kikoがスタート

2005年8月にスタートしました。
私が観た(見た)、感じた、覚書き、気になることを書いてます。(^^ゞ

義侠の相場師・岩本栄之助氏が残した「大阪市中央公会堂」

2024年06月01日 | 健康ハイキング・歴史クラブ・教養講座
5月度ハイキング「大阪府立中之島図書館」の続きです。

重要文化財の「大阪市中央公会堂」

中之島図書館の東側に、大好きな大阪中央公会堂があります。

この赤レンガに青銅のドーム型の屋根が美しい建物は
名建築家の辰野金吾氏らの設計です。


大阪中央公会堂  サンクンガーデン

地下1階の展示室へ向かう東入口から見た、西入口と建物


地下1階の展示室

展示室は初めて入りましたが
岩本栄之助氏の写真などが展示されていました。

大阪中央公会堂は、岩本栄之助(いわもと えいのすけ)の寄付により1918年(大正7)年に竣工しました。中央公会堂の寄贈者 岩本栄之助氏 (1877~1916)は、明治時代後半から大正時代にかけて、大阪の株式界で活躍した人物です。




1909(明治42)年、渋沢栄一氏を団長とする渡米実業団に参加し、アメリカの進んだ産業・文化を視察していた渡米中に、父の訃報に接した栄之助氏は栄之助氏は、欧米の富豪が公共事業や慈善事業に熱心であることに共感して、帰国後に父の遺産と株式相場で得た私財をあわせた当時の100万円(現在の50億円)を寄付して、蔵屋敷の廃止後衰退し再生を模索していた中之島に公会堂を建設することが決まりました。

しかし、1016(大正5)年、株式相場で苦境に陥った栄之助氏は相場で大損失を被って、周囲の人々は大阪市に寄付した100万円を少しでも返してもらうように勧めるが、栄之助氏は「一度寄付したものを返せというのは大阪商人の恥」としてこれを拒否。


創建当初の漆喰塗素面



廊下には、創建当初の椅子



大阪中央公会堂 正面

大正5年(1916年)10月22日に岩本商店の全ての使用人と家族を宇治の松茸狩りに出したあと、自宅の離れ屋敷で陸軍将校時代に入手した短銃で咽喉部を斜めに打ち抜いて自殺を図ったそうです。公会堂の完成を待たずに自らの手でその生涯を閉じました。

この話は学生の頃に聞いて、とてもショックだった事がいまも思い出されます・・・そして中央公会堂の素晴らしい建物を見る度に 「岩本栄之助氏」 のことが思い出されます。

栄之助氏の没後も工事は続けられ、1918(大正7)年11月17日に落成報告祭が行われました。栄之助氏の娘さんから大阪市長に公会堂のカギが手渡され、公会堂は大阪市に寄贈されたそうです。


ローマ神話に登場する商業の神様

正面アーチ形の屋根には
 左の像:メルクリウス
 右の像:女神ミネルバ


2009年06月に「第34回 歌舞伎鑑賞教室」に行きましたが
会場内は撮影禁止で残念ながら撮ることは出来ませんでした。

私が「大阪中央公会堂」を初めて見たのは数十年も前で
阪神高速道路を走っている時でした・・・
あれから何度も行ってますが、今も大好きな建物です。
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大阪中之島図書館 ・撮影許可が必要だった「中央階段ホール」 

2024年05月25日 | 健康ハイキング・歴史クラブ・教養講座
5月度健康ハイキング「大阪市役所」の続きです。


ガイドさんから「日本銀行大阪支店 旧舘」の説明が終わり



「大阪府立中之島図書館」へ向かいました。

ガイドさんの説明を聞いてから中に入りましたが
素晴らしい「中央階段ホール」を前にして館内を出たので
私が何度が来ていた時に撮った写真を再投稿します。


大阪府立中之島図書館  2009年5月15日(金)

大阪府立中之島図書館は、大阪市役所の東口の前にあります。

明治37年(1904)江戸時代から大阪を本拠地として事業を続けてきた、住友家 第15代住友吉左衞門友純(ともいと)氏の図書館の建物と図書購入資金の寄贈によって、石造りの重厚な「中之島図書館」が建設されました。



