和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

俳地に立つ漱石。

2006-10-31 | Weblog
漱石の俳句というのは、現在ではたとえば、
坪内稔典著「俳人漱石」(岩波新書)
半藤一利著「漱石俳句を愉しむ」(PHP新書)
このお二人がまず私に思い浮かびます。
ひと昔前でいえば、寺田寅彦の俳句への言及が注目。
私には、そんなくらいしか思いつかなかったのですが、
今年でた知の自由人叢書・山口昌男監修・沼波瓊音著「意匠ひろひ」(国書刊行会)の中に
「明治俳壇の回顧」という文があり、そこに
「漱石を俳人として数へると漱石は不服かも知れぬ。しかし彼は正しく俳人である。彼の最も文才を揮つた、又揮ひつつある小説そのものは、明かに俳の上に立脚して居る。俳地に立つて西来の思想を駆使するもの即ち彼の小説である。彼の小説は小説と云うものの約束から云へば傷だらけである。しかし誰が読んでも面白い。傷なんか探して居られぬ程面白い。寧ろいつまでも彼はこうした物を書いて居て呉れて、小説の約束に適つた物に筆を着けて貰ひたくない、と云うのが何人もの希望であろう。彼の小説は俳味の展がりである。唯便宜上その展がりが小説と云形を借りてるまでで、決して小説の下に俳味が使はれてるのでは無く、俳味の下に小説が使はれてるのである。恰も西鶴の小説(?)が俳味の展がりである様子と全く同じである。兎も角他形文芸に攻め入った点に於て、明治俳人中最も揮つたのは漱石であつた。」(p142)
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「羽衣」と「諸国の天女」。

2006-10-30 | Weblog
謡曲に「羽衣」がある。
内容のあらましは、駿河の三保の松原に天女が天降り、松に掛けて置いた羽衣を漁夫に取られてしまう。その漁夫に乞ひて、衣をかえさしめ、その所望で舞楽を奏でて、舞い戻ってゆく。


「風早(かざはや)の、三保の浦わをこぐ舟の、浦人騒ぐ浪路かな」
と謡曲は始まります。
漁夫とのやりとりはというと
「なうその衣は此方(こなた)のにて候。何しに召され候ぞ。」
「是は拾ひたる衣にて候程に取りて帰り候よ。」
「それは天人の羽衣とて、たやすく人間に与ふべき物にあらず。元の如く置き給へ。」
「そも此衣の御主とは、さては天人にてましますかや。さもあらば末世の奇特に留めおき、国の宝となすべきなり、衣を返す事あるまじ。」
「かなしやな羽衣なくては飛行(ひぎょう)の道も絶え、天上に帰らんことも叶ふまじ。さりとては返したび給へ。」

ちょいとここで、永瀬清子著「光っている窓」(編集工房ノア)のなかの「本当はどうなのだろう」をもってきてみます。

永瀬さんは「私が詩を書き出したのは19歳か20歳の頃であった。」と書き始めております。途中をとばして
「次に出した詩集は『諸国の天女』で、これも民間の伝説に基づいているのは、私の心の傾向を示しているのであろう。昭和15年に出版したが、その作品を書いたのはその二、三年前の『四季』であった。その頃、柳田国男先生の著書をせっせと読んで居り、又先生の講座を聞きに毎週お茶の水の佐藤生活会館へ通ったりもした。・・柳田先生の本の中では、日本の各地に天女伝説がある事を知った。一番よく知られているのは謡曲にもある駿河の国三保の松原に降りた天女の話である。・・・
本当はどうなのか。天へ帰った天女のほかに、人は気づかなくても夫や子供のため、働く女として地上に止まった天女がもっとありはしないだろうか。私にはそうした天女がありそうに思えてならなかった。それを書いた詩が『諸国の天女』なのであった。その最後の所は、

 きずなは地にあこがれは空に
 うつくしい樹木にみちた岸辺や谷間に
 いつか年月のまにまに
 冬過ぎ春来て諸国の天女も老いる

と結んでいる。・・・」


もう一度謡曲「羽衣」にもどりましょう。
その最後はこんな言葉でした。

「さるほどに時移つて、天の羽衣浦風に、たなびきたなびく三保の松原、浮島が雲の、足高山や富士の高嶺、かすかになりて天つ御空の、霞にまぎれて失せにけり。」


ところで、元旦に漱石を訪れた高浜虚子は、二人して、この「羽衣」のどこまで謡ってから、漱石の下手さにこらえられずに笑い出したのでしょうね。 


(謡曲は、有朋堂書店「謡曲集 上下」(有朋堂文庫 大正3年)の古本から適宜引用しました)
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高浜虚子著「俳句はかく解しかく味う」。

2006-10-29 | 詩歌
高浜虚子著「俳句はかく解しかく味う」(岩波文庫)の感想を書いてみます。
というか、レビュージャパンの総合BBSで「雨について」のコメントを楽しんで書き込んでいたからか。この本を読んで「五月雨」の箇所が印象に残ったのです。
思い浮べたのは、山折哲雄さんの言葉でした。
「私は、日本人の感情を理解するうえで梅雨の季節がもっとも大切だと考えています」
これは齋藤孝・山折哲雄著「『哀しみ』を語りつぐ日本人」(PHP)という対談本の中での言葉なのでした。

では、本文に引用されている五月雨の俳句を順番に引用してみます。

 笠島やいづこ五月のぬかり道   芭蕉

この句を、高浜虚子はこう語ります。
「この句は『奥の細道』中に在る句で、次のような文章がある。『奥州名取の郡(こおり)に入りて中将実方の塚はいづくにやと尋ね侍(はべ)れば、道より一里半ばかり左の方笠島といふ処にありと教ふ。降り続きたる五月雨(さみだれ)いとわりなく打過ぐるに。』即ちこの文章にある通り、旅行のついでに芭蕉はこのあわれなる歌人のあとを弔おうと思ったけれども、何分五月雨が降りしきって不本意ながらも行けなかったのである。・・・」
そして
「芭蕉の句が五月雨の句であったのを縁にして、元禄以来の五月雨の句を少し評釈して見よう」とつづきます。では、あとは句のみを虚子の引用順にならべてみます。

  五月雨をあつめて早し最上川   芭蕉

  五月雨の雲吹きおとせ大井川   芭蕉

  五月雨に家ふり捨ててなめくじり  凡兆

  髪剃(かみそり)や一夜に錆(さび)て五月雨(さつきあめ) 凡兆

  馬士(うまかた)の謂(いい)次第なりさつき雨  史邦(ふみくに)

