和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

木山捷平の「ふるさと」。

2012-06-30 | 詩歌
日経の古新聞をもらってくる。
残念。山折哲雄の連載「危機と日本人」の
連載の13・14回目がない。
古新聞は、どこか欠けてしまうのだよね。
まあ、もらってくるのだから、
しかたありません(笑)。

さてっと、それとは別な話。
日経読書欄6月24日に
三木卓著「K」の書評を井口時男氏が書いておりました。
よかったです。そのはじまりは、
「表題のKは著者の妻を指す。72歳で癌で亡くなった。詩を書く者同士が25歳で結婚して以来47年。しかし、ふつうに同居していたのは最初の10年ほどだけ。小説家として順調に仕事をし出したころから、『ぼく』は自宅外に仕事場を与えられ、ていよく『隔離』されてしまう。」

以下情理をつくした書評になっているのですが、
引用は強引にも、ここまでにしておきます。

さてっと、井口さんの書評にある「『ぼく』は自宅外に仕事場を与えられ、ていよく『隔離』され」という箇所は、本文中でも、印象に残る箇所なのでした。ということで、そこを丁寧に引用していきます。

「『あなた、ここじゃあ、おちついて仕事できないでしょう。姉さんの知りあいが、西荻窪で学生下宿をやっているのだけれど、そこの一室を借りる約束をして来ましたから、そこで、がんばって下さい』
ぼくはおどろいてKの顔を見た。・・・・
・・・・・・
詩はみじかいから、それでもまだよかった。しかし小説は長いのである。集中度は、詩作のときほどではないが、どうかすると一日中、それが続くのである。『トイレの中で一日中、りきんでいる男がいるとしたら、六畳四畳半の家では、他の家族がたまらないでしょう。そういったことなんですよ』
どうして家で原稿を書いていないのか、と問われると、ぼくはそういう返事をした。・・・小説を書きはじめるに至って、この室内に発散されるぼくの拒否的緊張感はどうしようもない。排除するよりない。Kは、そう思って長姉に相談の電話をしたのかもしれない。だってそもそもKは、積極的にぼくのために何かをしてくれる、というような女ではないではないか。・・・・
ぼくはお金ための仕事で、しょっちゅう出歩いていたから、彼女は自分のしたいことをのびのびと出来た。しかし小説を書き出したら、いつも家にいて深刻な気配をただよわせながらすわっている。
書くという行為は、排泄や傷の手当てのように、本当はどこかにひっそりとかくれて、一人でやるべきことである。・・・
いずれにしても、小説を書き出してからのぼくは、書くことに夢中だった。たとえば、けっこう楽しんでいたプロ野球の記憶など、そのあたりの時間からあとは相当長い空白が続いている。きっとぼくは、Kから見たら人が変ってしまったと見えたろう。・・・」(p104~108)


気になったのは、
『トイレの中で一日中、りきんでいる男が・・』というところでした(笑)。

そういえば、
木山捷平の処女詩集「野」(昭和4年・1929年)は、25歳で自費出版しておりました。
そこには、小便とか腰巻とか薯糞とか、野放図にさらりと題名に使われております。
そこから、この詩を引用。

  ふるさと

 五月!
 ふるさとへ帰りたいのう。
 ふるさとにかへつて
 わらびがとりに行きたいのう。
 わらびをとりに行つて
 谷川のほとりで
 身内にいっぱい山気を感じながら
 ウンコをたれて見たいのう。
 ウンコをたれながら
 チチツ チチツ となく
 山の小鳥がききたいのう。




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ちょっと[当たり」だった。

2012-06-29 | 本棚並べ
そういえば、
近田春夫著「僕の読書感想文」(国書刊行会)が2008年12月に出ておりました。『家庭画報』に1998年1月号~2008年1月号までの連載をまとめた一冊。
それを古本で注文。

古本屋は、古書の旭文堂書店(北海道旭川市)。
ちなみに、キョクブンドウショテンと読む。

そういえば、北海道の古本屋で購入すると、
けっこう、本はきれいですね。
古本代800円+送料260円=1060円なり。
なお、新刊の値段だと、1890円。

さてっと、本をひらくと、
「現代文章宝鑑」小田切秀雄・多田道太郎・谷沢永一共編(柏書房)の感想文にひかれました。その題は
「ベラボーは千四百ページ! 電脳を圧倒する先人達の頭脳」とあります。
感想文の書き出しは

「やはり私には古本の方が楽しい。ひとつには新刊にピンと来るものが少ないというネガティブな事情もある。が何といっても思いがけぬ掘り出し物の発見だ。つい先日もこんな本を見付けた。元値が六千五百円(’79)のところ千五百円。厚さは広辞苑ほどもある。何だか判らないが、買っても損はしないんじゃないか。とにかく手に取ってみる。これがちょっと[当たり]だったのだ。」

そして、感想文の最後も引用。

「どのような人のどのような文章が選ばれているのか、この紙幅では書きようもないが、幅、奥行きともども非常にフレキシブルだ。なにしろ不思議なことに、これだけの重い中身なのに、[象牙の塔]臭がしない、そういう人選、文選である。’79年という時代に、こういう本に、ちゃんと東海林さだおが優れた文章家として位置づけられているのはすごい。」(p115)


