ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2010.3.2  ハーセプチン83回目

2010-03-02 20:46:36 | 治療日記
 明日はひな祭りというのに朝から気温が低く、今にも泣き出しそうな空だったけれど、何とか傘を差さずにすんだ。今日は月初めの採血。40人以上待ちだったので小一時間を覚悟したが、いつもより2人多い7人体制で行っていたので30分ほどで順番がきた。その後内科の前で、採血の結果が出るまでちょうど1時間。
 中待合に入る番号が出て、診察室に入ったのは病院に到着してから1時間45分ほどしてからだった。先週は特にこわばりも気にならなかったし、痛みもあまりなかったことをお話した。採血結果も特に異常なし。

 先週末のCTの結果について先生は、「うーん、という感じなんですよね。」とおっしゃった。一昨年の5月、去年の10月、今回と3枚の画面を並べて比較してくださった。肺の上部の影が去年の10月の画像でいったん薄く小さくなっているが、また濃く大きくなっていた。また、下部にはこれまでなかった部分にもやもやした影が映っていた。以上2点が変化したところ、で骨は変化なし、痛みのある胸の部分も特に変化なし、ということだった。先々月まで腫瘍マーカーが上昇していたのはこの肺の影のせいだったようだ。それでも先月は横ばいになっているので、今すぐどうこう、ということではないようだ。
 アロマシンは今回のCT結果待ちで、前回最低限しか処方して頂いていなかったので、あと2錠しか残っていない。とりあえず来週腫瘍マーカーの結果を見てから、ということで1週間分を追加して頂いた。
 今月、来月の腫瘍マーカーが上がるようであれば薬を変えるか、というところで、「(上乗せの)抗がん剤が必要でしょうか。」と恐る恐る伺ったところ、笑いながら「希望があるならやりますが・・・」とおっしゃるので、「全然ないです。」とお答えした。何が何でも抗がん剤をやりましょうという段階ではなさそうだ。
 それから処置室へ移動。さすがに採血の日は時間が遅いので窓際の点滴椅子は一杯で、入り口にある最後の椅子を確保。また検温、血圧、刺針等準備をしつつ1時間ほど待って薬が到着し、お昼過ぎから点滴が開始した。新しい針は刺すときも抜くときも痛みがあいかわらずだ。

 今日は2冊読んだ。1冊目は石川恭三先生の「生へのアンコール 勇気をくれた患者たち」(集英社文庫)。「文庫化によせて」を日野原重明先生が書いておられるが、筆者の長い医師歴の中で、主治医として出会ってこられた患者さんや家族の問題に対してどう対処されたかが17のストーリーとして書かれた本である。どのお話も生の限界を目の当たりにしながらも、生きる喜びを周りの人たちにも分かち与えた雄雄しい患者たち、ということでたくさんの勇気を頂いた。筆者があとがきで“私たちには「今、生きている」ことをごく当たり前のことと捉え、自分の人生について生の限界を視野に入れながら真摯に考えることを避けようとするところがある。”とあるが、実にそうだ。今、こうして毎週通院している私でさえ、一年後に死ぬと仮定してやらなくてはいけないことのリスト作りをする、ということはしていないのだから。誰にとっても時間は永久ではない。“義理や名誉や世間体などのために使う時間など一分たりともないことに気がつく”、というくだりには実に心打たれた。
 2冊目は帚木蓬生さんの「閉鎖病棟」(新潮文庫)。“現役精神科医の作者が病院内部を患者の視点から描く、淡々としつつ優しさに溢れる語り口、感涙を誘う結末が絶賛を浴びた。”という裏表紙のとおりで、実に興味深く読んだ。特に「患者はもう、どんな人間にもなれない。だれそれは何々、という具合に、かつてはみんなは何かであったのだ。・・・それが病院に入れられたとたん、患者という別次元の人間になってしまう。そこではもう以前の職業も人柄も好みも、一切合財が問われない。骸骨と同じだ」という部分には思い当たる節があり、ちょっと胸が苦しくなった。

 さて、最近なぜこんなに精神的に穏やかになったのだろう、と思う。つらつら考えてみると、多分いろいろなことにあまり期待しなくなった、ということが大きいように思う。

 自分が好きにやっていることに関して、相手に見返り(というか相手からの良い反応)を期待するようなことがなくなった。逆に、何も期待しないまま自分がしたことを思いのほか喜んでもらったり、御礼を言われたりすると、とても嬉しい。発想の転換だな、とつくづく思う。

 決して投げているわけでも斜に構えているわけでもないつもりだ。もちろん、一生懸命やったことが報われれば当然嬉しい。けれど結果が出なくても自分で決めてやったことなのだから、やってあげる、のではなくて勝手にやったこと。結果がついてこなくてもそれは致し方ないこと、そう思えれば肩の力は面白いほど抜けてとても楽になる。こんなに一生懸命やっている(言っている)のにどうしてわかってもらえないのだろう・・・、私だったらこうするのに、と思ってみても、相手は所詮自分とは違う人格なのだから、それは無理な話。相手に対して求めすぎ、ということなのだろう。

 こんなこと賢明な方たちはとっくにわかっておられて実践済みなのだろうし、半世紀近く生きてきて今更「目から鱗」のようにわかって喜んでいるようではもう遅いのかもしれないけれど。それでも気づいたこと、そのおかげで楽になったことは、とてもありがたいことだ、とつくづく思う。

 今や、日々仕事に行って普通に毎日が過ごせるだけで感謝、感謝の日々。捨てるものも失うものも殆どないので、嫌な役回りをするのも平気になった。出世したいとか、という思いがあればぐっとこらえて言わずに飲み込まざるを得ないことも多々あるのだろうが。

 そんなわけで職場でも日々自分らしく以前なら飲み込んで言えなかったことも素直に言葉にして、のびのびと過ごさせて頂いている。
 これってもはやすっかりオバサン化(!)している、ってことかもしれないけれど。

コメント
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