kikoがスタート

2005年8月にスタートしました。
私が観た(見た)、感じた、覚書き、気になることを書いてます。(^^ゞ

奈良・平城京の発掘調査【平城宮跡遺構展示館  中棟】

2019年10月31日 | 健康ハイキング・歴史クラブ・教養講座
北棟→中庭→中棟へ

2つの井戸枠




役人の仕事道具である硯・役所の名前が書かれた土器・貯蔵具など

平城宮には7000人に達するかという役人たちが働き
中央集権の社会を支えていました。

書類として使われた木簡

役人たちが勤務した様々な役所に関して出土遺物などが展示されています。

礎石


朝からの雨で中止になるところだったハイキングですが
雨も降らずに、このまま「ウワナベ古墳」まで行けそうです。
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奈良・平城京の「発掘調査」の成果が見える【平城宮跡遺構展示館 北棟】

2019年10月30日 | 健康ハイキング・歴史クラブ・教養講座
第51代天皇「平城天皇陵(へいぜいてんのうりょう」を出た後
【平城宮跡遺構展示館】のお庭でお弁当、そして館内を見学してきました。

北棟


遺構露出展示

昭和39年(1964)に発掘調査された堀立柱の柱穴の跡です。
発掘された遺構面をそのまま展示されているそうです。


調査では、柱穴が重なりあって建物が何回も建て替えられたことがわかり
柱穴から出土した土器や瓦から建物の年代を推測することができるそうです。


730年(天平の初め)ごろから
770年(宝亀の初め)にかけて、4~5時期の変遷があったそうです。

内裏の井戸

内裏の井戸枠で、直径1.7mの杉の巨木をくり抜いて作られています。

第二次大極殿 屋根の部分復元



奈良時代の瓦を使って、実際の大きさに復元されているそうです。

前身整地地層


古墳濠埋土


中庭

中庭部分からは、奈良時代の堀立柱建物が重なり合った状態で発掘されました。
ここでは重なった建物跡の輪郭を盛土張芝(もりどはりしば)で表示してました。
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奈良・平城京大極殿跡→第51代天皇「平城天皇陵(へいぜいてんのうりょう」

2019年10月28日 | 健康ハイキング・歴史クラブ・教養講座
平城宮跡

平城宮跡が見えてきましたが・・・


ハイキングなので、前を通り過ぎるようです。(^^ゞ


平城宮跡を横目に通り過ぎて・・・平城天皇陵へ

平城天皇陵(へいぜいてんのうりょう)

奈良の古墳が密集する「佐紀」エリアの中央部
現存している古墳としては平城宮跡エリアに最も近い位置にある古墳です。

宝亀(ほうき)5年8月15日生まれ。
桓武(かんむ)天皇の第1皇子。母は藤原乙牟漏(おとむろ)。


第51代平城天皇は「天皇」としては平安京に遷都して間もない時代の
806年から809年まで3年余りの短い治世を過ごした存在とされています。

病気による退位後は「上皇」となり、その後の平安京を治めることになった「嵯峨天皇」と対立を深めることになり、平城京・奈良への再遷都を画策し挙兵を行う「薬子の変」で、敗北し出家したという経歴を持つ天皇ですが、平安京遷都後にも関わらず奈良の都である平城京とのつながりが強かったことで知られています。

敗北を悟ると即時に剃髪し仏門に入り、「薬子の変」で敗北した後も
「平城京」の地で、「上皇」として保証されていました。


築造時期は5世紀の前半とされており、 一般には「市庭古墳(いちにわこふん)」とも言われる平城天皇陵は、直径100メートルほどの大規模な「円墳」と考えられてきましたが、発掘調査により前方後円墳であったことが判明しています。

平城宮建設時には既に存在した事実と照らし合わせると、平安初期に在位した平城天皇の御陵とは矛盾を生じますが、宮内庁は「平城天皇陵」に治定されています。
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奈良・釣殿神社→佐紀神社→佐紀神社 亀畑と「絶妙な掛け合いの池?」

2019年10月27日 | 健康ハイキング・歴史クラブ・教養講座
奈良・人柱(殉死)を埴輪に変えて埋葬された「垂仁天皇皇后陵」から・・・

釣殿神社

写真左の道を通って来ると「釣殿神社」がありました。
神社の東側(写真右)は、御前池が広がっています。


創建は平安時代頃、式内佐紀神社(奈良市佐紀町字亀畑)の
末社・市杵島姫神社として創建されました。

当時の御祭神は市杵島姫命。室町時代、戦国時代と、戦火に遭い消失。
江戸時代初頭に、市杵島姫神社が再建とともに、佐紀神社の祭神の六御県命、経津主命の2神を「釣殿神」として合祀し、天児屋根命をも合祀。市杵島姫命と合わせ、3柱を祭神としています。

歴史の道

平城天皇陵に向かいますが

佐紀神社

歴史の道案内の後ろに「佐紀神社」がありました。


御祭神 天児屋根命 経津主命 六御県命

佐紀神社 亀畑

御前池の西で見た「佐紀神社」と同じ名前の「佐紀神社」が
すぐ近くの、御前池の東(亀畑)にもありました。


そして、同じ式内論社になっています。

釣殿神社の近くでみた、御前池の西にあった「佐紀神社」は
この「亀畑(御前池の東)の佐紀神社」からの分神だと言われています。


※「絶妙な掛け合い」と話題なのは・・・?

