中さん

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日記(12.19)

2022-12-19 10:41:23 | 日常
12月19日(月曜日)  晴  寒い日だ

■今朝は氷点下になった。外に出してあるメダカの水槽に氷が張った。
 一匹子メダカが氷に挟まっている。
■昨晩はWカップサッカーの決勝 アルゼンチンとフランス戦 どちらも譲らずPK戦
 アルゼンチンが優勝した。 ちょっと眠い朝だ。
■大河ドラマ鎌倉殿の13人も最終回を終えた。小栗旬は凄い役者だなあ~。
 小池栄子は演技にドスが効いてきた。
 それにしても脚本家の三谷氏は天才かも。
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■一気に寒気団が来て海水温もまだ高めだというので大雪になった日本海側。
  私も少しの間ではあったが新潟の小千谷に出向した、
  雪のことは知らなかったので実際とても怖かった。
  今年のTVニュースが伝える、十日町・守門の雪はすごいと・・夏は素晴らしい景色なのになあ~
  当時、従業員にはそちらから来ている方もいて、雪の話は何回か聞いている。
  夜中に屋根の雪おろしで起こされた。たまらなかったと・・・言っていたのを思い出す。
  やっぱり待ったなしなんだなあ~。 重い雪で家がつぶれる。
  出向先から帰るときの高速道も一般道も非常に怖い思いをした。
  雪道の運転がとても下手だった。
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この時期だ新潟の新聞の記事を見てみた。
 新潟日報  日報抄 記事 12月19日
 街で勉強する高校生を最近よく見る。公共施設や商業施設、
 ファストフード、コーヒー店…。
 机に教科書や参考書、ノートを広げ、ペンを走らせている。
 昔はそれほど見なかった風景だ
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▼家は誘惑が多い、ガヤガヤしている方が集中できる、
 周りに人がいて適度な緊張感があっていい、友達がいる-。
「街勉」の理由はさまざまなようだ。
 一心不乱に問題を解く生徒や、勉強の合間にふざけ合う生徒。
 目に入ってくる青春の一コマに、こちらも元気をもらう
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▼長岡市役所は庁舎の一画に勉強用のスペースを設けている。
 さすが「米百俵」の地だ。
 戊辰戦争後、将来を担う人材を育てるため
 義援米を学校設立資金に充てた先人の精神が息づいている

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▼少子高齢化で人口減少が進む。
 先日の本紙には、対策を打たなければ2050年に県人口は141万人になると報じられていた。
 現状から約80万人の減少だ。
 人口予測をした「持続可能な地域社会総合研究所」は20代の流出が多く、
 30、40代のU・Iターンが少ないと分析する
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青春時代が楽しくないと人は故郷を出て、帰ってこない-。
 そんな話を聞いたことがある。確かにそうだ。
 青春時代がつらかったという人は、
 青春を過ごした土地も好きにならないだろう
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▼そう考えると、楽しく充実した青春を過ごす場や環境をつくることが、
 人口減を食い止める鍵になるかも。
 街の勉強スペースも青春の舞台。
 一人一人の青春ドラマが展開されている。
 地域の未来のためにも、良き青春であれと願う。
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★来年は雪のない時期に、長岡を訪れたいものだ。
 花火も見て、お寿司をいただき米百俵の歴史ももう少し知りたいなあ~。
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こういった研究所もあるんだ!
「持続可能な地域社会総合研究所」

人口減が際立ってきたなあ~。
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米百俵の事
人づくりはまちづくりの精神で復興
 北越戊辰戦争に敗れ、焦土と化した長岡のまちに、
 支藩である三根山藩(新潟県西蒲原郡巻町峰岡)から見舞いとして送られた米百俵。
 長岡藩大参事の小林虎三郎はこの米を藩士らに分配せず、
 国漢学校設立資金の一部に充てた・・・。
 この故事は昭和18年(1943)に刊行された、
 作家山本有三の戯曲「米百俵」によってひろく知られるようになり、
 小林虎三郎の精神は多くの人びとに深い感動を与えた。

国漢学校が開校
 「米を分けろ」と詰め寄る藩士らを前に、
  長岡藩の気風「常在戦場」の書幅を背にして、
  林虎三郎が教育へ寄せる思いを熱く語る・・・。
  戯曲「米百俵」の一番の見せ場である。
戊辰戦争に敗れ、長岡の人たちの暮らしは、その日の食事にも事欠くありさまだった。
 そんな中、小林虎三郎は「どんな苦境にあっても教育をおろそかにできない」と主張し、
 明治2年(1869)5月1日から、焼け残った長岡城下四郎丸村の昌福寺の本堂を仮校舎として、
 国漢学校を開校した。
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 翌年5月、長岡の窮状を見兼ねて、支藩の三根山藩から見舞いとして、
 米百俵が送られてきた。藩士らは、当然分配されるものと待った。
 しかし、小林虎三郎は、分配しても一人当たりいくらにもならない
 この百俵を元にして学校を建てることが、戦後の長岡を立て直す一番確かな道だと説いた。
 そして、反対する藩士らを説得し、米を売り、その代金を
 国漢学校の書籍や用具の購入に充てたのである。
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 6月15日には新校舎が完成。それまでの藩校は漢学を主に教えていたが、
 国漢学校ではそれだけでなく、
 日本の歴史や国学、さらに洋学、地理や物理、医学までも、
 質問形式の授業で学ぶことができた。また、身分にとらわれずだれでもが入学できた。
小林虎三郎の精神
 若くして藩校の助教を務めるほど学識が深かった小林虎三郎は、
 嘉永3年(1850)、藩命で江戸に遊学。翌年、佐久間象山の門に入り
 儒学、蘭学、窮理学(物理)などを熱心に学んだ。
 長州の吉田寅次郎(松蔭)とともに「二虎」と称され、
 師の佐久間象山からは

「事を天下に為すものは吉田松蔭、我が子の教育を託すものは小林虎三郎」と言われるほどだった。
 虎三郎は安政6年(1859)、「興学私議」に教育論をまとめ、
 その中で「教養を広めて人材を育する」という考えを述べている。
 人びとの暮らしが豊かになるのも、国が富むのも、
 教育が左右するというものであった。

 米百俵をもとにしてつくられた国漢学校は、
 日本や世界で通用する人間を育成するための学校といえた。
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★史跡クラブで佐久間「像山神社」には行ってきたなあ~!
コメント
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