うん。この「[象牙の塔」臭がしない」なんて表現にさそわれて、
つい、フラフラと古本で注文することに、
こちらは、本代先払い。
古書店は、業平駅前書店(墨田区押上)
古本代900円+送料450円=1350円なり。

安いので、それなりに古い感はありますが、
ちっとも、読むのには差し支えなし。

とりあえず、本棚へ。

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新明解古典。

2012-06-28 | 本棚並べ
本棚に
藤井高尚著「伊勢物語新釋」(国文名著刊行会)という古本。
読んでいなかった。
読もうと思った。
けれども歯が立たない。
とりあえず、伊勢物語の入門から、
と、桑原博史監修「伊勢物語・大和物語」(新明解古典シリーズ・三省堂)の現代語訳の箇所を読み始める。うん。よくわかります。
そうか、お能を読むにも、こちらから読み始めなければ、
などと思いながら読んでおりました。
いきなり、お能の本を読んでも、わからないけれど、
古典にまったくの素人にとっては、
伊勢物語を読めてよかった。

ということを思いながら現代語訳を読んでおりました。
現代文ばかりだと、あきますね。
古典は、ありがたい。
なんて、ちっとも読まない癖して思います。

ちなみに、私が持っている古本の
藤井高尚著「伊勢物語新釋」には
30ページぐらいまでに、
原文に鉛筆で書き込みがしてあり、
それ以降は書き込みなし。
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新たな発見があって。

2012-06-27 | 本棚並べ
書評などで気になり最近購入した新刊本。

丸谷才一著「快楽としての読書 日本篇」(ちくま文庫)
「桜花の記憶」(河野裕子エッセイ・コレクション)
「一気に通読できる完訳『論語』」(祥伝社新書)
「巨大津波は生態系をどう変えたか」(ブルーバックス)
「つぶやき岩の秘密」(新潮文庫)
笹沢信著「ひさし伝」(新潮社)
谷川健一著「日本人の魂のゆくえ」(冨山房インターナショナル)


未読ばかりですが、
ひとつだけ引用。

佐久協著「一気に通読できる完訳『論語』」の
学而第一のはじまり。

「以前に学んで分かったと思っていることでも、
復習してみると新たな発見があって愉快なものだよ。
遠くにいる友人が久々にやって来て旧交を温めるのも楽しいことだ。
そうしたことに人生の喜びを見出して、
世間が自分を認めてくれないことをグチったり
恨んだりしないようになれば、まッ、
ひとかどの人物の仲間入りが出来たと言ってよいだろうな。」

「口先が上手で、
 やたらと愛想のよい者に、
 本当の親切者など、
 まずおらんもんだよ。」



冨山房インターナショナルから
川島秀一著「津波のまちに生きて」と
谷川健一著「日本人の魂のゆくえ」の二冊を購入しました。
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そうは言うけれどね。

2012-06-26 | 前書・後書。
新刊と古本と、
注文した本が届く。

まずは、古本

まこと書房(福岡県春日市)
岩阪恵子著「木山さん、捷平さん」(新潮社)
古本900円+送料290円=1190円なり

あとがきは
こうはじまっておりました。


「もともと私は生きることに積極的な人間ではありません。後込みし、隙あらば生の前線から逃げ出そうとする臆病な人間です。人生の苦労というほどの苦労もしないうちから生きることに悲観的・懐疑的で、かといってそれをきちんと自分の思考の筋道とすることもなく、ただやたらと溜息をついたり嘆いたりするだけでした。そういう具合でしたから、人間という生きものにはあまり馴染めませんでした。今でも苦手です。
ところが、『そうは言うけれどね、人間てやつも捨てたもんじゃないよ。あれでなかなか面白いところもあるんだよ』と語りかけてくれたのが、木山捷平さんでした。正確には、木山さんの詩でした。たしかにその詩は小さな燠火のようにぽっと暖かく、私はそこに手をかざすように私の心をかざしてみたのでした。それが出発点でした。・・・」


ちなみに、この本のはじまりは
こうでした。


「『思想なんてものがいちばん駄目でしたね』と、戦前、戦中、戦後を生きてきた木山捷平はぼそっと呟く。」


う~ん。読み始めると、なんだか滅入ってくる感じがあります。
まずは、木山捷平の詩から読み始めればいいのだと、
パラパラめくりながら、わたしは思うのでした。
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台所に一番近い席。

2012-06-25 | 前書・後書。
河野裕子エッセイ・コレクション「桜花の記憶」(中央公論新社)。
その「あとがき」を河野裕子さんの長女・永田紅さんが書いておりました。
その「あとがき」のはじまりを引用。


