和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

これはあまりにも愚かなこと

2024-06-02 | 安房
曽野綾子著「揺れる大地に立って」(扶桑社・2011年9月)から
「義援金の配り方」の箇所を引用。

「・・第二の点は、義援金を正しく公平に分けるということである。
 ・・公平に平等にという例の思想のために、分配の機能が著しく
 阻害されることである。

 私は改めて言うが、それを悪いと言っているのではない。・・・
 できるだけ公平に平等にすべきだ。

 しかし超法規しか力を持ちえないような非常時には、
 公平や平等を期すことは不可能に近い。
 通信も交通も破壊されている。情報も偏っている。

 だからそういう時にもなお公平と平等を追求したりすると、
 公平に平等に何も配らないでいる他はない。
 しかしこれはあまりにも愚かなことであろう。  」(p140)


この曽野さんの言葉から、思い浮かぶ『安房震災誌』の箇所を引用。
それは、トタンを大阪から送ってもらい、次にもう一度大阪に注文する
箇所にありました。具体的な箇所はあとにして、その最後にこうあります。

「・・『トタン』とその付属物料を罹災民の急に応じて
 配給し得たのは郡長が英断の結果である。

 勿論その英断は、県から見れば独断専行であるが、
 それは常規から見た場合のことで、地震が描いた事実必然の要求は、
 実際常規で律することが不可能であった。
 今回の地震は詔書のいはゆる『 前古無比 』である。
 眼前に起った必然の要求は何よりも強力であった。  」(p270)


では、二回目の『トタン』の取り寄せの経緯を記した場面を引用することに。

「斯くて第一回の屋根材料は、陸揚と同時に直ちに配給したのであるが、
 町村長会議を招集して、各町村の所要を聞くに、
 『トタン』板30余萬枚及び釘、鎹(かすがい)等之れに付属する
 物料を要するとのことであった。

 ところが、第二回目には、現金がなければ此等の諸材料を
 取寄せることが出来ないのであった。
 然るに素より斯うした大枚の金が郡当局の手にあるべき筈もないので、
 県の保証を得て、一時の窮状を救ふの外なかった。

 そこで、安房銀行頭取小原金次氏に謀り、
 光田鹿太郎氏と同行上県して知事に懇請することにした。
 そして門郡書記を同行せしめた。

 ところが、知事は本件については一切責任を負ふこと能はずとて、
 その懇請するところを容れなかった。

 然し安房銀行にして責任を負ふならば、
 農工銀行、川崎銀行の2行より金15萬円貸出の斡旋をする
 ことだけは辞せぬ。といふことであった。

 そこで小原氏は直ちに2銀行の代表者に会見して、
 安房銀行に於て、15万円を借入れ、之れを以て
 第二回の屋根材料を再び大坂に於て購入するに決した。

 而して、第二回の大阪行きも矢張り光田氏を煩すことにした。
 光田氏の外に安房銀行2名が正金を携へて、
 日本銀行に至り之を手形に振替へて、
 宇都宮郡書記が同行下阪することにした。

 そして再び大阪府庁の斡旋で、『トタン』板5萬枚、
 大小釘1200樽、外に『マッチ』『ローソク』若干を購入した。

 ところが、輸送船に差閊へたので、
 折原兵庫県知事の盡力で汽船豊富丸の提供を得て、
 輸送せしめたのであった。豊富丸が、館山に入港したのは、
 10月17日であった。

 要するに小屋掛材料の配給は、可なり
 複雑な経緯の下に郡長は多大な苦痛を嘗めたのであった。
 が、然し・・・・・         」(p269~270)


最後には、曽野さんの本へともどり、また引用することに。

「お金は集めるより配るほうが難しい。
 正確に、目的に叶った相手に、安全に渡すことは至難の業である。」(p143)

「 日本赤十字も赤い羽根共同基金も、
  集めたお金を被災者が最も必要とする時期に、
  今回も配ることをしなかった。

  既にこの問題は、阪神淡路大震災の時にも問題になっていたことである。
  あれから16年、・・私たちは天災が再び起こることを予測しなければ
  ならなかったと思う。

  しかし今回もまた寄付金や義援金が最も威力を発揮する時に
  人々の手に渡らなかったのは、16年間に関係者が本気で
  素早い分配の方法を、真剣に考えて来なかったからである。」(p136)


現在の安房には、市と町はあっても、それを束ねる安房郡長はおられない。
館山市も鴨川市も南房総市も鋸南町も、まずは、大橋高四郎がいたことを、
知ることから、はじめるべきではないのだろうか。

さてっと、今年一日だけで、一時間ほどの講座。
こんな話を、いったい私にできるのかどうか(笑)。
 
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臨機応変へのレッスン。

2024-06-01 | 安房
東日本大震災の頃に各雑誌へと掲載した文をまとめた一冊
曽野綾子著「揺れる大地に立って」(扶桑社)を、
このところ、身近に置いております。

その本の目次をめくると、そこに
「 初めて日本が崩壊するのを見た70歳以下の人々 」
なんて小見出しがあるので、そのページをひらいてみる。

「 ・・今度初めて70歳以下の人々は、
  3月11日以前の日本社会が崩壊したのを見た。
  彼らはそのような日本の姿が崩壊する日が
  あろうとは思わなかったようだった。・・・ 」(p71)

この本が出版されたのが、2011年9月10日。
ということは、当時70歳の方は、現在はもう
80歳を過ぎていることになるなあ、とそんなことを思うのでした。

この世代については、こうもありました。

「 常にあらゆるものに規則があり、それを守ることが
  役所としても学校としても個人としても
  最も大切なことだと教えられて育った世代は、
  その規則が適応できない事態になると
  全くどうしていいかわからない
  パニックに陥るか、思考停止になる。・・・
  臨機応変という才能は実に大切だ。
  なぜなら災害時には、状態が刻一刻と変わる。・・  」(p191)


はい。以上を前置きとして、
「安房震災誌」にある、後日談のエピソードをひとつ引用してみます。
これが、臨機応変へのレッスンとなるのかどうか?

「 ・・震後或る日の未明であった。
  郡長は何時ものやうに、中学校の裏門通りを郡役所に急いだ。

  途に一人の老爺が、郡長を見かけて
『 誰れの仕事か知れませんが、毎晩来てうちの芋畑を
  すっかり荒して了ひました。どうかなりませんでせうか? 』

  すると、郡長は
『 折角の作物を盗まれるのは、洵に気の毒だが、
  ぢいさんよく考へてお呉れ。

  お前は とられる方で とられる物を持っているのだが、  
  とらなければ、今日此の頃、生きて行けぬ方の身にもなって
  御覧なさい、どんなに苦しいか分からない。

  殊にお前は、世間の多数が死んだり負傷したりした
  大震災の中に、無事なやうだ。

  並み大抵の時とは違ふから、
  辛棒して大目に見てやって呉れ! 』

  と頼むやうに諭してやったそうである。
  郡長の話を傾聴してゐた老爺は、郡長の言下に
『 ああ分りました、分りました。どうも済みませんでした。
  よろしうございます 』
  と幾たびか低頭して、其處を去った。・・・・・・

  人心が動もすれば悪化せんとしてゐる最中である。
   ・・・・                   」(p315)



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「時に君とんだ事になったね」

2024-05-31 | 安房
「安房郡の関東大震災」で、ここには船形町を取り上げてみます。
「安房震災誌」の「海嘯及び火災」のはじまりにこうありました。

「海嘯は、富崎村西岬村の一部、即ち外洋に面した一小部分
 に襲来したのみで、内湾は方面は、平静であった。

 火災は、船形町が第一で、館山之れに次ぎ、北條町は、
 その次位に居るの順序である・・・   」(p204)