  縫物や著(き)もせでよごす五月雨  羽紅(うこう)

  五月雨や夜半(よわ)に貝吹くまさり水  太祗(たいぎ)

  つれづれと据(すえ)風呂焚くや五月雨  太祗

  塩魚も庭の雫(しずく)や五月雨     太祗

  五月雨や大河を前に家二軒        蕪村

  湖へ富士をもどすや五月雨        蕪村

  五月雨や仏の花を捨てに出る       蕪村

  五月雨や滄海(あおうみ)を衝く濁水   蕪村

  五月雨や水に銭ふむ渡し舟        蕪村

  五月雨の猶も降るべき小雨かな      几董(きとう)

  五月雨や船路に近き遊女町        几董

  五月雨の合羽(かっぱ)つつぱる刀かな   子規

  椎の舎(や)の主(あるじ)病みたり五月雨 子規

  病人に鯛の見舞や五月雨          子規

この句は虚子の評釈を引用してみましょう
「これは前の句と違って、同じ病人を叙するにも陰鬱に一方を言わず、その陰気な中へ或処から病人へ見舞と言って美くしい鯛を見舞に届けたというのである。その鯛のために一点の打晴れた陽気な心持を呼び起すところがこの句の生命である。」

  五月雨や晴るると思ふ朝の内       格堂

  川越しの小兵(こびょう)に負はれ五月雨 紅緑(こうろく)

  五月雨の漏るや厠(かわや)に行く処   寒楼

ここで、虚子は断っております。
「・・要するにここに挙げた近代の句は芭蕉や蕪村やの大景の句に相当するほどの価値のあるものはないと言ってよい。・・・手当り次第に取り出したので、代表的の句とするには足りないのである。それに反して芭蕉、蕪村等の句は代表的の句である。・・」

こんな風にして俳句を並べながらひとつづつに評釈をしていきます。
この文庫の解説は大岡信。
ちなみに「近代日本の百冊を選ぶ」講談社(1994年)に
虚子の本が二冊選ばれておりました。
高浜虚子編「新歳時記」と高浜虚子著「五百句」と、
どちらも大岡信が本の解説をしておりました。
私は山村修著「狐が選んだ入門書」に、選ばれていたので、それをきっかけにして、この本を読んでみました。この本の紹介の言葉の最後を山村さんはこうしめておりました。
「虚子はおそらく天性の啓蒙者でした。・・俳句を知る人には、きっと初歩の初歩というべきことでしょう。しかし虚子はそんなこともまったく面倒がらず、むしろみずからたのしんでーーーという風情で私たちに説きながら、そこからされに右のように一歩進んで、俳句の醍醐味をしめしてくれます。」
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柳田国男の俳諧精神。

2006-10-28 | Weblog
谷沢永一著「いつ、何を読むか」では、年齢別にお薦め本52冊が並びます。
その本では、柳田国男著「木綿以前の事」から始まっているのでした。
15歳の年齢に薦めるこの本で、谷沢氏はこう書いて語りかけております。
「柳田国男は、学問とは何か、と根本から問いかけ、人は何の為に勉強するのか、と考えこんでいる。この広い世の中に暮らす多数者を助ける気持ちで、本を読み努めるのでなければ、我が国の次の代、またその次の代は、今より幸福にはならぬのである、と記した」(p15)

そして70歳に薦める本には、安東次男著「定本風狂始末芭蕉連句評釈」を取り上げた中に、こういう言葉がひろえます。
「残念ながら、俳諧表現の陰影を解き明かすのに成功した注釈は少ない。私は教職にある時数年かけて七部集を講じ、近世期以来の夥しい注解を比較対照したが、そのほとんどは些事に拘わる近世学問に共通する通弊のため、題材に選ばれた事象の故事来歴と出典の考証に傾き、句から句への移りに込められた連想の感得力に乏しいのが常である。」
そして紹介本をとりあげたあとに
「俳諧の評釈として読むに足るのは、柳田国男『俳諧評釈』(昭和22年、のち全集17)中村幸彦『宗因独吟 俳諧百韻評釈』(平成元年)『此ほとり 一夜四歌仙評釈』(昭和55年、のち著述集9)ぐらいであろう。」としておりました。


ところで、柳田国男について、長谷川四郎の解説(1978年)があります。
それは「新編柳田國男集第八巻」(筑摩書房)の解説としてかかれ、
のちに長谷川四郎著「山猫の遺言」(晶文社)に入りました。
その解説の中で、仮に「俳諧復興の悲願」ということを語りたいと示して、
長谷川四郎さんは解説を展開しております。
「終戦後2年の昭和22年(1947年)春のこの『俳諧評釈』の序文には『つまり私は俳諧の連歌の、なほ斯邦に活きて行くだろうことを信じて居るのである。』と書かれてある。ここには敗戦後とは書いてないけれど、文脈からして、そう書いてあってもいいように私は思う。孤独な創作の仕事としての短詩形の現代詩俳句ではなくして、衆が集まって言葉の面白さを共に楽しむ芸術としての俳諧だが、これを願う心は終生、柳田国男から失なわれることはなかったろうと私は思う。」

そして終りの方に、長谷川氏はこう書くのでした。

「私はこの第八巻の解説を書くことを利用して、これが特に文芸を論じた巻なので、思い切って凡庸を提唱したいのだ。柳田国男の書いたもの、そこではいかに離れた局面と見えようとも有機的につながっている。『山の人生』も『秋風帖』も『雪国の春』も『明治大正史』も、それらをつなぐ一本の赤い糸として俳諧精神とでも仮りに名づけたものを私は見ようと試みた・・・」
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まわりを清め、席を清雅にする。

2006-10-27 | 婚礼
謡曲を読みたいと思っているのですが、
とりあえず、その目印になるような
私に思い浮かんだ文章。

「司馬遼太郎が考えたこと 11」新潮社(新潮文庫もあり)
その「六三郎の婚礼」という文に、
「六三郎の時代の人々のように謡や仕舞でもって席を清雅にするということもなく・・」その文の最後は徒然草から引用して終っておりました。
ここに「席を清雅にする」とあります。

司馬遼太郎著「この国のかたち 五」文芸春秋(文春文庫あり)
そのはじまりは「93 神道(一)」でした。
「神道に、教祖も教養もない。たとえばこの島々にいた古代人たちは、地面に顔を出した岩の露頭ひとつにも底つ磐根(いわね)の大きさをおもい、奇異を感じた。
畏れを覚えればすぐ、そのまわりを清め、みだりに足を踏み入れてけがさぬようにした。それが、神道だった。・・・
三輪の神は、山である。大和盆地の奥にある円錐形の丘陵そのものが、古代以来、神でありつづけている。」