「ものごころついたころから、
家族が食事をするテーブルが、母の仕事机でもあった。
十回以上ひっこしをしていろいろな家に住んだが、
食事はいつも、歌集や手紙の束や原稿用紙やゲラが
雑然と載っていて、鉛筆や消しゴムがころがっていた。
台所に一番近い席が母の場所で、
エプロンや割烹着をつけて煮炊きをしながら、
あるいは後片付けのすんだ深夜にものを書いているのが、
仕事をしている母の姿だった。
食事のときには、『机のうえ片付けて』と言われて、
コクヨの緑の原稿用紙や鉛筆削りを
テーブルの端のほうへ寄せて場所を作り、
消しゴムのかすをはらう。
アネモネやナデシコやエノコログサなど、
母はちょっとした庭の草花をコップに挿して
飾るのも好きだったから、
ごちゃごちゃとはしているけれど
食卓の上はいつも活気のある場所だった。」

うん。河野裕子さんの歌集はもっておりませんが、
この本は、買ってみました。
とりあえず、本文未読のままに、
あとがきを引用させてもらいました(笑)。
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ご存知、有名な『鮭』の絵です。

2012-06-24 | 短文紹介
今日まででしたね。
「近代洋画の開拓者 高橋由一」展が
東京芸術大学大学美術館で開催されておりました。

今月の6日に、一度だけ見にいってきました。
そのときは、「読本と草紙」が鮮やかな色彩で
印象に残りました。岸田劉生が思い浮かびました。

うん。はじめて高橋由一を意識したのは、
山村修著「狐が選んだ入門書」(ちくま新書)の
第五章にある
「画家の身にひそむ思想の筋力・・菊畑茂久馬『絵かきが語る近代美術』」でした。その本の副題は「高橋由一からフジタまで」となっている。
その紹介文を読んで、さっそく弦書房の菊畑茂久馬著『絵かきが語る近代美術』をとりよせて読んだのでした。こんな魅力的な本があるんだとウキウキしながら読んだのでした。ちなみにこの出版社は福岡市。
その第一章は「油画の創始者、高橋由一」。
そこに、たとえば、こんな言葉があります。

「下手ということは、絵かきにとっては、いのちの裸像なんです。絵かきはすぐ上手になる。だから駄目になるんです。」(p39)

「ご存知、有名な『鮭』の絵です。」(p44)
という箇所をすこし引用してみましょう。

「実物を見たのは恥ずかしながら、今回がはじめてでした。ずっと思い込んでいたサイズよりもはるかに大きい。絵の前に立つと、どうだ、参ったか!って感じ。私はカンバスとばかり思っておりましたが、紙に描いてるんですね。しかもフスマの表具立てで・・・この絵が、和紙に描かれているのは皮肉ですが、支持体が何であれ、西洋油絵の技術が由一によって、ともかく薬籠中のものになったというわけです。油絵は一種の錬金術ですから、いかに製法や技法に秘術がつまっているか、それを克服した一応の到達点がこの絵に見られるということでしょう。実際、絵を見ると完成度は数年前の『花魁図』や、同年に描かれた『豆腐』の絵と比べ、目を見はるばかりに高い。・・・
実際、絵を見てますと、実に堂々とした描き方なんです。こせこせと描いていない。全然細緻でもない。例えば鱗の描き方なんか、筆先の絵具を、べたッ、ぱッ、べたッと撥ね上げて描いている。鮭を吊るした荒縄のほつれもしかり、鮭の肉も骨もしかり、ほとんど揮発性の油を使ってないから、おそらくべとべとの油画特有の粘調性を逆手に、ま、一種のアクションペインティングを多用しているんですね。この絵はその集積です。・・・・この絵は何と言っても描いた絵かきが落ちつき払っている。それが見る者を絵の前でしゃんとさせるんですね。・・・」(p46)


私は何を見てきたのだろうと、
この本を読み直して思います。
まあいいか、とにかくも実物を見てきたのだから。

古田亮著「高橋由一 日本洋画の父」(中公新書)が今年の4月に出ておりましたが、未読。
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新田次郎誕生100年。

2012-06-23 | 他生の縁
雑誌「新潮45」7月号の新潮社新刊案内。
新潮文庫6月の新刊に、
新田次郎誕生100年記念フェアとして、
新田次郎の二冊が並んでおりました。
「つぶやき岩の秘密」という少年冒険小説と、
もう一冊が「小説に書けなかった自伝」。


さっそく、その自伝の方を購入。
ということで、そのお話。

「司馬遼太郎が考えたこと 15」に
「本の話 新田次郎氏のことども」という文があります。
そのなかに
「『強力伝』という作品で、直木賞を受賞された。当時、私はこういう、筋骨と精神力をともなう専門家が、小説を書きはじめたこと自体、明治後の小説家の歴史における異変だとおもっていた。」という指摘があります。

さて、「小説に書けなかった自伝」のはじまりは

「小説を書くようになった動機はなにかとよく訊ねられる。それに対して私は、妻が『流れる星は生きている』を書き、それがベストセラーになったのに刺激されて、おれもひとつやってみようかということになり、初めて書いたのが『強力伝』で、それ以後小説から足を抜くことができなくなったと判で押したように答えている。だいたいこのとおりであるが、もう少し詳しく説明すると、そもそもの動機は『筆の内職(アルバイト)』をしたいということから発した生活上の要求であって、文学とか小説とかいうものとはなんのかかわりもない出発だった。」


