和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

サイン会。

2013-01-30 | 本棚並べ
だいぶ以前なのですが、
一度だけ、作家のサイン会に並んだことがありました。
それは、新宿紀伊国屋書店で安岡章太郎氏のサイン会。

今日の朝刊に「安岡章太郎さん死去」の記事
で思い出しました。
ちょうど、一月は産経と読売をとっているので、
両方を読み比べることができました。
一面コラムでは、
編集手帳が、安岡章太郎をとりあげてます。
産経抄は、小林秀雄からはじまっているので、
安岡章太郎につながるかと思いきや違いました。
産経抄は小林秀雄の文芸評論についてで、
一度書き上げた原稿から不要と思う表現や言葉を削除し、
それで、完成した文章は簡潔にして難解だという。
そのことから
「28日の安倍晋三首相の所信表明演説は
異例といえるほど簡潔だった。・・余計な
修辞やカタカナ文字も避けていたから、
こちらは難解ではなかった。・・・」
とつながるのでした。

私の安岡章太郎というと
まず思い浮かぶのは「流離譚」。
文庫本「流離譚」の解説は小林秀雄。
単行本を本棚をさがすのですが、
あれ、どこにいったのか見つからない。

読売新聞の一面死亡記事で92歳だったんですね。
一面記事には、残念「流離譚」の書名は出てこない。
第二社会面に、主な作品として記載がありました。
産経新聞は一面には、とりあげられておらず。
社会面の四コマ漫画が載る箇所に(産経は四コマなし)
スペースをとって載っておりました。

安岡章太郎さんの本といえば、
井伏鱒二についての随筆など、楽しく読んでおりました。
その単行本も、さがせどもみあたらない(笑)。


そうそう。サイン会に出かけたことでした。
古本で講談社の安岡章太郎全集(昭和46年)を買っておりまして、
そのなかの「志賀直哉私論」をもっていって、
新刊のサイン会なのに、あつかましく
その本にサインをしてもらったのでした。


追記(2月3日)
昨日、古本の安岡章太郎著「小説家の小説論」(河出書房新社)が出てきました。ここにも、安岡章太郎氏のサインがはいっている。
そういえばと、思い出したのは、紀伊国屋書店のサイン会に一人2冊までサインしてもらえて、この本にもサインしてもらったのでした。ミーハーでウキウキして、けっきょく、安岡氏の顔もよく見てこなかったなあ。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

つなみ紙芝居。

2013-01-29 | 短文紹介
注文してあった
田畑ヨシ著「つなみ」(産経新聞出版)が届く。
田畑ヨシさんは1925(大正14)年1月生まれ。
1933(昭和8)年の三陸大津波を田老町で被災しておられました。
その体験をもとに、ご自身で絵を描いて、
地域の小中学校などで紙芝居「つなみ」を読み聞かせていらっしゃったのでした。
それが絵本として一冊(平成23年7月第1刷発行)になっておりました。
そこに、一度避難して、また家にもどる場面が
かたられております。
貴重な体験なので、
そこを引用しておきます。

「三月三日のおひなまつりの夜でした。
よっちゃんがおばあさんとねていると
ガタガタと大きな地震がゆれました。
よっちゃんはとびおきて、おばあさんと
はだしのまま赤沼山の下まで走っていって
ぶるぶるふるえていると
お母さんが妹をおぶって
『おばあさん、よしこー』と大きな声でよぶ声がして
『電気もついたし家にかえっておいで』と
むかえにきたので、おうちにかえった・・・・
・ ・・・・・・
よっちゃんがこわくてぶるぶるふるえていると
おばあさんが『寒いならこの袖なしでも着て』といって
長い毛皮の袖なしを着せてくれました。
おじいさんは『津波がくるかもしれないから
にげるじゅんびをするように』といって
お父さんはたい松をたばねておき
わらぞうりをみんなのぶん、げんかんにそろえて
大切なものをカバンに入れて
持ってにげるばかりに、じゅんびをしておりました。
・ ・・・・・・ 
すると、まもなくまた地震がゆれ
お父さんが『津波だ、にげろ』と大きな声でさけびました。
海の方からドーンと大きな音がしました。
よっちゃんは、むちゅうになって
げんかんのぞうりをつかんで、はだしのまま走ったが
長い袖なしが足にからまって、
なんかいもなんかいもころびながら
赤沼山ににげました。・・・・」

