kikoがスタート

2005年8月にスタートしました。
私が観た(見た)、感じた、覚書き、気になることを書いてます。(^^ゞ

宮島・厳島神社の裏門に縁起のよい「尻上がりの狛犬」

2018年11月29日 | 広島の旅

JR宮島フェリーに乗って宮島へ


大鳥居が見えてきました。


私たちが乗ってきた「みせん丸」


平和記念公園で会った奈良の子供たちも
宮島に行くと言っていたので
この宮島のどこかにいるのでしょうね。


厳島神社を横目にして


五重塔を通り過ぎ、
宮島ロープウェイ乗り場「紅葉谷駅」に向かっています。


厳島神社の裏門に「尻上がりの狛犬」があります。


友人が声を掛けてくれなければ見過ごしてしまいそうでした。


お尻があがっていることから「尻上がりで縁起が良い」と言われています。


ロープウェイは「紅葉谷駅」から、獅子岩駅に向かっています。
まだ紅葉には早いですが、弥山の原生林や瀬戸内海を望む。
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広電(路面電車)に乗って「鳥の巣」と呼ばれた信号所→宮島口へ

2018年11月28日 | 広島の旅

一泊お世話になったホテルのロビーです。

友人が探してくれたホテルは「朝食付きで4200円。」
安いので驚きましたが、部屋はきれいで快適でした。


ホテルの外観です。
このホテルの玄関から右に行くと(写真左側)が「白神社」です。


広電の路線図


広電のお洒落な路面電車です。


私たちは、この電車に乗って「本通」から「宮島口」に向かいます。


少し行くと、十日市町(とうかいちまち)交差点の南西角には電車のポイントを
切り替えるための信号所があり、その形から「鳥の巣」と呼ばれていました。

かつてはこの信号所内で手動によりポイント切り替えが行われていたが
1955年(昭和30年)5月より切り替えは自動化されているそうです。


自動化されたあとも信号所は残されていました。
今は内部に自動進路制御装置(ARC)が備え付けられています。

この場所は、広島の中心地から数100mしか離れていない
原爆ドーム前→本川町→十日市町(電停2つ目)です。
(撮れなかったので、友人に提供してもらった写真です。)


宮島口へ行くのには「西広島」で乗り換えるのですが
降りる時に「電車乗換券」を貰って、その券で乗り換えることが出来ました。
(広島をよく知る友人が一緒なので利用できましたが、分かりませんよね。)


海が見えてくると「宮島ボートレース場」がありました。

🔴レースの特徴
干潮時は防波堤が防風壁になり走りやすい。満潮時は水面がうねる。
🔴水面特性
最大で4mを超える潮位差があり、午前と午後から風向きがかわる。


宮島口のホームにて、広電西広島から乗ってきた電車です。(追加写真)


広電宮島口に着きました。
宮島の「厳島神社と弥山(みせん)」が、もう目の前です!
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広島平和記念資料館「原爆投下前と投下後」

2018年11月25日 | 広島の旅

広島平和記念資料館は、被爆者の遺品や被爆の惨状を示す写真や資料を収集・展示されている他に、広島の被爆前後の歩みや核時代の状況などについて紹介していました。


原爆が投下される前のドームです。


ここからは原爆が投下された時の写真です。






投下後の写真です。


投下直後の原爆ドーム


オバマ大統領の広島訪問と折り鶴


外国から来られた人、若者や子供たちが真剣な眼差しで見ていました。
核戦争の悲惨な影響について知ることから平和に繋げたいですね。

米国で原爆写真集出版へ テキサス大学傘下の博物館の記事がありました。
原爆投下正当化論が根強い米国で、博物館が原爆被害の写真集を出版して
「歴史的、客観的視点から核戦争の悲惨な影響について米国市民に知って
もらう機会にすることが目的」だと、記事に書かれていました。
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平和記念公園「奈良・郡山の子供たちが地元アピールメッセージ」