ところで、司馬さんは「本の話」のなかで、
新田次郎氏に新聞の連載小説をたのみに、東京へと出張します。

「私が三十代だった昭和三十一、二年のころである。私は大阪の新聞社にいて、文化部のしごとをしていた。」

この時に、司馬さんは断られて帰ってくるのでした。

新潮文庫「小説に書けなかった自伝」をパラパラひらいていると、
昭和三十四年のことが出てきます。


「昭和三十四年の三月半ばころ、『週刊新潮』編集部の新田敞(ひろし)さんが気象庁へ私を尋ねて来た。」(p88)
そこで、新田次郎氏は連作小説を引き受けることになるのでした。
まず、三篇を書いてわたすと

「三日ほど経ってから、南さんがやって来て、
『全部駄目でした。別なものをお願いしたいのですが』
と済まなそうな顔で云った。どこそこを書き直せというならば話は分るけれど、別なものを書けというのは三つとも『週刊新潮』に載せられないような原稿だという意味である。これにはショックを受けた。五時の過ぎるのを待って役所を出て、神田の喫茶店で南さんにくわしく話を聞いてみると、この小説を『週刊新潮』に載せるかどうかは編集担当重役の斎藤十一さんが決定することになっているので、われわれとしてはどうにもならないということだった。」(p90)

うん。ここから新田さんはどうするか?
ちなみに、この文庫「小説に書けなかった自伝」は
本文のあとに、28ページほどの新田次郎年譜。
藤原てい「わが夫 新田次郎」。
藤原正彦「父 新田次郎と私」が掲載されております。


興味深いのは、この自伝を読むと、
同時発売の新潮文庫「つぶやき岩の秘密」を読みたくなる。
ということで、その興味をそそる箇所を引用。

「まだまだ小説について経験の少ない私には、少年小説のほうが大人の小説より、遥かにむずかしいものであるということを知らなかった。」(p13)

というのは「小説に書けなかった自伝」のはじめのほうに出てきます。そして「自伝」の「八甲田山死の彷徨」の章に、こうあるのでした。


「私は昭和46年の2月の始めに、三浦海岸の新潮社の海の家にカンヅメになった。」
「附近の自然林の山桜が散ったころ、私はふじ(注・日本犬)と桑原さんの一人息子の貞俊君と海岸に出た。南に向って少し歩くと海を見おろす絶壁の上に豪奢な別荘がある。以前からその家の存在が気になっていたので、貞俊君と相談して海の方からよじ登ってみることにした。少年を先頭にしてかなりな急傾面の藪を這い登ると、そこに有刺鉄線が張ってあった。その有刺鉄線にそって迂回して行くと門があった。なんとそれは三浦朱門、曽野綾子さん御夫婦の別邸だった。・・・この年の秋『八甲田山死の彷徨』が出版されるころ、私はもう一本書きおろしをやっていた。・・・新潮社出版部が企画した『新潮少年文庫』に参加したのである。私は『つぶやき岩の秘密』という少年小説を書いた。三浦海岸を舞台にした、一種の冒険探偵小説のようなものだった。海を見下す崖の上に、白髪の老人が一人で住んでいるという想定から始まった。三浦朱門さんの別荘がモデルとなった。彼の家のすぐ裏手にある、円墳塚もまた、この小説の重要な鍵となり、彼の家の直下にあたる、大洞窟の存在と潮流との関係・・・・」(p201)


と、楽しめました。お名前だけでしたが
齋藤十一・三浦朱門・曽野綾子と登場しており。
どなたも、直接には会っておられないよな、
袖振り合うも他生の縁みたいな、
自伝での登場の仕方でした。
それが印象に残ります。

私は「八甲田山死の彷徨」未読。

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スガンさんのやぎ。

2012-06-22 | 本棚並べ
飲み屋で、
三木卓が、木山捷平に怒鳴られる箇所がありました。


『森の息子か。で、今、何をしている』
『書評の新聞で働いています』
『ふん』
かれはくそおもしろくない、というようにいった。
『そんなことをしているひまがあるなら、田舎へ帰れ。学校の先生になれ』
『えーっ』
ぼくは驚いていった。
『そんなこといわれたって、困ります。だってぼくは、教員の免許をもっていないんです』
『なんでもいい』
木山はいった。
『こんなところをうろうろしていないで、さっさと田舎へ帰れ。ろくでもない』
ぼくはその剣幕におそれをなして、そばを離れた。


うん。
今日になったら、私は「スガンさんのヤギ」のことを思い浮かべたというわけです。

水曜日に、
獅子ヶ谷書林に注文してあった絵本が届いておりました。
1260円+送料300円=1560円なり
注文した絵本は西村書店の「スガンさんのヤギ」。
絵がエリック・バテュ―。そういえば、
なんとなく、茂田井武の絵に似ているなあ、
なんて思いながら、私は見ておりました。
この絵本の訳は、ときありえ。
うん。シンプルな方がよい私は、
本棚をさがして、ホコリをかぶった
岸田衿子・文、中谷千代子・絵の偕成社絵本「スガンさんのやぎ」を
とりだしてきてみました。
岸田衿子の文の最初は、こうなっております。


