kikoがスタート

2005年8月にスタートしました。
私が観た(見た)、感じた、覚書き、気になることを書いてます。(^^ゞ

津の田ミート エミル高槻店

2021年01月31日 | 食楽
2020年11月20日に「津の田ミート エミル高槻店」が、オープンしているので
阪急高槻市駅の近くへ行った時に見てきました。(^^ゞ

津の田咖喱 エミル高槻店

カレーのボリュームが選べるようです。

少なめ:ライス150g    多め:ライス250g  
普 通:ライス200g    大盛:ライス300g
※大盛まで無料サービス


カレーは全種類、テイクアウト出来るようです。
容器代などで+50円

津の田ミート エミル高槻店

隣のお店も「津の田」です。


こちらは、ステーキ、ハンバーグ のお店でした。

ハンバーガセット・カツサンドセット・オムライスセットなども
テイクアウト出来るようです・・・(^^ゞ

大阪府高槻市城北町2丁目1−18 阪急高槻駅 構内2階
電話番号 072-661-1189   事前予約:090-1591ー0272 がおススメ
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しろあと歴史館 第52回トピック展示「芥川山城跡 発掘調査速報展」

2021年01月30日 | Weblog
高槻市立しろあと歴史館で開催されていた
「ダルマさんが並んだ展 達磨図」は終わりました。


そして、今日から開催されるのは、私も行ったことのある「三好山(芥山城跡」です。展示会では、芥川山城跡発掘調査の出土品や調査の様子などが分かる写真パネルを展示し、最新の発掘調査を見ることができるそうです。

開催期間:令和3年1月30日(土曜日)から令和3年3月28日(日曜日)
休館日: 月曜日、2月24日(水曜日)


●私が「三好山(芥山城跡」へ行った時のブログ
2019年12月度ハイキング「高槻自然探訪 ②三好山登山口~芥川山城の頂上」

塚脇バス停に設置されている「三好山への地図看板」

登山口は「塚脇バス停」から10〜15分の所です。
昨日の「龍神さま」は、登山口の左側に位置しています。


登山口は側道の右側にあります。

案内板には「三好長慶(みよしながよし)1553年入城」。
芥川山城は標高182.6mの三好山(私有地)に築城されています。


登山ルートとして危険なスポットはないそうですが
分岐をすぎると、山っぽくなってきました。


今までには無かった石垣のような部分が見えます?


平成30年の台風21号の爪痕が・・・


芥川山城跡の石柱です。
右に行くと山頂へ向かいますが


左の道を行くと芥川山城の石垣がある大手門方面です。
でも、コースには入っていないようです。


水分補給をしたので山頂に向かいます。


景色の良いところに登ってきましたが、まだ山頂ではありません。
三好山の山頂付近は3段くらいに分かれていて


ここは1段目の景色です。

芥川山城跡は
2017年4月に「続日本 100名城」に選ばれました。


山頂までは、あと6分ほどで登れるようです。


2段目の景色です。
写真左に、駅前の高層マンションが見えています。


頂上に着くと、ここにも台風被害の爪痕が・・・
台風の後、入山禁止だったそうです。


本丸跡にある、三好長慶を祀っている祠。
三好長慶は、織田信長の前に天下を掌握した天下人です。


そして、頂上からの素晴らしい眺望です!

三好長慶さんも眺めたこの景色
どんな思いで・・・眺めていたのでしょうね。


これは頂上から見える北西方面の景色です。

高槻市北部に位置し、北・西・南の三方を芥川で囲まれ
切り立った断崖の地形が、天然の要害として築城されました。


れから、三好山へ行こうと思っている人は勿論ですが
私のように行ってきた者にも、見ておきたい発掘調査速報展です。
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京都大原・不断桜が咲き始めた「実光院 」 2014年11月12日

2021年01月29日 | 京都
京都大原の里・ 額縁の庭園と血天井で知られる「宝泉院」 の続きです。

実光院 (じっこういん)

