和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

衣乾したり。

2013-05-31 | 地域
昨日は、雨。
一昨日は、曇り時々雨。
そして、今日が晴れで
洗濯物を干すのによい天気。

NHKBSで、日本縦断こころ旅という番組が続いております。俳優の火野正平さんが5台つらねた自転車の先頭で、日本のあちこち旅をしてまわります。隔週なのでしょうか。土日にまとめて放送されるのを録画して楽しんでおります。ゼイゼイいいながら坂道をのぼり、休憩してはタバコをふかしての自転車旅行のようです。

さてっと、5月26日の日曜録画分は、奈良でした。50歳代でしょうか。奈良盆地から出たことのない方のお手紙を紹介しております。展望のひらける丘を紹介していたので、そこに火野さんが行って、展望台で山を確認する場面がありました。
大鳥居や三山を眺めており、いったこともない、私も楽しませてもらえます。
その展望台の案内板に山の名が書かれており、火野さんが、香具山をさがすと、見つからない。香具山の上に、天香具山と書かれていたので、スタッフともども、とまどっていたのでした。

そうなんだ。
と思い浮かんだのは、万葉集。

春過ぎて夏来るらし白栲(たへ)の衣乾(ほ)したり天(あま)の香具山
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あちゃー。

2013-05-30 | 他生の縁
いとうせいこう氏を、私は知らなかったので、
中島岳志の書評は、ありがたく、
おかげで「想像ラジオ」が読めたのでした。

さてっと、中島岳志の書評といえば、
昨年の2012年8月2日に、当ブログで取りあげておりました。ブログ検索で、忘れていたその箇所を読み直し(笑)。

その書評では、横田増生著「評伝ナンシー関」(朝日新聞出版社)がとりあげられておりました。それではと、この本を古本屋へと注文することに。

ブックハウスQ(札幌市中央区)
750円+送料290円=1040円
本文はきれいです。
カバーが素敵ですね。
本代は先払いでした。

とりあえず。
「プロローグ」をひらくと、こうあります。

「ナンシー関の名付け親であるいとうせいこう」(p17)

そしてp19には、

「亡くなったナンシーの霊魂を感じたという人たちもいる。
文藝春秋でナンシーの『テレビ消灯時間』などを担当した朝香美枝はこう話す。『霊安室に入ったとき、ナンシーさんの亡骸が目の前にあったんですけれど、ナンシーさんの意識もまだ霊安室の中にあったんです。その意識が私の中に入ってきたんです。ナンシーさんは『あちゃー、自分はさっきまで死んだことが夢だと思っていたけど、どうも夢じゃなくって現実みたいだな』と思っていたようです。ナンシーさんが、なぜ『あちゃー』と思っていたかというと、両親に申し訳ない、という理由からだってことも感じました。
朝香とナンシーは、ナンシーが三軒茶屋に引っ越す前に赤塚のマンションに住んでいたとき、そのマンションで女性の飛び降り自殺があって、ナンシーがその幽霊を見たという話で盛り上がったことがあった。
ナンシーは朝香に、『私、幽霊は信じないんだけれど、見たんだよ。信じないけど、幽霊はいるんだよ』と熱心に語ったという。
『私はそういう話が好きな方なんで、ナンシーさんと、もし幽霊がいるのなら、どっちが先に死んでも、お互いのところに出てきましょうね、って約束をしたんです』と朝香は言う。・・・』」


うん。中島岳志の書評「評伝ナンシー関」には
こんな箇所があったのでした。

「時折、『ナンシー関が生きていたら』と思うことがある。テレビを見ながら、言語化できないモヤモヤ感が残る時、あの消しゴム版画が思い浮かぶのだ。」

「若き日のナンシーは、『ビートたけしのオールナイトニッポン』の熱心なリスナーだった。ナンシーの武器である『角度』は、このラジオによって生成された。青森で生まれ育ち、高校時代から消しゴムで作品を作り始め、18歳で上京。大学中退後、その才能が話題を呼び・・・」

こうして、
『あちゃー』『青森』『ラジオ』とくれば、つぎには、何の違和感もなく『想像ラジオ』へ、つながるような気がしてきます。


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就職活動の社説。

2013-05-29 | 朝日新聞
雑誌「WILL」7月号。
金美齢・フィフィ対談に

金】 日本社会の最大の問題がそれよ。賛成の人はあえて申し出ない。サイレントマジョリティが多くて、まともな人はたくさんいるのにものを言わないんです。
フィフィ】 まともな人ほど言わないですよね。
金】 そうなのよ。・・

何やら、対談のはじめのほうに出てくる言葉を引用しました。

気になったのは、堤堯・久保紘之対談「蒟蒻問答」のはじまり。

堤】 今日は腹立たしくも阿呆らしい話からいく。
朝日のバカ宮こと主筆の若宮啓文だ。
今年、朝日新聞を退社したけど、再就職先が
どこか知ってるかい?
なんと、韓国の東西大学の碩座教授とやらになったというじゃないか。さらに、国立ソウル大学日本研究所からも客員研究員として招請されたとか。どうせヘンテコな日本論を吹き込むんだろうねえ。若宮といえば、『日韓友好を固めるために、いっそのこと日本が竹島を譲ってしまってはどうか。この英断を韓国が称えて『友情島』と名づけて周辺の漁業権を日本に認める』とか、『従軍慰安婦について、首相は謝罪すべきだ』とか書いていた男だ。なんのことはない、朝日の紙面を借りて就職運動をやっていたんだな。

