ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2010.3.30 ハーセプチン87回目

2010-03-30 20:21:49 | 治療日記
 今朝は最寄り駅での電車の遅れで次の電車にも乗り遅れ、病院到着がいつもより10分遅くなった。
 それでも殆ど待つことなく診察室へ呼ばれた。あわてて入ると、先生から「急いで走って息が切れないですか。」と質問されてしまった。先週そんなことを訴えたからだった。「はい、大丈夫です。ここのところとても寒いのでこわばりが気になります。今までは傷跡付近の痛みがあったのですが、今は骨なのかどうか右辺りが傷みます。」と言ったところ、「病気のために痛いのか、ホルモン剤での関節痛かわからないですねえ。」というお答えだった。
 次回は4月。先生の火曜日診察がなくなるため、次回からは水曜日だ。月初めなので採血も予約して頂いた。

 すんなり処置室に移動して、いつもの指定席を確保。今日は血圧が最初は上が80台だったので、もう一度、ということで計ったけれど、やはり90台そこそこだった。そのため、点滴中に3度目の測定をし、ようやく100に届いた。念のため点滴後もと、あわせて4回測定したが最終回もやはり90そこそこで、体温も36度とやや低めだった。針刺はあいかわらず、顔をしかめてしまうが、点滴はスムースに終了した。

 今日は合計5冊読めた。
 1冊目は渡辺淳一さんの「鈍感力」(集英社文庫)。単行本でも読んだけれど、文庫になったので購入した。「まさしく今、したたかな鈍感力なくして生きていくのは難しい」ということで実に納得である。ことに「だいたい、年齢をとっても元気な人は、ほとんど人の話はききません。」というくだりには、身の周りに思い当たる高齢者が多くいて、ニヤリとした。
 2冊目は大橋歩さんの「おしゃれのレッスン」(集英社文庫)。四半世紀近く前に出たものだけれど、カラーイラスト満載で今でも充分楽しめた。「おしゃれは自分が気分良くありたいから努力すること。周りからも素敵と思われることは気分が良いに違いない。」これも実にそうだ。春だ。おしゃれの季節だ、と思い、おしゃれが好きな私もうきうきした。
 3冊目は昨年がんで亡くなった筑紫哲也さんの「スローライフ ―緩急自在のすすめ」(岩波新書)。道草をしなくなった子どもたちの話題から「こんなに、目に光がない子どもたちが多い国は世界のどこにもいない。」というくだりや「学ぶということは自発性による」という生涯学習論など興味深く読んだ。本当に学生時代までは哀しいかな、何らかの義務感から勉強していたけれど、社会人になってオープンカレッジ等に通ったことを思い出すと実に“自発性”こそなのだな、と改めて思う。
 4冊目は辰濃和男さんの「ぼんやりの時間」(岩波文庫)。「ぼんやりと過ごす時間は、貴い!頭をカラッポにして、心を解放させるひとときのすすめ」という帯に惹かれて手に取った。息子を見ていると一日ぼーっとしている。思春期は確かに眠いものだったし、いらいらせかせかしていてもろくなことはない、とわかっているのだが、貧乏性な私としては気になって仕方がない。それでもアン・モロウ・リンドバーグの「海からの贈り物」を例に出して「女性はある時期、ひとりで過ごすべきだと思う。」とのくだりには、実際入院中に彼女の本を読んだことを思い出し、力強く頷いた。また、著者がちょうど私が学生時代に「天声人語」を書いていらした記者だったことが奥付からわかり、とても懐かしかった。今では野球好きの息子と夫のために別紙を取っているので。
 5冊目は楠木ぽとすさんの「産んではいけない!」 (新潮文庫)。今年100冊目にあたる本だ。どうも「少子化」にかかわる本音論かな、と思うと手に取ってしまう。10年近く前に出て文庫化されてからも5年経っているけれど、やはり変わっていないところは変わっていないのだなあ、とつくづく思う。

 先日、齋藤孝さんの「ムカツクからだ」(新潮文庫)を読んだ。それにしてもよくここまで「ムカツク」という言葉について小学生から大学生まで自由記述で詳細なアンケートをとり、ここまで分析できたものだと感心した。

 息子が小学生の頃、何かあるとすぐ「ムカツク」とか「キモイ」とか「ウザイ」とか言う時期があった。そのたびに「どういうこと?その言葉はとても感じ悪いから使うのはやめて。私はその言葉が大嫌い。」と何度もしつこく言った。そう言い続けたのは間違っていなかったと思う。最近あまり言わなくなってきたようだ。

 もちろん思春期は誰しも通り過ぎてきた道だ。不機嫌だし不安定だし、いらいらしているのは確かに分かるのだけれど。「ムカツク」一言ではすまなかったように思う。

 最近どうも違和感のある言葉が多い。(えっ、この人までこんな言葉を使うの?)という言葉もある。もちろん私がいつもきちんとした言葉遣いをしているとはとても言えないし、80年代に女子大生をやっていたので、「えー、うっそー、ほんとー」等という3種の言葉も使っていたのだから恥ずかしいのだけれど、それでも日本語がずいぶん変わったなあ、と思う。

 「~じゃないですか」等と語尾を上げるのもそうだし、「○○の方(ほう)」といちいち「ほう」がつくのも、聞いていてどうもムズムズしてくる。仕事をしていて「さくさく」とか「ざっくり」とかいう言葉を聞くと、(えっ、そういう使い方だったの?)と思ってしまう。ビスケットを食べる時などの擬音語や食感ではなくて、はたまた何かを切る音ではなくて「すいすい」とか「おおまかに」、という意味で使っているのだろうけれど、私はなんだかあまり好きにはなれない。

 「素足(すあし)」という言葉もすっかり聞かなくなった。(「ナマアシ」って一体何・・・?)と思う。なんだかとてもしなびかかった大根を思ってしまう私はひねくれているのだろうか。

 こんなことを言い出すのはつまりは歳をとった、ということなのかもしれない。もちろん言葉は生き物だからある程度は仕方ないものなのだろうけれど、どうも好きになれない言葉が増えてきたように感じる。

 今年度も残すところ明日一日となった。ここ10年以上、年度末・年度初めは忙しいか体調が悪くて入院しているか通院しているか自宅療養しているかだったので、こんなふうにゆったりとした気持ちでいるのはとても久しぶりだ。
 
 5月半ばまで年休で通院を粘れば、また病気休暇が取得できるようになる。それまでなんとかこのままのペースでもって行きたいと思う。

 スキーに行っていた息子も無事帰宅した。残念ながらバッジテストは本番失敗して級アップは叶わなかったようだ。半分残った春休みは少し課題でも自主的にやって頂きたいものだ。
コメント
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