実光院は勝林院の子院で
三千院から勝林院に向かう道の左側にあります。


秋の紅葉の頃から春まで咲く
「不断桜(ふだんざくら)」を見るのは初めてです。


客殿で、お抹茶と和菓子を頂きながらお庭を眺めてましたが
こちらのお庭は眺めるだけではなくて


お庭に出ることができました。(嬉)


入口に「今 見頃です」と書いてありましたが
不断桜は、まだ蕾ばかりのようです。(((^_^;)


でも、咲いているのを見つけました!
これが初めて見る「不断桜」です・・・
可愛いですね。(^з^)-☆


集合時間が近づいてきましたが、もう少し歩いていると・・・


客殿の南側に位置する契心園は、池泉鑑賞式の庭園ですが
ここが同じ庭の中かと思うほど開けた場所に出ました。
その時に見た紅葉が、別世界のようだったので印象に残ってます。

「大原の里」を懐かしく思い出していましたが、実光院 で最後になります。
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山口百恵さんのファン必見!「伝説の引退コンサート」が再放送されます!

2021年01月28日 | Weblog
人気絶頂の中で引退した歌手・山口百恵さんの最後のコンサートが
1980年10月5日に、東京・日本武道館で行われました。


写真はお借りしました。

その『伝説のコンサート 山口百恵 1980.10.5 日本武道館』が
1月30日土曜日(15:35~17:59)に、NHK総合で1度限りの再放送です。

昨年10月のBSプレミアムでの放送の大反響を受け、2時間以上にわたる引退コンサートの映像を元に4K画質相当への映像レストアを施した完全リマスター版。

再構成や新撮パートなどの編集は一切加えず
忠実にコンサートの模様が届けられるそうなので楽しみです。
百恵ちゃんのファンだった従妹にも電話しないと・・・(^^ゞ
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京都大原の里・ 額縁の庭園と血天井で知られる「宝泉院」 2014年11月

2021年01月27日 | 京都

三千院を出て右側の道を歩いていくと
正面に、大原問答で知られる「勝林院」があります。

「勝林院」

勝林院は、天台宗3代座主慈覚大使師によって開かれました。
本尊に阿弥陀如来座像が安置されています。

勝林院の調査が始まったのは、全国の専門家とともに2020年の1月からでした。
その調査で、勝林院の「蔵の中」には1853点の文化財が見つかりました。


勝林院を左に行くと、右側に勝林院の子院として創建された
「宝泉院」があります。


いま宝泉院に向かっています。

現在の書院は1502年に再建されたもので
ここも、以前から行きたいと思っていた所です。


囲炉裏越しに庭園が見えています。

額縁庭園

客殿の西方、柱と柱の空間を額に見立てて観賞することから
「額縁庭園」と呼ばれています。


この五葉松は「大原や 無住の寺の 五葉の松」 と詠まれています。


その「五葉の松」を前にして
お抹茶と宝泉院と書かれたお菓子を頂きました。


上に、テレビで見たことのある「血天井」のことが書かれています。

慶長五年関ヶ原合戦前、徳川の忠臣・鳥居元忠以下数百名が
豊臣の大軍と戦い伏見城中で自刃した。その武将達の霊をなぐさめ
自刃した床板を天井にして祀り、供養としているそうです。

血天井

お庭に面した廊下の上にある「血天井」です。


血天井の所から見えるお庭が紅葉してきれいでした。

もう少し「鶴亀庭園」を眺めていたかったのですが
手入れされた宝楽園を足早にまわって宝泉院をでて「実光院 」へ。
次の機会があれば、ゆっくりと大原の里を楽しみたいです。(^^ゞ
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京都・大原の里「三千院」 2014年11月12日 

2021年01月26日 | 回想日記
京都大原と言えば、歌にもある「三千院」が知られています。
2014年11月の「三千院」を再投稿します。(^^ゞ

三千院

紅葉には少し早いですが、行きたかった 三千院 に行ってきました。
三千院は、京都市左京区大原にある天台宗五箇室門跡の一つで
平安時代に皇族がお住まいだったお寺です。


