中さん

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日記(12.6)

2022-12-06 11:52:47 | 日常
12月6日  (火曜日)  小雨⇒曇り  

サッカーはクロアチア戦、決着がつかず、PKまでもつれ込んだ。
しかし相手キーパーの素晴らしい反射神経の守備に阻まれて敗れてしまった。
厚い壁が立ちはだかる!
次の組み合わせ試合も楽しみだ!韓国もブラジルに4対1で敗れた。

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上毛新聞のコラムにあった。
 ▼米国の絹織物業は1840年代から東部を中心に発展した。
  原料となる生糸は欧州経由で輸入されたが、
  割高な上に品質が悪く、苦戦を強いられた。
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 ▼転機は大陸横断鉄道の開通である。
  船便と鉄道を使い、高品質で安価な日本生糸の直輸入が始まった。
  日本生糸は市場の9割を占め、スカーフやドレス
  ワイシャツに加工
された。
  織物業だけでなくファッションや交通網を発展させ、
  大陸横断鉄道はシルクトレインと呼ばれた
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 ▼伊勢崎市境島村で近代的な飼育法「清涼育」を確立した
  田島弥平
  生誕200周年を記念した講演会が開かれ、
  県職員(当時)として「富岡製糸場と絹産業遺産群」
  世界遺産登録に尽力した松浦利隆さんが語った
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 ▼大量の生糸を供給できた背景には、蚕の品種改良や飼育技術の普及で
  年に複数回の養蚕が可能になったことがある。
  何より弥平の飼育法を学んだ養蚕農家の努力が大きいという

 ▼講演を聞いて、日本の生糸が米国経済を飛躍させる原動力になったことを知った。
  筆者が子どもの頃は桑畑が広がり、どこでも養蚕が行われていたが、
  背後にこれほど大きなストーリーがあったことに驚いた

