ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2010.3.20  かつらのお手入れとちょっぴりカット

2010-03-20 18:36:01 | かつら
 今日も汗ばむほど暖かい一日になった。もうそろそろ桜が花開きそうだ。

 早くも前回のお手入れの日から2ヶ月が経ち、またサロンに出かけた。脱毛してから少なくとも1年くらいはかつらが必須、とは言われていたけれど、タキソテール投与が終了して早1年。その後、髪の毛が生え始めてから10ヶ月近く経つけれど、まだ相変わらず前髪の伸びが悪く、かつらを外せる状態ではない。
 今日もシャンプーとトリートメントをしてもらって、かつらはまた綺麗に生き返ったけれど、私が切ってもらえたのはサイドを少しだけ。耳にかけられないほど短くしてしまうとかつらを被るときに不便だし、あまり長いとはみ出してしまう。「中にはゴムで前髪を引っ張って(少しでも早く伸びてくるように)刺激している人もいますよ。ブローをして刺激をした方が少しは伸びがよくなるかも。」というお話を聴き、(皆さん苦労しているんだ・・・)と改めて思った。
 自分では殆ど変わりがないように思うのだが、担当の方からは「確かに前髪の伸びは遅いけれど、前回より伸びていると思うし、量はあるから次々回(7月)にははずせると思う。」という言葉を頂き、(せっかく伸びてようやく自毛デビューといったところで、また脱毛を伴う治療になったらどうしよう・・・)などという縁起の悪いことは考えないことにしてサロンを後にした。

 今日はその後サロンの最寄の駅ビル百貨店で「子ども靴・子ども服下取りキャンペーン」を開催していたので、殆ど1,2回しか着ていないのに小さくなってしまった息子のTシャツを数枚持ち込んだ。

 開発途上国の妊産婦と女性を救う国際協力NGOジョイセフを通じ、ザンビア共和国への寄贈やリサイクル活動に役立たせていく、ということだそうだ。かわいらしい感謝状とホワイトリボン募金のドリームリボンストラップを頂いた。乳がんの“ピンクリボン”ならぬ“Safe Motherhood”と書かれた“ホワイトリボン”だ。靴さえ履いていないザンビアの子どもたちに届けられる、という。息子が殆ど着なかったTシャツがブロンズ色の肌の子どもに着て貰える、と思うと照れくさいようなちょっと不思議な気分になった。

 春はやはり旅立ちの季節。
 昨日は職場である大学の学位記授与式があった。午前中は1箇所で全体の式典を行い、午後からは各キャンパスで各々の学部・大学院主催で再度の式典があった。

 私が今担当しているのは福祉医療方面に進む資格を得られる学部の大学院だ。来賓には先日読んで勇気をもらった「がんを生きる」の著者である佐々木常雄先生が臨席されていた。ノー原稿ではなむけの言葉をお話された。ひとつは福祉医療の現場に出たときの理想と現実、もう1つは患者さんの幸せが自らの幸せになる、ということを忘れないで、と。

 もしかすると今後お世話になる学生さんがいるかもしれないと思うと、職員であると同時に患者の1人としてもエールを送りたくなった。


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2010.3.18 合唱コンクール

2010-03-18 19:00:58 | 日記
 今日は息子の学校の合唱コンクールがあったので、残り少ない休暇から午後半休をとって見に行ってきた。毎年最寄り駅から2つ先の駅にある大きなホールを貸切で行われる。この行事が終われば中2も幕引き。いよいよ中学最終学年3年生進級までカウントダウンだ。