ここに「そのまわりを清め・・」とあります。

「もうひとつの『風塵抄」 司馬遼太郎・福島靖夫往復手紙」(中央公論新社)
のなかに風塵抄の「44 日本的感性」を取り上げてやりとりした手紙の箇所があります。日本的感性が世界の文化に貢献しているとして列挙したあとに司馬さんは
「ただ、すべてにおいてダイナミズムに欠けます。これは【欠ける】という短所を長所にしてしまったほうがいいと思うのです。東山魁夷さんの杉の山の絵を、装飾的、平面的、非人間的ながら、これこそ絵画だという美学的創見が必要なのです。そういう評論家がいないというのが問題ですが。」

ここは「三輪の神は、山である」と「東山魁夷さんの杉の山の絵」とつながると
私は思うわけです。絵といえば、

「秋野不矩インド」(京都書院)のまえがきを司馬遼太郎さんが書いております。


「世界の絵画のなかで、清らかさを追求してきたのは、日本の明治以後の日本画しかないと私はおもっている。いきものがもつよごれを、心の目のフィルターで漉しに漉し、ようやく得られたひと雫が美的に展開される。それが、日本画である。その不易の旗手が、秋野不矩画伯であるに相違ない。
秋野絵画は、上村松園の血脈をひいていると私はおもっている。詩的緊張が清澄を生むという稀有の系譜である。」

ここに「詩的緊張が清澄を生む」とあります。そのままに
「そのまわりを清め、みだりに足を踏み入れてけがさぬようにした」と結びつけたい私がおります。

さて「謡や仕舞でもって席を清雅にする」という日本的感性を、どのように磨けばよいのでしょうか?

ここから、謡曲を読み始めたいと思う私にむすびつけてゆきたいのでした。
ここから、「いやはや聞きしに勝るからッぺたですな」という身近さまで。
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漱石の「からッぺた」。

2006-10-26 | Weblog
山村修「狐が選んだ入門書」(ちくま新書)で紹介されている25冊の入門書のなかに
高浜虚子著「俳句はかく解しかく味う」(岩波文庫)がありました。
ちょうど、読まずに積読してあった本なので、よい機会だと読んでみました。
やはり、こういう機会があるとはずみがつきます。
ということで、虚子のその本の読後感を書こうと思ったわけです。
思ったのですが、俳句から離れて、謡曲へと私の思いがそれていきます。
「まあ、俳句はいいや」今回は謡曲について語りましょう。
そういえば、俳句には「切字」というのがあるそうで。
この本にも「元旦や草の戸ごしの麦畑」という句を説明しながら、
虚子が説明しております。
「『元旦や』というのは、唯元日という事を現わすためにいうたので、この『や』の字には別に意味はない。俳句では、昔からこのような文字を切字(きれじ)といっている」「最も多く用いられてちょっと普通の文章と異なっているのは、『や』『かな』の二つの切字である。しかしこれも決してむずかしい意味があるのではない」「たとえば普通の談話の時でも『元日にこうこう』というより『元日にねこうこう』という方が、人の頭に『元日』という感じを深く呼び起こすことになる。『ね』という字に意味のない如く『や』という字にも意味はない・・」
ここからちょい詳しくなるのですが、このくらいでね。

それでは、謡曲について思い浮かんだこと。

山村修著「花のほかには松ばかり」(檜書店)は
副題に「謡曲を読む愉しみ」とありました。
そういえば「狐が選んだ入門書」に夏目漱石の「永日小品」を引用してある箇所があります。その冒頭の作品「元旦」の内容を紹介しているのです。
ここでは山村修さんの書きぶりをそのままに
「ある年の元旦、黒い羽織に黒い紋付を着た虚子が、漱石の家を訪れた折、ふたりでいっしょに謡曲を謡おうということになります。漱石も虚子も能が好きなのです。ところが玄人はだしの虚子にくらべ、漱石はどうやら下手の横好きらしく、ひょろひょろした情けない声しか出ません。さらに虚子は車夫にいいつけて自分の家から鼓を持ってこさせます。鼓が届くと、台所から借りた七輪の炭火をかんかんに熾(おこ)し、みんながびっくりするほど猛烈に鼓をあぶります。
そうして正月らしく『羽衣』を謡いはじめます。しかしその虚子の掛け声のなんとも大きなこと。火をあぶって充分に張り切った鼓の音も、耳をつんざくようです。虚子の大声と漱石のひょろひょろ声とを聞くうちに、周囲がくすくす笑い出し、漱石自身もついに噴き出してしまいます。『元日』にはそういう一幕が書かれていました」(p73 「 3 俳句を読みふかめることのたのしさ」)

高浜虚子と漱石を同列にならべてしまっては、どなたも可笑しかったことでしょう。
それでは、虚子と謡曲・能との関係はどうだったのか?
富士正晴著「高浜虚子」(角川書店)に、こんな箇所があります。

「父は松山藩の剣術監並びに祐筆であったというが、そのような武士時代の話は全然しなかったらしく、そのことを子供の時見知っていた長兄の話で虚子ははじめて知ったらしい。だから、父は帰農してから竹刀をとるなどのことはきっぱり止してしまっていて、和歌や、謡曲、能などの会などをやっているだけであったらしい。この謡曲、能は虚子の日常の教養(むしろ、たしなみか)として伝わっていた。特に次兄信嘉が能楽の復興普及にわざわざ上京してまで勤めたぐらいだから、東京のその方面の専門家とも親しい関係に虚子はなった。このことは、平然たる虚子の気分を考える時、はなはだ重要である気がする。」(p61)

半藤一利著「漱石先生お久しぶりです」(平凡社)にも
漱石の謡曲を語る箇所があり、印象鮮やかでした。

「日常でも小説でも、俳句でも、漱石はしきりに謡曲に関連する話を書き残している。
一言でいえば、謡曲にぞっこん入れこんでいた。ただし字義どおり下手の横好きであったらしい。高浜虚子と二人で『蝉丸』を謡い、当時大学生の寺田寅彦が同席した。廻し節の沢山あるところにきて、調子の合わなくなった虚子は、つい噴き出してやめてしまったが、漱石はかまわず謡いとおした。漱石が謡いおさめると、寅彦がのんびりした声でいった。『先生の謡は、いやはや聞きしに勝るからッぺたですな』」(p48)