2018年11月23日 | 広島の旅
平和記念公園を歩いていると、かわいい小学生の子供たち(3人)から
「奈良にも来てください!」と言って手渡されたのは・・・

🔴1人目のメッセージ

奈良・郡山から来ていた子供たちでした。


鹿で知られる奈良公園・世界遺産の東大寺・大和の金魚に
イチオシのお店まで書いています。(^^♪

🔴2人目のメッセージ

ここにも、近鉄の郡山駅すぐの「ころっけが美味しいハヤシ」

分かるな~学校帰りに買ったコロッケ
私にも忘れられないコロッケがあります。(^^ゞ


家来の中に、金魚の飼育の上手な人が始まりなのですね。
私も金魚すくいが好きで、得意だったことが思い出されます。

🔴3人目のメッセージ

かわいい金魚(折り紙)が添えられたパンフレットです。


この辺が郡山なのですね。


郡山城の歴史


アッ!金魚すくいの教室があるんですね。

見ていると子供たちの地元愛が伝わってきますね。
奈良に行ったら、郡山にも行ってくださいね!
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平和の象徴の地であり、憩いの場所になっている「平和記念公園」

2018年11月22日 | 広島の旅
原爆ドームを後にして・・・

相生橋を渡って行くと


平和記念公園
修学旅行生なのか・・・子供たちの姿が多いです。


平和の鐘
私たちも鐘を撞く子供たちの列に並んで撞いてきました。


平和記念公園から見える「原爆ドーム」


原爆の子の像
原爆で亡くなった人のために作られた慰霊碑です。


2歳で被爆した少女(像のモデル 佐々木禎子さん)が9年後に白血病になり
鶴を折れば回復できると信じて折り続けたそうです。


周囲の千羽鶴が平和を願う象徴となっています。


平和の灯


灯は見えていましたが、写真には撮れていないですね。


原爆死没者慰霊碑


爆死没者慰霊碑から、平和の灯の先に原爆ドームが見えてます。
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原爆の投下訓練を目的に米軍が富山市内に落とした「模擬原爆」

2018年11月21日 | 広島の旅

広島を訪れて、原爆のことをもっと知りたいと思っていると
”原爆の投下訓練を目的に米軍が富山市内に落とした「模擬原爆」”の記事が。

 太平洋戦争末期の昭和20年、原爆の投下訓練を目的に米軍が富山市内に落とした「模擬原爆」を目にした、当時中学2年生だった医師田中悌夫さんがおられます。

 突然、機体が「ピカッ」と光ると「ザァー」という空気を切り裂くような音が鳴り響いた。「伏せろ」。近くにいた大人の叫び声でとっさに付近の壕に飛び込み伏せた。次の瞬間、ごう音とともに地面が震え、顔を上げると富山駅の北側で黒い煙が立ち上っていた。

 この時の爆弾が模擬原爆だった。長さ約3.5メートル、重量約4.5トン。
長崎に投下された原爆とほぼ同じ形状と重量で、通常の爆薬が詰められており色や形からパンプキン爆弾と呼ばれた。


広島、長崎のリハーサルに使われた「もう一つの模擬原爆」があったのです。富山市には、昭和20年に計4発の模擬原爆が投下され、約60人が亡くなり、80人以上が負傷したそうです。

「富山大空襲を語り継ぐ会」の、代表幹事を務める田中さんは
模擬原爆を感じた衝撃や恐怖を次世代に伝えようと活動されています。
模擬原爆があったとは知りませんでした!この記事は、こちらです。
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原爆ドームと、原爆投下の目標点になった「相生橋」

2018年11月15日 | 広島の旅
旧日本銀行広島支店を出て、原爆ドームに向かいました。


広島瓦斯株式会社跡 爆心地から210m

鉄筋コンクリート造り地上3階、地下1階のこの建物は、原爆の一撃により、南側の一部を残して崩壊し、屋内にた35人の職員は全員が死亡しました。すさまじい爆風圧によって、各階の床と天井が1枚になって崩れ落ちました。


