和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

蹲踞(そんきょ)のような姿勢

2024-01-20 | 好き嫌い
寒がりな私の場合、いつも足首の方から寒さがあがってくる。
冬の夜は、レグウォーマの厚いのが必需品。それに湯たんぽ。

うん。最近になって、足のももとか、足首回りの筋肉を
重点的に鍛えてみるのもよいらしいと側聞しましたので、
とりあえず半坐りの格好で、足の筋肉を刺激することに。

そうすると、これは蹲踞(そんきょ)の姿勢ぽくなります。
思い浮かんだのは、安岡章太郎の蹲踞の姿勢というのでした。

鷲尾賢也著「新版 編集とはどのような仕事なのか」
(トランスビュー・2014年)。この鷲尾氏は講談社の編集長。
本棚からこの本をとりだしてくる。
とりあえず、蹲踞までの箇所が印象的なのでまとめて引用。
編集者として関わった安岡章太郎を述べている下りです。

「長期連載ではなんといっても、安岡章太郎『僕の昭和史』であろう。
 『本』の編集のなかでいちばん印象に残っている仕事である。

 当時『流離譚』を『新潮』に連載中で、おそらく先生のなかでは
 軽い気持ちではじめられたものだろう。ところが書いているうち
 に熱が入ってきた感じがする。文学的自叙伝の傑作である。

 ・・・・担当していてとても不思議だったのは、
 作家の頭の構造である。安岡さんは書き出すと、ご自身の体験されたこと
 のディテールがどんどん思い出されてくる。日記もメモもなにもないのに、

 じつに正確でリアルなのである。ソウルにいた幼少時代、戦争中のはなし・
 記憶力とは異なった『思い出力』のようなものに、たびたび感嘆した。

 『アメリカ感情旅行』(岩波新書)は、奥様の簡単な家計簿の数字が
 唯一の資料だったそうである。その後、安岡さんは『群像』で
 『果てもない道中記』を連載した。その取材にも同行したのだが、
 いつもメモなど一切とらない。

 カンヅメになっていただくこともあった。・・・・・・・
 調子にのると、安岡さんはおかしな格好になる。
 相撲の蹲踞(そんきょ)のように腰を浮かせて書くのである。
 そうなったらしめたもので脱稿も間近い。・・・   」(p228~229)


う~ん。ここはひとつ。運動と読書をかねて
蹲踞のような姿勢でもって『果てもない道中記』を読む。
というのもありかなあ。
 

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長くつづけること。

2023-12-08 | 好き嫌い
吉田光邦著「日本の職人像」(河原書店)をパラパラですが、
最後まで読めた。これはブログ書き込みが弾みになりました。

途中メモ書きして読みすすむように、ブログで更新して読む。
これが自分に合っているように思えてくるから、不思議です。

さて、本の最後の方に小林作太郎を紹介されておりました。

「この職人ー職工の過渡期に生きた人の一例として
 小林作太郎をあげることができよう。
 彼は明治2年、長崎に生まれたが生まれながらの
 機械好き、細工好きであった。
 11歳の時、そのころはまだ珍しいものとされていた
 柱時計を分解し、またこれを組立てることに成功した。
 この注意深さと器用さは、作太郎の全くの天性であった。
 そしてやがて人びとから時計修理を依頼されて
 一人前の時計工となってしまった。・・・・ 」(p193)

こうはじまる経歴は、ついつい引用したくなりますが、
ここは、飛ばして

「彼は明治37年、アメリカに赴いて海外での工場の実態にふれた。」(p196)

そこからの比較に、ちょいと面白い箇所がありました。

「また日本の職工はひとつの仕事を長くつづけることを嫌う。
 持続した仕事にむかず、すぐ何か新奇の仕事を希望する。
 この連続して同じ仕事ができぬことは日本職工の大欠点だ。

 さらに日本の職工は器用すぎる。
 ひとつの技術をマスターすると、
 すぐ自分の家の床板などをはがし、
 そこに簡単なエンジンなどをすえつけて、小工場を発足させる。
 そして立派な工場製品とさして大差ないものをうまく作ってしまう。
 もちろん工場製品よりずっと安い。・・・・・