20日頃が紅葉の見頃なので少し色づいてます。

聚碧園(しゅうへきえん)

聚碧園は、客殿よりの池泉鑑賞式で江戸時代の茶人
金森宗和の修築と伝えられています。

有清園(ゆうせいえん)

東洋の宝石箱と賞賛される美しい苔庭です。
前夜(11月11日)から朝方の雨で、苔がとてもきれいでした。

往生極楽院

藤原時代に建てられた49の常行堂のうち、唯一現存する御堂で
重要文化財の阿弥陀三尊を納める工夫として、天井を船底型に
折りあげているそうです。


往生極楽院の裏手に可愛い「わらべ地蔵」

弁財天池

三千院に訪れた一人旅の女性のことを歌った「女ひとり」の歌がありますが
その歌詞の中の水面は、この弁財天池だったかもしれませんね。


「わらべ地蔵」から少し離れたところで見つけました。


大原の里はパワースポットの地でもあり、1000年以上も前から中国にある
山の「魚山(ぎょざん)」と同じ名前で呼ばれていたそうです。


三千院は、最澄(さいちょう)が比叡山に延暦寺(えんりゃくじ)を建てた時に
梨の木の下に草庵を結んだのが始まりですが、もともとは比叡山にあったのです。

たび重なる移転を経たのち、明治4年(1871年)に現在の地に移り
「三千院(三千院門跡)」と呼ばれるようになったそうです。
コメント (6)
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世界文化遺産 「比叡山延暦寺 国宝 根本中堂」 2014年11月12日

2021年01月25日 | 回想日記
京都大原の「勝林院」で浅井長政の書状が見つかり、比叡山焼き討ちの原因になった一つだと分かりました。その繋がりとして、2014年11月12日(水)の「比叡山延暦寺 国宝 根本中堂」を再投稿します。


「延暦寺」は、比叡山の山内にある500ヘクタールの境内地に点在する
約150ほどの堂塔の総称で、延暦寺という建造物はありませんでした。

山内を地域別に、東を「東塔(とうどう)」、西を「西塔(さいとう)」
北を「横川(よかわ)」の三つに区分されているそうです。

大講堂 (大日如来)重要文化財

大日如来座像の両脇の檀上に、比叡山で修学した諸宗派の祖師像が祀られています。比叡山が日本仏教の母なる山といわれるのが分かりますね。

鐘楼

大講堂のそばに鐘楼があって参拝者が鐘を突いていました。

元亀(げんき)2年(1571)9月12日の早朝
信長による延暦寺焼討ちを知らせる梵鐘の乱打の音が響いていたそうです。


この坂を下りていくと、左に見えているのが「根本中堂」です。


延暦寺が浅井・朝倉両軍をかくまったこと等が発端となり
元亀2年(1571)織田信長によって比叡山が全山焼き討ちされたことは
書かれていませんでした。


ここが根本中堂の入口です。
根本中堂の堂内は、写真撮影禁止です。

中に入ると、仏像が私達のいる床から約3m低い位置にあって
それは仏像が参拝者の目の高さに来るようにするためだそうで
「仏も人もひとつ」という考えを現しているそうです。

根本中堂中央の厨子には、最澄自作の伝承がある薬師如来立像が祀られていますが、この本尊は秘仏になっているので、普段は公開されていないのです。私たち参拝者が根本中堂で目にする薬師如来像は、仏師が彫刻した「前立」本尊でした。

「不滅の法灯」は、信長の焼討ちにより一旦は途絶えたそうですが
山形県の山寺(やまでら)として知られる立石寺(りっしゃくじ)に
分灯されていた法灯を移したことで、1200年の法灯があるそうです。

説明では、途絶えたことも分灯についても触れることなく終わりましたが、こんなお話がありました。それは、法灯の菜種油を注ぎ足さなくても数日は燃え続けるそうですが、それは「ま、いいか」と油を注ぎ足さない日があると、それが習慣になり火は消えてしまいます。そうならないために、決して油を絶やさないようにすることから「油断するな」という言葉が生まれたそうです。