( うん。ここで引用を終わりにすると、中途半端になるのでつづけます(笑)。)


思い出すのは、同じ朝日の中国特派員・秋岡家栄だ。俺は奴さんの文化大革命報道を批判して提訴されたことがある。なにしろ死んだはずの林彪について、『北京の空は青かった。林彪主席は健在である』なんて書いていた男だ。お蔭で、朝日の読者が林彪の死を知るのは一年半も経ってからだ。この秋岡も朝日を退社したあと、日本における人民日報の販売代理店主になった。一体、朝日の記者って、どうなっているのかね。
若宮は安倍を叩くのは『社是だ』と言っていた。ところが先日、ある財界人が、朝日の記者がアベノミクスについて取材に来た際『どうせ君のところは安倍叩きが社是なんだろ』と言ったら、『いや、その社是は変えました』と答えたそうだ(笑)。要するに、安倍人気に圧倒されて方向転換したわけだ。部数が下がると困るからね。


これが対談のはじまりなのでした。
ものを言わない。たくさんいるまともな人に、この対談を読んでいただきたいなあ。
う~ん。と、いうことは、こう勧める私はまともじゃないのかなあ。まあいいや。そろそろ、まともの正体がはっきりする時代にはいったのだ。次の頁をめくると、そこに真犯人がいて。そこでは、ただの就職活動をしていただけと、開き直りの方向転換を語っているのかもしれない。
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杉の木の上に。

2013-05-28 | 本棚並べ
いとうせいこう著「想像ラジオ」(河出書房新社)を
中島岳志は書評の冒頭で、簡潔に紹介しておりました。

「あの日、津波が去った後、高い杉の木の上に一人の男が引っかかった。・・彼は自らの死を認識しないまま、人々の想像力を電波にラジオ番組を流し始めた。それが『想像ラジオ』。リスナーの多くは死者だが、生者にも届く。・・・」

読売新聞2013年4月24日文化欄に「磯田道史氏の古今をちこち」がありました。
その中頃に、

「南三陸で聞き取り調査をして、いろんなことがわかった。例えば、神社仏閣が津波後に食糧難の状況でも比較的素早く再建されるのはなぜか。材料となる、津波で枯死した松や杉が大量に現地にあるからである。また、再建を始めたほうが、被災者も職と食にありつけたのである。
寺社の参道の杉並木は津波で3㍍水没すると、塩害でかなり枯れる。10㍍水没したら根元に10㌢以上、塩分を含んだ津波の砂がたまるからすべて枯れる。古文書には、しばしば津波で境内の樹木が枯れたとの伝承があるが、現場に行くと、どれほど枯れるか、よくわかった。
町内には大雄寺という古寺がある。標高6・2㍍地点に樹齢300年の杉並木があったが、津波で約10㍍浸水。津波で並木は全体の4分の1を残して流失し、夏までに全部枯れたという。・・・・」

以下も知見に富んでおります。このあとに「南三陸で一番古い海辺の神社は荒沢神社」として語られていきます。いまや古文書の権威・磯田道史氏。ここまでにしておきます(笑)。

さてっと、柳田國男著「日本の祭」の話。
この「日本の祭」の自序は、こうはじまっておりました。

「昭和16年の秋、東京の大学に全学会というものが設けられ、その教養部においていろいろの講義を聴くこととなった際に、自分は頼まれてこの『日本の祭』という話をした。聴衆は理工農医の襟章を附けた人が多く、文学部の学生はむしろ少なかった。・・現代の日本には小学校以来、一度もこういう講義を聴かないのはもちろん、問題としてこれを考えてみる機会をもたなかった人が、どうやら非常に多そうに思われる。・・・」

さて「日本の祭」に「祭場の標示」という章がありまして、
「祭には必ず木を立てるということ、これが日本の神道の古今を一貫する特徴の一つであった。」とはじまります。
この章から、すこし断片引用。

「今一つは第二の世界との交通、夢にこの世を去った父母や故友と逢う。人が特殊の精神状態に入れば、常は見たり聞いたりし得ぬものを見聞する。凡夫にはわからぬというのみで、霊界の人は常に語ろうとしている。鳥でも獣でも草木虫魚でも皆通信しているのだが、こちらにしかるべきアンテナがないために、通例はそれが受取れないのである。・・・日本では特に神霊が人に憑いて語るということ、木でも草でも何にでも依るということ、この二つが大衆の古い常識であった。・・・」