 ▼松浦さんは世界的な視点で歴史をたどるグローバルヒストリーと
  いう考え方を教えてくれた。
  広い視野に立ってこそ、絹の物語を紡いできた上州人の功績は輝きを増す。
  弥平の功績により多くの光が当たるといい。
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★富岡製糸場が世界遺産になって
 関連する施設が脚光を浴びた。
 私もご多分に漏れず ”生糸を供給できた背景”を覚え少し勉強をした。
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 子供のころお蚕様と言って桑くれをしている農家を近くで見ていた。
 夏休みの研究?は蚕育てであった。
 シャリシャリと桑の葉を食べる冷たい白い幼虫。
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★ 年を経て、結婚相手の実家は、当時年間 1トンを産出するお蚕農家で
 忙しい時期にはお蚕上げを手伝ったことを思い出す。
 生きものを扱うのは大変な仕事だと思った。
 桑の枝葉っぱ切り取り・桑くれは大変な重労働だった。
 また大事な絹を吐く蚕を”お蚕様”と言って
 大事にしていたんだなあ~!
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大陸横断鉄道”シルクトレイン”
伝説のシルクトレイン~日本の製糸場とカナダの鉄道の知られざる結びつきin 豆知識
★シルクは横浜から船で運ばれ、バンクーバー駅でシルクトレインに積み込まれました
  2014年に富岡製糸場が世界遺産に登録されました。
  富岡製糸場の観光客は急増し、シルクの歴史について
 さらに興味を持った人も多いことでしょう。
 それでも、日本のシルクとカナダの鉄道の結びつきや、
 シルクトレインの存在までは話題にならないようです。
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 アジアとヨーロッパは、シルクロードを通じて茶や陶器など
 さまざまな商品がやりとりされました。シルクロードというだけあって、
 価値としてはシルクが別格だったのでしょう。
◆19世紀に大陸横断鉄道が開通すると、
 アジアとアメリカ大陸の交易は太平洋航路+大陸横断鉄道が中心となりました。
 この時代でもやはりシルクは別格で、「シルクトレイン」なる専用列車が運行されました。
 明治時代の日本の発展と密接に関連していていることもあって、
 日本でもっと知られていてもいいのではないかと思う存在です。
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シルクトレインは、知れば知るほど面白い存在です。
ランク付けすると、
シルクトレイン>ロイヤルトレイン(王室専用列車)>特急列車>普通列車>貨物列車 
 という位置づけでした。以下にその理由を説明します。
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 第一に、ものすごく速い。
 シルクトレインの運行はどの列車よりも優先され、
 特急列車を含むすべての列車が待避させられます。
 大陸横断鉄道では、機関車を付け替えたり、石炭や水を補給したり、運転手が交代したり、
 という作業が途中で何度も必要になりますが、
 これも今のF1レースのピット
 最速の特急よりもまる1日早く東海岸に到達していたそうです。
 英領のカナダではイギリス王室が視察や旅行することがしばしばでした。
 王室専用列車(ロイヤルトレインといいます)ですら
 待避してシルクトレインに道を譲ったそうです。
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第二に、装備が特別だった。
 列車強盗に備えて武装した鉄道員が乗り込んで警備しました。
 近寄り難い雰囲気だったに違いありません。
 シルク専用の貨車にはスピードと乗り心地重視の特急列車の台車が用意されました。
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 第三に、時刻表にはもちろん載らず、
 不定期なので幻に近い存在だった。
 スピードは太平洋航路の貨物船からシルクトレインへの
 積み込みでも極めて重視されました。
 貨物船は毎日来るわけではないし、天候によって到着する時間もまちまちです。
 船の到着にあわせて慌ただしく専用貨車に積み込みが行われ、
 積み込みが完了したらすぐに出発し、特急列車もブッちぎってばく進する。
 シルクトレインを見ようと思っても、
 いつ走るかわからないのでほとんど不可能だったのです。
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 なぜそれほどまでにスピードが重視されたかというと、
 一つは保険料です。
 シルクは大変高価で、運送にあたっての保険料も相当な額になりました。
 保険料は運送時間に比例して掛けられたので、
 一分でも節約して目的地へ運ぶ必要があったのです。
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シルクは船会社にとっても鉄道会社にとっても貴重なお客様だったので、
 カナダ・アメリカの鉄道各社で熾烈な競争が繰り広げられたのですが、
 抜きん出た存在だったのがカナディアンパシフィック鉄道(CP)です。
 CPは最新鋭の船を自前で複数持っていたので、
 船を持たないカナディアンナショナル鉄道(CN)などとは歴然とした実力差がありました。
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また、アジアからの航路はバンクーバーがもっとも近く、
 サンフランシスコなどのアメリカの港に比べてバンクーバーには
 1日以上早く到着する点も強力な大きな強みでした。
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シルクトレインはアメリカ・カナダのさまざまな鉄道会社に存在しましたが、
バンクーバーからニューヨークへと運んだカナダのシルクトレインがもっとも有名です。
 富岡製糸場や「あゝ野麦峠」で製糸の苦労を知るとともに、
 製品が大変な労力を費やしながらアメリカ東海岸へと届けられたことも
 知っておいてよいのではないでしょうか。

 シルクを日本の女工が紡いだことは知られていますが、
 それがシルクトレインで運ばれてニューヨークの5番街などで
 富裕層に売られていたのはあまり知られていません。
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 パナマ運河の開通で船に積んだまま太平洋からアメリカ東海岸へ輸送されるようになると、バンクーバーの港としての地位もシルクトレインの価値も大幅に低下しました。
 1929年の大恐慌が追い討ちをかけ、さらに戦争によって
 シルクトレインは終焉を迎えます。

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ある地方で勤務していたときに、20代の同僚が
 蚕のことを「おかいこさま」と呼ぶのでびっくりしたことがあります。
 聞くと実家が兼業で養蚕農家をやっており、祖父母も父母もみんな「おかいこさま」と
 呼ぶので、その呼び方しかできないとのことでした。
 子供のときからずっとそう呼んでいるので、
 「かいこ」の方が違和感があるそうです。
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 シルクトレインに載せられていたのは蚕ではなくシルクだけれど、
 鉄道員も特別な呼び方をしていたのではないかと思ってしまいます。
「今日の貨物は?」「シルクさまだよ!」と。

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コメント
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