このあとに各町村の被害状況があがっておりますので、
そのなかの船形町の記述を紹介してゆきます。

「 海嘯は流言に過ぎなかったが、地震の混乱裡に
  町の西方から火災起り、吹き荒む西北風に煽られ、
  炎々たる紅蓮は家より家へと燃え移り、火焔は砂塵を捲き、
  風向火勢を伴ひ本町の大半を焦土と化した。

  折柄、海嘯襲来の流言頻りに到り、それに脅かされて、
  家財道具の一物をも持たず、子を負ひ老を助けて
  北方の丘をめざして避難した。・・・・・

  ・・避難したものも、一時の流言であったことが分かったので、
  家財の取纏めに帰ったが、余震が間断なく来るので
  畑の中でも、芝生でも鉄道の線路でもところ選ばず、
  板を敷き、戸を並べて其處に家財を積みかさねて
  神を祈り、佛を念じながら、濛々黒煙のうちに
  燃え行く町を見詰めて夜に入ったのであった。

  焼失戸数実に340戸に及んだ。   」(p208~209)


 さらに、田村シルト芳子さんの文には、
 この火元への言及があるのでした。

「 ・・折りしも秋鯖の節の火入れをしていた、
  西の外浜近くのいさばから出火。瞬く間に、
  炎火は西、仲宿、東地区の家々を次々と焼き尽くした。

  また、地は割れ、線路は曲がり、土地が隆起して海岸線は遠のき、
  新たな砂浜が出現し、ために港や堤防は機能しなくなった。・・ 」

  (  p58 編者「あとがき」より
      「安房郡船形町震災誌」船形尋常高等小学校編纂
      改訂版・2012年1月 編集・発行人 田村シルト芳子  )

 
別の本には、船形町長・正木清一郎氏のとった行動を記述した
「船形尋常高等小学校報」がありました。そちらも引用してゆきます。

「 正木清一郎翁は当時船形町長の要職に居られまして
  齢70歳に近きも意気は壮者を凌ぐ程であった。

  当日町役場より中食の為帰宅せられ暑さが厳しいので、
  羽織と袴を脱ぎ浴衣に着替へると、直ちにあの大震災に遭ひ
  翁の住家は勿論、土蔵其の他の建物は全部倒潰、
  翁は幸ひに家屋の下敷とならず逃れ出でたが、
  令夫人は不幸下敷となられたが幸にさしたる負傷もなく  
  助かりしことは不幸中の幸であった。

  学校や役場は勿論倒潰し、学校に於て私共職員下敷となれるもの
  数名あったが、これ亦幸に大なる負傷もなく
  倒潰直ちに逃れ出し者掘り出されし者あり、

  自分は夢の醒めし如く正気付きし時、
  始めて自らの両脚をひしがれて居ったことに気づき
  脚を抜き取らんと努めた。幸に余震の為空間出来しものか
  両脚を抜き取ることが出来た。
  倒潰せる校舎の棟に登りし時、

  責任観念の旺盛なる翁には早くも校門に現はれ、
  児童は職員は大丈夫かと叫ばれ・・・
  掘り出せし御真影を奉戴し居ると
  
  翁曰く海嘯との叫びがするから
  あなたは御影を・・大石正巳閣下の別邸に奉遷しなさい、

  僕が海岸に参って様子を見て来るからとの言葉、
  御老体のこと危険なるべきことを申上ぐると、
  決して心配はない海嘯は沖合に見えてから逃れることが出来るものだ。
  僕に心配なく閣下の別邸に避難するがよいとのことにて
  其の言に従ひました。

  間もなく翁は別邸に来り海嘯は最早来ない心配ない。
  只だ心配なのはあの大火災だ風向きによっては
  町の大部分は焦土と化してしまうと心配されて居られた。 」

 ( p910~912 「大正大震災の回顧と其の復興」上巻 )


はい。この「船形尋常高等小学校報」は、まだ続きます。
ここでは、残りのほぼ全文を引用しておわることに。

「  ・・・其の夜は翁と共に御影を守護し奉りつつ
   町の火災の模様を眺め徹夜した。

   翁曰く、時に君とんだ事になったね、
   町の大部分は倒潰した其の上にあの大火災、
   純漁村のこの町では町民を活かす事が先決問題だ。
   全力をこの事に注がなければならない、
   如何にしようかとの御相談・・・

   又曰く、ああ咄嗟の場合よい考も出ないが
   明朝夜の明くるを待って学校の運動場に行き
   町会議員、区長、米穀商を召集し、其の善後策を講じませう。

   夜の明くるを待って校庭に行き使を遣はし
   名誉職並米穀商を召集し、協議の結果直ちに
   本町在米の調査を致せしに漸く1日を支へるに足るか否かの米、
  
   程なく直ちに役場吏員を派して、被害僅少といはれる
   瀧田村平群村より長狭方面に米の注文をさせ、
   為に他の被害地よりも早く米の供給を得、
   町民も安堵の色見えたのであった。

   而し一方負傷病者は医薬なく、発熱せるも氷なき状態を見て、
   之れ亦早く救済しなければならないとて
   町内の薬店より薬品を掘出させ、氷は
   町内昨年故人となられた翁の嗣子正木一作氏日東製氷庫を
   営み倉庫は倒潰火災に遭ひしも大量の氷が焼跡に残存せし故、
   負傷病者に無料給與せしに本町は勿論四隣の町村
   離れては北條館山両町よりも分與を申出づるもの多く、
   此の氷如何に人命を助けたか知れぬ。

  
   被害激甚の町なれば御慰問並視察の方々の来訪引きもきらず、
   翁は朝は月を踏み夜は星を戴き仮事務所に於て精勤せられ、
   御慰問並視察の方に対して被害の状況を町図を広げて諄々と説明し、
   其の救済の計画方法までも詳細に申上げ救助を求むるなど、

   老体の身を以てかく熱心に盡されて
   身に障害あってはと心配せざる人はなかった。

   其の暇には役場吏員、名誉職、各種団体員に給與、救済等に
   関し詳細注意を與へられしが翁の責任感の偉大さと熱心とに
   動かされ、皆吾が身を忘れて盡したのであった。  」(~p913)
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鏡ケ浦沿いの震災写真帖

2024-05-30 | 安房
「安房震災誌」から、北條町・館山町などの家屋倒壊の状況を
あらためて、引用しておきます。

「震災当時に於ける、北條町の総戸数は1616戸であったが、
 そのうちの1567戸は、地震の為に、全潰、半潰、焼失の厄に遭った。・・

 館山町は当時総戸数1678戸で、その内の1663戸が、矢張り
 全潰と半潰と焼失とであった。・・・

 那古町も百分の98、船形町も百分の92といふ被害である。
 此等鏡ケ浦沿ひの町は、実に建物全滅といふ状態である 」(p265)

そのあとに、光田鹿太郎氏が、大阪へ資材を懇請しに出発する
9月11日までの状況が語られております。

「 従って、その応急手段として、小屋掛の必要なことはいふを俟たない
  のであるが、当時小屋掛材料の欠乏には、郡当局の頗る困却したところで  
  ある。罹災者の中には破れた戸板や、板切れなどで僅に
  雨露を凌ぐ用意をしたものもあったが、
  多数の罹災者は、それすらも出来なかった。