 去年は副作用のため自宅で寝ていたので、夫に行ってビデオを撮ってきてもらった。その後DVDにもなって、繰り返し見ることができた。去年は、来年こそ体調がよければ、そして何より抽選で当たれば(父兄席が限られており希望者申し込み・抽選制なのである。)見に行きたい、と思っていた。
 今回は希望者は全員行けることになったようだ。息子に「今度は行くからね。」と言うと「別に来ても来なくてもどっちでもいいけれど、多分がっかりするよ。」という返事だった。
 今、まさに声変わりの真っ只中で声が実に不安定なので、さぞや歌いにくいだろうと思う。また、“中2病”が蔓延しているのか、なんだかいかにもやる気なさげ・・・で練習のいい加減な様子を漏れ聞いていて、なんだかなあ、という感じだった。
 合唱の出来栄えはさておき、各クラスによくちゃんと伴奏を弾ける子が揃っているなと感心した。息子も小1から小6のはじめまでピアノを習っていた。自宅の1つ下の階にピアノ教室を開いている先生がいらしたので、恵まれた5年間だった。男の子の生徒が多く、先生も男の子あしらいが上手で、発表会でもいろいろな曲を楽しませて頂いた。中学受験で中断せざるをえず、「終わったらまた戻ってきます。」と約束していたのに早2年。全く触らなくなってしまった。(たまに触るのは駅の発車ベルのメロディだけ、という体たらくである。)しごく残念なことである。
 また、女声合唱(息子の学校は男女別学で、普段は校舎も全く別で女の子とすれ違うこともないような男子校だが、こういう行事だけは一緒に開催する。)はさすがに精神年齢の違いを見せ、同じ学年とは思えないほど全く違う出来栄えだった。

 私自身は高校時代に合唱祭を3回経験した。
 もちろん私は混声合唱だったけれど、8クラスのうち男子クラスが3クラスあって、その3クラスの男声合唱の格好よさと迫力が羨ましくて羨ましくて仕方なかった。5月末の開催だったと記憶しているけれど、毎年のクラス替えの後、クラス団結にはそれこそうってつけのイベントだった。
 課題曲と自由曲があり、初めて参加する1年生は上級生たちの演奏と歌う姿に驚くとともに感動する。そこで「ああ、○高生になった。」と思いを新たにするのだと思う。
 母校は平成になって全面改築となり、今では懐かしく甘酸っぱい思い出がたくさんの校舎は写真の中だけになってしまったが、廊下や踊り場で練習したのも大切な思い出のひとつ。今でも目をつぶると鮮やかに蘇ってくる。

 息子たちのクラスの歌は予想通り実際にはまだまだ“合唱”というレベルには達していなかったし、ハモったところもあまりなかった。息子は男声合唱の素晴らしさを分かっているとはとても思えないけれど、“ただ大きな声で元気よく歌う”というお子ちゃまレベルから、まずは自分のパートをきちんと歌いつつ他のパートに耳を澄ませることから始めて、ハモったときの体にびりびりっとくる感じ、ハーモニーの中に身を委ねることの喜び、そんなことを少しでも体験してもらえれば、一緒に話す話題も厚みを増すのになあ、とちょっと寂しく思う。

 そして、そんな日がやって来ることを気長に楽しみに待ちたい、と思いながら帰宅した。

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2010.3.16 ハーセプチン85回目、ゾメタ33回目

2010-03-16 20:51:26 | 治療日記
 今日はうす曇だったけれど、とても暖かかった。
 内科受付の後、ほどなくして診察室へ入った。先週も特にこわばり、痛みとも気になるほどではなかった旨ご報告。先週撮ったレントゲンの結果を見せて頂いた。昨年8月と比べると左肺の二箇所は細い線状の影が太くなっていること、右肺には何もなかった所に良く見ると影がある、ということだった。このまま1ヶ月ごとにフォローして行きましょう、ということで処置室へ移動。