設計は住友家の建築技師長であった野口孫市氏と
技師として日高胖氏が参加しました。

外観はルネッサンス様式を、内部空間はバロック様式を基本としながら、優れたデザイン力による格調の高い建築です。

コリント式円柱に支えられる正面はギリシア神殿を、ドーム状の中央ホールは教会を思わせる造りになっています。



中之島図書館の前に立って正面玄関を見上げると
右から左に「大阪図書館」の文字があります



「中央階段ホール」は撮影許可が必要なので
  撮影許可を頂いて撮らせて頂きました。




二階中央ホール正面に掲げられた銅板があります。
 上「建館寄付記」
 下「増築寄付記(小銅板額)」 



そして、左右の壁面に彫刻が2つ立っています。

どちらも銅製のギリシア風半裸の青年像である。
むかって右側の引き締まった表情で前方を注視しているのが「野神像」で、「野性」を表し、左側の「文神像」は広げた書物に眼差しをむけており、「知性」を表現していると言われている。



この彫刻がおかれたのは、大正11年の左右両翼の増築の時で



作者は「長崎平和祈念男性裸像」で知られる北村西望氏です。



中央ホールギャラリー上部のフリーズ(中間帯)には
本館を新しい八聖殿になぞらえて

階段正面上から右回りに菅原道真、孔子、ソクラテス、アリストテレス、シェイクスピア、カント、ゲーテ、ダーウィンの八哲の名が記されています。

大正11年(1922)住友家の寄付により、日高胖氏の設計で左右両翼部分が増築され、ほぼ現在の建物が完成しました。昭和49年に、本館及び左右両翼の2棟が国の重要文化財に指定されました。

再投稿ですが長くなりましたので、次へと続きます。
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郵便制度の発祥地「駅逓司(えきていし) 大阪郵便役所跡」

2024年05月22日 | 健康ハイキング・歴史クラブ・教養講座
「駅逓司(えきていし)  大阪郵便役所跡」

日銀大阪店旧舘の南東角にあります

「日本銀行大阪支店 旧舘」が、現在の場所(元島原藩蔵屋敷跡)に移転したのは、明治36年(1903年)でしたが、明治の初めに現在の郵便局に当たる「駅逓司(えきていし)大阪郵便役所」が大阪で最初に設けられた場所でもありました。

いま郵便物が家に届くのは当たりまえのように思っていますが、大阪中央郵便局の草分けであり、この場所が郵便制度の発祥地です。


【碑 文】 には
明治4年わが国で初めての新式郵便がおこなわれたとき、市内の書状はここに設けられた郵便役所へ集められ、当居までの各地に発送された。


【郵便は世界を結ぶ】と書かれたポスト
日本橋郵便局前と本郷郵便局前にも設置されている
日本に3基しかない貴重な郵便ポスト。

ポスト上に見える彫刻は、中嶋一雄氏の作品「地球と群像」
1971年に記念の「郵便創業100年記念ポスト」でした。

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江戸時代の通信は、もっぱら伝馬と飛脚に頼っていましたが費用が高く日数もかかるので、明治政府は郵便官営に踏み切り、租税権正兼駅逓権正の前島密に命じて飛脚制度の改革に乗り出したそうです。

明治4年(1871)月1日に、東京~大阪間の郵便業務が開始され、大阪では中之島の土佐堀川に面した 「島原藩蔵屋敷」 に郵便役所が置かれました。

ポストに投げ込まれた手紙は、初日から3日間で53通だったそうですが、明治10年には大阪郵便局と改称して、もとの近畿郵政局に移っています。東京までの所要時間は約75時間だったそうです。 (大阪市役所HPより)

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昨日5月21日のニュースから
手紙の郵便料金の値上げが関係閣僚会議で了承され、早ければ2024年10月に実施されるそうです。値上げは消費税率の引き上げを除いて30年ぶりで、定形郵便物の手紙のうち重さ25グラム以下の料金が、いまの84円から110円に値上げされるそうです。

これにあわせ日本郵便は省令の改正が必要ないはがきの料金も、いまの63円から85円に値上げします。またレターパックや速達料金も値上げするようです。
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5月度ハイキング・元島原藩蔵屋敷跡の「日本銀行大阪支店 旧舘」