  雨のたびに折角取出した破れ残りの家財や商品などは、
  之を始末するの方法がなかった。

  殊に瀕死の病者や、産婦を持つ家では、
  せめて屋根の下で介抱しやうとしても、それが出来なかった。
  そして斯うした惨状が、つい10日もつづいた。

  中には郡衙に救護を頼んで来るものも少なくなかった。
  医薬、食料の大欠乏で大困却をした郡当局は、
  小屋掛材料の欠乏でも、亦たそれに劣らぬ
  大いなる困難を感じさせられたのである。  」(p266)

そして軍艦に乗船させてもらった光田鹿太郎氏が
館山湾を出航したのが9月11日、
館山湾へ帰還したのが9月28日だったのでした。

「安房震災誌」に「善行表彰」という章がありました。

「・・中に郡長より県に調査報告したいはゆる
  功績顕著なるものをここに掲げる。・・ 」(p339)

とあり、その最初にあるのが光田鹿太郎氏でした。
次には、震災当日県庁へ急使を買って出た郡書記重田嘉一氏。
その次、当日郡内平群、大山、吉尾へ急使に立った久我武雄氏。
この順に、記載があります。

どれも、郡長による、県への調査報告が正確にして躍如としております。
ここには、前回気になっておりました『 安房震災写真帖 』について、
その経緯が、この調査報告書に記してありましたのでそこから引用。

まず、前回引用した箇所はこうでした。光田鹿太郎氏が大阪府にゆき

「府当局及び府市の有志者から成る関東大震災救護に関する委員の
 会合があったので、それへ出席して、安房大震災に関する
 一場の講演を為し、且つ携ふるところの安房震災写真帖を示して、
 大阪人の前に安房大震災の惨状を開示した。・・・」(p267~268)

ここに出てくる『 安房震災写真帖 』について
郡長による調査報告から切り抜いてとりあげておきます。

「氏(光田)は大震以来一身一家の一切を放擲し八方に奔走して
 寧日なく今日に及ぶ事績の特に顕著なるもの左の如し。

 ① ・・・・
 ② ・・・・
 ③ 3日余震尚ほ甚だし此の時に当り
   震災の現況を撮影し置くは永久の紀念たるのみならず
   教育上、歴史上、科学上有効の材料たるべき旨を建策し   
   写真師を伴ひ危険を冒して其の撮影に努む

   此の写真は御差遣の侍従及び山階宮殿下の御目にかけたるに
   何れも好材料なりとて御持帰りあらせらる
   其の他地震学者等多数本部視察者に於て複製して参考に供せらる。 」

この写真帖作成は、光田氏による発案実行だったことがわかるのでした。
①と②はここではカットしますが、➃と⑤はひきつづき引用しておわります。

「➃ 災後数日にして医薬食品の配給稍や其の緒に就くや
   次に欠乏を感ずるは小屋掛材料殊に屋根材料なり
   屋根材料としては此際『 トタン 』を措て他に適当のものなし
  
   氏は大阪に知己あり多少該品の買付を為し得るの確信ある旨を
   通じ乃ち小官の依頼をうけ9月10日交通機関は依然破壊状態にして
   旅程困難なるに際し萬難を拝し方途を盡して大阪に赴き
 
   亜鉛板10萬枚、釘300樽其の他の買付を為すと共に、
   大に当地の惨状を説き同情を喚起し幾多慰問品の寄贈を得たり

   10月更らに第2回の亜鉛購入の為め下阪し
   大阪神戸の間に奔走し亜鉛板5萬枚、釘1200樽購入の任を全うす。

 ⑤ 11月下旬3たび大阪神戸に下り布団、毛布募集の大遊説を試み
   布団、毛布其の他千余の寄贈を受け家屋の焼失、流失者に分与し
   寒さと飢に泣く罹災者を救ふの途を講ぜらる。

 以上氏が真に罹災者を思ふの熱情と犠牲的精神の然らしむるものにして
 其の功績顕著なりと謂ふべし。   」(~p342)


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英断家と熱血家

2024-05-29 | 安房
「安房震災誌」をひらいていても、
安房郡長大橋高四郎の正確な年齢はわからないなあ?

そういえば、年齢がわかる人がおりました。
光田鹿太郎(みつだ・しかたろう)1880年(明治13年)生まれ。
ということは、関東大震災の光田氏の年齢は43歳くらい。

「安房震災誌」の中に、『英断家と熱血家』とあります。
英断家の大橋高四郎と、熱血家の光田鹿太郎ということらしい。

光田氏の名前をネット検索してみると、
「岡山生まれ。「福祉の父」と呼ばれる石井十次(1862〜1914)が始めた岡山孤児院で事務を執り、鎌倉・東京を経て、1916(大正5)年、北条町新塩場に千葉県育児園(県内初の孤児院)を開園。関東大震災で園は倒壊するが、孤児は助かる。神のご加護と感謝し、関西方面の知人を頼って救援物資依頼の演説会を各地で開催、布団など1千点余の支援を仰ぎ、熱意と犠牲的精神をもって被災者の寒さと飢えを救った。・・・」(「館山まるごと博物館」より)

「安房震災誌」に登場する安房郡長と光田氏との箇所をここに引用しておきます。

「・・・郡当局は、屋根材料の供給に腐心してゐるところへ、
 偶々千葉県育児園主光田鹿太郎氏が訪て来た。

 氏は宗教家で安房に育児事業に従事してゐるものである。
 此の度の 大地震には、心身を捧げて罹災民の為めに盡してゐるものである。

 屋根材料の欠乏には、初めから確信があったらしく、
『 自分は大阪に大鐵工場を経営してゐる小泉澄と云う知己がある。
  此際のことだ、之れに懇請すれば、トタンとそうした材料は、
  多少手に入れることが出来る確信がある 』といはれた。・・・・

  そこで、郡長は
『 此の急迫な事情で県の指揮を仰ぐ余裕がない、
  全責任は自分一人で負ふ覚悟である。
  トタンと屋根材料一切の為めに、
  即刻大阪へ急行して貰ひたい 』と、・・光田氏に答へた。

 素より英断家と熱血家の、民を救ふか救わぬかの分かれ目の場合だ、
 話は忽ち一決して、愈よ光田氏は大阪へ急行と極まった。

 すると氏は一刻の猶予もなくその場から直ちに飛び出して、
 館山に行って、碇泊してゐた軍艦に事の次第を訴へて、
 大阪急行のことを頼んだ。光田氏の熱心は艦長の同情を喚起して、
 遂に即刻乗艦の許可を得た。
 
 —— 当時鉄道も汽船も、震災の為めに杜絶して、軍艦による外なかった。——
 そして、直ちに館山湾を出発した。それは9月11日であった。

 ・・・大阪に着くと、直ちに小泉氏を訪ひ、
 次で大阪府庁を訪ふて屋根材料のことを懇請すると同時に、
 偶々府当局及び府市の有志者から成る関東大震災救護に関する
 委員会の会合があったので、それへ出席して、
 安房大震災に関する一場の講演を為し、
 且つ携ふるところの安房震災写真帖を示して、
 大阪人の前に安房大震災の惨状を開示した。

 ・・・府庁では・・忽ちに『トタン』10萬枚と、釘300樽、鎹1萬本、針金2千貫。
 外にローソク、マッチ、衛生材料を取りまとめ、その上之れが輸送に要する
 汽船の提供までも尽力・・一刻も早く罹災者の急を救ふべく厚意を寄せられた。

 ・・・館山湾へ入港した・・時は実に9月28日であった。  」(p266∼268)


ここは、長くなるので、次回もつづけることにします。
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人の言葉の散りやすさ