うん。いとうせいこう著「想像ラジオ」の裾野はひろそうです。

この章の最後のほうも引用。

「要するに日本の祭は、大となく小となく、都会と田舎、村の公けと家々の祭とを問わず、木を立てずして行うものは今とても一つもない。」

うん。この講演は昭和16年秋なのでした。

「祭は本来国民に取って、特に高尚なる一つの消費生活であった。我々の生産活動はこれあるがために、単なる物質の営みに堕在することを免れたのであった。」

いとうせいこう。
磯田道史。
柳田國男。

この三人を結びつける「ラジオ番組」が、聴きたくなります。
そうそう。
「こちらにしかるべきアンテナがないために、通例はそれが受取れないのである。」
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学問の趣意。

2013-05-27 | 他生の縁
中公文庫の猪瀬直樹著「唱歌誕生」には、最後に附録として母校信州大学教育学部附属長野中学校での講演が載せてありました。

その印象がよかったせいか、
今日になって、どういうわけか、
福沢諭吉の著書「学問のすすめ」を思い浮かべるのでした。

その初編の端書に、こうあるのでした。
「このたび余輩の故郷中津に学校を開くにつき、学問の趣意を記して、旧く交はりたる友人に示さんがため一冊を綴りしかば、ある人これを見ていはく、『この冊子を独り中津の人へのみ示さんより、広く世界に布告せば、その益もまた広かるべし』との勧めにより・・・ 明治四年未(ひつじ)十二月」

うん。長野中学校での講演も、ひろく日本の中学生に読んでもらいたなあ。
ところで、
産経の古新聞を整理していたら。
その4月7日「新聞に喝!」(伊豆村房一)の文が
こうはじまっていたのでした。

「『一身独立して一国独立する』安倍晋三首相は2月28日の施政方針演説で、この福沢諭吉の言葉を引用しながら『「強い日本」。それをつくるのは他でもなく、私たち自身です』と述べた。安倍首相の思いはほかでもない。いま日本を取り巻く国難を克服し『強い日本』を取り戻すには国民の自立心が肝要であり、それには明治維新以降、独立日本の建設に心血を注いだ明治人の気概を伝えたかったのだろう。
冒頭の言葉は明治維新時に空前のベストセラーとなった『学問のすすめ』からの引用だが、安倍首相は同演説の中で『苦楽を与(とも)にするに若(し)かざるなし』という言葉も引用している。政治指導者だけでなく国民一人一人の奮起が欠かせないというのだ。・・・」

北岡伸一著「独立自尊 福沢諭吉の挑戦」(講談社)にある、
「学問のすすめ」が書かれた時代背景を以下に引用。

「・・明治三年の閏十月には中津に行き、母を迎えた。その頃、まだ洋学者は安全ではなかった。大阪では、のちの腹心となる朝吹英二に命を狙われ、中津では増田宋太郎に命を狙われた。
明治四年の廃藩置県は、維新革命の頂点をなすものだった。地域によっては数百年来の統治者が根こそぎにされたのである。これまで薩長の政府と思われていた政府が、薩摩藩、長州藩まで廃止してしまったのである。福沢はことの意外に驚き、『当時われわれ同友は三五会(かい)すればすなわち祝し、新政府のこの盛事をみたる上は死するも憾(うら)みなしと絶叫したるものなり』と書いている(「福翁百余話」)。それからまもなく新政府の中枢の半ばが、欧米視察に長期の海外旅行に出た。岩倉使節団である。新政府の西洋文明志向は決定的であった。『学問のすすめ』が書かれたのは、こうした感激の中においてであった。・・」


ということで、こりゃ、
「学問のすすめ」を読まくちゃなりません。
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ふるさと=中学生。

2013-05-26 | 短文紹介
猪瀬直樹著「唱歌誕生 ふるさとを創った男」(中公文庫)を買いました。
著者による「中公文庫版のためのあとがき」が、1頁あります。
うん。本文は読まずに、解説から。
解説は、船曳建夫氏。
この解説は、「日本の近代 猪瀬直樹著作集9」よりの再録とあります。
そして、最後に附録として
母校の長野県の中学校での、記念講演が載っておりました。
うん(笑)。それを読みました27頁ほどの文は、
たとえれば、耕した畑に間隔をおいて種をまくように、
中学生へ語り掛けたいことを、置いてゆくように、
私には読めました。
うん。それはそれとして、
講演の最後を引用したくなります。

「たまたま僕の知り合いで、新潟県出身の新井満という作家がいますが、彼の娘さんがロンドンに留学したら、自分で一人で夜中に『故郷(ふるさと)』を歌ったというのです。これから皆さんも東京に行ったり、あるいは外国に行くかもしれませんが、この歌が大きな支えとなると思います。それはなぜかというと、『いつの日にか 帰らん』ということもそうですが、『夢は今もめぐりて』も大切です。その『夢』というのは何か。『ふるさと』というのは何か。それは場所ではないんです。・・・・結局ふるさとというのは、自分のふるさとというのは、中学生くらいのころのことなんです。小学校から中学、高校くらい。特に中学くらい。つまりそのころ考えた夢のありか、それがふるさとなんです。だから空間だけではないんです。空間もそうなんだけど、時間の中にふるさとはあるんです。・・・・たぶん高校に入ったらあまり歌わなくなると思いますが、いずれ外国に行ったり、遠くに行ったりしたときに、中学生の時にいったい何を考えていたんだろうなあという時に歌うといいと思います。」(1996年10月12日)

