「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

5月10日 『 黒糖の日 』

2013-05-11 07:17:17 | 今日は何の日?



渡名喜島にある「 昔の製糖車 」








製糖車の説明板






平敷屋にある製糖工場跡






沖縄製糖株式会社・宮古工場








与論島にある「 南島開発 」







喜界島にある 「 大和製糖喜界島工場 」






沖縄では2010年から、5月10日は語呂合わせで黒糖をアピールする 『 黒糖の日 』 に制定された。
沖縄で黒糖が作られるようになったのは今から380年程前、1623年(元和9年)琉球王朝尚豊3年、
儀間真常が中国から製糖法を学び普及が始まった。
琉球時代より沖縄を代表する味として親しまれ、伝統的な琉球料理に使用が欠かせず、
また茶菓子にも広く使われ親しまれている。
そこであらためて、沖縄産の黒糖の良さをPRして販売拡大に繋げようと、
県と生産地の町村、製糖会社などで作る「沖縄県含みつ糖対策協議会」が、
5月10日を 『 黒糖の日 』 と決めて、アピールに取り組み出したということである。




沖縄県うるま市  「 安慶名グスク 」

2013-05-11 06:14:57 | グスク ( 城 ) ・ 遺跡



安慶名グスクのシンボルとなる城門








加工された石を積んだ城門 ( 表側 )







自然石をくり貫いた二の郭の城門 (城内側 )







グスクの入り口に立つ路標







路標を過ぎて自然岩を並べた階段を登って行くと、城門へたどり着く








城門の下あたりにある 「 安慶名大川按司の墓 」







頂上部のフラットになった内郭広場 ( 主郭 )







頂上部にある主郭の石塁 ( 主郭の石塁 )







グスク内にある 「 安慶名宇志仁 」 の拝所







中央公園から見た安慶名グスク、中央やや左の尖った岩が石門あたりになる












安慶名グスクについては、ブログの開設当初に 「 沖縄の文化財 」 のカテゴリーで掲載したが、
安慶名大川按司の墓と動画の関連から再度グスクの掲載したものである。

安慶名グスクは14世紀頃、安慶名(大川)按司によって築かれたとされている。
別名、大川(ウーガー)グスクとも呼ばれ、
その名の由来である天瀬川は沖縄本島中部地方の東、
金武湾に注ぐ川を地元では大川と称していた。その川名が城名や按司名になったようである。
沖縄のグスクは、主として郭が縦または横になった連郭式のグスクがほとんどであるが、
安慶名グスクは唯一の輪郭式のグスクであり、独立した岩山頂上部の広場を内郭とし、
中腹部を外郭としており、岩山に築かれた階段を登って行くと、
自然岩を刳り貫いた石門が目に入って来る。思わず「うぉー」っと声が出てしまうような光景である。
この門を潜り抜けると、主郭の広場(二の郭)が広がっている。

安慶名大川按司は、伊波城主の初代伊覇按司の五男と伝えられる。
城は最初、兼箇段(かねかだん)に築く予定だったが、
安慶名の独立丘の方が条件に適している事から、この地になったという。


【 安慶名グスクの落城伝説 】
勢力を付け、周囲を威圧してきた安慶名按司の勢いは、首里城主の領域までも及び、
そのことを恐れた首里城主は、軍勢を送って安慶名グスクを攻めさせたが、
要塞堅固な安慶名グスクはそう簡単に陥落せず、そればかりか優れた安慶名軍の反撃に手を焼いていた。
ところが、安慶名グスクには水がなく、用水は大川より汲み運んでいた。
その事を知った首里軍は、水路を断つ作戦を敢行し、ついに難攻不落の城も落城したといわれる。



沖縄県うるま市   「 安慶名大川按司 ( あげなおおかわあじ ) の墓 」

2013-05-11 06:10:09 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



安慶名大川按司の墓









安慶名十字路の北西、具志川商業高校の西に安慶名城跡公園がある。
そこの石段を上ると石門の手前右下方に、岩陰に石積みされた按司墓がある。

城主の安慶名大川按司は、今帰仁城を逃れた中北山系の子孫・伊覇按司の分かれだといわれている。
伊波城主の伊波按司は幾人かの息子が出来、一人は安慶名グスクに配し、
安慶名大川按司を称したといわれている。

この按司の長男は同じ安慶名グスクに居城し、次男は屋良グスクに、
三男は具志川グスクに、四男は喜屋武グスクに配していたと伝わっている。
二代目、安慶名大川按司には四人の息子がいて、
長男はあとを継ぎ、次男は高根按司、三男は具志川按司、四男は久志若按司と称していた。
安慶名グスクは三代まで続き、廃城は首里王府軍に攻められたのか?
尚真王の中央集権によるものかは不詳である。
四代目は宜野座村惣慶へ移り、子孫は金武門中ともいう。

安慶名城跡には、グスク嶽 ( 神名・クニヅカサの御イベ ) がある。