 彼はまた一方では学歴あるものの欠点をも注意する。・・ 」(p197)


はい。この箇所を読んだら、笑ってしまいました。
当然のように自分は不器用で職工にもなれない者なのですが、

『 持続した仕事にむかず、すぐ何か新奇の仕事を希望する。 』
この指摘は、何だか自分のことを指摘されているようで困惑しちゃいます。

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初対面の詩人。

2023-03-12 | 好き嫌い
詩を読むのは好きで、
分かりやすい言葉で、明快で
簡潔な詩を読むのはそれだけで楽しい。

ですが、元来うつり気の私ですから、
潮が引くように、興味がうつります。

興味をもって、古本をたのんだのに、
その古本が届くころにはもう他へと
その興味がうつっていたりしてます。

興味が遠のいて引いてしまった波打ちぎわに、
届いている未読の古本が打ち上げられてたり。

ですが、不思議なもので、興味の波はまた、
何気なく、再度押し寄せることがあります。

今回、竹中郁を本棚から取り出し、
まだ興味の波は引かずにおります。
その興味から丸山薫へと繋ぎます。

詩人との対面で、竹中郁が丸山薫との
出会いを語っている箇所がありました。
そこを引用してみることに


「昭和7年12月10日前後であったが、
 東京麹町三番町の第一書房で、わたしは初めて
 丸山薫と面晤(めんご)した。

 丸山の第一詩集『帆・ランプ・鷗』とわたくしの
 第三詩集『象牙海岸』とが時を同じゅうして刊行され、
 その日たまたまわたくしは神戸から上京して・・・

 そこへ丸山が訪れて同席した。
 身長は170センチ以上にもみえ、大柄な体格は
 年嵩(としかさ)ということもあって、
 わたしには至極大人に感じられた。

 じっさい丸山はゆっくりとものを言い、しかも寡言(かげん)であった。

 わたくしの『象牙海岸』よりも、丸山の『帆・ランプ・鷗』の
 方が用紙といい、本の造型といい、その手にとっての軽い手ざわりといい、
 好もしい出来ばえだったので、

 わたしが店主の長谷川巳之吉が座をはずした隙に
『 あなたの本の方が羨しい出来ばえですなあ 』と嘆じた。

 大抵なら、ここでお愛想の一つと・・・
 挨拶をくり出すのが世間一般なのだが、丸山はそれを言わなかった。

 この場のくだりを今日にまでもはっきりおぼえているのは、
 やはり丸山のその率直な態度にわたくしが感じ言ったからにちがいない。

 要らざる感情をもたない、要らざる発言をしない、
 という態度は丸山の生得のものだったのだと思うが、
 或は又、自ら鍛えてきたものででもあたろう。

 前近代の詩人たちが、溺れたようにめそつく繰り言風の
 スタイルを美学として信奉していたのと比べるがよい。

 丸山は自分の才質にはっきりと自信をもって、
 寡黙で力感のこもった言葉つかいをしている。

 言葉の流れに寄りかかることを避けて、むしろそっけないと言ってもよい。

 大正時代が終るのと同時に、現代詩の方向がそういうコースを
 とりはじめたからでもあるが、丸山が自分の才質に
 自分で目ざめる賢さをもっていたからだ。・・    」

    ( p496~497 「丸山薫全集1」角川書店・1976年 )


はい。次回は丸山薫の詩を引用できればと思っております。 

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1月14日は悪態記念日。

2022-01-10 | 好き嫌い
池田弥三郎著「日本故事物語」(河出書房新社・昭和47年)。
はい。古本です。文庫にもなっているようです。

ここに、正月14日の祭が紹介されておりまして、
気になっておりました。はい。すぐに忘れるので引用しておきます。
はい。途中からの引用になります。

「江戸っ子は、こういう悪態のせりふを作ることもうまかったし、
実際に悪態をつく技術もすぐれていたようだ。これは、
江戸のことばのもつ性質や、江戸っ子の性格が、たんかをきるのに
適当であったということによるのだろうが、これがいまでも
のこされて随所に出てくるのが江戸歌舞伎の『助六』の舞台である。