そういえば、「学びのふるさと」という日経新聞の連載があり、
日経新聞2013年4月19日は、楳図かずおさん(76歳)の回でした。
何でも「筆を休めるまで最後の長編となっている作品『14歳』」があるというのでした。
インタビューのなかでは「終戦直後に聞いたGHQのマッカーサー元帥の言葉。【アメリカが40代なのに、日本は12歳の少年である】と発言したのですが、僕はずっと【14歳】と記憶違いしていた。」という箇所もあります。

ついでに、もうひとつ引用。
岡康道・小田嶋隆対談「いつだって僕たちは途上にいる」(講談社)に
【中二病】という箇所があったのでした。

(注・【中二病】の定義には諸説ありますが、男性の方はご自身が14歳のころ、社会をどんな風に見ていたかを思い出していただければ、概ねよろしいかと思います)(p098)

そのあとの対談に、こんな箇所がありました。

小田嶋】 いや、巷間言われる中二病とはちょっと表れ方が違うと思うんだけどね、むにょむにょ(と、往生際が悪い)。
――それを克服しようとは思わないんですか。
岡】 もう無理ですね(と、開き直る)。
――自分が中二病だという自覚はありました?
岡】 まあ、言われてみればそうですよね。
   いや、何となくありますよ。
小田嶋】 だから、だいたいあるところで成長が止まった部分って、それは本当は直らないよ。
岡】 直らないよね。
小田嶋】 ちゃんと組織で揉まれた人間は、そこのところは角が取れていくのかもしれないけど、そこを嫌だ、と言って俺も岡も組織から出ちゃった人なわけだから、その中二的な変な角がちょこちょこ、ちょこちょこ出るわけでしょう。
岡】 取れないですよ。
・・・・・(p099)


ああ、ここまででいいや。
「唱歌誕生」の本文は、また今度機会があれば読むことに(笑)。
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あの日。

2013-05-25 | 短文紹介
毎日新聞の「今週の本棚」。
その古新聞を整理してたら、
中島岳志の書評(4月7日)がでてきました。
書評本は、いとうせいこう著「想像ラジオ」(河出書房新社)。
この書評で、私は本を購入しました。
そして今度、あらためて書評を読む。

うん。これも、愉しいなあ。
中島岳志氏は4月から「今週の書評」のメンバーになったのだと
次の頁に書かれておりました(そういえば、朝日新聞で書評を以前書いておられたなあ)。
さて、書評は、こうしてはじまっておりました。

「あの日、津波が去った後、高い杉の木の上に一人の男が引っかかった。DJアーク。赤いヤッケ姿で、姿勢は仰向けだ。
彼は自らの死を認識しないまま、人々の想像力を電波にラジオ番組を流し始めた。それが『想像ラジオ』。リスナーの多くは死者だが、生者にも届く。大切なのは、生と死の二分法ではなく、聞えるか聞えないか。・・・」

ああ、うまい書き出しだなあ。
ここだけで、本の全体を俯瞰できる。
読後に、書評を読み返すと、
書評の味わいが深まります。

うん。書評は二度おいしい。
一度目は、その書評で本を手にする楽しみ。
二度目は、読後、その書評を味わう楽しみ。

何で、こういうことを意識しなかったのだろう。
よい書評は、楽しみの奥行をぐんと押し広めてくれますね。
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大槌町へ。

2013-05-24 | 地域
日経新聞2月24日の、稲泉進氏の書評が印象に残りました。
竹沢尚一郎著「被災後に生きる」(中央公論新社)。
竹沢氏は国立民俗学博物館教授。
とりあえず「はじめに」を読む。
そこにこうあります。

「被災から二週間たっても現地の状況がいささかも改善されていないことを知ったとき、私たちは話し合って親子三人で被災地の支援に行くことを決めた。そのとき、気持がふっと軽くなったこと、救われたような気がしたことを、今でも鮮明におぼえている。
それでは、どこへ行くべきか。宮城県が多くのボランティアを受け入れていたことはインターネットで知っていたので、私たちはボランティアの少ない岩手県に入りたいと考えていた。しかし、被災後しばらくのあいだ、岩手県下の市町村の多くは、おそらく混乱を避けるためか、外部のボランティアの受け入れを拒否していた。そのなかで、ほぼすべての機能を喪失していた大槌町だけは、それを断る余裕もなかったのだろう。外部ボランティアを受け入れていた岩手県下で唯一の市町村であった。その意味で、私たちが大槌町を選んだのは自然ななりゆきといえた。」(p12)