文殊楼

根本中堂の前にある石段は
文殊菩薩が安置されている文殊楼へ行きます。


石段を上がった所から、根本中堂を撮っています。


文殊堂の中に入り、狭くて急な階段を上がってきました。(((^_^;)


寛永19年(1642)に徳川家康によって再建された銅板葺き入母屋造りは
幅37.6m、奥行23.9m、屋根高24.2mの大建築で、昭和28年(1954)国宝に
指定されています。

外出を控えているので、行った所が懐かしく思い出されます。(^^ゞ
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京都大原・勝林院④「浅井長政の古文書・足利義満の肖像画と声明」

2021年01月24日 | 観戦・鑑賞・参観・見学ほか

勝林院には「南の蔵と北の蔵」があり(写真追加します。)
蔵の中には絵画、古文書、法具、魚山叢書などが調査で見つかりました。

お釈迦様の來迎図

勝林院最古の掛け軸は、肉眼では見ることが難しい
14世紀の南北朝時代に描かれたものでした。

赤外線カメラを使って見えたのは
阿弥陀仏が諸菩薩を従えて、衆生(しゅじょう)を極楽浄土に迎えるために人間世界に下降するようすを描いたものでした。

「戦国武将」の書状 浅井長政の書状

歴史学 長浜市学芸専門監 太田浩司氏が
『これは浅井長政ですね。浅井長政が落城の13日ほど前に書いた文書で、ここに花押(かおう)がありますけども、この浅井の文書は元亀元年(1570)の11月、晩年の花押の形はしっかり会いますので舞い違いないです。』

姉川の合戦から5ヶ月後の安堵状には「地域を占領し かつ支配権を持っていた。」と書かれ、実効支配を浅井氏がしていたことが分かります。

1571年の比叡山焼き討ちは
延暦寺の僧侶らは宗教者としての責を果たしておらず、放蕩三昧だった。延暦寺の僧侶らが荒れ果てた生活を送っていたことは、『多聞院日記』にも延暦寺の僧侶が修学を怠っていた状況が記されています。

こうした僧侶らの不行儀と信長に敵対したことが、比叡山焼き討ちの原因だったと考えられていますが、信長に敵対する朝倉氏、浅井氏に与同したこともあり、安堵状からも信長には最大の危機だったことが分かります。

徳川家康の「持仏」

東照大権現 家康念持仏の、阿弥陀像を持っていたと書かれています。
持仏は、高さ一寸三分 (4センチ弱)ですが放送されませんでした。

宝冠


10体の仏像

女人禁止の勝利院に収められていたのは
室町時代のものだと思われる
仏に仕える30cmほどの天女像の姿でした。

大原の声明を伝授するうえでの系図

系図には・・・

後白河院

後白河法皇(ごしらかわほうおう)
日本の第77代天皇 1127年~1192年 平安時代~鎌倉時代

四条大納言

藤原公任(ふじわら の きんとう)は
平安時代中期の公卿・歌人。小倉百人一首では大納言公任。

准三后 鹿園院義満公

金閣寺を作った足利義満。

足利義満の肖像画

足利義満の肖像画が勝林院にあったのは「声明」の繋がりでした。

1406年(応永13)宮中で催された天皇家の法要に、義満は武家出身として初めて声明を披露したのです。「調声」といって、声明の「リードボーカル」だそうです。金の袈裟を纏い、花びらを撒きながら声明を披露する義満。武家が出家して僧になり、法要を取り仕切った前代未聞の事でした。

国家的な仏事を武家の義満が取り仕切るということは、それを見た宮廷の人々にとってはインパクトがあって、絶大なものだったといいます。義満は声明の力によって宗教界においても、武家だけでなく全てのものを束ね、絶対的な権力者であることを示そうとしたのではないでしょうか。

魚山叢書(ぎょざんそうしょ)

声明の全集本

勝林院の正式名は
魚山大原寺勝林院(ぎょざん だいげんじ しょうりんいん)