  ここな、どぶ板野郎の、たれ味噌野郎の、出しがら野郎の、
  そばかす野郎め。引込みやがらねえか
  わるくそばえやがると、大どぶへさらい込むぞ。
  鼻の穴へ屋形船蹴こむぞ。こりゃまた何のこってェ

助六の芝居では、この悪態を中心とする言語技術が
芝居の大きな要素となっている。・・・・・・・・
 ・・・・

江戸っ子は明治になっても、この伝統は失っていない。
前にあげた漱石の『坊っちゃん』の中の悪態も、読者の溜飲をさげさせる。

では、なぜ日本人はこんなに悪態が好きで、
また悪態のうまい国民なのだろうか。

日本の祭に、昔から悪態祭というのが各地にある。
悪口祭とも悪たれ祭とも言うが、こういう祭には
氏子同士が悪口の限りを尽して言いあいをし、
悪態をつかれても、つきかえしはするが
おこりはしないという風習がある。

『総合日本民俗語彙』によれば、
茨城県西茨城郡岩間村の愛宕(あたご)神社の
正月14日の祭では参詣者の群の中で悪口の上手な者が幅をきかす。
唾をはきかけるものまであって、初めての人は驚嘆するというし、

あるいは、和歌山県有田郡の山村に残っている御田の舞でも、参詣者が
悪口の言い合いをし、けなすと秋のこなしがよいなどという、とある。

実際に、三・信・遠の国境の村々に行なわれる花祭では、
舞処(まいと)に舞う舞人に対して、さらには普段見かけぬ
よそ村の人やわれわれ旅行者に対しても、まわりにつめかけた
村人たちが悪態の限りをつくすのが一つの見どころにさえなっている。

大きなまさかりを持って舞う山見鬼が、
その舞のはげしさにややもすればおどりの手がにぶるが、
そのたびに、腰がふらふらしているとか何とか、
悪態を言ってはやしたてている。
東京から採集に行った際に、遠来の客に山見鬼を舞わせてくれたが、
見様みまねで一生懸命舞っている採集者に
『ダンスみたいだぞ』という悪態がとんだこともあった。

ここで気がつくことは、
悪態をつかれても絶対におこらないということ。
もうひとつは、かならず悪態を言わねばならぬ
という生活が、日本人にはあったということである。
・・・・」(単行本・p75~76)

このあとに、池田弥三郎さんの締めくくりの言葉があるのですが、
うん。引用はここまで。ちなみにこの短文の題は
『おしゃれしゃれてもほれてがないよ』となっておりました。

はい。悪態。
ということで、正月14日の悪態記念日。
うん。サザエさんを描いた長谷川町子さんが、
描く意地悪ばあさんのようなものでしょうか。

それにしても、一年中悪態をつきっぱなしの、
野党者もいるのだろうなあ。


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赤ん坊の、教え。

2019-05-03 | 好き嫌い
昨日、注文しておいた古本が届く。
松田道雄著「京の町かどから」(昭和37年)。

最初だけを、パラパラと読む。
とりあえず、この箇所を引用。


「診察室にやってくる赤ん坊をみていると、
いろんなことを教えてもらえる。

赤ん坊が四カ月になると
混合ワクチンの注射をするのだが、
この注射にたいする反応がみんなちがう。
何しろ産院から帰って以来なめるように
愛撫されてきたのだから、
いたい思いなどしたことがない。
生れてはじめていたい目にあわされたとき、
人間はどんな反応を示すものかというテストを、
予防注射の副産物としてやれるわけだ。
私のカルテには第一回百日ゼキ、ジフテリア混合
ワクチン0.5と書いた次にカッコして、
一分二秒とか十五秒とかいう時間が記されている。
これは注射したあと、赤ん坊がどれだけの時間
泣いていたかという記録なのである。
人間のもって生まれた反応のタイプが
こんなにはっきりでることは、他にあまりない。
しかも、その反応がひとりひとりみんなちがう
ときているから、いやでも人間のタイプの
多様性を信じないわけにはいかない。」(p12)