スガンさんは、やぎが だいすきでした。
いままでに もう 六ぴきも やぎを かいました。
でも、やぎは なわを きって にげてしまうのです。
やまの なかへ にげてしまうのです。
だから、どのやぎも みんな おおかみに たべられてしまいました。
スガンさんは、とても がっかりしました。
『もう やめた。やぎは、うちの にわが きらいなんだ。
 もう やぎを かうのは やめた。』
でも、スガンさんは、やっぱり やぎが すきでした。



本棚にしまう前に、しばらくは、
偕成社と、西村書店と、
二つの絵本を見えるところに、
置いとくことにします。
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木山さん。

2012-06-21 | 本棚並べ
岩阪恵子著「台所の詩人たち」(岩波書店)で
木山捷平氏の詩を取り上げておられた。
うん。岩阪恵子さんは木山捷平への水先案内人かもしれませんね。
と、遅まきながら気づきます。
そういえば、講談社文芸文庫の
「木山捷平全詩集」と「氏神さま・春雨・耳学問」の
解説を岩阪恵子氏が書いている。
(どちらも、持ってはいるのですが、未読本)
それじゃ。
ということで、岩阪恵子著「木山さん、捷平さん」を
古本で注文することにします。

ところで、三木卓著「K」の読後感が尾をひいているので、
三木卓著「わが青春の詩人たち」(岩波書店)を本棚から
とりだしてパラパラひらいていると、
そこに、木山捷平氏が登場しているのでした。
せっかくですから、その箇所を引用。


「新宿あたりで酒を飲むのは、それからずっとあと、編集者になってからのことである。駅の東口を出たところに『五十鈴』という酒場があって、ここはお握りと野菜炒めがとてもおいしかった。そのことを思い出して、あるときノレンをくぐったら、奥のほうに木山捷平がこしかけていて、杯を傾けていた。芸術選奨を受けた『大陸の細道』(新潮社、1962)が出たころではなかったろうか。かれの作家としての仕事にあぶらが乗っていた時期だと思う。・・・・
『木山さん』
アルコールの入っていたぼくは、気楽に声をかけた。
『森竹夫の息子です。いつぞや偲ぶ会のとき来てくださったでしょう。そのときはありがとうございました。』
するとかれは顔を上げてぼくをじろっと見、ぶっきらぼうにいった。
『森の息子か。で、今、何をしている』
『書評の新聞で働いています』
『ふん』
かれはくそおもしろくない、というようにいった。
『そんなことをしているひまがあるなら、田舎へ帰れ。学校の先生になれ』
『えーっ』
ぼくは驚いていった。
『そんなこといわれたって、困ります。だってぼくは、教員の免許をもっていないんです』
『なんでもいい』
木山はいった。
『こんなところをうろうろしていないで、さっさと田舎へ帰れ。ろくでもない』
ぼくはその剣幕におそれをなして、そばを離れた。それから『五十鈴』へ行ってかれがいると、離れた席にすわった。木山はどうやらなかなか頑固な人なのである。ぼくは、それでもなお二、三回、つかまって、『故郷へ帰って教師になれ』といわれた。当時は就職難だったから、文学部に進学したものは教員免許をとっておけというのが、大人のよく口にするところだった。しかしマンモス大学のロシア文学専攻のぼくの場合、五年いないと英語の免許は取れない。それに、教師に簡単になれる時代ではなくなっていた。しかし、あのときじつに頑固にかれがそういいはったのは、ぼくのうちに都会で軽薄に生きている若者の一人を見たせいにちがいない。そして晩年にいたってからは、味わいある個性派作家として高い評価を受けるようになりはしたが、それまでの自身の歩いてきた人生の困難を思わずにはいられなかったのかもしれない。
しかしかれは、ぼくが1966年に最初の詩集を出したときには、おおいによろこんで激励してくれた。故郷へ帰らせることをあきらめてくれた気配のせいでもあったが、ぼくはうれしかった。」(p280~282)

うん。よいチャンス。
いまだ開いたことのない木山捷平全詩集を、
この機会にめくってみます。
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台所の詩人たち。

2012-06-20 | 詩歌
古本が届く。
岩阪恵子著「台所の詩人たち」(岩波書店)。

古本屋は光風舎(長野市東町)
古本は800円+送料300円=1100円なり。

岩阪さんは名前だけしか知らない私ですが、
題名にひかれて注文。
本が届くまで、あれこれと思っておりました。
まず、題名からの連想です。
「台所の詩人たち」というのだから、
詩人たちの台所にまつわる詩のアンソロジーのような本なのだろうか?
もしそうなら、
たとえば、長田弘著「食卓一期一会」は出てくるだろうか?
それとも、幸田文著「台所のおと」なんてのもあるかもしれない?
高田敏子詩集にも台所の関連の詩はあるだろうなあ?
もちろん、石垣りんの詩はかかせない。
はたして、どんな詩人たちがつまっている本なのだろうなあ。