元安川東岸のブロンズ像「原爆犠牲ヒロシマの碑」は
原爆の強烈な爆風に吹き飛ばされた犠牲者の姿を表現しています

地元の高校生たちを中心にした、原爆瓦のかけらを元安川から掘り出す体験学習が行われていました。 それをきっかけに、全国の小・中・高校生や一般市民に募金運動が広まって、1982年に建立された碑です。


元安橋の被爆した中柱2基

元安橋は、毛利輝元が広島城下を建設したときに架けられた橋です。
輝元の祖父・毛利元就の子の元康(もとやす)が架け渡したことから
その名が付けられたと伝えられています。

被爆した橋は1926(大正15)年に架けられ、両岸の親柱の上には、しゃれた球形の飾り照明が、その間には照明灯が設けられるなど、当時としてはとてもモダンな造りだったそうです。


元安川オープンカフェ

平和記念公園対岸、元安橋たもと水辺のオープンカフェです。
お洒落なお店が並んでいます。


動員学徒慰霊塔

平和の女神像と8羽のハトを配した高さ12mの有田焼の陶板仕上げで
末広がりの5層の塔の中心柱に慰霊の灯明がついています。

原爆投下当日、広島では大がかりな建物疎開が行われ
その作業に国民学校高等科、中学校、高等女学校の生徒8387人が動員され
うち6295人もの生徒が原爆の犠牲になりました。

原爆ドーム

原爆ドーム

写真などで何度も見たことのある「原爆ドーム」です。


原爆ドームの後ろ(写真右)に「おりづるタワー」が見えます。


現在の原爆ドームは、1915(大正4)年に広島県の物産品の販売促進を図る拠点とすることを目的として建てられたもので、設立当初は「広島県物産陳列館」という名称でした。その後「広島県立商品陳列所」「広島県産業奨励館」と改称されました。


大胆なヨーロッパ風の建物で、県下の物産品の展示・販売を行うほか、博物館・美術館としての役割も担っていました。

しかし、戦争が激しくなった1944(昭和19)年3月には産業奨励館としての業務が廃止され、内務省中国・四国土木出張所や広島県地方材木・日本材木広島支社などの統制会社の事務所として使用されていたそうです。


路面電車側の、原爆ドーム前から見た「原爆ドーム」


世界平和を訴えようと市民が一丸となって働きかけ
1996年に世界遺産への登録が実現しました。

原爆投下の目標点になった「T字の相生橋」

相生橋(あいおいばし)
橋名の由来は、2つの橋が「相合う」ことから。

相生橋は、広島県広島市中心部を流れる本川(旧太田川)と元安川の分岐点に架かる、相生通りと広島電鉄が通る併用橋は、全国的にも珍しいT字型の橋です。


相生橋のT字型という特徴は上空からも非常に目立つことに加え
主要軍事施設近くということから、原爆投下の目標点になりました。

相生橋は、平和記念公園の北の入口にあたる橋です。本川の両岸を東西に結ぶ橋と、その中央から南に伸のびて、平和記念公園のある中島町に渡わたる橋、二つの橋が「T」字型なっています。

すさまじい衝撃波で橋桁は変形し、北側の欄干らんかんは川に落ち歩道の一部が持ち上がりました。被爆後の数日は、燃え盛る炎の熱さで川に飛び込む人、橋の付近と下を流れる本川にも、被爆して亡なくなった人たちの死体が無数に散乱し、地獄のような光景だったと伝えられています。


私たちが歩いた「原爆ドームへのルート」
①爆心地→②袋町小学校→③旧日本銀行広島支店→④元安川オープンカフェ

この後、相生橋を通って「平和記念公園」に向かいました。
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古典様式の堅牢な歴史的建築物「旧日本銀行広島支店と金庫」