声明は「モロオリ」と言って、木の葉が弧を描きコロハラと
落ちてゆく様子を描くような美しい響きがあります。








1853点が、勝林院の調査で見つかりました。

本堂ではボタンを押せば声明(しょうみょう)が流れるように
なっているので、自由に聞くことができるそうです。
京都大原に行かれたら、勝林院へも行ってくださいね。
コメント (2)
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亡くなった母のお誕生日

2021年01月23日 | ひとりごと
1月23日は、2002年に亡くなった母のお誕生日です。
そして亡くなった母の年に、また一つ近づきました・・・。

母が亡くなった後も、生前の時と同じようにお誕生日には
同じお店に行って、Yファミリーと一緒にお祝いをしてましたが


そのお店も今は閉店し、母のお誕生会もなくなりました・・・
でもYが母のお誕生日を憶えていて、電話をくれました。

◯◯◯◯年1月23日

20時...皆が揃ったところで「湯引き」とが運ばれてきました。


次は香ばしい「ひれ酒」と、歯応えのある厚さが美味しい「てっさ」です!
母は、この「てっさ」を「しゃぶしゃぶ」にして食べるのが好きでした。


プリプリの「白子のおさしみ」は最高です!
 (ここで、注ぎ酒を注文する)


ふぐ鍋を戴く前に、ふぐの身と皮を焼く「あみ焼き」です。

コラーゲンたっぷりの皮をジュ~ッと焼きますが
皮はトロ~りとして癖になります!


てっちりは、やっぱり「焼白子」を食べないとね~(^^♪
 (ここで、ひれ酒を注文)

母が元気なころは、この「焼白子」を二つペロッと食べていました。
この後は、ふぐ鍋と、白子、そして仕上げは雑炊です・・・

この日は、Yがご馳走してくれました!
母には、応援していたYが念願を達成した姿を見て貰い
もう少し一緒にいて、喜ぶ母の顔が見たかった。
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京都大原・勝林院③「150年ぶりに御開帳された 涅槃図 」

2021年01月22日 | 観戦・鑑賞・参観・見学ほか
緊急事態宣言の期限である2月7日から解除が延長とか・・・
河野担当大臣が、ワクチン接種に関し従来の「今年前半までに全ての国民に」との政府方針を修正した上で「まだ供給スケジュールは決まっていない」との発言。

河野担当大臣は22日午後4時に総理官邸のホームページにワクチン情報の特設ページを開設し、専用のツイッターアカウントを立ち上げる方針を表明。河野大臣 の行動力に期待しています。

●須弥壇(しゅみだん)の「涅槃図」

須弥壇は、仏像を安置する台座で須弥山をかたどったものです。
ここは、阿弥陀さまが安置されている須弥壇の後ろ側です。

※お仏壇にも須弥山があって
 須弥壇を境に上の部分が天上界で、下の部分が地上の世界を表しています。

※須弥山(しゅみさん)は
 古代インド仏教の世界観で、その仏教世界の中心にある山のことです。
 外側に位置する鉄囲山・その中側に七つの山があり、須弥山はその中心にあり
 仏様の世界は、この須弥山にあると考えられています。


須弥壇の中にあったのは「涅槃図」でした。

涅槃図は、お釈迦さまが亡くなる時の様子を描いた仏画です。
そして年に一度、お釈迦様の命日法要で掲げられますが


勝林院では、明治に入ってからは使われたことがなかったので
今のご住職も見たことがありませんでした。


龍谷ミュージアム副官僚の石川知彦氏が


損傷が激しく、無理に開くと破損してしまうので
後日、改めて調査することに・・・

●修復された涅槃図

損傷が激しかった巨大な涅槃像の、穏やかに横たわるお釈迦さまの姿です。
文化財修復専門家の「装潢師 竹上幸宏」氏によって修復されました。


縦4.5メートル・横3メートル


江戸時代に描かれた涅槃図は


表情が豊かで


動物も


麒麟も書かれていますが


見たことも無いサイの背には、甲羅が描かれています。
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