2024年05月21日 | 健康ハイキング・歴史クラブ・教養講座
「関西万博の公式キャラクター ミャクミャク 」の続きです。
タイトル名に、元島原藩蔵屋敷跡を追加して変更しました。


この場所で観光ガイドの人から「日本銀行大阪支店  旧舘」の説明を聞いていますが・・・

「日本銀行大阪支店 旧館」は、以前に 日本銀行本店 旧舘の建物は、上から見ると「円」の形です。とブログに掲載したときに 「日本銀行大阪支店 旧館」が見学できると知り、ボラパソ時代の友人4人と一緒に見学したところなので、省略してその時の様子を再投稿します。


日銀大阪支店 旧舘  2014年3月27日(木)

「日銀大阪支店 旧舘」は堂島川と土佐堀川に挟まれた中之島にあり、御堂筋をはさんで大阪市役所の向かい(西側)に位置します。

右側の2階建物が日本銀行大阪支店の旧舘で、左の6階建物が新館です。(土佐堀川に架かる大江橋から撮りました。)

明治36年(1903年)に建設された「ネオ・ルネッサンス様式」と呼ばれる石造りの重厚感ある建物レトロな外観で、設計者は19世紀末から20世紀前半にかけて、赤レンガ造りの東京駅丸の内駅舎の設計を手がけたことで有名な、建築家の「辰野金吾氏」です。



大阪市役所から見た「日本銀行大阪支店 旧舘」 の正面全景です。日本銀行大阪支店は、明治15年(1882年)10月10日の日本銀行開業からわずか2ヵ月後の12月18日に開設され、大阪支店は本店とともに日本銀行の歴史を築いています。

現在の場所(元島原藩蔵屋敷跡)に移転したのは
1903年(明治36年)です。
 旧館:地上2階、地下1階
 新館:地上6階、地下3階
 延床面積:約 47,934m2



1903年にベルギーの国立銀行をモデルに建設されています。
案内された中央に見えるドームの下は、部屋の入口に貴賓室と書かれていました。その部屋に入ることが出来たので、ドームになった天井を見上げてきました。このドームを見ると、今も見学した時のことが思い出されます。(^^♪

追 記 
日銀大阪支店旧館について ↓ が書かれていました。
『 ギリシャ時代は、ドリス式・イオニア式・コリント式の、三種類の円柱がありますが、ネオ・ルネッサンス様式はどの円柱が多いのでしょうか? 』

見学した友人の中に建築のプロがおられたので、聞いておけば良かったと残念に思っていますが、大阪支店旧館の玄関ポーチは角柱と円柱が混在し柱の上部は重厚な装飾が施された「イオニア式」柱頭飾りのようです。

ガイドさんからは、これ以上の説明は無かったと思います。(^^ゞ
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5月度ハイキング「関西万博の公式キャラクター ミャクミャク 」

2024年05月20日 | 健康ハイキング・歴史クラブ・教養講座
5月度の健康ハイキングは
「中之島・北船場レトロビル散策と中之島バラ園」ですが、大阪市役所から観光ガイドの人から説明を受けながら散策してきました。


2023年5月の大阪市役所

私の両親も大阪だったので
戸籍謄本などが必要な時は「大阪市役所」へ行きますが


2023年の正面玄関

2023年の5月にも来たところで



11月には、水都大阪アクアライナー(土佐堀川)から
大阪市役所の横を通りました。


2024年の大阪市役所正面玄関前 5月15日(水)

大阪・関西万博の公式キャラクター「ミャクミャク」です。
私たちが行った15日の時は、何もなかったのですが・・・

18日朝、ミャクミャクの口の部分にスプレーのようなもので「FREE PALESTINE(パレスチナに自由を)」と、落書きされているのが見つかったそうです。


棟札

この棟札は、明治37年2月、住友家第15代家長住友吉左衛門が建設し、大阪府へ寄付した図書館「本館」の建築時に当時の建築関係者によって行われた上棟式(明治36年8月5日に挙行)において奉じられたものです。



