんでもなく膨大な資産があったようですね。

(以上週刊新潮1959年6月1日号より)

 

【夫妻の来日公演、1962年】

ガスパール・カサド・原智恵子夫妻は1962年に来日しました。

↑『藝術新潮』1962年12月号より

夫婦愛の二重奏」というタイトルのコンサートだったようです。

写真の右下に「夫婦愛などとのんきに聞いてもいられない」という半分悪口のようなことが書いてありますが「フィレンツェに大きな城をもっているカサド夫妻が、悠々自適した余世を演奏活動にふりあてるのは、他人がとやかくいうすじあいのものではない。」(藝術新潮本文より)という一節からも伺えるように、ヤッカミからなんでしょうか?

↑ 小学館新学習図鑑シリーズ26 『音楽の図鑑』より 撮影年月・場所不明

 

。。。今年(2016年)10月に玉川大学教育博物館で「カサド没後50年 原智恵子没後15年記念祭」が開催されるそうです。行かねば!


花形スター1000人集より日本の声楽家編(1955年)

2016-09-10 01:11:38 | 日本の音楽家

「国際芸能人名鑑花形スタア1000人集1954-55年版」より、今回は声楽家です。アイウエオ順、敬称略。



浅野千鶴子(1904-1991、ソプラノ)

 


伊藤京子(1927年生まれ、ソプラノ)

 


大熊文子(1918-2003、ソプラノ)

 


大谷洌子(1919-2012、ソプラノ)

 


川崎静子(1919-1982、アルト) 千葉静子。

 


木下保(1903-1982、テノール)

 


栗本正(1920-1986、バス)

 


佐藤美子(1903-1982、メゾソプラノ)

 


斎田愛子(1910-1954、アルト)

 


柴田睦陸(1913-1988、テノール)

 


下八川圭祐(1900-1980、バリトン)

 


砂原美智子(1923-1987、ソプラノ)

 


関種子(1907-1990、ソプラノ)

 


田谷力三(1899-1988、テノール)

 


辻輝子(1907-1973、ソプラノ)

 


中山悌一(1920-2009、バリトン)

 


永田絃次郎(1909-1985、テノール)

 


長門美保(1911-1994、ソプラノ)

 


原信子(1893-1979、ソプラノ)

 


藤原義江(1898-1976、テノール)

 


ベルトラメリ能子(1903-1973、ソプラノ)

 


三宅春恵(1918-2005、ソプラノ)

 


宮本良平(1916-1987、バリトン)

 


柳兼子(1892-1984、アルト)

 


四谷文子(1906-1981、アルト)

 

。。。だいたいいつも同じような顔ぶれになりますね。


フリッツ・クライスラー来日(1923年)

2016-09-07 13:14:00 | 来日した演奏家

(2014年9月10日の記事に新聞広告と演目を追加しました)

フリッツ・クライスラー(Fritz Kreisler, 1875-1962)が大正12年(1923年)4月に来日し、まずは5月1日から5日まで帝国劇場で演奏しました。(毎日7時30分開演)

↑ 当時の新聞広告。これから判明する帝国劇場での曲目は

5月1日(火) ヴィヴァルディ:協奏曲ハ長調、バッハ:ソナタト短調

5月2日(水) ベートーヴェン:クロイツェル・ソナタ、メンデルスゾーン:協奏曲ホ短調

5月3日(木) バッハ:ソナタホ長調、ブルッフ:協奏曲第1番ト短調

5月4日(金) ブラームス:ソナタ第1番「雨の歌」、ヴィオッティ:協奏曲第22番イ短調

5月5日(土) ベートーヴェン:ソナタ第7番ハ短調、バッハ:シャコンヌ

 

。。。バラエティに富んだメニューですね。協奏曲はピアノ伴奏編曲版。


大正12年5月というと9月1日の関東大震災のちょっと前。帝国劇場も震災で焼失してしまいました。

↑ 西洋風劇場として1910年(明治43年)に開場した帝国劇場。

 

ちなみにクライスラーはヴァイオリニストとしてもちろん有名ですが、作曲家としても優れています。「愛の喜び」「愛の悲しみ」等の小品の他、中でも弦楽四重奏曲イ短調(1919)は本気度MAXのとってもヨイ曲だと思います。

さて、そのリサイタルの感想などを探していたところ、大田黒元雄氏の本にありました。

『新洋楽夜話』(第一書房、昭和14年戦時体制版)に簡単ですがその時の様子が書いてあります。

以下、抜粋です。

「クライスラアが日本へ来たのは大正十二年の秋(※1)でした。当時、四十七、八だった彼の芸術はもう円熟し切っていましたので、その演奏を聴いていると技巧というものが頭に浮かんで来ませんでしたが、何となくそこに疲労の色の附きまとっていることを私は感じないではいられませんでした。その後、この人が格別病気もしないで、老境に入った今でもそう変わらず立派な演奏をしているところから考えると、あの時分はどこか身体がわるかったのだろうと思われます。

クライスラアの東京滞在中に、三島子爵のところで歓迎園遊会の催されたことがありましたが、その時にこんなことを言いました。
『今日は大層いいところへ行って来ました。そして日本に来てから一番感動しました。』
どこへ行って来たのですかと私が尋ねると彼はこう答えたのです。
『ジェネラル・ノギ(※2)の家です。』

私はその時にこの一代の音楽家が祖国オーストリアのために銃を執って戦ったのが偶然でないことを知りました。」

※1 春の間違いでしょう。同年11月に来日したハイフェッツと勘違い??
※2 乃木希典(1849-1912)。日露戦争を代表する軍人。『戦時体制版』だからこそこんなことが書かれているのかも


。。。コンサートの現場に立ち会い、しかもクライスラー本人と話していたとは、さすが、大田黒さん!ちょっと大田黒公園行って来ます。

↑ 来日時のクライスラーと夫人。(『別冊歴史読本 幕末・明治・大正古写真帖』 新人物往来社より)

 

(追記)当時の新聞記事です。大正12年(1923年)4月23日読売新聞。

クライスラーは4月20日に横浜に入港し、山田耕筰氏らの出迎えを受け帝国ホテルに入ったんですが、上海での2回のコンサートのために22日午後6時に長崎を発ち、その後29日には長崎経由で再び東京に戻りリサイタルを開いたということです。めっちゃハードなスケジュールで、大田黒さんが指摘したクライスラーの「疲労の色」にも納得しました。

帝国ホテルでは偶然チェリストのジョセフ・ホルマン(Joseph Hollmann, 1852-1926)と10年ぶりに再会しています。それとクライスラーのピアノ伴奏はミヒャエル・ラウハイゼン(Michael Raucheisen, 1889-1984)だったんですね。おそらく、2つ上の画像の右端のひと。

↓ 右はしの人の顔が切れてないバージョン