漱石を魅了した謡曲とは、いったいどんなものであったのか?
というのが次の疑問。
それはまた、つぎの機会に書き込みたいと思います。









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漱石のモーニング。

2006-10-25 | Weblog
森銑三著「新編明治人物夜話」(岩波文庫)に
「S先生と書物」という文があります。
「S先生は、漢学界切っての蔵書家だった・・」と始まるのでした。
その先生は中等学校の漢文の教師で、五十を過ぎてから、推薦によって、某大学の教授となりました。ところが、月給をことごとに購書費にしてしまうので「式の日に着て出る礼服などは持っていられない。式の当日には、本日は腹痛につき云々という届を出して、一日家で読書に耽るのを常とした」とあります。
そういえば、この「明治人物夜話」の最初の文は「明治天皇の軍服」とあり、服の話から始まっておりました。
「明治天皇は、『わし一代は日本趣味で通す』と仰せられたそうである。そうした天皇だったから、洋服を御召しになることなどは、さぞかしおいやだったろうと拝察せられるが、大元帥として、どうでも着なければならぬと、一旦御覚悟になると、今度はまた、夏でも冬でも、軍服で御通しになって・・」と始まります。
「伊藤博文が、何かの場合に、和服で御前に出たら、『伊藤は、わしに洋服を着せて、自分は和服を着るのか』と仰せられた。伊藤は恐懼して一言も申上げず、ただ頭を低く垂れて引下った」と続きます。
ちなみに二番目の文は「海舟邸の玄関」と題して、明治20年でも、その玄関には「左右に高張堤燈を立てていたことを書きながら、森銑三氏はこう書き記しておりました
「海舟は夙(つと)に蘭学を修め、幕末に既にアメリカへも渡航している人である。当時としては、新知識の一人だったのであるが、それでいて少しも西洋かぶれしていない。国内には欧化の風が吹きまくっていたのに、かえって旧式な、時代遅れともいうべき生活をしている。・・・」
そして海舟の居間の図という絵を紹介するなかに「普段着らしい和服の海舟が」という姿で描かれているとして、「海舟書屋」という額とともに部屋の様子を語り示しておりました。

ここらで、漱石の話。
出久根達郎著「漱石先生の手紙」(NHK出版)に
狩野亨吉が出てきます。
「狩野の談話『漱石君と私』(「漱石全集」昭和3年版月報)によると、『小説などといふものは少しも解さないものと思つて、『君は、小説などはわからないだろうから、僕が著書などを出しても、一冊もくれないといふ風であつた』とあります。・・・」
この談話は、「明治人物夜話」を読むと、ちょっとニュアンスが違ってきます。
森銑三氏は「(狩野)先生と対座していると、こちらも気持ちがゆっくりして、いいたいことが何でもいわれるのが愉快だった」として、いろいろな話を紹介しておりますが、その話のなかに漱石が出てきます。
「親友の漱石がどのような小説を書いているのか、そんなことには、全く無関心だった。『いつか、何とかいう小説を漱石がくれて、この中には君も出て来るから読め、というものだから目を通したが、どれが僕やら分らなかったよ』などと、のんきなことをいって、澄ましていられた。」(p362)とあります。
どうやら、この贈呈本が、梨のつぶてだったので、短気な漱石さんは以降、本を一冊もくれなくなったという推測がなりたちます。そこいらが、真相のような気がします。

さて「漱石のモーニング」の話にうつります。
夏目漱石は明治26年7月10日に東京帝国大学文科大学英文学科を卒業しております。
そこで学習院の先生の口を世話してくれる知人があらわれます。
以降は直接漱石さんに語っていただきましよう。
漱石は、その死の二年前(大正三年)、学習院の学生に向かって講演をしております。
「私の個人主義」という講演でした。そこにモーニングが登場します。

「・・学習院の教師になろうとした事があるのです。もっとも自分で運動した訳でもないのですが、この学校にいた知人が私を推薦してくれたのです。・・とにかく、どこかへ潜り込む必要があったので、ついこの知人のいう通りこの学校へ向けて運動を開始した次第であります。その時分私の敵が一人ありました。しかし私の知人は私に向ってしきりに大丈夫らしい事をいうので、私の方でも、もう任命されたような気分になって、先生はどんな着物を着なければならないのかなどと訊いて見たものです。するとその男はモーニングでなくては教場へ出られないと云いますから、私はまだ事の極らない先に、モーニングを誂(あつ)らえてしまったのです。その癖学習院とは何処にある学校かよく知らなかったのだから、すこぶる変なものです。さていよいよモーニングが出来上がって見ると、あにはからんや折角頼みにしていた学習院の方は落第と事が極ったのです。」「私は学習院は落第したが、モーニング丈は着ていました。それより外に着るべき洋服は持っていなかったのだから仕方がありません。そのモーニングを着て何処へ行ったと思いますか?・・・」

ちなみに江藤淳に「SFCと漱石と私」という講演がありました。
慶応義塾大学最終講義とあります。雑誌「Voice」1997年4月号に載たのです。
その江藤淳の最終講義と、夏目漱石の「私の個人主義」とは読み比べると楽しめるような気がいたします。
もうひとつ。
出久根達郎著「漱石先生の手紙」は感銘して読みました。
それと同じ頃に出た講談社文芸文庫「漱石人生論集」は、解説を出久根達郎さんがしております。「漱石先生の手紙」と続けて読むと興味深いものがあります。ちなみにその文庫に「私の個人主義」の講演もちゃんと収まっておりました。




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宝の山への案内者。

2006-10-24 | Weblog
本が宝の山ならば、
そこへの登山路を探す、地図を探す、
という見方があるわけです。

徒然草の第52段に「仁和寺(にんなじ)にある法師」とはじまる箇所があります。
岩清水八幡へ、年取るまでに一度は参拝しておこうと法師が出かけます。
帰ってきてから話すのに「長年思っていたことを、やっと果たし。話には聞いていましたが、まさって尊く感じられました」「それにしても、お参りに来た人が皆山へ登ったのは、あれは何だったのでしょうね。私も山に登って見たかったのですが、参拝が目的でしたので、物見遊山(ものみゆさん)ではなく、山までは登りませんでした」。ところで、岩清水八幡は、ふもとにあるのが八幡宮の末寺や末社。肝心の本殿は男山の上にあるのでした。簡潔な短文の最後には「ちょっとしたことにも、案内者はありたいものである」としております。そこの原文はというと
「少しのことにも、先達(せんだち)はあらましきことなり」でした。

