「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

沖縄県那覇市 「 儀間真常の墓 」

2013-05-24 06:29:15 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



儀間真常の墓



















儀間真常(ぎましんじょう)は、サツマイモや木綿織り、
砂糖の作り方などを国中に広め、沖縄を支える産業を起こした人である。

儀間真常は、1557年、真和志間切垣花村 ( まわしまぎりかきのはなむら ) に生まれた。
台風や日照りなどの影響を受けやすかったこの頃の琉球王国は、
食べ物が乏しく人々は食量不足に悩まされていた。
領主である父と一緒に、村を歩くことが多かった小さいころの真常は、
人々が苦しんでいるようすを見て 「 何とかしてみんなの暮らしを楽にしてあげたい 」 と思っていた。
14才になって、首里城に勤めるようになった真常は、
一生懸命働き、36才の時に父のあとを継いで領主になった。

39才の時、琉球王国の使者として中国に渡った真常は、
広い土地に青々と育っている豊かな農作物を見て驚いた。
「 このように農作物が育てば、琉球も豊になるのだが… 」

そんな思いで琉球に戻って来た真常に、いい報せが入って来た。
台風にも強く、やせた土地でも育つという、
まさに琉球にぴったりの作物が、ある村で栽培されているという報せだった。
イモという作物が、新しい食べ物として人々に喜ばれているというのだ。

さっそく真常は、このイモを中国から持ち帰った野国総管(のぐにそうかん)に会いに行き、
タネイモをわけてもらうと、家のうら庭でさっそくイモを育てた。
すると半年も経たないうちに、畑いっぱいにイモが育った。
イモの栽培は、そのあと真常の指導で琉球のあちこちに広まり、
さらには薩摩にも伝わって、サツマイモとして日本中に知られるようになった。

しばらくして、薩摩が琉球に攻め入って来た。
長い間平和な時代が続き、戦いに慣れていなかった琉球はすぐに敗れ、
捕虜となった尚寧王(しょうねいおう)は江戸に連行されてしまった。
尚寧王のお供として薩摩に渡った真常は、そこで初めて綿と出合った。

そのころ琉球の着物といえば、芭蕉や麻で造ったうすい布ばかりだった。
木綿の着物があれば、冬でも暖かく過ごせると考えた真常は、
綿のタネを持ち帰ると庭で栽培した。
それから泉崎に住んでいた薩摩出身の姉妹の助けを借りて、木綿の作り方を村の女性たちに習わせた。
こうして出来上がった木綿の着物は、のちに 「 琉球絣 」 として沖縄の特産品になった。

薩摩が侵入して来ると、琉球は中国との行き来を制限された。
また、薩摩にも、取れた作物を年貢として納めなければならなくなったため、
人々の暮らしは苦しくなっていった。
そんな人々のようすを見て悲しんだ真常は、 「 琉球を豊に出来る方法はないものか 」 と考えた。
そして、目をつけたのがサトウキビだった。

琉球ではサトウキビは栽培されていたが、あまい汁を食べ物の代わりとしていただけで、
サトウキビから黒糖を造る方法は誰も知らなかった。
黒糖が薩摩で高く売れているといううわさを聞いた真常は、黒糖づくりの方法を学ばせるため、
二人の若者を中国に渡らせた。

黒糖づくりを学んだ若者たちが中国から帰ってくると、
真常は自分の家の庭の砂糖小屋で黒糖を造り、やがて国中に広めていった。
およそ400年経った今では、サトウキビの栽培は沖縄の中心的な産業になっている。

儀間真常は、88才でこの世を去るまで、新しいモノを造り出す喜びと希望を、
苦しい時代を生きる人々に与え続けたといえるだろう。

そんな儀間真常の墓は首里崎山町の御茶屋御殿跡の下にある。




福岡県築上町  ・  旧蔵内邸 「 大広間から見た庭園 」

2013-05-24 06:26:51 | 近代化産業遺産・土木遺産



大広間から見た庭園






正面に角部屋の 「 茶室 」 が見える





座敷と控間の角に設置された 「 手水鉢 」







弓形天井の入側縁










18畳の広間が2室続く大広間の入側縁は
弓型天井が24畳にも連なる。
ここの窓ガラスを開けたその先には日本庭園が広がり、
優雅で開放的な視界が眼から心に伝わって来て、贅沢な気分にさせてくれる。
それは、まさに “ 至極の時間 ” である。



しそ焼酎 「 高譚 ( たんたかたん ) 」

2013-05-24 06:22:06 | 泡盛 ・ 焼酎 ・ 酒







先ず最初にこの焼酎に興味を持ったのが、 “ 北海道 ” の焼酎というところからだった。

「 鍛高譚 」 は、厳選された香り高いしそと
大雪山系の清冽な水を使用した爽やかな風味が、
刺身など和食が合う焼酎である。


「 鍛高譚 」 なんて読むんやろう。って思っていたら、「タンタカタン」 と読むのだった。
ドラムの軽快なマーチが聴こえて来そうなリズミカルな名前である。
これはれっきとした商品名、お酒 ( 焼酎 ) の名前である。
実在する地名から取っているだけなのです。
釧路管内白糠郡白糠町の茶路川中流域にある地名が 「 鍛高 ( たんたか ) 」 であるが、
それに 「 譚 」 を付け加えたものであるらしい。

「 鍛高 」 とはアイヌ語の 「 タンタカ 」 が由来で、
意味は魚のカレイやヒラメのことだそうだが、
「 譚 」 は瓢箪と思いきや、これもアイヌ語で、物語という意味らしい。
合わせれば 「 カレイ物語 」 ということになるのだろう。

“ しそ焼酎 ” の譚高譚の白糠町の鍛高地区は、実はシソの生産地である。
地元のしそ生産者のひとりで、北海道が認定する 「 名人 」 にもなっている平賀さんという方。
この方が自家製のしそでジュースを造り焼酎に入れていたようです。
「 これを製品化出来ないだろうか 」 ということで町に持ちかけたのが始まりだそうである。

全国を見ても前例がないとのことで、製造担当の旭川市の合同酒精工場が翌年試作品を製造。
その年に白糠町赤シソ+大雪の水のコラボレーションによる「しそ焼酎・鍛高譚」が発売となったものである。

「 鍛高譚 」 という名前ですが、一般公募で募集した候補から5つに絞り、
最終的に 「 タンタカリカー 」 に決定したが、
語呂合わせから 「 鍛高譚 」 「 たんたかたん 」 になったいう。

鍛高譚=たんたかの物語とは?
現在でも発売されているパッケージにはその物語の絵が描かれている。
「 たんたか 」 つまりカレイが紫の草を持ち帰り、魚たちが元気になったというストーリーで、
紫の草があった山をタンタカ山と名づけたというものである。