本についての言及が、ありがたい。

「東日本大震災についてはすでに多くの本が書かれている。その上に、さらに本書をつけ加えようとする理由は何か。とりわけ、大槌町ととなりの釜石市箱崎半島の二つの地域に限定して書き進めることで、本書は何をめざすのか。・・・
今回の被災の全体を俯瞰するには中央の新聞社が出した縮刷版が有用だが、とりわけ現地社会に深く入り込んだものとして、地元の岩手日報社や河北新報社、三陸新報社などの出版物が参考になる。」

 それについては、註で本を紹介しております。
『岩手日報社「特別報道写真集 平成の三陸大津波」
河北新報社「河北新報特別縮刷版3・11東日本大震災カラー版1ヵ月の記録」
「東日本大震災全記録 被災地からの報告」
三陸新報社「巨震激流 3・11東日本大震災」
また、現地で撮影されたビデオを編集したものとして
IBC岩手放送「3・11岩手・大津波の記録 2011東日本大震災」
総合広告社「岩手は半歩歩き出す。」がある。』
「最初期の出版につづいて、ジャーナリストやルポライターが書いた本や、さらに被災者自身がみずからの経験を物語った作品があらわれてきた。これらは、先に出版された記録ではうかがうことのできない、被災者の個人的経験や悲しみ、救援活動時における困難や労苦に焦点をあてたものであり、そのいくつかは強いインパクトを与えることに成功している。・・・」

この註として本が列挙されているのでした。

『本書が取りあげる大槌町と釜石市に関する本として以下のものがある。
根岸康雄著「生存者 3・11大槌町、津波てんでんこ」
東野真和著「駐在記者発 大槌町 震災からの365日」
石井光太著「遺体 震災、津波の果てに」
片田敏孝著「子どもたちに【生き抜く力】を 釜石の事例に学ぶ津波防災教育」』

うん。これだけのリストがあれば、東日本大震災を、どの地域から手をつけてよいのか分からずにいた、私にとって、ありがたい限りです。
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二転三転する。

2013-05-23 | 前書・後書。
日下公人・渡邉哲也著「新聞の経済記事は読むな、バカになる」(発行・李白社)を読んでます。たのしいなあ。序章を日下氏が、終章を渡邉氏が、書いております。読んでる途中なのですが、私はワクワク感。

ここでは、序章からすこし。

「・・中国やアメリカという帝国はどんどん野蛮になっている。その意味でもアメリカと中国は似ているのだが、近年、日本に対して、アメリカからはTPPをはじめとする経済的脅威、中国からは軍事的脅威が迫ってきている。にもかかわらず日本は、福祉に甘えて働かない国民をたくさん抱えている。したがって、新政権の仕事は外圧に対して命がけで国の名誉を守ること、国民に対してしっかり働けと言うことである。・・」(p43)

日下氏は昭和5年生まれ。
それについて触れております。

「国別の統計、数字に意味がない中で現状と将来を見通すには、各種人間集団が持っている人間観や社会観や経済観や勤労観を考慮に入れた評論が重要である。しかし、日本では70年近くも平和が続いて何ごともなかったためにガラクタ評論家ばかりがたくさん出現した。
これまではガラクタ評論家でも聞いてやろうというほど暇だったので、テレビでは吉本興業の芸人でも評論家を自称することができた。芸人の評論家が悪いと言っているのではなく、その評論は一種の瞬間芸だったので、聞いている人はもはや満足できなくなったのである。
出版界でもお茶を濁すような、囃し立てるような評論家の本は売れなくなってきた。だから、出版不況である。本を売るためには執筆者を総入れ替えすればいい。今の国民はもっと本格的な評論を求めている。
私は1930年(昭和5年)生まれだが、昭和一桁生まれと昭和二桁生まれでは世の中を見る見方がかなり違う。それは評論家でも同じで、昭和一桁の評論家がしぶとく生き残っているのは世の中の見方が本質を突いているからだと思う。
そうなったのは小学校に入って以来、二転三転する大人の教えをずっと聞いてきたからで、当時の大人は二、三年おきにまったく違うことを言っていた。」(~p44)

さてっと序章で、こう語るところの「本格的な評論」というのは、どういうものか。ちなみに、対談相手は1969年生まれ。ということで、紹介はここまで。おあとは、読んでのお楽しみなのでした(笑)。
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そいつはいい。

2013-05-22 | 短文紹介
小説は読めない方です。
短文なら、すぐによめちゃうし
それなりに楽しめる(笑)。

そういう、短文のなかに、
ときたま、思い出す文があり。
私の場合のそれは、
河上徹太郎の短文「座右の書」。

どういうわけか、
数年おきぐらいに、思い浮かぶ。

それが、どうも私には分からない。
分からないからか、忘れられない。


「座右の書」の、はじまりは、

「かういふ課題を出されたら、ひと昔前なら私の二十代に影響を受けた作家、ジードやヴァレリーの名を挙げたであろう。しかし今はもうそれに厭いた。といつて『聖書』とか『論語』とかいふ古典も、実は私の座右にはない。では原義通り私の身辺にあつて、時々繙いて読み耽るのは何かと考へて見ると、どうも正直なところ御恥かしい話だが、私自身の書いたもの『河上徹太郎全集』といふことになるやうだ。私は自分の書いたものほど愉しい読み物はない。・・・・」