今年は、あらためて、その先達の方々の本が印象に残った年でした。
その書名は

渡部昇一著「パスカル『冥想録』に学ぶ生き方の研究」到知出版社 ¥1600
山村修著「狐が選んだ入門書」ちくま新書 ¥720
山村修著「花のほかには松ばかり」檜書店 ¥1900
谷沢永一・渡部昇一著「人生後半に読むべき本」PHP研究所 ¥1400
谷沢永一著「いつ、何を読むか」KKロングセラーズ ¥905
米原万里著「打ちのめされるようなすごい本」文芸春秋 ¥2286

以上は税別。そして、今年の発行日順。
その本の内容を語りたいところですが、ここではカット。
次の連想。

そういえば、地図。
地図といえば、須賀敦子著「地図のない道」というのがありました。
それよりも私の思い浮かんだのは田村隆一が鮎川信夫詩集について書いた
「地図のない旅」という題の文章です(思潮社の現代詩文庫1「田村隆一詩集」に載っております)。そこには19世紀のアメリカの詩人、エッセイストのオリヴァ・ウェンデル・ホオムズの言葉が引用されておりました。
ということで、ここではその言葉の孫引き(?)をして終ります。

「個人の生活は、多くの点で子供の切り細(こま)ざいた地図に似ている。
もし私が最後まで知性を失わずに百歳まで生きられるとしたら、そのばらばらの破片を、うまくつながった全体をなすように置き直せそうな気がする。・・・これらの破片の多くは断片的なものに見えるけれども、やがて時が来ればそれらこそ全体のなかで無くてはならぬ大切な部分であることを示すにいたるだろう。・・・十年の歳月を閲するごとに、私は幾つかの新しい破片がその在るべき場所に落着きつつあることを見出す・・・」

「仁和寺のある法師」の破片が、自分の「あるべき場所に落着く」までの時間。
ということで(どういうことでじゃ)皆さんのようにブログへの書き込みを怠らないようにしたいと思うこの頃でありました。
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森銑三著「新編明治人物夜話」(岩波文庫)

2006-10-23 | Weblog
この本の「緑雨の人物」という五㌻ほどの文に
「紅葉と、露伴と、子規と、漱石と、緑雨と、この五人が揃いも揃って慶応三年に生れて明治の文壇に活躍し、それぞれに個性を発揮しているのが偉観である。」(p144)
とありまして、ああそうかこれをヒントに、あと外骨と熊楠と二人を加えて坪内祐三著「慶応三年生まれ七人の旋毛曲(つむじまが)り」(マガジンハウス)という本が膨らんでいったのだなあ。と改めて思いました。

この岩波文庫には最後に「編後附言」と題して、小出昌洋氏が書いておりまして、
そこに沼波瓊音著「徒然草講話」のことが出てくるのでした。
「一日、先生(森銑三)のお宅に参上して、沼波さんの『徒然草講話』を入手したことを告げたら、ああた、それはよかった、今日はお持ちですか、というので、早速持参した同書をお渡ししたら、残念ですが、これは重刊本で、沼波さんのいいところが訂正せられてしまっていて、面白くありません。しかしこれはこれで読まれないこともないのだからよいでしょう、といわれたのだった。同書の刊行されるや、沼波さんの個性が強く出で、あるいはまた沼波さんが兼好そのひとになって物をいうところもあるものだから、随分と批判せられたとのことだった。それで再版には訂正するところがあったという。・・・」(p444)

はあ、私が読んだのも重刊本のほうです。
これもよかったのに「残念ですが」といわれてはショック。

また、沼波さんといえば、この文庫の本文に「田岡嶺雲の本領」という文があるのですが、
そこに「嶺雲に関する文献の間で、やや変り種に属するものに、沼波瓊音の『我が知れる嶺雲子』の一文があって・・久々に右の一文をも読返して、私はなつかしさに堪えなかった。その文は、俳諧方面を通して嶺雲を語っている・・」(p183)

最近でた「知の自由人叢書 山口昌男監修」の一冊「意匠ひろひ 沼波瓊音」(国書刊行会・初版が2006年8月とあります)にちゃんと、「我が知れる嶺雲子」が載っているのでした。
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詩集「禮節」。

2006-10-21 | 硫黄島
石原吉郎の詩集「禮節」の話をしたかった。

2006年の今年は「栗林忠道 硫黄島からの手紙」(文藝春秋)を読みました。
これは、戦争中の硫黄島から家族へと宛てた手紙を、順番に並べてあります。
それを読んで、私は石原吉郎の詩「世界がほろびる日に」を思い浮かべました。

  世界がほろびる日に
  かぜをひくな
  ウィルスに気をつけろ
  ベランダに
  ふとんを干しておけ
  ガスの元栓を忘れるな
  電気釜は
  八時に仕掛けておけ

栗林忠道は、硫黄島で昭和20年(1945年)3月26日に戦死(享年53)しております。
その昭和20年1月21日の手紙には遺書という言葉がありました。

「本土空襲の『B29』はサイパン基地に今百四、五十機であるが四月頃には二百四、五十機となり、年末頃には五百機位になるらしいから、それだけ今より空襲が多くなる訳です。若し又、私の居る島が攻め取られたりしたら其の上何百と云う敵機が更に増加することとなり、本土は今の何層倍かの烈しい空襲を受ける事になり、悪くすると敵は千葉県や神奈川県の海岸から上陸して東京近辺へ侵入して来るかも知れない。だから戦争の成行は絶えず注意し、又新聞や雑誌に出て居る空襲などの場合どうするかの記事はよく目を通し実行すべきは実行するがよい。
次に比島の作戦は漸次不利の様だし、吾々の方へももう直ぐに攻め寄せて来るかも知れないから、吾々ももう疾(と)っくに覚悟をきめている。留守宅としても生きて帰れるなどとはつゆ思わないで其の覚悟をして貰い度い。
遺書としては其の後の手紙で色々細かに書き送ってあるからイザとなっても驚いたり間誤(まご)ついたりせぬだろうと思うが、どうかほんとにしっかりして貰い度いものです。・・」

一方の石原吉郎は、シベリア抑留の後1953年に帰還しており。
その石原吉郎に「肉親へあてた手紙」というのがあります。
そこには「1959年10月」と日付がありました
(その手紙は、石原吉郎著「望郷と海」筑摩書房。あるいは、思潮社の現代詩文庫26「石原吉郎詩集」に載っております)。その手紙から、石原吉郎の戦後が始まっているのでした。