2024-05-25 | 安房
流言蜚語から、私は岸田衿子の詩の2行を思い浮かべます。

    人の言葉の散りやすさ
    へびと風との逃げやすさ

それはそうと、散らずに言葉をささえるという事例を以下に示すことに。

「安房震災誌」に、関東大震災の9月3日の晩の出来事が書かれています。

「 9月3日の晩であった、北條の彼方此方で警鐘が乱打された、
  聞けば船形から食料掠奪に来るといふ話である。

  田内北條署長及び警官10数名は、之を鎮静すべく
  那古方面へ向て出発したが、
  掠奪隊の来るべき様子もなかった。

  思ふに是れは人心が不安に襲われて・・・・
  何かの聞き誤りが基となったのであろう。  」(p220~221)

これに安房郡長大橋高四郎は、どう対処したのか

「 すると、郡長は、
 『 食料は何程でも郡役所で供給するから安心せよ 』
 
  といふ意味の掲示をした。可なり放胆な掲示ではあるが、
  将に騒擾に傾かんとする刹那の人心には、
  
  此の掲示が多大に効果があったのである。
  果して掠奪さわぎはそれで沮止された。  」(p221)

この大胆な掲示内容を守るべく、郡長は食料調達へと
力を注いでゆくことになります。

「 郡当局は、一方県に急報して、食料の配給を求むると同時に、
  他方旧長狭に駐在してゐた県の耕地整理課技手齋藤正氏に嘱託して、
  同地方の米を買収して、鴨川より海路北條に輸送するの計画をした
  ところが、米の買収は中々困難であった。

  それは、何時又重ねて大地震の来るかも知れないといふ懸念と、
  交通杜絶の為めに、今米をはなせば、生命をつなぐ途が絶える
  と悲観したからであった。

  ―― 此の時 徴発してはどうだ。 と、いふ話もあったが、
     郡長は頭からそれに反対した。それは、唯でさへ
     
     人心恟々たる折柄に、徴発でもやったら、
     事態容易ならぬこととなるからであった。 ――  」(p261)


ここで、『徴発してはどうだ』という意見に
安房郡長は「頭からそれに反対した」とあるのでした。

安易な徴発が、さまざまに容易ならぬ事態を招くことを
郡長はきっと、経験知からして、判断を下していたのかも知れません。

たとえば、『米騒動』にかぎってみてゆくと、
「 騒動の第一期すなわち前駆期の事件のいちじるしい特徴 」
 が記録されているのでした。

「・・・富山県下のそれや岡山県の津山町、林野町、
 広島県の三次町、和歌山県の湯浅町などのように、
 自町村の米を他へ移出することを禁止する要求が
 事件のきっかけとなっている場合である。     」
         ( p105 「米騒動の研究」第一巻・有斐閣 )


うん。ここは、歴史的地理的に『米騒動』をめくってみます。
1918(大正7)年の米騒動は、
「それは、7月22日の富山県下新川郡魚津町の漁民の主婦たちの集会にはじまり、9月17日福岡県嘉穂郡明治炭坑の暴動で一応おさまるまで、
 すべての大都市、ほとんどすべての中都市、全国いたるところの
 農村、漁村、炭坑地帯など、一道三府三八県、およそ500ヵ所以上・・」
        (p1 「米騒動の研究」第一巻 )

この「米騒動の研究」第3巻には、千葉県の事例が新聞の記録から
とりあげられておりました。
安房郡勝山町と安房郡湊村とがとりあげられております。
ここには勝山町の記述を引用してみます。

「勝山町および船方町(船形?)では、
『 漁師の女房連も寄々町役場に話かけて、救護を願い出たるが 』
                    (万朝報、8・20)
『 ・・・形勢不穏の状を呈したれば、19日』(大阪朝日、8・21)
 朝、『成本北条署長は部下を従えて』(万朝報、8・20)、
『 同地へ急行し、その善後策を講じたるがため、平静に復せり 』
                  (大阪朝日、8・21)     」
                 ( p380 「米騒動の研究」第3巻 )


もどって、
『 食料は何程でも郡役所で供給するから安心せよ 』
といふ意味の掲示をした郡長の、そのあとも
「安房震災誌」に記述がありますので、
最後にそちらも引用しておきます。
安房郡内で米を現金で買入をしてからのことです。

「斯の如くにして、僅に集めた米は、
 焦眉の必要に応じて、それからそれへと配給して行ったが、
 
 日を経るに従って欠乏甚だしく、
 7日の夜に至っては、全く絶望状態に陥った。

 殊に・・『 食料は何程でも郡役所で供給するから安心せよ 』といった、
 各所に掲げた掲示で、人心を安定に導いてゐる刹那のことである。
  ・・・・・・・・・・

 郡長は・・翌8日の払暁、鏡丸に乗じて上県し、
 つぶさに郡民の窮乏を訴へ、而かも米の欠乏甚だしきを以て、
 直ちに米9千俵の急送を懇請したのである。

 すると県も之を容認して、米5千俵を給与するに決した。
 且つ輸送の為めに、館山湾に碇泊中の汽船を徴発すべく
 徴発令2通を交付された。

 そこで、郡長は9日直ちに帰任して、
 汽船2隻を徴発し、廻米の事に従はしめた。
 そして、その翌10日であった。
 突如、県よりは更らに米1千俵、増加配給する旨を通達された。
 此の通達は勅使御差遣あらせられた前日のことであった。

 震後人心に強い脅威を与へた食料問題も、是に至って
 漸くその眼前の急より救はるることを得たのである。  」
                (p262 「安房震災誌」 )


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9月6日、地震講の記念日。

2024-05-24 | 安房
関東大震災で被災した安房郡役所から、重田郡書記が徹夜疾走して、
9月2日の午後一時半頃に、千葉県庁へ到ります。

そこから、県内各地へと安房の状況が伝えられることになります。
その様子をたどってみます。

  本銚子町 ( 本銚子町青年団報 )より

「・・・翌2日に至って県下南部の震災も確実に伝へられ
  人心恟々たる内に郡役所より通牒あり。

  安房郡の震害甚しき故救護班を組織して出動せよとの事であった。
  仍て早速青年団員中より有志を募集して15名を得た。
  此の外に医師5名と総計20名で班は組織された。 」

       ( p1352 「大正大震災の回顧と其の復興」下巻 )

 以下には、北條に着くまでの様子が書かれておりました。

「 愈々出発となったが汽車は日向以西は不通と聞いて銘々自転車を
  準備して明朝を待った。

  翌9月3日早朝出発日向駅からは自転車で夜来の雨に
  道路泥濘幾多困難を凌ぎつつ漸く千葉に着いたものの
  西海岸も矢張り汽車不通已むを得ず其のまま
  巡査教習所に泊ることにした。不安と焦燥の一夜を明した。

  あくればもう4日である。
  今度は千葉駅前に自転車を預けおき、
  汽車で成東まで引返し更に勝浦までは汽車、
  之より自動車で天津へ着いた。

  最早日は暮れてゐるが
  前途が急がれて宿泊など出来ない。
  徒歩鴨川着、小学校の庭にしばし仮寝の夢未だ結ばぬ2時間計りにて
  又出発、和田町役場の庭に天幕あるを幸、
  ここに又1時間計りの仮寝をしたのは夜半であった。

  かくの如くにして漸く北條に着いたのは実に
  5日の午前11時頃であった。

  途中勝浦より千倉まで舟行された救護班小野田周齋外4名の
  医師及団員1名は茲に合体したのである。
  我等の班は救護班としては第一着であった。
  そして最惨害を極めた那古船形方面へ行くことになった。・・・」  
                         ( ~ p1353)

  旭町青年団報 より    (p1387~ )