 まだ時間が早かったので窓際の点滴椅子はほとんど空いていた。今日はゾメタもあるので点滴は4本だったけれど、針刺も早く、薬が届いたのもわりと早めで順調に進んだ。
 隣に私より一回り年上で(点滴薬到着時に名前と年齢の確認をするので漏れ聞こえた。)手術が済み、抗がん剤が半年前に済み、11月からハーセプチンを開始、今は5年間飲まなければいけない薬がとても辛い、と看護師さんに訴えている患者さんが(各々の点滴椅子毎にパーティションがあるので、顔は見えないが)いた。確かに私も5年前、ノルバデックスの副作用に驚き、先が見えず気持ちが暗かったことを思い出した。看護師さんに「漏れ聞こえたのですが・・・」と言ったところ、「ああ、(私が)聞いておられるだろうな、と思いました。」とのことだった。考えてみれば当時辛いと思っていた5年間の服薬だけで卒業できていれば、今の治療はなかったわけだし、転院もしていなかっただろうし・・・、ないものねだりだなあ、と複雑な気持ちになった。

 今日は3冊読めた。1冊目は見尾三保子さんの「お母さんは勉強を教えないで」(新潮文庫)。さすがに息子もまもなく中3で、進度もそれなりに速いようなので、今はいちいち細かく勉強を教える状態ではないけれど、耳の痛い話が沢山だった。そう、確かに「勉強が面白い」と思える気持ちは「理解できたときの感動」だ。ただやり方を覚えるだけでは何にもならないのだから。そして改めて“子どもを信じて待つ”ことの大切さを思う。
 2冊目は銀色夏生さんの「夕方らせん」(新潮文庫)。16の短編集からなる作者初めての物語集。いかにも作者らしい雰囲気で、なんともいえない不思議な世界に引き込まれた。
 3冊目は赤川次郎さん等7人の連作集「七つの危険な真実」(新潮文庫)。「当代ミステリ作家の名手七人の文庫オリジナル・アンソロジー」と裏表紙にあるとおり、どれも甲乙つけがたかったが、乃南アサさんの「福の神」、宮部みゆきさんの「返事はいらない」、連城三紀彦さんの「過去からの声」が特に楽しめた。

 さて、私の好きなものーMy Favorite Thing―。嗜好品でいえばお酒も飲まないし、煙草も吸わないので、唯一のものといえば、紅茶である。

 珈琲はもともとあまり飲まない。それでも夏の間、氷をかきまぜる涼しげな音が好きで、ホットコーヒーは飲まないのにアイスコーヒーはよく飲んでいた。ただ、ブラックで格好良くとはいかず、ほとんど珈琲牛乳か?と笑われるほどミルクたっぷりのお子ちゃまテイストで。最近では体を冷やすのと乳製品を極力摂らないようにしているのとで、すっかり温かい飲み物ばかりになってしまった。

 今では紅茶も本当にいろいろな種類があるけれど、昔はフレーバーティーといえばせいぜいアールグレイかアップルティくらいだった。
今、お気に入りなのはある紅茶専門店のもの。最近では駅ビルやデパートに沢山のショップを展開するようになってはいるけれど、ネットでいくらでも好きな形のオリジナルギフトにアレンジしてもらえる。季節限定のフレーバーのもの、ネーミングに気持ちをこめたもの等をちょっとしたお礼や、贈り物にもよく利用している。世界各国のお茶だけでなくお菓子や食器まで本当にヴァリエーション豊かである。

 このお店に行き着く前には輸入物に凝ったこともあり、わざわざ都心まで(果てはイギリスやフランスまで)買出しに行くこともあったけれど、今ではすっかりネットショッピングの便利さの恩恵を被っている。

 このお店もフランスのマリアージュ・フレールを模して一時は顧客名簿が流れているのでは、という噂も立つほど上手なビジネスをしていた。私もそれで捕まったうちの一人だ。かつて購入していたものと似た香りのものがあるのにびっくりした。

 5年前の初発の病気休暇の後、職場復帰するにあたりお見舞いを頂いた方たちへの快気内祝いに使ったところ、とても評判が良かったので、すっかりこのお店びいきになってしまった。かなりマメにラッピング等が変わり、春夏秋冬に加えて母の日、父の日、クリスマス、お正月、受験、バレンタインデー、ホワイトデー等々、四季折々にうまい具合に限定フレーバーが登場する。メッセージカードや缶のラベルに日にちや名前、コメントを入れられたりするサービス等もかゆいところに手が届く感じで嬉しい。