まあ、そんなことを思いながら古本が届いたわけです。
かってに思い描いていた本のイメージとは違っておりました(笑)。
あとがきには
「初めての随筆集を編みました。・・・これらの文章は、約四半世紀にわたる我が家の暮らしぶりを側面から照らしてくれるものでもあるようです。・・・書きちらかしてきた短文を、一冊にまとめてみませんかとおっしゃってくださった岩波書店の平田賢一氏・・・」

うん。随筆集で、その随筆の中に「台所の詩人たち」という一文があって、それを本の題名とした。そんな体裁の本なのでした。

とりあえず、ぱらぱらとひろげて見ていると、
「木山捷平の詩」と題する一文が目に止まりました。
そこから、引用。


「『飯を食ふ音』という詩がある。

   人間が飯を食ふ音を
   公衆食堂できいてゐると
   丁度猫が水をなめてゐるやうな。

   ああ、夕ぐれどきのさみしさよ、
   人間が十五銭の皿をなめてゐる。

彼は、『何でもない詩論』でこう書いている ――『何がわれわれには美しいか。(中略)われわれは、われわれの生活により直接的であるものの方に、より美しさを感じる。人間がめしを食っている様子は実に美しいものである』。ここのところを読んで、わたしは最初どきっとした。なぜならわたしは自分でものを考えはじめるようになってから、食べるという行為を美しいとは、おそらく一度も思ったことがなかったからだ。・・・美しいと心底彼が感じているために、彼の詩はいやらしさからほど遠く、晴れ晴れするほど爽やかなのだ。」(p159~160)

ちなみに、「台所の詩人たち」という一文に登場する詩人たちは、というと、石垣りんからはじまり、山崎るり子・伊藤比呂美(エッセイ)・黒田三郎・清水哲男・北村太郎の詩が並んでおりました。

   
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ぼくをギョッとさせる。

2012-06-19 | 短文紹介
藤原智美著「文は一行目から書かなくていい」(プレジデント社)にある一行。
「私のとっておきのBGMはグレン・グールド演奏の『ゴールドベルク変奏曲』です。」(p111)に感化されて、このところ、ブログを書くときのBGMにしております(笑)。

さてっと、雑誌「新潮45」7月号。
そこに中野雄氏の追悼「丸山眞男が語った『吉田秀和』」(p94~97)という文がありました。そこに「誰よりも早くグレン・グールドの弾くバッハを『天才』と賞讃・・」と副題にあるじゃありませんか。もうちょっと詳しく引用。

「吉田秀和はあるとき、『・・・私が好むのは、価値の発見である。新しい才能の発掘である』という言葉を記している。第一の例証として、カナダのピアニスト、グレン・グールドを取り上げ、それまでわが国の音楽界、レコード業界で奇矯児扱いされるか、黙殺さえされていたこの人のバッハ【ゴールドベルク変奏曲】のLP盤を空前の大ヒット商品、戦後のクラシック・レコードの中の記念碑的存在にまで高めてしまったことが挙げられるだろう。きっかけは知人が、『何だか、やたらに速いばかりで・・』と言って貸してくれた一枚のレコードだったらしいが、音楽の新しい流れに関する直感力でその革命的性格を捉え、直ちに文章化して、不特定の多数の読者をレコード店に走らせてしまった事実は、いまなお業界の『伝説』として語り継がれている。
吉田はこの成功に力を得たのであろうか、のちに、『これだけの演奏をきいて、冷淡でいられるというのは、私にいわせれば、とうてい考えられないことである。私は日本のレコード批評の大勢がどうであるかとは別に、このことに関しては、自分ひとりでも、正しいと考えることを遠慮なく発表しようと決心した』と書いている。『奇人』としか評価されていなかったウィーンの天才ピアニスト、フリードリヒ・グルダがそれに続く。・・・」

私はこの吉田秀和追悼文で、はじめてグレン・グールドとのつながりを知ったのでした。追悼文は読むものですね。
せっかくですから、三題噺じゃないですが、
もう一人引用しておきたくなります。
「編集者 齋藤十一」(冬花社)のなかに
齋藤美和氏の談話が掲載されております。
そこに、こんな箇所があります。

「そういえば小林秀雄さんが生前、何度も、『君んとこのデッカ、聴かせてくれよぉ。近くに住んでいるんだからさぁ』と言っておられました。でも結局齋藤は一度も聴かせてさしあげなかった。『小林さんと話していてね、文学の難しい話になると、こっちから音楽の話に切り換えちゃうんだ。そうすると僕の方が絶対強いからね』ことレコードに関しては、小林さんの方が齋藤に教えを乞うていらしたようです。・・・小林さんは酒席などで齋藤に向って『君が先に死んだら書かせてもらうよ。君と音楽のことなどをね』とおっしゃっていました。」

この先に、こうあるのでした。

「なぜグールドが好きなのか。言を尽して演奏を批評することを好まなかった齋藤ですが、グールドについてはこんなことを言っていました。『バッハでもモーツァルトでも、グールドの演奏はいつもぼくをギョッとさせる。どんな曲でも、それはグールドの音楽になってしまう。だからすごいんだよ』
齋藤は雑誌の企画にしても『真似をする』ことを極端に嫌いました。グールドの演奏は数多の先達の名演奏を乗り越え、独自の世界を作っています。それがあるいは齋藤の、『編集者としての矜持』を刺激したのかもしれない。そんなことを今、思っています。」