「本団は9月4日正午県召集の緊急救護出動の命あるや
 団長は直に各支部に出動準備と人員の割当を通達せり。

 午后4時に至り各支部より確定報告あり。
 直に海上郡第二救護班医師4名団員12名、
 旭町青年団割当分の編成を終り
 警察分署を経て県に編成完了の報告をなせり。

 6日一番列車にて出発、成東大網勝浦を経て、
 途中困難と戦ひつつ鴨川に着き第一夜を明かし
 翌朝徒歩して北條警察署に辿り着く。
 
 直に警察並郡衙に到着報告をなし
 先発隊海上郡救護班銚子第一班と事務引継ぎを終り
 食糧部より給与の玄米を焚き夕食をとり
 案内さるるまま北條食堂に一泊す。  」


以前には、銚子青年団の活躍を引用したことがあったので、
ここには、旭町青年団の記述をつづけて記録しておきます。

「 一行は東天明けぬ内に、那古町に行き茲にて2班に分れ
  医師2名団員6名船形町へと急行す。

  船形町も全滅同様の惨状にて立てる家一戸とてなく
  寂寞荒れ果てたる廃墟の如く夜間は総て燈火なく全く暗黒たり。

  到着早々治療準備を行ひ8時より診察す。
  団員は主として受付手伝及各種の伝令、衛生材料運搬食糧分配等で
  那古町は観音堂下船形町は船形クラブで不眠不休の活動を為し、

  夜間は主として重患者を館山水産試験場へ彼の湊川を徒渉し、
  駆逐艦川風よりの探照燈を唯一の頼りとし輸送す。又水の運送等も行った。

  救護人員の計813名にて船形町は内科の48名外科の414名、
  那古町は内科の35名、外科の316名の多数であった。
  右総て延人員にて本職等の余り知る所にあらざれど
  受付簿に依り記載す。

  9日午後3時交代者来るにより引上げ命令あり。
  引継をなし郡役所並北條警察署に完了の報告を済し
  帰郷する旨を告ぐ。

  一行は出発以来不眠不休の活動にて加ふるに
  飲食物さへ不充分なるため皆やせ心身の疲労甚し。

  8時漸く雨は止んだ。風浪高きも出帆すとの報あり。
  帰心矢の如き折柄、元気は百倍せども
  前日正午夕食を摂りしままにて空腹と疲労は増すばかり
  漸く乗船す風浪高く皆船酔せり。

  午後4時木更津沖へと着く。
  上陸し5時30分に乗車し千葉にて乗替10時に佐倉に下車一泊す。
  翌朝一番にて帰郷することにした。
  重任も果し出発以来初めての入浴に心身の疲労一時に増し
  初めて布団の上に眠る事が出来た。

  一同記念撮影をなし地震講を組織し、
  9月6日を記念日とし、茲に目出度解散するを得た。 」(~p1389)




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それから丁度4年目のこと。

2024-05-20 | 安房
『安房震災誌』は、大正15年3月31日発行とあります。
そして、編纂兼発行者は千葉県安房郡役所とあります。

すこし、郡制の廃止にふれておきます。検索すると、

「 1921年(大正10年)4月12日に
          『 郡制廃止ニ関スル法律案 』が可決され、
  1923年(大正12年)4月1日に郡制が廃止された。
           郡会は制度の廃止と同時に無くなったが、
           郡長および郡役所は残務処理のため
  1926年(大正15年)7月1日まで存置された。        」


はい。宮沢賢治が稗貫郡立稗貫農学校教諭となったのが大正10年でした。
のち、大正12年4月に郡立稗貫農学校は、県立花巻農学校となっております。

安房では、大正11年2月に郡立安房農業水産学校の創設が認可され。
大正12年4月25日、県立安房水産学校の設置が認可されたので、
水産科を廃して千葉県立安房農学校と改称した。


こうして、関東大震災の大正12年9月1日には、
ちょうど、郡制度が廃止された年だったのでした。

    郡会は制度の廃止と同時に無くなったが、
    郡長および郡役所は残務処理のため
    1926年(大正15年)7月1日まで存置された。 

この残務処理の期間に、関東大震災がおこったのでした。そして、
大正15年までの期間内で『安房震災誌』が発行されておりました。

郡制については、こうありました。

「 この郡制に、府県で処理するには小さく、
  町村で処理するには大きい事務を処理させるため、  
  両者の中間に位置する行政・自治団体としての機能を
  付与したのが法律としての『郡制』である。 」

こうして、安房郡長・大橋高四郎の時代的な背景がわかります。
さいごに、『安房震災誌』の序文にある、大橋氏の文のはじまり
を引用しておくことに。

「 私が安房郡に赴任したのは、
  大正9年12月のことで、まだ郡制時代のことであった。
  大正12年9月の関東大震災は、それから丁度4年目のことである。  」


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郡長と、宮澤賢治に貴島憲

2024-05-19 | 安房
資料の裏付けがない癖して、身近で、
あれこれ結びつけたくなるのでした。

今日思い浮かぶのは、米騒動と農学校設立でした。

米騒動が、1918(大正7)年にあったということでした。
それでは、大橋高四郎はそのころどうしていたのか?
取敢えず、山武郡の郡長をしていた頃と重なるような気がします。
そこでの、大橋高四郎は農学校の創立に尽力されていたようです。
そうして、大正9年12月、大橋氏は安房郡長として赴任し、
安房では、安房農学校の設立にかかわることになります。

ここでもって、思い浮かべるのが、宮澤賢治でした。

1920(大正9)年・・盛岡高等農林地質学研究科を終業した賢治でした。
1921(大正10)年9月、妹トシの病報を受け花巻に帰ってきます。

「そういうとき・・郡長の葛(くず)博、農学校校長の畠山栄一郎が
 賢治を農学校教諭にむかえたいといってきた。・・ 」
         ( p187 堀尾青史「年譜宮澤賢治伝」中公文庫 )

1921年12月3日 25才になる賢治は、稗貫郡立稗貫農学校教諭となる。

賢治が農学校の教諭になるさいに、
郡長からどのような言葉をかけられたのか、わからないながら気になります。
貴島憲が安房農学校の教諭になる、そのキッカケならば、
安房農学校の記念誌に、貴島氏の回顧文が載っておりました。

今回は、その回顧文を引用しておわります。

「 大正10年の春、時の安房郡長の大橋さんの電報で、
  私ははじめて北条の郡役所にやって来た。
  そこが安房農業水産学校の創立事務所になっていた。

  郡役所の玄関の前に大きな辛夷が一ぱいに花をつけていたから
  3月の中旬の事であったであろう。

  そこで大橋さんから学校に関して色々なお話を承った。
  何でも此の新しい学校は、今度新に文部省で制定された
  五ヶ年制実業学校として、全国に率先して創立されたもので、
  其期する処は、従来の様な不徹底な到底役に立つ筈のない
  下手な技術員養成でもなく、又それかと言って今の中学の様な
  ・・・・ものでもなく、将来社会の中堅として役立つべき青年に
  直に基礎的な普通教育を与へる学校、つまり農村的漁村的公民学校
  というべきものでなければならないという事であった。

  私はどうもこれはむつかしい仕事だと思った。
  併し同時に大変大切な事で、もしそれが全国に普及し
  よく運用されたなら、かの豆粕程のデンマークをして
  世界に重きをなさしめた国民高等学校のような働き、
  此の行き詰まった貧乏国家を一新せしめるような
  働きをなさないものでもない、
  吾々もまあ精々椽の下の力持を勤める事にしようと考へた。