 今の時期といえば「桜」の香りがほんのりついた紅茶、緑茶、焙じ茶まである。義母は緑茶好きだし、両親も私が家にいた頃は私の紅茶好きにつきあってくれていたけれど、2人だけになったら、どちらかといえば紅茶より緑茶が良い様子なので、最近では緑茶を贈ることにしている。

 子育て中は本当に日夜ドタバタして、自分のためにゆっくりお茶を淹れる、という行為から遠ざかっていたけれど、そういう時間は日々心穏やかに過ごしていくためにやはりとても大切なことだと思う。
 マグカップでがーっと飲むのではなく、ちゃんとティーポットで、カップも暖めて・・・と出来たら、なお良い。

 私の世代ではみんな公私ともども多忙だから、少しでもそんな大切な時間を過ごしてほしい、と思った人に、ささやかな気持ちをこめて贈っている。

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2010.3.13 生涯現役

2010-03-13 22:16:42 | 日記
 今日は伯父の三回忌の法要があった。とても暖かい春の日で、バスと電車とこれまたバスを乗り継いで到着した霊園の白梅紅梅がそれは綺麗なピンクのグラデーションを描いており、青空に映えてとても美しかった。

 昨年の一周忌は、タキソテールの副作用で浮腫みが酷く、あまり長時間歩けなかったし、容貌が気になって気持ちの余裕もなく、私は欠席して夫に出席してもらった。息子は春のスキー教室に行っていたため、連れて行けなかった。
 その伯父の連れ合いである伯母は母と同い年。去年1月から、パーキンソン病と認知症が進行して自宅での介護が難しくなり、今では墓地に近い有料老人ホームに入っているという。

 今年こそ3人で出席できれば良かったのに、息子の学年末試験が終わったと同時に、一昨日夜から夫と息子は「上野~金沢最後の寝台特急 さよなら!ブルートレイン『北陸号』雪吊り兼六園と世界遺産・白川郷 加賀料理や旬の寒ブリも堪能!3日間」という旅行中だ。

 伯父が急逝したのは一昨年の4月2日、ちょうど桜が咲き始めた頃だった。
伯父は母の兄で、私の父と同い年。半世紀以上杉並で歯科医院を開いていた。私も子どもの頃から就職して間もない頃まで面倒をみてもらっていた。「90歳までは生きたいな。あと5年は歯医者も続けていく。3日に通院するときにお花見ができる。」と亡くなる前日に、私の従姉(伯父の娘)に言っていた矢先のことだったようだ。
 亡くなった日も私の母の姉(伯母)の治療をして、片付けのため自宅の階段を上ったところ、そこで倒れたそうだ。下宿している大学生の孫(従姉の息子)が気づいてすぐに病院に搬送したけれど、すでに心肺停止状態で、蘇生措置の効果なく急性心筋梗塞により死亡が確認されたという。

 文字通り“生涯現役”の一生だった。
 従姉弟たちはあまりにも突然の伯父の死による廃業届やなんやかんやで、それは大変だったと話を聞いた。
 また、定年とともにすっかり社会との関係を断ち切ってしまったような同い年の父にとって、自分よりずっと元気に現役で働き続けていた伯父の急逝は相当ショックだったようで、母いわく“なんだか長いことしょぼくれていた”そうだ。

 当時、私は再発治療が始まったばかりで、息子の卒業・入学やら、自分の職場の異動も重なって精神的にも肉体的にも余裕がなかった。母が気を利かして、伯父の急逝が私には伏せられており、「実は・・・」と聞かされたのは初七日も終わり、もろもろのことが一段落してからだった。
 その後5月の連休に納骨式があり、夫と2人で出席した。この時息子は部活の新入生歓迎旅行で欠席だった。