そういえば、詩集「禮節」には詩「世界がほろびる日に」の他に、詩「礼節」・「手紙」とあり、印象に残ります。
つい最近なのですが、柳田国男著「俳諧評釈」を読んでおりまして(まだ読み終わっていないのですが)、そのはしがきに「俳諧がかかる人間苦からの解脱であり、済度であつた時代を回顧して見なければならぬが、それよりも更に必要なことは是が現世の憂鬱を吹き散らすような、楽しい和やかな春の風となつて、もう一度天が下に流伝することであつて、私の今解して居る所では、それも決して不可能なこととは言はれない。・・・」ちなみにはしがきの日付は昭和22(1947)年春とあります。

その「最上川の歌仙」の箇所に
  ことば論する舟の乗合   一栄
という句を柳田国男が解説して
「乗合は渡し舟、ことば論は今いふ口いさかひ、手までは振り上げない喧嘩である。・・・」
次に曾良の句がつづくのでした
  雪みぞれ師走の市の名残とて
この解説で柳田さんは
「・・・通例いさかひとか戦とかいふ類の際立つた前句には、いそいで之を平静の状に引戻さねばならぬといふ感じが昔から有つたので、それがここにも暗々裡に作用して居るかと思ふ。つまりは是も次の句を出しやすくする一種の禮節であつた。」
ここに「禮節」という言葉がありました。

ここから、私は石原吉郎詩集「禮節」があることを連想したのでした。
ここに、詩集にある詩「礼節」を引用しておきます。

  いまは死者がとむらうときだ
  わるびれず死者におれたちが
  とむらわれるときだ
  とむらったつもりの
  他界の水ぎわで
  拝みうちにとむらわれる
  それがおれたちの時代だ
  だがなげくな
  その逆縁の完璧において
  目をあけたまま
  つっ立ったまま
  生きのびたおれたちの
  それが礼節ではないか


これから上映される映画に硫黄島戦を描いたものがあるのだそうで、
テレビでもちらちらと宣伝しているのを見かけました。
産経新聞10月17日に「ロサンゼルス 松尾理也」という署名記事があり、
短い記事なのですがこうありました。
「第2次世界大戦末期の硫黄島での戦闘をテーマにした『父親たちの星条旗』(クリント・イーストウッド監督)が20日から全米公開される。・・日本側の視点から制作した『硫黄島からの手紙』(同監督)との<双子作品>。ハワイのホノルル・アドバタイザー紙は、試写会に参加した80歳の元海兵隊員を取り上げ『今でも硫黄島の夢をみて夜中に起きることがある』との言葉を紹介。CBSテレビは、監督が日本側の視点からの制作を行った意図を 『米国の観客に、「われわれはいい人間」といった単純な考え方から卒業してほしい、と思ったからだ』と指摘した。
『父親たちの星条旗』は今月28日から、
『硫黄島からの手紙』は12月9日から、日本で公開される。」


この映画「硫黄島からの手紙」はどのような内容になっているのでしょうね。
ここでは、石原吉郎の詩「手紙」を引用して終ります。


  いわば未来をうしろ手にして
  読み終えたその手紙を
  五月の陽のひとかげりへ
  かさねあわせては
  さらに読み終えた
  つたええぬものを
  なおもつたえるかに
  陽はその位置で
  よこざまにあふれた
  教訓のままかがやいてある
  五月のひろごりの
  そのみどりを
  いちまいの大きさで
  ふせぎながら
  私は
  その手紙を読み終えた

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けっこう手抜きをしても、一応はそれらしく書くことができる。

2006-10-11 | Weblog
第五回小林秀雄賞決定発表。
というのが、雑誌「考える人」(2006年秋号)に掲載されておりました。
受賞は、荒川洋治著「文芸時評という感想」(四月社)。
とてものこと、受賞本を私は読まないのですけれど、
その雑誌に掲載された「選評」が楽しかったのです。
まずは加藤典洋さんの選評のはじまり、
「文芸時評というものは、やってみるとよくわかるけれども、そんなに小説が読めなくとも、またけっこう手抜きをしても、一応はそれらしく書くことができる表現のジャンルである。でも、長く続けていると、けっきょくは嘘がつけない。その人のすべてが現れてしまう。そういう油断のならないジャンルでもあるような気がする。」

どうやら、「長く続けて」というのがキーワードのようですね。
養老孟司さんの選評は、こう始まります。
「よくもこれだけ長いあいだ、文芸時評なるものを書き続けたものだ。それがまず第一の印象である。その辛抱に敬意を表する」

「長く続けて」と「その辛抱に敬意」というのが選評でした。
ちなみに、関川夏央さんの選評には
「二年も書けば疲労困憊して、しかるに報われること少ない。それを十二年、さぞ体と心に悪かろう。しかし読まねばならない。風呂場で晩夏の冷水をかぶって読んだ。驚いた。しみじみとおもしろかった」とあり、
「文学は、世間話であっていい」というのが印象に残る言葉でした。

ところで、荒川洋治氏の文章の独特さを語っておもしろかったのは、
堀江敏幸さんの選評でした。
「氏の方位磁石は、他で見かけるものとかなりちがっている。なにを読み、なにを味わい、なにを言うのか。どこまでを言葉にして、どこから言葉でない言葉にするのか。その基準となる南北線じたいが微妙にずれているように見えるし、磁石をとり出して方位をたしかめる間合いが独特だから、こんなところでなぜ立ち止まるのかと、こちらが不安になることさえある・・」
ここから褒め言葉へとつながるのですが、その途中の方がおもしろかったので引用しました。そのままに、なにやら現代詩の解説となっている感を抱く。そんなおもしろさを感じました。

ちなみに、4頁ほどの荒川洋治さんへのインタビューが載っていて、
楽しい言葉が拾えました。
「文芸誌が家に届くのが毎月六日あたり。〆切は月によって違いますが、二十三、四日。その十日前くらいから読み始める。連載をのぞいて、全作品を読みます。目次をまず眺めて、ああ、今月はこんな感じかと思う。そして、お名前を出すとなんですが、三浦哲郎さんや河野多恵子さんのような大家が短篇の一つも書いていらっしゃると、今月は救われたなと(笑)。お二人のほかには、そうですね、先日亡くなった吉村昭さん。吉村さんが文芸誌でお書きになる作品は、いい味わいがあった。ほかにこれぞというものがなかったとしても、三浦さんや河野さん、吉村さんなどの作品があれば、ほっとするんですね。読まずして、もう大丈夫と思う。あまり言ってはいけないことかもしれないけれど」