  大橋さんの清新溌溂たる精神に感服すると共に、
  私自身も大に愉快になってきた。     」
       ( p76 「千葉県立安房農業高等学校創立五十周年記念誌」)
 
  
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椀に、われ鍋・破れざる。

2024-05-18 | 安房
「安房震災誌」に、
「米の欠乏と罹災者の窮状」という箇所があります。
そのはじまりは、

「安房郡の全体からいふと、米は平年に於て、自給自足の土地である。

 此の大体論から推察すると、安房は大震災があっても・・・
 米の欠乏は左まで甚だしくない筈である。と、思はれるのである。
 ・・・然し・・・外観上の皮相論に過ぎない。 」(p258)

こうして、実際の窮状を指摘しておりました。

「 9月1日の震災の当時まで持越されるやうなものは
  大体に於て、殆ど総てが籾(もみ)米である。

  籾米が即刻の役に立たぬのはいふまでもない。
  加之ならず、籾摺器も、収納舎も、悉く地震で破壊されて了ったのだから
  手の着けやうがない。それでも、純農家の方は、辛くも一時の
  凌ぎやうもあらうが、被害の激甚な土地は、

  鏡ケ浦沿ひの市街地であり、漁村である。

  平素に於て、農村地から米の供給を仰いでゐるのである。
  多少の買置き位は兎も角も、それすら、倒潰家屋の下敷となって、
  物の役に立つべきものがない。

  突如として起った大震災である。・・激震地に米のないのは不思議はない。
  
  その上に道路も橋梁も破壊されて、
  米の輸送の途は絶対に断たれて了ってゐる。

  安房は自給自足の國だなどとの悠々閑々たる皮相論は、
  此の大震災に直面しては、何処へも通用ならぬのである。
  米騒動の起らなかったのが仕合であった。  」(p259)


ここに、『 米騒動 』という言葉が出てきておりました。

井上清・渡部徹編「米騒動の研究」第一巻(有斐閣・昭和34年)の
「騒動の構造」のなかに、いくつかに分けられる構造のひとつが
印象に残ります。そこを引用。

「・・・・この型では・・市町村当局や有力者に生活救済を嘆願するが、
 家屋や器物の破壊など暴動にはならない。・・・・

 また富山県下では、女の集団が椀をもって資産家の門前に立ちならび、
 救済要求の沈黙の示威をしている例もあるが、この形は同地方では、
 この年以前にも何回かおこなわれている。

 ・・古い例では、富山県ではないが、佐渡の相川で明治維新前にもあった。

  『 安政元治の交(1854~64年)米価暴騰のさい、
    窮民の婦女ら数十百人相集まり、
    人毎に椀一個を持ちて役所の前に集まり、
    組頭役の出庁を伺い、之を囲繞して
    無言にて椀をささげ飢餓の状を訴え・・ 』(「相川町史」)。  」
           ( p105~106 「米騒動の研究」第一巻 )  

はい。あらためて思い浮かんで来たのは
『安房震災誌』のこの場面でした。それをまた引用して終ります。

「 9月2日3日と、瀧田村と丸村から焚出の握飯が
  沢山郡役所の庭に運ばれた。・・・・・・・

  兎角するうちに肝心な握飯が暑気の為に腐敗しだした。
  郡役所の庭にあったのも矢張り同然で、
  臭気鼻をつくといったありさまである。

  そこで郡長始め郡当局は、・・・・
  その日の握飯の残り部分は、配給を停止したのであった。

  ところが、われ鍋や、破れざるなどをさげた力ない姿の
  罹災民が押しかけて来て、
  
     腐ったむすびがあるそうですが、
     それを戴かして貰ひたい。

  と、いふのであった。
  それは、多くは子供や、子供を連れた女房連であった。
  その力なきせがみ方が如何にも気の毒で堪らなかった。
  ・・・・・・・         」(p260「安房震災誌」)
    
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嘆き、悲しみ、怒ること。

2024-05-17 | 安房
曽野綾子著「揺れる大地に立って」(扶桑社・2011年9月10日発行)の
副題は「東日本大震災の個人的記録」とありました。

この本のはじめの方には、
新約聖書の聖パウロの書簡に出てくる
『ところどころに実に特殊な、『喜べ!』という命令が繰り返されている。』
という箇所を指摘したあとに、曽野さんは、こう書いておりました。

『人間は嘆き、悲しみ、怒ることには天賦の才能が与えられている。しかし
 今手にしているわずかな幸福を発見して喜ぶことは意外と上手ではないのだ。』

それであるから、聖パウロの書簡にある『喜べ!』というのは、
『喜ぶべき面を理性で見いだすのが、人間の悲痛な義務だということなのだ』

曽野さんのこの本は、この言葉から始まってゆくのでした。

『安房震災誌』に登場する安房郡長大橋高四郎の震災に直面して
発した言葉を時系列で列挙してゆくのは、それだけでも価値があります。
きちんと、それをしてみたいのですが、それはそうとして、
流言蜚語も言葉であり、『喜べ!』も言葉なのでした。

ここでは、吉井郡書記と能重郡書記の回顧の言葉を引用しておくことに。

「 『 あの時若し死んだならば 』といふ一語は、
 私共には総ての困難な場合を切りぬけるモットーとなってゐる。

 震災直後に、大橋郡長が、庁員の総てに対して訓示せられた、

『 諸君は此の千古未曾有の大震災に遭遇して、一命を得たり。
  幸福何ものか之に如かん。宜しく感謝し最善の努力を捧げて、
  罹災民の為めに奮闘せられよ 』

 には何人も感激しないものはなかった・・・・・

『 あの時若し死んだならば 』といふ一語は、
 今日ばかりでなく、今後私共の一生涯を支配する重要な言葉である。
 言葉といふより血を流した体験である。・・・・    」(p319~320)


『安房震災誌』の震後の感想のはじまりに郡長大橋高四郎から聞いた
という言葉が記載されておりました。最後にそこを引用。

「氏(大橋高四郎)はいふ、
 此の大震災に就て、自分が身を以て体験したところを一言にして
 掩ふならば、唯だ『感謝』といふ言葉が一番当ってゐるやうに思ふ。
  ・・・・・・・・
 ・・・次は郡の内外の切なる同情である。
 それと又郡民と郡吏員の真面目な、そして何処までも忠実な
 活動振りである。どちらから考へても、『感謝』であって、
 そして『感謝』の内包をもう少し深めたくなるのである。

 それで一人一人で考へて見てもよく分かることだが、
 此の前古未曾有の大震災の中で、大部分の人々が
 或は死に、或は傷いてゐる中に、
『 自分は一命を全うしてゐるといふこと自体が
  ≪ 感謝 ≫すべき大きな事実ではないか。 』
 自分はどうして一命が助かったか。
 と、ふりかへって熟々と自己を省みると、
 ≪ 感謝 ≫の涙は思はず襟を潤ほすのである。
 実に不思議千萬な事柄である。不思議な生存である。
 ありがたい仕合せである。

    生命の無事なりしは何よりの幸福なり。
    一身を犠牲にして、萬斛の同情を以て
    罹災者を救護せよ

 と、震災直後、郡役所の仮事務所に掲示して
 救護に當る唯一のモットーとしたのも
 此の不思議な生存観から出発した激励の一つであった。
  ・・・・・・                 」(p313~314)
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大正大震災『青年団の力』

2024-05-16 | 安房
『安房震災誌』に、「青年団の力」という言葉がありました。
その箇所を引用してゆきたいと思います。

「 今次の震災に當て、青年団が団体的にその大活躍を開始したのは、
  平群、大山の青年団が、1日の夜半、郡長の急使に接して、
  総動員を行ひ、2日未明、郡役所在地に向け応援したことに始まり、
  遂に全郡の町村青年団の総動員となったのである。・・・・・・・