うん。短いので全文を引用してもいいのですが、
ここでは、あと少し

「いつか女房連れで福原麟太郎氏に会つた時、氏は御愛想に『河上さんはうちでよく本を御読みでせうね』といはれたら、女房が『ええ、ところが何かと思つて見ると、自分で書いたものを一生懸命で読んでるんですよ』と答へた。福原さんは、『そいつはいい』とわが意を得たやうに笑つて下さつた。」


これが、どうも夢にでも出てくるように、思い浮かぶ。
「どうも正直なところ御恥ずかしいが」という、
その響きが、木霊するように、こちらに伝わってくる。

ちなみに、この短文は、河上徹太郎著「史伝と文芸批評」(作品社)で、読んでおります。
そして、いつもここまで。ここから全集へと、触手をのばそうとは思わないんだなあ、これが(笑)。
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分からへんねん。

2013-05-21 | 短文紹介
古新聞の整理。
産経新聞2月25日に「第17回菜の花忌シンポジウム」。
第16回司馬遼太郎賞は赤坂真理著「東京プリズン」・片山杜秀著「未完のファシズム」でした。うん。「未完のファシズム」を読んでみたい。

下の方に、福田みどりさんのコメントが掲載されておりまして、印象に残ります。

「・・・司馬さんが生まれたのは大阪市浪速区で、兵隊に行くまでそこで過しました。父親も母親も、大阪弁しかぴったりこない人でした。ところが司馬さんは、大阪弁がしゃべれなかった。学生の大阪弁というか、『そうでっしゃろ』とか『言いまんねんわ』というような、大人の大阪弁が話せなかったんです。あるとき、司馬さんから電話がかかってきて、『僕ここに一人いんねん。なにしてええか分からへんねん。どうしたらええやろ』と言うんです。それを聞いて、これは大人というよりも少年だな、と思ったんです。恥じらいがあってプライドが強くて、そのくせ孤独で。少年独得の特徴を、司馬さんは全部備えていました。・・・」

そういえば、
司馬遼太郎・桑原武夫対談「人工日本語の功罪について」のなかに
こんな箇所があったなあ。

司馬】 実をいいますと、いまの発言は、わたしが多年桑原先生を観察していての結論なんです(笑)。大変に即物的で恐れいりますが、先生は問題を論じていかれるのには標準語をお使いになる。が、問題が非常に微妙なところに来たり、ご自分の論理が次の結論にまで到達しない場合、急に開きなおって、それでやなあ、そうなりまっせ、と上方弁を使われる(笑)。あれは何やろかと・・・。
桑原】 批判していたわけだ(笑)。
司馬】 いや、批判じゃなくて、これはやはり標準日本語がまだ不自由で足りないところがあるせいだろうと思っております(笑)。喋り言葉としての標準語は論理的であるにしても、おっしゃるように100%の論理性はない。そこで感情論理学を背負っている京都弁で栓をしてしまう。
桑原】 ぼくは標準語を使ってはいるが、意をつくせないときはたしかにありますね。そこで思うんですが、社会科学などの論文に、もっと俗語を使って、『さよか』とか・・(笑)。
司馬】 『そうだっしゃろ』とか・・・。
桑原】 『たれ流し、よういわんわ』というような言葉が入るようになればおもしろいと思うんですがね(笑)。
司馬】 そうですな。
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二昔前も今も。

2013-05-20 | 短文紹介
産経新聞5月20日の「正論」欄は
平川祐弘氏が書いておりました。
その中頃を引用。

「英軍の語学将校として日本軍と戦ったルイ・アレンは、戦後ダラム大学で教えた・・・英日双方の資料を基にビルマ戦史を次々に著わした。91年死ぬ直前、車椅子で登壇、英軍事博物館で熱弁をふるった。『日本は、英国が中国(蒋介石軍)支援用に開いたビルマからの援蒋ルートを遮断し、ビルマをアジア解放のショーウィンドーとすべく戦った。英国は日本によって奪われた植民地の領土と富を奪回して勝利したが、戦後それを維持することはできなかった』
遺言ともいうべきその講演を報じた同年12月7日付朝日新聞の見出し『ビルマ戦線いまも残虐イメージ残す』は公平でないと先日届いたアレンの遺著・・に、編者ニッシュが註を付している。
『メディアが勝手に決めてかかる見方を打破しなければ和解は成り立たない』というアレンの主張も引かれていた。だが、マスコミの偏見や世論誘導は二昔前も今も大差ない。・・・」