この「あまり言ってはいけないこと」が語られる魅力。
それにしては、2ページほどの受賞作抄録は、私にはつまらなかった。

それにしても、文芸時評本を書評(選評)しているというのが、
こうも楽しく読めるというのは困り者で、
本を読まずに書評(選評)を引用して終るという手抜きで
いちおうそれらしく書いた気分になるのでした。
これは、単なる書評じゃなく、選ぶという決定がおおきく関わるために
選評にも力がこもるからなのでしょうか?
さらには、小林秀雄賞という、看板が選者を奮い立たせるのでしょうか?
おかげで、読むほうも得した気分(笑)。
気懸りは、選者のお一人河合隼雄氏がいまだに入院中であること。

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いつ、何を読むか

2006-10-06 | Weblog
谷沢永一著「いつ、何を読むか」(KKロングセラーズ・ロング新書・905円)。
この本をパラパラとめくりながら、思ったことを書いてみます。

まるで、株屋が、次々と出てくる株価の変動を押さえていくように。
まるで、競馬の専門家が、馬の様子を手に取るように知らせるように。
刻々と移り変わる本の推移を、この一冊だと、サッと取り上げる人がいる。

対談「読書談義」の中で、谷沢氏はこう語っておりました。
「ぼくら、この分野あるいはこの著者について一番大切なのは、この一声、この本だという言い方が体質的に好きなんですが、それを大学の講義なんかでやる人が少ないんでしょう。」
「『伊勢物語』ならこれだという、そういう言い方でカチッと一つの大切なものを評価するというのが、前世代の学者の共通点でした。釈迢空の論説なんかいつもその点でくるわけですね。それが現在はどうも影をひそめたような感じがします。」
対談者の渡部昇一氏は、伊勢物語の注について、
「ところでやはり藤井高尚の注はいいんでしょうね。」
「そこをあけただけで、ゲラゲラ笑いながらその注を読めたわけですよ。ところが今の『伊勢物語』の注を読んでゲラゲラ笑えるかというと・・・。やはり、高尚の注を読んでいるとこう温(ぬく)もりがくるんですね。時に、『伊勢物語』になぜ「伊勢」がついたのかわからない、ということはそのとき覚えました。・・学校ではやってくれない。『伊勢物語の注ならこれがいいんだ』と言ってくれないから、学生の勉強も気が抜けちゃうんですよね。」
そして渡部氏はこう続けます。
「谷沢さんのおっしゃったのが、ぼくらにはぴんとくるわけですね。日本文学史を全部自分で読んで公平にできるわけがない。上代では誰、近代では誰という発言の貴重さがわからない人間は、本当にやったことない人なんでしょう。やったことのある人は、これは貴重なことをよく言ってくれた、普通は言わないことなんだけど、と思う。」

なぜ、こんな引用をながくしているかといいますと、
最近、沼波瓊音著「徒然草講話」を読んだからなのでした。
この沼波瓊音の本を、谷沢さんは「人生後半に読むべき本」(PHP)で
こう紹介していたのでした。
「『徒然草』は、日本のそれ以後の文芸の源泉です。・・
今までの注釈評釈で一番いいのは、沼波瓊音(武夫)の『徒然草講話』。学者的軽薄さがない。・・明治から戦前に書かれた注釈書で後世に大きく影響を与えた著作といえば、この『徒然草講話』と暁烏敏(あけがらすはや)の『歎異抄講話』の二つが双璧でしょう。」(p153)

ここで、気になるので、寄り道してみました。
まず岩波書店の「新日本古典文学大系39・方丈記 徒然草」。
「佐竹昭広・久保田淳 校注」とあります。
そこでの徒然草の参考文献として31の本が並んでおりますが、
沼波瓊音(武夫)の名前はありませんでした。

「新潮古典文学アルバム12 方丈記・徒然草」
そこに「方丈記・徒然草を読むための本」とあり、稲田利徳と署名いりで選んであります。24冊が並んでいますが、ここにもありません。
五味文彦著「『徒然草』の歴史学」(朝日選書)にもない。
杉本秀太郎著「徒然草」は読売文学賞受賞だそうです。
そのあとがきには、「参考した注釈書は引用の都度、明記したので、あらためて並べるのはやめるが、古注に属するものが読んでおもしろく、また教わるところも多かった。」とあります。とりあえず、本文をめくって探してみましたが、やはり沼波氏の名前は出てきませんでした(本文をちゃんとよんだわけではありません)。

さて、私の限られた視野のなかで、沼波瓊音の名前を見れたのは
講談社学術文庫・三木紀人全注釈「徒然草」(1~4)にありました。

これじゃ沼波瓊音の知名度はないに等しい。
これじゃ古本屋に沼波瓊音著「徒然草講話」の本が出ないのも分かります。
そして、
こういう谷沢さんの「この本だという言い方」に、
稀薄じゃなかった気迫がこもります。
それが、こちらの少ない興味と重なれば、もうありがたいばかり。

谷沢氏が関西大学の卒業間近に、大学に残ることになった時、
「どうしよう」と母親に相談すると、答えは「やめときなはれ」だったそうです。
「あんな、あんたはまだ若いから知らんやろうが、芸術家はんとか学者はんとかの世界は、雪隠(せんち)の踏み板いうて、表はほんまに綺麗に飾ったはるけで、板一枚のその裏は、世の中にこれほど汚いもんあれへんねで」と即座に言ったそうです。
その次の年の
「昭和28年10月5日、母ナツヱ死去。食う道のない私は母の遺訓に背いて、センチの踏み板の仲間入りしたのであった。」(「読書人の浅酌」潮出版)


え~と何だっけ。
そうだ「知見限りありて行蔵は限りなし。」という言葉があるそうです。
母の遺訓に背く谷沢氏ですから、言葉も一筋縄じゃいきません。
こうして「いつ、何を読むか」と題する本を新しく出版したのですが、
あとがきには
「私は他人から勧められて、言われるままにほいほいと本を読みにかかった経験がない。他人に指図されるのを好まない我侭者である。或る書物と自分との出会いは、私の身の上にだけ起こる事件である。一冊の本を誰もが同じ気持ちで読むことはできない。したがって、そもそも読書の勧め、なんて、余計なお節介なのである。貴方は貴方、お互いに勝手に気の向くまま、読むか読まぬかは自分ひとりの勝手であろう。」
とありました。