こうはじまる、7頁ほどの文なのですが、
このあとに、大人の多様性の例を示して印象に残ります。
次の文の題は「地蔵盆」で、こうはじまります。

「大文字がすむと京の町の地蔵当番は、いそがしくなる。」

「地蔵盆は子どもの祭典である。」(p19)


ふう。私はこれだけ読んでもう満腹。
先を読み進めなくなる(笑)。

そういえば、読んだことがないのですが、
松田道雄といえば「育児の百科」が有名。


さてっと本棚に、以前古本で買った
松田道雄の本「私の読書法」(筑摩書房)があった。
なになに、送料とも280円でした(笑)。
それはともかく、
未読なのでひらくと、「読書と私」と
題した4頁ほどの文に、こんな言葉が、

「たまたま、しばらくあわない人にあうと
 『いま何かいてはります』とたずねられる。
人は私が三枚の原稿をかくために十冊の本を
よまねばならぬことを理解してくれない。」(p45)


それなら、「育児の百科」を、
いつかは、読んでみたい(笑)。

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渋沢栄一の銅像。

2019-04-09 | 好き嫌い
新しい一万円札は、渋沢栄一。
とニュースで知りました(笑)。

さてっと、渋沢栄一といえば、
東京駅から日本橋方面へ歩きだして、常盤橋へむかう。
常盤橋の手前に、渋沢栄一の銅像があり、
歩く時は、遠回りしてでも見るようにしてます。
素敵な立像でステッキにコートといったいでたち。

私のお気に入りの銅像。後ろに
すくないけれども、木々があるのも好ましい。

どうぞ機会があれば、一度ご覧になってください(笑)。
ちなみに、わたしは渋沢栄一氏の本を読んでないなあ。
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足を引っ張ってはならない。

2018-07-01 | 好き嫌い
今月号の雑誌WILL8月号は楽しい。

ひとつ引用。
金美齢さんの、女性の視点がひかる。
題して「正統が片隅に追いやられるご時世」


まずは、最後の方を引用。

「いま、日本の首相が世界のどこへ行っても
センターを張っている。こんなこと、
以前は考えられなかった。
モリカケのような些末な問題で、
国家の救世主の足を引っ張ってはならない。
日本に必要なものは何か、
誰を政治家に選ぶべきか、
そして日本をどんな国にしたいか・・・
国会で議論すべきことは他にもたくさんあるのだから。

日本人に見る目がないからモリカケで盛り上がる。
そして見る目がない人に限って文句が多い。」


金美齢さんの文の最後はというと、

「・・・でも、劣情を扇動するばかりでは、
決して世の中は良くならない。今こそ、
日本のために頑張っている政治家にエールを送ろう。」
(p185)


うん。いいね。
麻生太郎イジメについて、金美齢さんは

「ところで、今の政治家は、ポリティカル・コレクトネスを
気にしているから本音を喋れない。でもこの世の中には、
誰も言いたがらないけれど、誰かが言わなければならないこと
がある。十年ほど前、麻生さんが医療保険について
『たらたら飲んで、食べて、何もしない人の分の
金をなんで私が払うんだ』と発言し、非難を浴びた。
だが、それは誰しも思っていたことではないか。

こんな窮屈な時代だからこそ、正直にモノが言える
政治家が必要なのだ。見る目がない日本のメディアは、
トランプが大統領選挙に勝利するなどとは
夢にも思っていなかった。
私は間違いなく彼が勝つだろうと思っていた。」(p181)

「麻生さんは『漢字が読めない』などと茶化される。
でも、物事を深く理解していなければ、
本質を言い当てることはできない。
難しい理屈をこね、冗長に話せばいいと
思っている政治家は見習ってほしい。」