うん。これで当分、BGMがかわることはありませんね(笑)。
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タイトルがいかに大切か。

2012-06-18 | 短文紹介
今日の産経新聞2面下に、
月刊雑誌「新潮45」の広告が載っておりました。
はじめにこうあります。
「落選させたい政治家12人」
たとえば

「言訳ばかりの権力亡者 菅直人」保阪正康
「思い出したくもない史上最低の総理 鳩山由紀夫」福田和也
「調子の良さだけは一流の厚顔無恥 原口一博」適菜収
「何が政治主導か 三百代言 枝野幸男」佐々淳行

うん。このタイトルだけで、溜飲が下がる不思議。
実際に読んでもいないのにタイトルだけで浮き立つ不思議。
ということで、
たのしいと、あれこれと連想がはたらきます。
まず思い浮かんだのは、
「編集者 齋藤十一」(冬花社・2006年)という追悼集でした。

ぱっとひらいても、
あれこれと、引用してみたい箇所があるのです。
こんなのはどうでしょう。

石井昂「タイトルがすべて」(p177~183)に

「『売れる本じゃないんだよ、買わせる本を作るんだ』
『編集者ほど素晴らしい商売はないじゃないか、いくら金になるからって下等な事はやってくれるなよ』
『俺は毎日新しい雑誌の目次を考えているんだ』
次から次に熱い思いを我々若輩に語りかけられた。
齋藤さんの一言一言が編集者としての私には血となり肉となった。我田引水になるが、新潮新書の成功は新書に齋藤イズムを取り入れた事によるといって過言ではない。
『自分の読みたい本を作れ』
『タイトルがすべてだ』
私はいま呪文のようにそれを唱えている。」

もう一人。
伊藤幸人「人間、いかに志高く」(p167~172)
それは「私の手元に、『新潮45 会議ノート』と題した、いささか色褪せた五冊のノートが残っている。」とはじまっておりました。

「編集会議とはいうものの、実態は、齋藤さんの独演会である。・・当時、齋藤さんはすでに七十歳を越えておられたはずだが、その存在感、人間的な迫力はすさまじいものがあった。」

「『新潮45』の第一回編集会議というべき、創刊にあたっての初顔合わせで、編集長以下編集スタッフ四名を自室に呼んで、齋藤さんが放った言葉はいまも忘れられない。昭和59年(1984年)12月28日のことである。
『他人(ひと)のことを考えていては雑誌はできない。いつも自分のことを考えている。俺は何を欲しいか、読みたいか、何をやりたいかだけを考える。これをやればあの人が喜ぶ、あれをやればあいつが気に入るとか、そんな他人のことは考える必要がない』
『要するに、世界には学問とか芸術というものがあるし、あったわけだね。そういうものを摂取したい自分がいる。したいんだけど、素人だから、手に負えない。そういうものにうまい味をつけて、誰にも読ませることができるようなものにするのが編集者の役目だ』
強烈なアジテーションに、われわれ編集部員は圧倒された。・・・・
齋藤さんは『タイトルの天才』『タイトルの鬼』といわれた。『週刊新潮』のタイトルを創刊以来、何十年にもわたってつけ続けたという『伝説』もあった。実際、『新潮45』の編集会議においても、齋藤さんが、いかにタイトルにこだわっているかを痛切に思い知らされると同時に、雑誌記者にとってタイトルがいかに大切か、という原則を繰り返し叩き込まれたという思いが強い。私の会議ノートには、こんな発言が残っている。
『誰が書くかは問題ではない。何を書くかが問題。広告などでも執筆者の名前は小さく、タイトルは大きく』・・・・」


今日の新聞の雑誌広告「新潮45」のタイトルに、拍手しながら、
齋藤イズムの健在を、同時によろこぼうではありませんか。

ちなみに、
雑誌広告の右端が
特集「落選させたい政治家」なら
広告の左端はというと、
特集「『生活保護』天国ニッポン」

「足立区財政の2割は生活保護費に消えている」橘由歩
「これが日本の未来?
イギリスの『働かない若者たち』」マークス寿子

となっておりました。
つい、買いたくなる。
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ちゃぶだいの上の醤油壺。

2012-06-17 | 地域
三木卓著「K」(講談社)に出てくる本たちが、気になりました。
どのような本なのかということじゃなく、
本の移動といったらよいのかなあ。
それが注意をひきます。

たとえば、
「ついでにいえば、Kにものを貸すと、ロクなことはなかった。本はとくにひどい目にあった。『あなたは乱暴にあつかったり、返さなかったりするから、これはぼくにとって大切なものだから貸せない』といっても『返す、返す、必ず返す』といって強引にもっていって返してくれない、ということはふつうだった。娘も、『あの大切なブルーノ・ワルター、もっていかれてしまったけれど、まだ出てこない。どこへいっちゃったんだろう』といっているから、二人とも被害者なのだ。」(p111~112)