ケースの下に説明がありました・・・


市役所1階

1階の入った左側の所にあり、何が描かれているのだろうと思い写真に撮りましたが「大阪御堂筋アート2024」の作品でした。


「大阪御堂筋アート2024」

大阪御堂筋アートは、大阪のメインストリートである御堂筋で約1ヵ月にわたって開催されるアートの展覧会。身近なところにアートがあることが当たり前なまちを目指し、展示会場とジャンルを超えた作家たちの協力のもとに開催されます。
開催:2024年5月15日(水)〜6月14日(金)

さぁ~それではガイドさんの案内で次の場所へ行きますね。
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多田銀銅山遺跡は「たまごパック誕生の地」でした。

2024年04月27日 | 健康ハイキング・歴史クラブ・教養講座
昨日の「青木間歩から台所間歩へ」で投稿した地図の中に、
黄線で囲んだ「たまごパック誕生の地」があります。


ここは、1973年に閉山した国史跡「多田銀銅山」の
一角に残る「たまごパックの工場跡」でした。



台所間歩へ向かう道で、この写真を撮った後に見た「たまごパック・・・」が気になり、帰りにも見るとその場所は「たまごパック誕生の地」(写真正面の建物)でした。



1979年11月、たまごパック第1工場の操業を開始した建物。
建物の写真は撮れなかったのでお借りしました。



猪名川町広根出身の加茂守さんが、この透明で卵が割れないように底が「八角錐型」の開発者です。




たまごパックを発明した加茂守氏は
2020年7月に85歳で逝去されています。

追記
今は「たまごパック」に入っているのが普通になって「たまごパック」のお陰で買い物の時に割れる心配が無くなっていることを忘れていました。「八角錐型」の開発者に感謝です。

多田銀銅山遺跡に行かなければ知ることが無かった
「たまごパック誕生の地」でした。
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兵庫猪名川町・多田銀銅山遺跡④「青木間歩から台所間歩へ」完

2024年04月26日 | 健康ハイキング・歴史クラブ・教養講座
今月はチョッと遅くなりましたが、今日お墓参りしてきました。

③ 「銀山橋から代官所跡→高札場跡→金山彦神社」の続きです。


金山彦神社の本殿(覆屋)から拝殿へ戻り「青木間歩」へ


国史跡 「青木間歩」(間歩=坑道のこと)

周囲にアオキが茂っていたことからその名が付いたといわれています。江戸時代に採掘されたと思われる手掘りの露頭掘りや坑道掘り、昭和になって削岩機などの機械を使って採掘された坑道と、さまざまな掘り方を見ることができます。



多田銀銅山遺跡の中で入ることが出来る
唯一の「青木間歩(まぶ)」です。



正面は突き当りのようですが



坑道は右へ続いています・・・






「悠久の館」で色んな資料を見てきましたが・・・









間歩を歩いて雰囲気だけ感じてきました。(^^ゞ



青木間歩の入口前から上に上がって行くと「露頭堀」を見ることが出来るのですが、金山彦神社の途中で違和感があった足が「こむら返り」になったので、行くのは控えました。"(-""-)"



台所間歩へ向かう道から「水抜通風穴跡」が見えました。

坑道を掘り進めると地下水が湧き出ます。
その水を排出する穴で、銀山川へ流していました。



もうすぐ「台所間歩」ですが



思っていたより歩いてますね。


国史跡「台所間歩」

こむら返りで、台所間歩へ行くのは無理かも・・・と
思ってましたが来ることが出来ました。(^^♪



江戸時代の文書には、言い伝えとして豊臣秀吉の時代に大坂城の(現大阪城)の台所(財政)を潤すほど銀銅の産出量があったことからその名がついたと記されています。



「秀吉の埋蔵金」伝説も、あり得ますね。(^^ゞ



立派な門構えの建物ですが
今は空き家になっている「吹屋」でしょうか。



見どころいっぱいのハイキングでした。
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兵庫猪名川町・多田銀銅山遺跡 ③ 「銀山橋から代官所跡→高札場跡→金山彦神社」