正論の前のページ。
オピニオン「話の肖像画」には、百田尚樹(57)へのインタビュー記事(聞き手・広瀬一雄)。その最後の箇所を引用。

「出光佐三に触れた後、東日本大震災がありました。バラエティ番組で笑っていていいのかと悩んだこともありました。クリエーターはみな悩んだと思いますよ。でも佐三のことを調べれば調べるほど、『これは書かないといけないぞ』と思いました。
昭和20年の日本と、震災の後の日本の姿がダブったんです。終戦後の日本はひどかった。300万人の命が失われ、住むところもなければ、工場もない。ゼロどころか、莫大な賠償金を背負い、マイナスからのスタートからだった。・・・出光もすごいけれど、出光は日本の『すごい男』の象徴なんです。出光佐三と、出光興産の社員だけが努力しても、日本は立ち直らないんです。名もなき『出光佐三』が何千万人もいたからこそ、日本は立ち直った。そのすごさを知ってもらいたいんです。」

そして20日のインタビュー最後の言葉はというと

「本屋大賞の授賞式で、女性の書店員の方とお話ししたんですが、みんな、登場人物を『しびれる』って言ってくれたんです。どんな困難にあってもくじけない。芯のある、非常に魅力的な男を、現代の女性は待っているんですね。」

そういえば、朝日新聞4月11日の全面広告「本屋大賞第1位」のなかに、全国の各書店員からの一言が載っておりまして、ひとつ忘れられない文句があります。

それは、東京三省堂書店 有楽町書店 新井見枝香さんのコメント。

「読み出したらもうどうにも止まらなくなって、
デートの約束をキャンセルしました。
こんな小説、ほかにあるかっ! 」

二昔前も、きっと
こういう心意気の女性がいたんですよね。

ということで、
「デートの約束をキャンセル」してまで読んだという
新井さんの言葉に押されて、圧されて、じゃなかった、推されて
「海賊とよばれた男」上下巻(講談社)を買うことに。
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探し物。

2013-05-20 | 本棚並べ
探し物で、本の段ボール箱を、あちこちひらく。
目的の本が見つからずに、以前に読みたかった本が出てきます(笑)。
うん。これがセレンディピティと教わったのは、
外山滋比古氏の本でした。

「18世紀のイギリスに、『セイロンの三王子』という童話が流布していた。この三王子は、よくものをなくして、さがしものをするのだが、ねらうものはいっこうにさがし出さないのに、まったく予期していないものを掘り出す名人だった、というのである。この童話をもとにして、文人で政治家のホレス・ウォルポールという人が、セレンディピティ(serendipity)という後を新しく造った。人造語である。
そのころ、セイロン(いまのスリランカ)はセレンディップと言われていた。セレンディピティというのは、セイロン性といったほどの意味になる。以後、目的としていなかった副次的に得られる研究成果がひろくこの語で呼ばれることになった。」(外山滋比古著「思考の整理学」ちくま文庫・p67)

おっと、段ボール箱から出て来たのは、
以前にさがしていた
ニコラス・モンサラット作・吉田健一訳の
「非情の海」上下・至誠堂

これが見つからなかったので
昭和28年に新潮社から発売された「怒りの海」上下を
買って読んだのでした。うん。読みたい時が吉日。
至誠堂の下巻最後には、戦艦やUボートの写真などの資料が載っております。

安藤鶴夫の旺文社文庫は、
最近揃えることができました。
こうして備忘録がてら、ブログに書いていると、
ついつい、調子に乗ってネット古本屋で買ってしまいます(笑)。

旺文社文庫の「落語鑑賞」下に、
江國滋氏の解説が載っているのですが、そのなかに「落語鑑賞」についてで、
「興趣ということでいえば、筑摩書房版を除くすべての版が、木村荘八画伯の装幀と挿画で統一されているのも、いかにも安藤さんのセンスである。」(P408)

この箇所を読んだのは、
苦楽社の「落語鑑賞」をネット古本で注文した後でした。

旺文社文庫のカバー絵は、
甲乙つけがたいのでしょうが、
やはり、「落語鑑賞」のがいいなあ。
単行本の木村荘八の扉の絵が、そのまま使われております。
「扉は、客席になっており、高座の左手が杉戸で、土瓶を下げたお茶子が立っている」。
坐った観客のなかで、ひとり立って高座を見いっているお茶子の姿がカラーで、味わい深いのでした。

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日かげをしみて。

2013-05-19 | 本棚並べ
曽野綾子・金美齢対談「この世の偽善」(PHP)の第一章に、
金さんが「かつては『艱難辛苦汝を玉にす』という言葉がありました。東日本大震災に限らず、昔の日本人は困難に立ち向かうことが自分を鍛え、磨き、立派にしていくことにつながると考えていた。・・・」(p31~32)
という箇所がありました。

うん。こういう指摘をしてくださる方は、いるようでいないものです。
最近、平川祐弘著「東の橘西のオレンジ」(文藝春秋・1981年)の古本を注文。

佐藤書房(八王子市東町)
630円+送料200円=830円
先払い。ゆうメールで宛名は手書き、
サインペンより少し太字です。
本は読んだ跡がなく、ページはいたってきれい。

さて、この本に「フランクリンと明治皇后」という36頁の文が入っております。
そこを読む。中村正直訳「西国立志編」からはじまります。そこからフランクリンの「自叙伝」へとつながり、つぎに「自叙伝」の「十二の徳目」を引用しておりました。その徳目を美子(はるこ)皇后が和歌によみかえたことが辿られてゆくのでした。
ちょっと端折りすぎたのは御勘弁していただいて、
この箇所を引用