はじめて、妻になるKが
「ぼくの住んでいる国立」へゆく場面では

「台所と風呂はあるが、ガスも水道もない。水はポンプで汲みあげる。こわれかけた木のドアをきしませながら入り、電灯をつけた。彼女は、はいってきて中を見まわした。新聞紙と髪の毛が散乱している。ちゃぶだいの上には醤油壺。そして乱れた万年床。しかし、彼女は、いっこうにひるむ様子はみせないでいった。『あなたって、あんまり本を持っていないのね。もっといっぱいもっているかと思ったのに』『売ってしまうんだ。そうしないと、次が買えないから』・・・」(p10~11)

「いずれにしても、彼女が洗面器とともにぼくの部屋に闖入して来たのは、わけがあった。同棲するや否や会社をやめてしまったのは、当然のことだったのだ。溺れるものは藁をもつかむ。ぼくは貧弱な藁だったのである。」(p61)

この本の後半には、こんな箇所。

「そういえばもうだいぶ前から、気になることが起こっていた。それは不意に宅配便が送りつけられてくることで、その中には、自宅にあったぼくの着換えがはいっていたり、記憶・資料用の大量のスクラップブックがはいっていたりした。ぼくが送ってくれ、とたのんだ覚えのないものばかりである。・・また、ぼくが資料としての本が必要になって、どこそこの棚の右から何番目、と指定すると、しばらくして、『それは、ありません。わかりません』という返事で終ったりした。やがてその不審の意味がとけた。ある年末に帰ってみると、本どころか本棚そのものもなくなっているのである。『あまり沢山で、居場所がないから、本を倉庫屋さんにあずけたのよ』『えっ』『そうなの』それも、二つの業者にたのんでいた。『どういう本を送ったの?』『さあ、わからない。そこらのあふれていたやつ。集英社の世界文学全集は、ほとんど。本棚ごとあずけたわ』・・・・とりもどしたい、と思っているが、そのうちに家の中にはまた本が増え、解約するとなると、どこへおいたらよいのかわからない。それでまだ、毎月倉敷料を払いつづけているしまつである。」(p142~143)


うん。それから、詩集の出版費用の相場とか(p46・p68)。
これが、小説かなんだ私にはかわかりませんが、
とにかくも、細部が印象鮮やかに描かれておりました。
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犬も食わない。

2012-06-16 | 短文紹介
三木卓著「K」(講談社)を読む。

最後の方に、ご自身の家系を語っております。

「ぼくの家には、いろいろの血筋があるが、母方が助産師の家系で、はじまりは江戸にまで達している。家系図は、女が中心に描かれる。終戦直後、ぼくはその産院のひとつの居候の小学生になり、薪をわったり、お風呂をわかしたり、湯わかしを手伝ったりした。薪でお風呂をわかすのはうまくなった。」(p220)

「女系家族の中の男は、どこか鋳型が補完的役割をするように運命づけられている。ぼくには多分そういうところがあったから、なんとかうまくもったのかもしれない。そんなふうに考えると、少し納得がいく。・・・ぼくは争いをさける人間だった。足のわるいものが喧嘩しても、なんの利益もないからである。ぼくは、できるだけことなかれ主義の青年だったし、今もそうだ。」(p221~222)

こういう三木卓氏は「1935年生まれ。静岡県出身。幼少期を満州で過す。」とあります。


この本の最初のほうには、お風呂のことがでてきております。
「出会ったのは、1959年の秋のことで、ともに二十四歳だった。左足のわるいぼくは、ひっこみ思案でなかなか就職できず、ようやく書評新聞の記者という仕事にありついたところだった。だが、給料はとても安くて、次の給料日までのあいだをどうして生きていたのかよくわからない。女性は、もちろんほしかったが、いいよると必ずふられて、そのたびにまいっていた。」(p5)

まあ、そのあとに、奥さんとなるKと出会うわけです。

「数日後、たちまち事件が起った。
その朝も二人は国立で泊って、そこから出勤したのだったが、ふと、ぼくはいった。『そろそろ、風呂に入りたいねえ。今夜は、わかしといてくれないか』
その夜、ぼくが帰ってくると、家はまっくらでだれもいない。」

「チャーチャンは、笑いのまじった声でいった。
『お風呂わかせって、いわれたって、ブンブン怒っている』
なんですって!
ぼくは、びっくりした。
『お風呂なんて、だれだってわかすじゃありませんか』
『そうよ』
チャーチャンはいった。
『でも、彼女は怒っているの』
『どうしよう』  」

「しかし、ぼくには、からだのあたたかい女が、どうしても必要だった。Kがともかく帰ってきた以上、不可解なところがあっても、もう二度と逃がすまい、と思った。」(~p16)

こうして、はじまる「青森の八戸市の出身」のKとの暮しと、Kとの死別までが書かれております。そのKの詩集のこととか、堰を切ればドッとのまれてしまいそうな夫婦間の出来事を、そのつど押し留めるようにして、サラリとかわしながらたどった一冊。

現代詩のこととか、何のかのと、細部にひかれて読みました。夫婦喧嘩は犬も食わないと、昔から申しますが、女性詩人との夫婦関係を、作家三木卓がどのように回想しながら料理してゆくかが読みどころ。古くて新しい夫婦の物語。
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