2024年04月25日 | 健康ハイキング・歴史クラブ・教養講座
②「多田銀銅山 悠久の館と悠久広場」の続きです。

銀山橋

銀山川の手前から、多田銀銅山代官所跡を見た後
金山彦神社・青木間歩・台所間歩へ向かって歩きます。



銀山橋を渡っていると
橋の上から左に見えるのは・・・高札場跡です。

高札は
江戸時代に幕府がきまりや禁止事項を木札に墨で書いた札で
人通りが多い場所に掲示されていました。



銀山町では、代官所の手前に高札場が置かれていました。



あの灯篭の下部分に見えるのは「天邪鬼・・・?」



少し歩いた道の左に「南無阿弥陀仏」と書かれた灯籠があり
その横に見える道は・・・? と、案内マップを見ると



ここは「甘露寺(かんろじ)」への道でした。

甘露寺は
敏達(びだつ)天皇の頃(6世紀)に開かれました。三重県伊勢の甘露寺は、多田銀銅山から移住した鉱夫達によって建てられたと伝えられています。


江戸~明治時代の約300年間、銀や銅の生産を行う
「吹屋(ふきや)」があった本町の道沿いを歩いて行きます。


金山彦神社(かなやまひこじんじゃ)

銀山川を右にして歩いていると
川に橋が架けられた先が「金山彦神社」でした。



大同2(807)年創建との社伝を持つ金山彦神社は
銀山の栄枯盛衰を見守ってきました



扁額は「山神宮」



この辺りで、足に違和感が・・・
もう少し頑張ります。(^_^;)



拝殿・御輿蔵



拝殿・御輿蔵の中通り道に掛けられていました。
何が書かれているのでしょう~ね。



覆屋の中に本殿があります。

本殿は
銀山最盛期の寛文(かんぶん)4年(1664)に建立され、鉱山の神さま「金山彦命(かなやまひこのみこと)をお祀りしています。

江戸時代には周辺村落は「銀山付村々」として、戸数3千軒ともいわれた「都市(銀山町)」を支えてきました。現存する銀山町絵図には役所や茶屋、芝居小屋などが描かれ、呉服町、魚の棚町など繁栄を偲ばせる町名も並んでいます。4カ所の番所で守られた町にはまた多くの社寺もありました。

大同2(807)年創建との社伝を持つ金山彦神社は、その中心として銀山の栄枯盛衰を見守ってきました。山の神大山祇命と金山彦命、金山比売命が祭神です。金山彦命と金山比売命は伊佐那岐・伊佐奈美両神の子どもで、鉱山の守り神、のち金属関係すべての守護神となり、奈良の吉野山の総地主神でもあり、各地に神社があります。 猪名川町のホームページより

この後は、坑道内を見学できる「青木間歩」へ向かいますが
長くなりますので次へ続きます。
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兵庫猪名川町・多田銀銅山遺跡②「多田銀銅山 悠久の館と悠久広場」

2024年04月23日 | 健康ハイキング・歴史クラブ・教養講座
兵庫・猪名川町「国史跡 多田銀銅山遺跡」の続きです。


「多田銀銅山 悠久の館」

健康ハイキングに参加して
初めに行ったのは「悠久の館」です。



「悠久の館」では、多田銀銅山にまつわる絵図や古文書
鉱石、鉱山道具の資料が展示されていました。



多田銀銅山は平安時代から銀や銅が掘られ、豊臣時代に直轄鉱山となり、江戸時代には「銀山三千軒」と称される賑わいでした。


地表採掘(露頭堀)のあと

1550年代前半までの様子です。



銀や銅があった所を溝状に掘り抜いた跡です。
他にも展示物はありましたが、写真禁止もありました。



館内から庭に出れるので出てみると
銀山川を挟んだ先に「多田銀銅山代官所跡」がありましたが
集合のようなので、後から見たいと思います。



お昼近くになり、悠久の館前にある広場へ行くと



悠久の広場は、お手入れが届いてとても綺麗でした。



広場の左奥に見えるのは「レンガ構造物」です。

明治30年(1897)から10年程使われていた、島根の堀藤十郎(鉱山家)が経営していた精錬所の跡で、平成23年の発掘調査で当時のレンガ敷遺構が出土しました。



お弁当を広げている前の右横にありました。
説明書では・・・

精錬所で使われた赤レンガ
堀家精錬所で出土した赤レンガには「×」の刻印が付いています。コック院から「岸和田煉瓦株式会社」製造のレンガであることがわかりました。

鍋型カラミとカラミレンガ
カラミは製錬の過程で排出される非金属の「かす」です。堀家精錬所の調査では、鍋型カラミ(中央)とともに多数のカラミレンガ(右)が出土しました。この廃物を有効利用しようと、カラミを箱型の鋳型に流し込んで作ったのがカラミレンガです。明治時代後期、各地の精錬所でカラミレンガが製造され、建物の基礎や石堀に使われました。