「・・麻生さんはユーモアと遊び心に溢れている。
数年前、国連でスピーチをしている途中、
自動翻訳機が故障するハプニングに見舞われた。
彼がすかさず『メイド・イン・ジャパンじゃないから
こうなるんだ』と言うと、会場は笑いと拍手に包まれた。
ユーモアに溢れた政治家を、
私たちは育てていかなければならない。」(p182)

雑誌WILL8月号には
北村晴男さんも
「我、断固麻生太郎を弁護する」とあり、
どちらも、
いまだ『茶化す』揚げ足取り思考に凝り固まっている方には、
お薦めの良薬となっておりました。


梅雨明けの日差しの中、
ジメジメ揚げ足取りのブログを読んだ後に、
WILL8月号を読むと、ス~ッとします(笑)。

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本の表紙へのカバー

2018-04-11 | 好き嫌い
今日は出かけたので、読まなくても、
いちおう、本をもって出る。

その際に、本にカバーをしてゆきました。
以前に、A3にコピーしてあったマンガがあり、
それをカバーに折りこんで、
それで、本の表紙の目隠しとなりました。

そこで、思ったのですが、気に入った
マンガの一コマをコピーしておいて、
それでもって、自分だけのブックカバーを
つくってしまう。

うん。次に出かけるときは、
これでいきます。

なぜ、こんなことを書いているかというと、
はい。持って出た本は、読まずじまいでした。
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「乱談のセレンディピティ」の間違い。

2016-09-16 | 好き嫌い
外山滋比古著「乱談のセレンディピティ」(扶桑社)
を以前読んで、印象に残っている箇所がありました。

この本に「三人の力」という箇所があります(p70~)
そこに間違いがありました。
まずは、間違いを引用。


「『三人寄れば文殊の知恵』ということわざがある。
読書信仰の強い日本である。このことわざの意味が
半ばわからなくなっている。
辞書に当たってみる。
『平凡な学者でも、三人が集まって相談すれば、
よい知恵が浮ぶものだという意』
(岩波ことわざ辞典)

本当は、そんなことを言っているのではない。
学者が三人集まるのではなく、
人が三人集まって、話し合っていると、
文殊のような知恵が飛び出してくることがある、
といっているのである。
三人が学者である必要などまったくない。
・・だたの人でいい。三人が集まって
考えを出し合えば、たいへんな名案が浮かぶ。」


うん。うん。すごい指摘だなあと
印象に残った箇所でした。

さてっと、今日
あらためて
時田昌瑞著「岩波ことわざ辞典」(岩波書店)。
その2000年10月18日第一刷発行の本です。
それをひらいて確認をしてみました。

それはp277にありました。
はじまりは、こうです。

「平凡な者で三人が集まって相談すれば、
よい知恵が浮ぶものだという意。・・・・」

辞書には「平凡な者」とあります。
外山滋比古氏の著書には、「平凡な学者」に
いつのまにかかわってしまっておりました。

もう岩波書店から、苦情が、扶桑社へと
いっているかもしれませんね。

それにしても、調べもせずに、
しばらくの間、私は時田昌瑞氏の著作を
不審に思ってしまいました(笑)。ゴメンナサイ。
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字をみていると。

2015-12-17 | 好き嫌い
題名に惹かれ、
石井桃子談話集
「子どもに歯ごたえのある本を」(河出書房新社)
を注文。昨日届く。

百歳の時のインタビューに答えて

「・・『本』だけでなく、字を見ているのがたのしみ、
新聞でも雑誌でも、字を見ていると心から安らぎます。
それと、歳をとると物事に無関心になるというけれど、
私にはそういう変化が訪れません。好奇心、でしょうか。
新聞の書評や広告で気になる本を見つけると読みたくなって
買ってきてもらっています。字を見ない日なんて、
一日もなかったのではないかしら。・・・」(p68)
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梅雨空。月刊3冊。

2015-06-19 | 好き嫌い
先月は、月刊雑誌「新潮45」「WILL」「正論」と
3冊つづけて楽しめました。
今月は、この3冊への期待感がふくらんで
このまま、梅雨を、やり過ごす(笑)。
ちなみに、正論は毎月1日発売ですが、
わたしは、新潮45→WILL→正論の順になる(笑)。


