ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2010.3.25 「長男の嫁」と「お墓」のこと

2010-03-25 21:42:01 | 日記
 お彼岸の連休中に久しぶりに義母が泊まりに来た。
 昨日が息子の学校の修了式だったのだが、すさまじくダウンした成績票の受取を、なけなしの休暇をはたいて保護者会に出席した母に任せ、彼は義母を送りかたがた義妹宅に泊まりに行っている。

 義母は来年には90歳に手が届くとは思えないほどの健康自慢。お産のときも自宅だったので、もちろん入院の経験もないそうだ。毎年夏は猛暑の義妹宅を避けて、これまた80才を超える妹たち(皆、未亡人である。女性長寿の家系のようだ。義母の母は95歳の大往生だった。)が住む北海道各地を1人で3ヶ月ほど転々と泊まり歩くほどだ。
 70歳を過ぎるまで現役で化粧品の営業をやっていたので、専業主婦だった母とはまったくタイプが異なる働き者で、じっとしていられない手八丁口八丁の女性だ。
 今では私は残念ながらとても定年まで勤め上げられそうにないので、その年まで健康で働くことが出来た義母には敬意を表している。

 病弱だったという義父は、夫と結婚する前に既に亡くなっていたので、義母は長い間一人暮らしだったが、さすがに10年ほど前に庄内の家を引き払って隣の県に住む義妹の家で同居を始めた。
 本当は長男(夫)の住む我が家で、唯一の姓を継ぐ男の孫(息子)と同居することが希望だったのだろうけれど、団地住まいでそれも叶わなかったので、義妹宅で義母の部屋の増築をお願いし、仏壇だけはこちらでお預かりしている。

 息子がまだ小さかった頃は、毎年、年度末年度始めの仕事の繁忙期で毎晩残業を余儀なくされていたし、夫も当然のように毎晩遅かった。実家の母は、一人では何も出来ない父を置いて、私の家に泊り込みで助っ人に来るわけにいかなかったので、やむなく義母に泊り込み体制で随分助けて頂いた。
 今でも保育園のお迎えの話になると、母である私より祖母である義母の方が有名人だった(みんなから「○○ばあちゃん、○○ばあちゃん」と呼ばれていた。)という話になる。卒園式の写真にも真ん中でにっこり写っている。
 保育園を卒園し、学童クラブに通い始めると、息子もある程度のお留守番が出来るようになったし、習い事で忙しくなり、私も夫もそれなりに仕事時間の調整が出来るようになった。
 中学受験のために塾通いが始まってから、ことに6年生にもなれば親より毎日帰りが遅いくらいだったので、義母はお手伝いにやって来るというよりも、息子と孫に会いに来るという感じで、私が病気になるまでは春と秋に1ヶ月程度逗留するのが常になっていた。
 さすがに息子も中学生になり、ひとりで留守番も出来るし、カップラーメンも作れるし、冷凍食品をチンしてお腹を満たすことも出来る。(かえって口うるさい親はいない方がいいのだろう。)

 それでも5年前の初発時に18日間入院したときは、夫一人が家事と私の見舞いと雑事もろもろ全て引き受けるというのはとても無理だったので、その間だけ泊り込みで家事をお願いした。その2年後、卵巣のう腫で10日間入院したときもその間だけ来て頂いた。

 今回は再発以来初めての来訪だった。
 前々から「また泊まりに行きたいんだけど・・・」とリクエストはあったのだが、再発以降は治療も毎週になり、疲れやすくなっていた。特に一昨年秋以降の抗がん剤治療中、その後しばらくは副作用で体調が悪かったし、容貌上(前にも書いたように「ハゲ・デブ・ブスの三重苦」)誰にも会いたくなかったので、あまり心配をかけないようにしつつも義妹には治療の様子を夫から伝えてもらって、とてもお招きして接待できる状況ではない、と申し訳ないけれどなんとかかんとか引き伸ばしてきた。
 さすがに「ずっと仏壇を拝んでいないので夢に故人が出てくるようになった。」と言われ、「短期だったら・・・」とで2年前の再発以来どなたも招き入れずにいた我が家の初めてのお客様となった。

 今回は昨年末に完成したお墓をお披露目した。
 当然代々のお墓は菩提寺のある(映画「おくりびと」で有名になった)庄内に残してあるし、義父まではそこに“いる”ので、義母から「私もここに入れてね。」と言われたときは、驚いた。義妹からも「兄貴のところなら車で行けるからそれがいい。」と言われてきたそうだ。

 そもそも東京生まれで東京育ちの私が、全く暮らしたことのない庄内の墓に入るのはあまり現実味がないし、そんなに遠くては夫や息子もとてもお参りには来てくれないだろうし、全く知らない夫のご先祖様たちの中に一人で“いる”のはちょっと考えられなかったので、今回墓地を購入したのだ。

 いつからボタンを掛け違えたのか、(義母と一緒のお墓に入りたくない。)と思っている嫌な自分がいる。
 本当は夫宛の遺書だけにこっそり書いておこうかと思っていたのだが、先般きちんと言葉にして言ってしまった。
 もちろん夫を産んでくれた大事な人だし、とてもお世話になったことも事実だし、ずっと苦労して働いてきたことに対して敬意を表してもいる。
 頭ではよく分かっているけれど、どうしても気持ちの上で“ダメ”なのである。

 「私は健康だから病気の人の気持ちはわからないのよねえ。」と言われて「本当にそうなのだろうな・・・」と思う。私に対する素朴な疑問やいろいろな言葉に悪気が全然ないのもわかっている。だからこそ言葉一つ一つがフラッシュバックされて辛いのだ。意地悪されていることが明白なら対応の仕方もあるのに・・・。
 それでも悪気がなければ、自分が知らないことならば、相手に対して何を言ってもいいのか、と問うてみれば、私はやはり”違う”と思う。私は当然のことながら、聖人君子でもない。哀しいかな、実に了見の狭い人間なのだ。

 夫には悪いけれど、お墓の件は近いうちにきちんと説明してもらうことを約束してもらった。
 「もしどうしてもこちらがいいということであれば、同じ公園墓地の中にもうひとつ別に墓地を購入することも考えるよ。同じお墓には入らないのはちゃんとわかっている。」と夫が言ってくれた。
 本当につくづくダメな「長男の嫁」である。

 それでも再発治療8年目であけぼの会事務局の重責を担っているTさんが治療日記で書いておられるように、「「やりたいことはやる」「いやなことはしない」の精神で自分らしく生きていきたい。」という生き方に力をもらっている。もちろん人として社会生活をしていく上で、全てのしがらみから解放されるのは難しいことだろうけれど、そのくらいに思っていないとなかなか辛いことが多い。
 私は病気になるまで、“ええかっこしい”だったし、人からどう思われるか、ということがとても気になる方だった。本当はいやなことでもいやと言えずに無理してやってしまう、というある意味優等生だったけれど、それで病気を悪化させることになったのでは、たまらない。

 これからは少しわがままでも自分の気持ちに素直に生きていきたい、と思ってのことである。


コメント
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