青木間歩(あおきまぶ)へ向かう前に
先ほどの「代官所跡」を、もう一度見に行きました。



右の図には、銀山川と代官所が描かれて
銀山川に橋も架けられていました。



多田銀銅山代官所跡は立入禁止になっています。

追記
平成26年8月に発生した台風11号及び集中豪雨により被災した為、平成28年度に銀山川護岸の災害復旧工事を行いました。代官所跡までの進入路および代官所跡法面(のりめん)については、まだ地盤が緩んでおり、崩落の危険性が高いため、安全確保ができるまでの間、立入を禁止することとします。



それでは銀山橋を渡って、青木間歩へ向かいますが
次へと続きますので、みなさんもご一緒してください。(^^♪
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兵庫・猪名川町「国史跡 多田銀銅山遺跡(ただぎんどうざんいせき)」

2024年04月22日 | 健康ハイキング・歴史クラブ・教養講座
今年の3月から滞っておりましたブログ更新ですが
再スタートしますので、よろしくお願いします。(^^♪
 
春に三日の晴れなしと言われますが
好天に恵まれた3月15日(金)は、ハイキング日和でした。



「国史跡 多田銀銅山遺跡(ただぎんどうざんいせき)」

銀山と言えば、島根県の2007年に世界遺産に登録された「石見銀山」が知られていますが、兵庫県の猪名川町にも「国史跡 多田銀銅山遺跡」がありました。

国史跡 多田銀銅山遺跡は
兵庫県猪名川町、川西市、宝塚市、大阪府池田市、箕面市、能勢町、豊能町一帯の鉱床群の総称です。



能勢電鉄「川西能勢口→日生中央駅」へ向かう車窓から「滝山駅」、鶯の住む森があって付けられたと思われる「鶯の森駅」に「鼓滝駅」地名から色々想像していると終点の駅に着きました。



ここは、能勢電鉄「日生中央駅」の前です。



猪名川町には、見どころが10カ所もありましたが
私たちが向かうのは、多田銀銅山「悠久の館」です。



日生中央駅前で見た、マンホールのデザイン蓋は
町の花:ツツジをイメージしたものでした。



駅前からバスに乗って「銀山口バス停」へ向かいますが
本数が少ないので、乗り遅れたら大変です。(^^ゞ



銀山口バス停で降りて「多田銀銅山 悠久の館」へ



銀や銅の生産を行う「吹屋」の面影を残す建物があり
玄関前の上にあるのは、江戸時代の消火器でした。



バス停から1㎞ほど歩いた所に「らせん階段」があり
先に行かれていた人たちが休憩していました。

らせん階段手前の遊歩道越に「大阪口番所跡」がありました。
江戸時代、旧街道が通っていて大坂方面から銀山町への入口です。大阪口番所として全盛期時代には、人や荷物の取り締まり、通行税の徴収などをして、銀山と大坂方面の重要な交通の要所だった所ですが、今は何も残っていませんでした。



「多田銀銅山 悠久の館」へは、あと500mです。

右の道を700m行けば「白金2丁目バス停」ですが
私たちは「銀山口バス停」から1.4㎞歩いてきました。



この辺りまで車が通れるようで
駐車場の前に「案内マップ」がありました。



「多田銀銅山 悠久の館」が見えてきました。



そして、この建物が「多田銀銅山 悠久の館」です。

多田銀銅山 悠久の館
〒666-0256 兵庫県川辺郡猪名川町銀山字長家前4番地の1
電話・ファックス:072-766-4800
開館時間:9時~17時   入館料:無料

長くなりますので次へと続きます。
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