北側には、奈良時代の築造と伝わる「御前池」が位置し
南側の「佐紀池」は、平城宮跡の北隣、第一次大極殿の近くに位置します。

「お前行け(御前池)!)」「お前が さき行け(佐紀池)!」と
奈良時代から伝わる地名が、絶妙な掛け合いだと話題になっているそうです。
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奈良・人柱(殉死)を埴輪に変えて埋葬された「垂仁天皇皇后陵」

2019年10月26日 | Weblog

日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)生年不詳
第11代 垂仁天皇皇后であり、景行天皇のほか2皇子・2皇女を産む。

父は丹波道主王
母は丹波之河上之麻須郎女。


垂仁天皇皇后陵は「佐紀盾列古墳群」の中心的位置にあり


西には「孝謙天皇陵」、そして孫の「第十三代 成務天皇陵」があります。


全長207メートルの前方後円墳。

後円部は直径131メートル、高さ21.3メートル
前方部は幅87メートル、高さ12.3 メートル。


周濠があり、葺石や円筒埴輪列が巡っているそうですが
円筒埴輪列などは見えませんでした。


垂仁天皇皇后が「垂仁天皇陵」に埋葬されるときに、「野見宿祢」の進言によりその埋葬の古墳に人柱(殉死)として生きた人間を生き埋めにする慣習を取りやめ、埴輪などを埋葬するように制度を変更したという伝説が残されています。

※ 野見宿禰(のみのすくね)
垂仁天皇の頃の廷臣。出雲の人。天皇の命により、当麻蹴速(たいまのけはや)と相撲をとって投げ殺し、以後朝廷に仕えた人で、土師臣(はじのおみ)の姓を与えられたといわれています。
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奈良市・西向きの古墳は「二度即位した女性 孝謙天皇陵」

2019年10月25日 | 健康ハイキング・歴史クラブ・教養講座
成務天皇陵(せいむてんのうりょう)の南側に位置する「孝謙天皇陵」は


奈良市では珍しい西向き(写真右)の古墳「孝謙天皇陵」です。

全長127メートルの前方後円墳。
前方部は幅70メートル、高さ13メートル
後円部は直径84メートル、高さ18メートル

成務天皇陵入口からみた「孝謙天皇陵」

孝謙天皇は、大仏建立に関わった聖武天皇と光明皇后の皇女。
(男子は早世し、子供は彼女だけでした。)


上写真の右側が「成務天皇陵」で、左側が「孝謙天皇陵」です。

718年生まれで史上6人目の女帝は、
二度即位したので、2つの名前があります。

天平勝宝元年(749年) 第46代 孝謙(こうけん)天皇
天平宝字2年 (758年) 母である光明皇后の看病を理由に退位して上皇となる。
天平宝字8年 (764年) 第48代 称徳(しょうとく)天皇


宮内庁により被葬者として定められている「高野陵(たかののみささぎ)」
孝謙天皇は「西大寺」の創建者としても知られています。

生涯独身であり、子をなすことはありませんでした・・・が
上皇時代に、看病に当たった僧・道鏡を寵愛するようになったことがあり
自らに反抗したものに、卑しい名前を付けるという性格だったそうです。
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奈良・成務天皇陵(せいむてんのうりょう)

2019年10月24日 | 健康ハイキング・歴史クラブ・教養講座

奈良・日本で初めてお札になった人物の「神功皇后陵」
から成務天皇陵へ


歴史の道は1972年に奈良市が定めたハイキングコースです。

200m級の2つの大古墳に挟まれている周堤上の道。

左側に佐紀陵山古墳(日葉酢媛命陵:ひばすひめのみこと)の後円部
右側に佐紀石塚山古墳(成務天皇陵)の、くびれ部が見えています。

成務天皇陵(せいむてんのうりょう)後円部のくびれ


日葉酢媛命陵「垂仁天皇皇后(すいにんてんのうこうごう)」後円部のくびれ


成務天皇陵

周濠はかこんでいますが
西側濠幅約15mが本来の濠幅であるとされています。


古墳群の西群に属する全長218.5メートルの前方後円墳。

前方部は幅111メートル、高さ16メートル
後円部は直径132メートル、高さ23メートル


第十三代の天皇

父  景行天皇(第四皇子)
母  八坂入姫命
誕生 84年(景行天皇14年)


実際の被葬者は明らかでないそうですが・・・


宮内庁により
「狭城盾列池後陵(さきのたたなみのいけじりのみささぎ)」として
第13代成務天皇の陵に治定されています。
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「即位礼当日賢所大前(かしこどころおおまえ)の儀」に臨まれる天皇陛下