  青年団の第1段の仕事は、
  死傷者の処理であった。
  同時に医薬、衛生材料、食料品の蒐集であった。

  2日の如きは、市中の薬局の倒潰跡に就て、
  死体及び此等諸材料の発掘に大努力をいたされた。
  ・・・・・

  第2段の仕事は交通整理であった。
  地震に打ち倒された家屋の瓦や柱や、板や、壁などが一帯に、
  道路に堆積して、通交の不能となってゐるは勿論
  路面の亀裂、橋梁の墜落など目も當てられない中に、
  之れを整理して、交通運搬の途を拓いたのは、
  実に青年団の力である。
  ・・・僅かに一軒の取片付でさへも容易の業でないが、
  幾千百の倒潰家屋である。而かも運搬が自由でない。
  いはゆる手の着けやうのない様であったのである。

  第3段の仕事は、
  救護品、慰問品、斡旋品などの陸揚、配給は勿論、
  各町村への伝令等であった。

  あの大量な救護品、慰問品、斡旋品の殆んど全部の配給は、
  実に青年団の力である。若し青年団がなかったならば、
  救護事業の多部分は、あの通り敏活には処理出来なかったであろう。

  要するに、地震のあの大仕事を、誰れの手で斯くも取り片付けたか。
  といったならば、何人も青年団の力であった。
  と答ふる外に言葉があるまい。・・・・

  ところが、青年団には、何の報酬も拂ってゐない。・・・
  然るに報酬どころか、何人も当時にあって、
  渋茶一つすすめる余裕さへもなかったのである。

  それどころか、飯米持参で、而かも団員は自炊して、時を凌いだのであった。

  ・・・当時は雨露を凌ぐべき場所とては、
  北條町では僅かに北條税務署とゴム工場、納涼博覧会跡の一部に過ぎなかった。
  そして税務署以外は、何れも土間である。

  折柄残暑で寒くこそはなかったが
  湿気と蚊軍の襲来には、安き眠も得られやうがなかった。
  加之ならず、何れも狭隘の上に、多人数である。
  分けて雨の晩などは雨漏で寝所がぬれて立ち明かしたこともあった。
   ・・・・       」(~p286)

  その記述の次には、大正13年1月28日調べの
  「他町村救護に盡したるもの」の町村団体名の延べ人数一覧が載っております。
  そして、p289~290には、「郡外よりの救護団体」が記されてあります。
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震災の青年団のエピソード

2024-05-16 | 安房
『安房震災誌』に、青年団の活動をとりあげた箇所があり、
そこからの引用をしておきたい。

その活動を引用してゆくまえに、
大正13年3月1日に県知事より指令があった文面からはじめます。

「   安房郡連合青年団
  其団震災に当り東京方面よりの罹災民を救護したるにより
  金四百五十六円を支給す。
        大正13年3月1日  千葉県知事 齋藤守圀  」(p292)

「・・・4月9日を以て、関係町村青年団長に此の指令を共に
 現金交付の手続きを為したが、関係青年団にては・・保田町青年団は、

 地理上の関係からして、東京方面よりの罹災民を救護したので、
 他の被害激甚地方の青年団も、自町村相互救助に、
 被害の軽微なる町村の青年団も、亦た他町村罹災民の救護に、
 均しく多大の費用と労力を費やしてゐるのであるから
 東京方面からの避難民を救護した町村の青年団のみが、
 此の恩典に浴するは、他の青年団に対して情誼に適するものでない。

 といふ理由の下に、支給金は全部聯合青年団の経費に充当されたし
 との寄付申込みをしたので、連合青年団は、その意を容れて之を
 受納するに決した。

 東京方面よりの避難民救護団体は、・・8団体である

  保田町青年団、和田町青年団、江見村青年団
  太海村青年団、鴨川町青年団、東條村青年団
  天津村青年団、湊村青年団             」(~p293)


はい。この次は、安房の関東大震災の青年団の活動を紹介します。

 
   


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震災の、握飯と牛乳。

2024-05-13 | 安房
まずは、「安房震災誌」から握飯にかかわる箇所を引用。

「 9月2日3日と、瀧田村と丸村から焚出の握飯が
  沢山郡役所の庭に運ばれた。

  すると救護に熱狂せる光田鹿太郎氏は、
  握飯をうんと背負ひ込んで、北條、館山の罹災者の集合地へ持ち廻って、
  之を飢へた人々に分与したのであった。
  又別に貼札をして、握飯を供給することを報じた。

  兎角するうちに肝心な握飯が暑気の為めに腐敗しだした。
  郡役所の庭にあったものも矢張り同然で、
  臭気鼻をつくといったありさまである。

  そこで郡長始め郡当局は、腐敗物を食した為めに
  疾病でも醸されては一大事だと気付いたので、
  甚だ遺憾千萬ではあったが、その日の
  握飯の残り部分は、配給を停止したのであった。  」(p260)

この配慮に関しては、違うページに指摘がありました。

「 郡長は斯る場合に伝染病の流行は必定だと思ったので、
  特に伝染病に注意を拂った。極めて少数の赤痢患者の外、
  伝染病の出なかったのは、何より仕合せであった。 」(p244~245)

もどって、握飯の配給を停止した次を引用します。

「 ところが、われ鍋や、破れざるなどをさげた
  力ない姿の罹災民が押しかけて来て、
  
  腐ったむすびがあるそうですが、それを戴かして貰ひたい。

  と、いふのであった。
  それは、多くは子供や、子供を連れた女房連であった。
  その力なきせがみ方が如何にも気の毒で堪らなかった。

  郡当局も、此の光景を見せ付けられては、
  流石に断らうとして、断はり兼ねたのであった。

  そこで、郡当局は、斯うした面々に向って

  『 よく洗って更らに煮直してたべて下さい 』

  と条件付で、寄贈品の握飯を分配してやった。・・・ 」(p260)


このあとに、引用する箇所に、泣く乳児という箇所がでてきておりました。


「  食料品は一般に欠乏してゐたが、
   傷病者と飢餓に泣く乳児とは、
   何とか始末せねばならなかった。

   殊に震災の恐怖で急に乳のとまった母が、
   飢に泣く乳児を抱いて、共泣きしてゐるさまなど見ては、
   郡当局は一掬の涙を禁じ得なかった。

   幸に安房は牛乳の国である。
   
   郡長は安房畜牛畜産組合に依嘱して、無償で牛乳の施與に
   当らしむることとした。しかし、交通杜絶の場合である。

   牛乳の輸送と、殺菌設備には、相当考慮を要するのである。

   が、折柄東京菓子会社、極東煉乳会社の好意と、
   青年団、軍人分会の盡力とで、

   9月4日から牛乳を配給した。そして
   10月7日まで、34日間之を継続した。
   配給区域は、北條、館山、那古、船形と南三原の
   4町1箇村であった。
   ――その上区域を拡張することは、事情が許さなかった――
   
   施配した石高は、実に76石1斗3升の多きに上った。
   施与延人員は、2萬人に達した。此の牛乳は、
   全部郡内牛乳業者の寄贈にかかるものである。   」(p256)



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72時間の救出活動。

2024-05-12 | 安房
「 瓦礫の下で救出を待っている人たちの生存率は
  72時間で急激に下がっていきますから、
  最初の72時間は最大限、救出活動に全力を挙げる
  というのが世界の常識です。・・」