 あっという間に代替わりして、娘、息子の役割だけを演じていればよかった私たちの代が40代、50代を迎え、こうした冠婚葬祭を仕切ることになった。夏休みやお正月に従姉妹たちと遊んでいたのが実に遠い昔になってしまった。
 伯父伯母とも息子が誕生してお祝いして頂いた後は、年賀状のやりとりだけで、殆どご無沙汰になっていた。
 両親を含め親戚と再会したのも前回の納骨式以来、実に2年近く経っている。
 父母とも末っ子なので、今や伯父伯母を見回しても夫婦そろって健在なのは我が家と父方の伯父伯母一組だけだ。こうして親の老いと思春期の息子の子育てを同時並行で経験していくにつけ、今、私ができる娘としての唯一の親孝行はやはり両親より1日も長く生きることだ、と心に刻んだ。

 法事後の会食は、奇しくも30年も前に母方の祖母の喜寿の祝いをした場所だった。6,500坪もあるという敷地に点々と50近くの庵。水車を前に照れくさそうに微笑んでいた祖母の写真が、ずっと実家に飾ってあったのでなんとなく覚えていたのだが、やはり随分進化して、かつては野趣溢れる感じだったものがより洗練されていて、不思議な気分になった。
 奥には水芭蕉庭園があり、まだ先日の雪が残る中、満開の水芭蕉を散策しつつ心豊かに帰宅した。
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2010.3.10 確定申告無事終了

2010-03-10 19:47:48 | 日記
 3月15日までが確定申告の期限。昨日も通院休暇を取り休みが残り少ない私は、休暇は大いに余っている(?!)ものの今日の午前中しか行けない、という夫に今年もお願いしてしまった。
 無事に終了し、納めるべきものは納めた旨(バスで税務署の最寄り駅の途中まで行ってから昨日私が渡した納付金を自宅に忘れたことに気づき、雪道を戻ったというのだから、さすが忘れ物大王(!)の息子の父である。ついでに滑りそうになったとかで、帰宅してから腰が痛いとしかめっ面の大騒ぎ。)の連絡があり、ほっとした。

 5年前の発病以降、覚悟はしていたけれど半端でない医療費がかかるので、真面目に資料を整理し、医療費控除の申告をすることにした。昨年は休職の関係で所得もかなりダウンしたし、タキソテールの上乗せなどもあり、それなりの医療費がかかっていたので、戻りは前回より大分多くなった。昨年は相殺されて結果差し引きゼロになってしまった夫の納税分を差し引いても、である。ありがたいことである。

 それにしても1家族でもあの膨大な領収書類、毎年ちょっとずつ様式が変わるし1年に1度のことなので記憶を呼び戻しながら入力するだけで時間がかかる。今はパソコンで言われたとおりに入力していけば、あっという間に計算までしてくれるから良いけれど、かつては手書きでやっていたのだから、一体いかばかりの苦労があったものやら、と申告後の事務担当者の作業をちょっと想像するだけで、実にクラクラする。

 それでもとにかくこの作業が終われば今年度も残すところ半月。なんとかかんとか年度末まで働けたことに感謝の日々である。
 大学では先日の前期試験の合格発表があった。もうすぐ、名実ともに春である。

 さて、先日「ハート・ロッカー(The Hurt Locker)」という映画を観た。女性の監督の作品で今年度のアカデミー賞を総なめにしたという。内容はイラク戦争の爆発物処理班の話なので、全編を通じて実に重たい内容だったけれど、やはり最初の「戦争は麻薬である」というメッセージがラストにぐっと意味を帯びてくることには考えさせられた。
 もちろん不発弾の処理は誰かがやらなければいけないのだけれど、そもそもそれを必要とさせる行為=戦争=の必然性こそ問われなければならないのではないか。いったい誰が息子や娘を戦場に送り出したいというのか。親になってから本当に痛感するようになった。

 戦争はやはり絶対に無為である、と強く思う。

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