梅雨の一番手、18日発売の「新潮45」。
ひらくと、
平山周吉の文が18頁。
副題に「小泉信三の『帝王学』と戦後70年」とある。
平山周吉著「戦争画リターンズ」を読んだばかりで、
私は、ワクワクしながら読みました。

そういえば、
草森紳一氏は、慶応大学出身。
平山周吉氏も、慶応大学出身。
この18頁の中に登場する
小泉信三・福沢諭吉を書く手腕は、
資料の厚みで、細部がキラリ(笑)。



さてっと、今月号の「新潮45」は、
漫画の新連載が目をひきます。

「中国亡命漫画家」辣椒(らーじゃお)。
無駄をはぶいた余白の緊張感。
その漫画は8頁。
前のページでは、その漫画家との対談も
掲載されており、注目の新連載スタート。

あれ。竹村公太郎氏も新連載です。
「ニッポン地形歴史学」。その一回目は
「日本文明はなぜ奈良盆地で誕生したのか」。
6頁で写真が3枚。

書評欄では
佐久間文子(文芸ジャーナリスト)が
目黒考二著「昭和残影 父のこと」(KADOKAWA)
を取り上げておりました。


つぎの「WILL」が届くまでの間、
「新潮45」の未読箇所を、パラパラひらき、
シトシト・ジトジトを、やり過ごす爽快感。
梅雨空に、三冊を読みつぐ贅沢感。

うん。ビールの回数は減らそう(笑)。
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カオナシ文。

2015-03-17 | 好き嫌い
加藤秀俊著「自己表現」(中公新書)
から一箇所引用。


「『わたし』を濫発しすぎるのも、あんまり
感心できることではない。しかし一般的に
いって、日本人の文章には『わたし』が出る
ことがすくない。遠慮深いのであろうか。
遠慮だけではない。『わたし』を出さない
ことで、責任をぼやかすくふうをわれわれは
凝らす。たとえば
『・・・といわれている』
『・・・と見るむきも多い』
『いわゆる・・・』
これらの表現は、不特定の第三者を言外の主語
として使った表現で、われわれにはなじみ深い
構文だが、ここにあるのは、その文章の内容に
ついての責任が、どこにあるのかわからなくする
煙幕のようなものだ。わたしは、こういう構文の
文章は、おおむね信頼しないことにしている。
なにかしら、書き手のがわに、一種のいやらしさ
を感じるからだ。しかも、この方法を使うと、
擬似的客観性とでも呼ぶべき効果がうまれるから、
そのいやらしさは倍加する。うまい逃げ方には
ちがいないが、スッキリした文章ではない、
とわたしは思う。」(p110~111)


う~ん。ややもすると、
いやらしい構文を、使いたがる私は、
反省すること頻り。
それにしても、『倍加する、いやらしさ』の
包囲網をくぐりぬけるのに、
先頭は、やっぱり私からだな(笑)。

加藤秀俊氏の本は
『自己表現』の継続展開版として
『なんのための日本語』(中公新書)があり、
そこからも引用することに。

「・・こんなふうにかんがえてくると、
日本語があいまいだ、という説はまったく
根拠のないものであることがわかる。
もしもこの説にいささかの真理があると
するなら、日本人は日本語をつかうに
あたってあいまい表現を使用する傾向が
つよい、ということなのだろう。
『日本語はあいまいだ』というのは
まちがいである。あいまいなのは
日本語の性質に起因するのではなく、
この言語をつかうひとびとの使用法
なのである。このふたつははっきり
区別しておかなければならない。
もしもいまの日本語が『あいまい』だと
いうなら、それはあいまい表現をつかう
ひとがふえてきた、ということなのであろう。
『あいまい』はそれじたい悪ではない。
いろんないいまわしをつかって明晰にも
あいまいにも言語がつかえる、というのは
立派な言語技術なのである。
文明の言語というのはそういうことだ。」
(p108~109)

ということで、
しばらくは、本2冊
『自己表現』と『なんのための日本語』
とを座右に置くことにします(笑)。
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