2018年11月14日 | 広島の旅
袋町小学校を出てから、旧日本銀行広島支店に向かいました。


旧日本銀行広島支店

爆心地から380mという近距離で被爆しながらも
その堅牢性から建設当時の姿を現在も残しています。


地下へ降りていくと


広島平和記念資料展


収蔵資料展に入っていくと


地下金庫

頑丈な金庫が当時のままで残っています。


金庫の扉


新収集写真が展示されています。


被爆資料「熱と炎のつめ跡」


熱で変形したガラス瓶と、王冠のかたまり


ここにも、広島護国神社の鳥居の写真がありました。


護国神社に行った時は護国神社は狛鯉でしたが・・・
この時は、狛犬だったのですね。


ミニライブ「ひろしま あかりの世界」が行われてた1階の内部

被爆時、1階と2階はよろい戸を閉じていたため内部の大破を免れましたが
3階は開けていたため全焼し、建物にいた20人が死亡されました。


旧日本銀行広島の外観

被爆当日は、食堂などが負傷者の収容所となりました。
そして、翌々日の8日には、早くも銀行の支払い業務が開始され、被災して営業が不可能となった市内金融機関の仮営業所が設置されました。
金融面からも広島の復興を支えた史実を伝える貴重な被爆建物です。

その後、平成4年(1992年)3月に広島支店が中区基町に移転し、旧広島支店は銀行としての役割を終えましたが、平成5年(1993年)6月に「旧日本銀行広島支店」として被爆建物台帳に登録されました。そして平成12年(2000年)7月に広島市の重要有形文化財に指定されています。入場料は無料。
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広島市立袋町(ふくろまち)小学校・平和資料館

2018年11月13日 | 広島の旅

「えこ贔屓」でお昼を済ませた後、商店街を通って向かったのは
袋町にある「広島市立袋町小学校 平和資料館」でした。


爆心地から460mの位置にある袋町小学校は
爆撃によって大きな被害を受けました。


壁面に刻まれたヒロシマの証言

被爆後から被災者の救護所として利用された西校舎内の壁面には
被爆者の消息などを知らせる「伝言」が数多く記されていました。


炭化した木れんがが残っている壁です。


伝言文字が残されている壁

この壁は児童館(解体前)として使用されていた教室の黒板の裏にあったもので
被爆当時に書かれたと思われる伝言文字が残されています。


漆喰の下に今も残る伝言


1999年(平成11年)3月、壁面の漆喰の一部を剥がしたところ
「寮内」という文字が出てきました。


被爆により壊れた扉と窓


高いところからヒューという音がして、大きな爆弾らしいものが頭の上に落ちてきたなと思って。急いで目と耳を押さえ床に伏せ机の下にもぐりこんだ。

目を開いてみると周囲は真っ暗で、じっと見ていると一瞬はパッと明るくなったので「生きているか」と叫んだが、答えるものは誰もいなかった。
校庭に出てみると、ちょうど、夜明けぐらいの明るさであった……
袋町小学校創立100周年記念誌「ふくろまち」より一部抜粋


かろうじて焼け残った西校舎は翌日から被災者の救護所として


救護活動の重要な拠点の一つになりました。

戦争を知らない私は、原爆は怖いと思いながらも実感はありませんでしたが
1945年8月6日の忘れてはいけない「原爆の恐怖」が伝わってきました。
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「爆心地に残っていた鳥居」は、今も残っていました!

2018年11月11日 | 広島の旅

これは、昨日アップした「爆心地」の写真です。


写真の中に、被爆しても残っている鳥居が見えます。

その鳥居のことが気になり調べていくと
現在、中国放送の横にある広島護国神社の鳥居だと分かりました。


これは広島城広場に入る手前で撮った、中国放送の横にある鳥居です。
照らし合わせると、間違いなくその鳥居でした。


きれいになっていますが、被爆しても残っていた鳥居の社額です。

「爆心地」の一枚の写真から、被爆しても残っていた鳥居を見ることができて広島の忘れられない事が一つ増えたような気がします。
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