「  勤労
みがかずば玉の光はいでざらむ人のこころもかくこそあるらし

という御歌は『正法眼蔵随聞記』の次の言葉とぴたりと重なる。
『玉は琢磨によりて器となる。人は練磨によりて仁となる。何(いづれ)の玉かはじめより光有る。誰人(たれびと)か初心より利なる。必ずみがくべし。すべからく練るべし』
『正法眼蔵随聞記』は西暦十三世紀に編まれた書物だが、しかしこの言葉はその先をさらにたどれば『礼記(らいき)』の、『玉琢(みがか)ざれば器を成さず、人学ばざれば道を知らず』
に通じる。『礼記』は西暦紀元前一世紀、シナの漢の時代の初めに編まれた書物だが、そのような人格陶治の思想が儒教にも仏教にもあって東アジアに連綿として続き、徳川時代には『艱難汝を玉にす』という格言が広く行われていたからこそ、フランクリンのプロテスタンティズムの倫理も、スマイルズの『自らを助く』の独立自尊の精神も、わが国で共感を呼んだのだと思う。しかしいつの世にも流行がある。今日、かりに同じ内容であろうとも、『立身出世』といえば古く野暮くさく聞え、『自己実現』といえば新しく恰好よく聞える。それと同じことで、すべて日本的なもの、東洋的なものは古臭いと思われたに違いない明治初年の日本で・・・・」(p84~85)

「金剛石」の小学唱歌にも触れられております。

「ここまで述べると、戦前・戦中に育った読者にはぴんとくる歌があるだろう。それは『金剛石』の小学唱歌である。明治二十年、美子皇后のお歌は奥好義(よしいさ)の作曲にあわせて敷衍され、やがて日本国津々浦々に愛唱された。

  金剛石も    みがかずば
  珠のひかりは  そはざらむ
  人もまなびて  のちにこそ
  まことの徳は  あらはるれ

  時計のはりの  たえまなく
  めぐるがごとく 時のまの
  日かげをしみて はげみなば
  いかなるわざか ならざらむ 」(p82)


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今にて御座候。

2013-05-18 | 短文紹介
磯田道史著「龍馬史」(文春文庫)がいいなあ。
3章からなるのですが、どの章でも楽しめました。

第一章は、短いので「まえがき」としても読めます。
第二章は、龍馬によって幕末史を展望する本文となるのでしょうか。
第三章は、暗殺説として好き勝手な推理を切り捨て、幹をのこす荒療治がつづきます。


あらためて、この本を紹介するために、一箇所だけ引用するなら、
ここだろうなあ。第三章「龍馬暗殺に謎なし」から、

「そこで後藤は、危ないから土佐藩邸に入れと忠告するのですが、龍馬は断った。断る理由は大体想像がつきます。不自由なのです。藩邸は出入りの手続きが厳しく、そのうえ龍馬には若いときに三人で藩邸の一部屋に押し込められた嫌な記憶があります。土佐の龍馬の家は城下でも有数の金持ちで広々していましたから、その落差は相当なものだったはずです。藩邸の中では上士が威張りくさっていて、居心地が悪かったのでしょう。龍馬の『龍馬たるゆえん』というのは、いつも人に手紙を書き、人に会い、自由勝手に動き回っているところにあります。それが重要なのに、藩邸の門の中へ一歩入ってしまうと、どこへ行くと届け出たり、門番に入り口を開けてもらったりで、やりたいことが自由にできなくなってしまいます。
この時期の龍馬は、幕府大目付を務めた永井玄蕃(げんば)(尚志)のところへ夜中に会いに行って密談をしていました。藩邸の中にいれば、こういう会談をするのにも制約が出てしまうのです。
殺される直前にも、友人が近江屋に来ると『ご苦労さん』と声をかけています。龍馬は、こういうことが好きで生きているような人物でした。
もし土佐藩邸に入ったら情報は入らない、声かけもできない、夜中に人に会いにいきにくい。行動が制約されるのですから、龍馬は藩邸に入らず、危険な町屋ぐらしを続けました。後藤は『危ないからやめてくれ』と言うけれど、龍馬はその土佐藩邸と目と鼻の先の、用心の悪い醤油屋(近江屋)の二階を動かなかったのです。こういう行動を見ても土佐藩・後藤象二郎黒幕説というのは考えられないと思います。・・・・・・
これは龍馬暗殺説全体にいえることなのですが、対立関係で捉えてはいけないものを対立関係に捉えて、犯人に仕立て上げていく誤りが多い気がします。・・」(p140~142)


うん。この本、読めば、ついつい、あれもこれもと楽しめます。
でも、書き込みは、この辺で。深追いは禁物。
本を手にする喜び。それを半減させては申し訳ない(笑)。

この文庫解説は、長宗我部友親。

ちなみに、「今にて御座候」とは、
林謙三への龍馬からの手紙の一部
「・・実は為すべき時は今にて御座候」(p177)。
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