はい。この72時間というのは、最近はよく知るところとなっております。
引用は、門田隆将著「死の淵を見た男」(PHP・単行本2012年・p132)。

最初の一手を、間違えない。ということで、なんども、
反芻しておきたいのは、東日本大震災の72時間でした。

「そういえば、政府と東京電力が一体となって
 原発事故にあたる『 対策統合本部 』の設置(3月15日)よりも、
 蓮舫行政刷新相に節電啓発担当相を兼務させる人事(3月13日)のほうが
 先というのも、ピントがぼけていた。」 ( 5月18日一面コラム )
 ( p197 竹内政明著「読売新聞一面コラム『編集手帳」第20集 )

この竹内政明氏の一面コラムの4月7日には、
震災4日後に発足した『福島原子力発電所事故対策本部』のことが出て来ます。

「政府の各府省と東電が、目と、耳と、口と、脳みそとを、
 ひとつ場所に持ち寄ってこその『対策統合本部』のはずである。

 疲労が重なっているのも分かるが、現場作業のような
 被爆の危険にさらされているわけではない。大事な局面で、

 やれ『聞いていない』だの、『寝耳に水』だのと
 内輪でもめる司令基地ならば存在しないと一緒だろう。 」

「 政府と東京電力が全情報を共有して事態に対処する、
  との触れ込みで震災4日後に発足している。

  放射能の汚染水を東京電力が海に放出することを
  農林水産省は事前に知らなかった。
  当然ながら、漁業関係者には伝わらない。
  外務省も知らなかった。通告なしの放出に
  憤る韓国政府から抗議を受けた。 」


はい。こちらは、震災の4日後に発足した本部のことでした。
比較する意味で、この箇所を引用したのですが、
以下には、『安房震災誌』の中に出る72時間を拾ってゆくことに。

関東大震災当日の9月1日。郡役所はどうだったのか。

「青年団の来援も、救急薬品等の蒐集も、炊出の配給も、
 其の他一切の救護事務は、郡衙を中心として活動する外なかった。

 ところが、郡衙は既に庁舎全滅して人の居どころもない。
 1日は殆ど余震から余震で、而かも吏員は救急事務に
 全力を盡しても尚ほ足らざる始末で、露天で仕事をやってゐた。

 ・・・萬事の処理に不都合で堪らない。そこで、
 吏員の手で3日、漸く畜産組合のぼろぼろに破れた天幕を
 取り出して形ばかりの仮事務所を造った。
 そして、危く倒潰を免かれた税務署から僅かばかりの椅子を
 借りて来て、事務を執った。・・・・」(p239)

「救護事務の中でも、第一義的なものは、死傷者の処理である。

 それは警察署と密接な関係がある。警察署も矢張り倒潰して
 了ったことであるから、同じ場所で執務するのが便利であるので、
 郡吏員と警察署員とは、郡衙の斯うした手製の仮事務所で
 一緒に救急事務を取扱ったのであった。

 救急事務は不眠不休でやり通うした。
 1日の震災直後から、2日3日頃までは碌々食事を攝らなかったが、
 又大した空腹も感じなかった。蓋し極端な緊張と眼前の惨状に
 空腹さへ感じなかったであろう。・・・・ 」(p240)

勝山町にも、1日からのことが記されています。

「本町に在る東京菓子会社、極東会社、ラクトウ会社、各工場内の
 機械は破損し、為めに休業の止むなきに至った。
 其の結果、9月1日より20日間位は全町内の牛乳を無料にて
 一般町民に分配するの状態であった。・・・  」(p141)

震災当日の千葉県庁への急使のことも出てきております。
佐野郡書記が1日の午後2時過ぎに、県への報告の途に上った。

「佐野氏は出発したが、郡長を始め主もなる庁員の心には、
『 此の場合のことだから果して県庁まで行き了せるだろうか? 』
 といふ心配のない訳には行かなかった。

 そこで、重田郡書記は自ら進んで、此の大任に当らんと申し出た。
 安藤郡書記も亦た同様に申し出た。誰れの心裡にも同様な心配があった
 のである。・・・佐野氏の出発後、共に郡衙を立ち出て、千葉へと向はれた。

 県への報告の要旨は第一は安房震災の惨状であるが、
 第二は工兵の出動と医薬、食料の懇請であった。・・・・

 ・・重田郡書記は、徹夜疾走して、翌2日の正午を過ぐる1時半頃、
 他の2氏に先んじて、無事に県庁に到り、報告の使命を果たしたのであった。

 加之ならず、途中瀧田村役場に立寄り、炊出の用意を托して行ったので、
 翌2日の未明には、山成す炊出が青年団によって、北條の郡衙へと運ばれた。

 瀧田村が逸早く震災応援の大活躍に當られたのは
 重田郡書記の通報に原因したのであった。    」(p236)

たとえ、百年前であっても、震災後の72時間の重要さについては、
頭をかすめたことでしょう。つぎに郡長大橋高四郎がどう判断したのか

「無論、県の応援は時を移さず来るには違ひないが、
 北條と千葉のことである。今が今の用に立たない。
 手近で急速応援を求めねば、此の眼前焦眉の急を救ふことが出来ない。
 
 そこで、郡長は・・・山の手の諸村が比較的災害の少ない地方であろう
 と断定した・・応援を求めることに決定した。 」(p237)

まわりを見回しても

「適当な使者を尋ねたが、庁員は・・救護の為めに忙殺されて居るし、
 学校の職員も、その他の人々も、当面の急務に忙はしく、
 殊に自己が被害者で眼を廻はしてゐるので、
 使者として平群、大山方面へ遣はすべきものが何処にもゐない。」

そこに、久我氏が急使を受けることとなります。

「然し、北條から・・諸村へ行くには、平日でも可なり
 道路のよくないのに、夜道ではあり、大地震最中のことで、
 果して使命を全うし得られるか、否か多大の疑問であった。・・・・

 郡長の意をうけて、夜中此等の諸村に大震災応援の急報を伝へた。
・・すると、此の方面諸村の青年団、軍人分会、消防組等は、
 即夜に総動員を行って、2日未明から、此等の団員は
 隊伍整々郡衙に到着した。

 郡当局は応援の此等団員を4隊に分ちて、
 1は館山方面、1は北條方面、1は那古船形方面
 の圧死者の発掘等に充て、
 そして他の1は救急薬品等の蒐集に當らしめた。 」(~p238)

こうして、さらに次の一手を郡長は考えておりました。

「上記の如く、真先きに県へ急使を馳せて、県の応援を要求してはおいたが、
 医薬、食料品の必要は寸時も時をうつすことが出来ない。
 
 そこで、館山にある県の水産試験場に ふさ丸と鏡丸の発航を依頼した。
 ・・・ふさ丸は機関部に故障があり、鏡丸には軽油の蓄へなく、
 その上地震の為め機関長の生死が不明であったので、
 2隻ともどちらも即刻の間に合わなかった。

 ・・・・2日の夜半漸く出帆準備が出来た。
 汽船の準備は出来たが、震災の為めに海底に大変動があり、
 且つ燈台は大小何れも全滅して了った。・・・・

 3日の未明、汽船鏡丸は館山を発して千葉に航行した。
 鏡丸には門郡書記が乗船して、救護品に就ての一切の処理に任じた。・・

 翌4日の午後8時15分には、又無事に館山に帰航したのであった。

 鏡丸には玄米百俵と、若干の食料品と、そして
 県の派遣員16名と、看護婦4名とが乗船してゐた。
 
 是れが千葉からの最初の応援であった。
 郡当局は斯うして最初の救護品を蒐集した。 」(p257~258)


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