2019年10月23日 | YouTube
天皇陛下が即位を内外に宣言される「即位礼正殿の儀」が
2019年10月22日(火)の9時ごろから行われました。

天皇陛下は第126代で、日本書紀によれば今年は建国から2679年です。
考古学では約2000年王朝交代がないことが学問的に証明されているので
わが国は現存する国家のなかでは、世界最古の国家です。

「即位礼当日賢所大前(かしこどころおおまえ)の儀」に臨まれる天皇陛下


天皇陛下が即位を国内外に宣言する「即位礼正殿の儀」が
22日午後1時から、皇居宮殿「松の間」で行われました。


「即位礼正殿の儀」 天皇陛下「憲法にのっとり、象徴としての務め」


前夜から22日昼まで、まとまった雨が降り続いていましたが
「即位礼正殿の儀」が始まった午後1時ごろから同45分ごろまで
皇居がある千代田区では青空ものぞき、虹がかかったそうです。


皇居・宮殿で「饗宴の儀」


天皇陛下に成るべくしてお生まれになった「品と威厳」ですね。
日本に天皇さまがおられる事が誇らしく、日本に生まれて良かったと思ってます!

皇后さまも心配されたお疲れの様子もなく、笑顔が輝いてました。
美しいだけでなく、教養と知識に語学力が備わった最高の皇后さまです。

ご即位を祝うパレード「祝賀御列の儀」は、11月10日に行われます。
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奈良・日本で初めてお札になった人物の「神功皇后陵(じんぐうこうごうりょう)」

2019年10月22日 | 健康ハイキング・歴史クラブ・教養講座
10月度ハイキングに参加してきました。(10月18日金曜日)

コースは、奈良市・歴史の道
JR京都→近鉄奈良駅→→新祝園駅(しんほうそのえき)で乗り換え→平城駅へ
 

近鉄京都駅から乗るのは初めてですが


大阪難波・尼崎・三宮へも行けるんですね。

近鉄平城駅

平城駅から数分の所に「神功皇后陵」があります。

神功皇后陵

実際の被葬者は明らかではないそうですが
宮内庁により、奈良県奈良市山陵町にある「狹城盾列池上陵」
(さきのたたなみのいけのえのみささぎ)に治定され

『古事記』では「御陵は沙紀の盾列池上陵に在り」
『日本書紀』では「狭城盾列陵に葬る」と記されています。


平城宮跡北側を中心に広がる「佐紀盾列古墳群」の西端部に位置し
奈良市郊外の住宅街を望む高台に設けられている古墳です。


神功皇后は、第十四代の仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后になり
神功皇后と呼ばれ、みずから新羅に遠征したと伝えられています。

遺跡名は「五社神古墳(ごさしこふん)」

4世紀末~5世紀初めの古墳で全長275メートル。
佐紀盾列古墳群の中では、最も大きい前方後円墳です。


明治時代の改造紙幣に「神功皇后」の肖像が用いられ
これが日本における最初の女性肖像紙幣になり

「神功皇后札」は、明治14年~明治16年まで
「一円札」「五円札」「十円札」として発行されました。
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香川県小豆島の「井上誠耕園のオリーブオイル&丹波黒豆醤油 菊醤」

2019年10月18日 | 食楽
Yファミリーのお土産です。

井上誠耕園のオリーブオイル

ガーリックオイル(低温抽出)


いろんなお料理で
ヴァージンオリーブを使うことが多くなったので嬉しいです。


エキストラヴァージンオリーブで
青森産にんにくを低温でじっくり煮詰めた風味豊かなオイルです。

普段の調理法では摂取できないにんにくの栄養成分
「アホエン」がたっぷり含まれているそうです。
毎朝、サラダにかけて美味しく頂いてます。(^^♪

ヤマロク醤油 丹波黒豆醤油「菊醤油「きくびしお)」




『木桶職人復活プロジェクト』

ヤマロク醤油 五代目の山本康夫さんが、子や孫の世代に木桶仕込みの
本物の醤油を残そうと『木桶職人復活プロジェクト』をたちあげました。

それは 
本物の日本食の基礎調味料である「醤油・味噌・酢・味醂・酒」は、すべて木桶で醸造されていました。これらの調味料は微生物の発酵によって造られていました。美味しい発酵調味料を造る微生物たちは、タンクにほとんどいませんが、木桶には多く住みつくことができます。

しかし
木桶を製造できる桶屋さんは、大阪・堺市の「藤井製桶所」一社のみになり、、現在使われている醸造用の木桶は戦前に作られていたものがほとんどなので、今から約50年後にはほぼ全ての木桶が使えなくなってしまいます。

2012年1月に
小豆島の男気のある大工2名と共に木桶職人を目指して、藤井製桶所に弟子入りして新桶の製作に取り組みました。発注した新桶3本を使って、藤井製桶所さんから指導して頂き2013年9月20日に「小豆島で新桶を作る」思いが現実となります。

その後は
吉野杉を削って組上げ、亡き祖父が残した小豆島の竹で「たが」を編みました。多くの仲間の協力により
毎年1月に全国から様々な蔵元が集まり、小豆島で新桶を製作しています。(紙面より抜粋)

木桶で作られた「菊醤油「きくびしお)」美味しく頂いています。
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