最後は井上章一さんの対談での言葉がまた思い出されます。
「私は、知性としてはむしろ、谷沢先生のような物知りのほうに憧れますね。・・
私自身のなかにある『頭が下がるなあ』という思いは、いわゆる『考える人』、突き詰めて考える人よりは、書誌学者のような『調べる人』の方に向かいますね。・・
書誌学は『私を踏み台にして、あなた伸びていって』って、ささえてくれる感じですもんね。・・・」
(季刊雑誌「考える人」2006年夏号・特集「戦後日本の『考える人』100人100冊」より)





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徒然草講話を読んでみました。

2006-10-05 | Weblog
沼波瓊音著「徒然草講話」を読んでみました。
とても私の理解力では、読解したとは言えないのですが、
最初の読了の感想を書き記しておくのは、まんざら無駄にはならないと感じ、
とにかく読了した感じを残しておきます。

思い浮かんだのは、俳句と俳諧とでした。
たとえば、桑原博史著「徒然草の鑑賞と批評」の最初にある
「徒然草を読むために」で、桑原氏は
「序段から第243段まで、総計244からなる章段を配列した作品である。その章段配列は、時に話題が連なり、時に話題が大きく転換する、連歌的ともいうべき関係で連続している。」
その後に、京から摂津に行く街道筋にある水無瀬(みなせ)のあたりで、宗祇・肖柏・宗長の三人が詠みかわした『水無瀬三吟』を引用してみせながら、
こう書いております。
「この、柔らかな連続や鋭い変転の妙を生かして、徒然草の章段構成がなりたっているという考え方は、実に自然であり理解しやすい。」
こう理解を示しながらも、桑原氏は「やや章段順序を追って行くだけでは物足りない」として徒然草の「鑑賞と批評」を分類しながら一冊にまとめておりました。

ちょいと寄り道をしました。
沼波瓊音著「徒然草講話」は最初から最後まで徒然草の順序で講話を続けております。
そのことを私は語りたかった。
読後の私の感想はというと、
まるで「徒然草」全曲を通しての演奏を鑑賞した気分にひたっております。
各章段の小曲を即興で聴いたことはあったのですが、
全曲を通しで聴くのは初めてでした。
演奏が長いので途中で私は眠ったりしておりました。
目が覚めると、またその演奏の途中から聴いていたわけです。
とてものこと、全曲の姿を輪郭も示しえないのでした。それでも
聴き終わると、その旋律が耳に残っているのです。
演奏者の沼波瓊音は、ピアノではなく、チェンバロを弾いているようで、
全曲の曲想をしっかりと押さえている堂々とした演奏でした。
その全曲の解釈を最初に示しているのが第11段の【評】にあります。
「一体この徒然草は、始から終りまで、一つの事を書いて、その事からふと他の事を思いついて、次に書くと云風に出来て居るので、厳格に云えば、段を切ると云事は、不自然な事になるのです。昔からこの書の注書には段を切ってあって、そしてその段の切りように、説の分れて居る所もあるが、私は、この分段の事は便宜上の事として置きたい。だから人の好き好きに分けて構わないと思う。・・・
よく文を論ずる人が、解剖的のことばかり云ひたがるために、聞く人が、作者がさういう手段を意識してやってると思い易いが、必ずしもそうで無い。手段を意識した文には碌なものは無い。作者はただ感のままを書き流して行ったのが、調べて見ると、自らその文に旋律があると云うだけのことである。」(p36)
(「徒然草講話」東京修文館・大正10年初版・引用しているのは昭和25年版で旧字は現代文にかえて引用しております。ページは私がもっている昭和25年版のページ)

この段から段への続き具合を味わいながらの講話がこの本の魅力ある旋律を味わう箇所です。ですから、ちょいと煩わしいのですが、そこを取り上げていきます。
たとえば第13段の【評】
「前の段で、友と云うものを否定した。それを受けて、書を読んで古人を友とするのは実に大いなる慰籍であると云って来たのである。この続き具合を味わうべきである。私も一々同感である。」(p41)
「この徒然草は、大部分において、前段と後段と微妙なる連想の繋ぎで成り立って居る。これは他人の編によって決して為し得られるもので無い。」(p60)
そして、飛ばし読みを戒めている箇所もあるのです。
「新しい人たちは徒然草を面白がる。しかしそう云う人たちは、こう云う所を飛ばして読む。しかしこう云う所に兼好の繊細な一面が顕われてることを気を付けて貰いたい。私は、口を開けば必ず宇宙を説き人生を説いて居るだけの人を不具者のように思う。」(p101~102)ちなみにこれは第34章の【評】。
第41章の【評】はというと
「面白い実話を思い出して書いたのである。これは前々段の『眠』から連想して思い出したものらしい。この徒然草は、それからそれへと連鎖がつながってるところが多い、と云う事は芳賀先生に承ったことである。それまではしみじみとはこの事に気が付かなかった。こんな事は注意しなくても宜しいことであるが、注意して見ると、兼好の所謂『心にうつり行く』心の状態が段々見えて行って、その点でも面白みがある。ここなどは一つ飛んで縁がある。こう云う事も、我々が随筆やうのものを書く時にもあることだ。もっとも全く鎖のきれてるところもある。それは自然なことである。どこもここも皆連鎖であったら、却ってこの書は作り物めいて厭味にもなるのだ。」(p120)
第58段の【評】「この段と前段との連絡に注意すべきである。前段に、くだらぬ来訪者にイライラした事の記憶を書いた。くだらぬ奴に会う。この事から、在俗の煩わしさ、出家後の純、と云う事を書く心持になって来て、この段になったのである。」(p165)
第80段の【評】の最後には
「徒然草を読む人は、一度は段切りして解をしたものによって読んで、次には、何段何段と云うことを、全く見ないで、本文だけ、通して読んで見なくてはいかぬ。」(p228)とあります。
この講話では、その「本文だけ、通して読んで見なくてはいかぬ。」を率先してご自身が読み通したという醍醐味があるのです。
それが、私には「徒然草」全曲を演奏する、名演奏家におもえてくるのでした。

その名演奏家・沼波瓊音は、確信を持っているようです。
「この書の各段順序は、読んでみると、どうしても兼好が書いて行ったままの順序と思われる。徒然草と云う書は、兼好が、それは経巻の裏に書いたか何に書いたか知らぬが、この順序で書かれて、まとまって居たものとどうも思われる。段々の心の移り行く工合、いかにも微妙に自然であって、迚(とて)も後人の編纂でこれだけ自然にゆく筈は無いからである。」(p612)

この「徒然草」全曲の読み込みが、そのままに徒然草講話の旋律となって、読む者を、おっとここでは(私みたいな)聴衆を陶然とさせるのでした。
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