私の気になった箇所だけを引用しました。
機会があれば、全文読むことをおすすめしたいと思います。
最後に10ページほどの解説がついております。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

尋常小学国語読本。

2013-01-28 | 前書・後書。
織田正吉著「日本のユーモア」全3巻(筑摩書房)の
2巻目まで、とりあえず読みました(笑)。
3巻目は、小咄を章立てして、並べてある巻なので、
とりあえずは、ここまでにしておきます。
3巻目の「はじめに」は
2巻目の丁寧な要約というか、まとめになっております。
そういえば、この全3巻は、前書きと後書きが素敵なのです。
たとえば、第1巻の「あとがきに代えて」では
小林一茶の句を
「・・子規のいうようにユーモアを持つ点で得意な作風と見える。しかし、芭蕉が確立した俳句でもなく、『誹風柳多留』が生んだ川柳でもない鵺(ぬえ)のような一茶の句は、俳句としては芭蕉以下、川柳として見れば『柳多留』に数歩譲り、いわば両者混淆のいぶかしいカクテルの味が大衆的支持を受けているのである。」

ありがたい。これで一茶の句の受け止め方を教わりました。
第1巻を読んでから、この「あとがきに代えて」を読むと、
また、味わいがあるのです(笑)。

さてっと、第3巻の「あとがきに代えて」には、
こんな箇所があるのでした。

「先人の遺してくれた文化遺産であるという認識を持って、これらの小咄を継承しなければならないと思う。江戸小咄の継承は、戦前、国定の国語教科書(「尋常小学国語読本」)まで続いていた。私自身習った『尋常小学国語読本』には、わずかではあったが江戸小咄が採られていた。本書でつけた題名でいうと『鳥の町』『軽口五色帋』を出典とする『貸家札』、『鹿の子餅』の『早業』、同『爪の論法』などである。教科書から江戸小咄の類が一掃されるのは、昭和16年、『国民学校令』の公布によって、それまでの尋常小学校と高等小学校が国民学校初等科と高等科に改称されたのにともない、国定教科書が全面改訂されて以後のことである。
小咄は小学校の教室にはなじまないものであった。小咄にはやはり炉辺がよく似合う。・・・とはいっても、江戸小咄が小学校の正門から教室に入っていたことの意義は決して小さくない。すくなくとも当時の文部省は、江戸小咄を文化遺産あるいは教養として国民に伝えるべきだという認識を持っていたのである。」

うん。これが最後の箇所でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田沼意次と落首。

2013-01-27 | 詩歌
織田正吉氏の「日本のユーモア」全3巻は、
ちょうど、半分ほど読みすすんだところ、
なんとも、遅読です(笑)。

たいへん面白いのですが、同じ本を読んでいると
何とも、読み込み、飲み込みがわるくなるので
ちょっと、本をかえて織田正吉著「笑いとユーモア」(ちくま文庫)を
すこし、齧ってみる。

すると、「時事コントや政治漫画」について触れた箇所が
鮮やかなので引用。

「前後の見とおしも、真実を見ぬく目もなく、ただそのときの多数がかもし出すムードに便乗して、鬱憤を晴らしているにすぎません」(p54)

その具体例が興味深いのでした。

「たとえば、賄賂政治で落首が氾濫した明和天明の田沼意次の時代に、田村をまいまいかぶり(カタツムリ)に見立て、――この虫つねは丸の内にはひ廻る、皆人銭出せ金だせ、まひなゐつぶれといふ(まひなゐは賄賂のこと)
といい、田沼意次の子・意知が殺害されたときには、

  金とりて田沼るる身にくさゆへ 命捨ててもさのみをしまん

など江戸市民のあいだから出た無数の落首が田沼を攻撃しているのに、田沼が失脚し、あとを襲って老中に就任した松平定信がいわゆる寛政の改革に乗り出すと、

  白河の清き流れに魚住まず 濁れる田沼いまは恋しき

という落首があらわれる始末です。白河というのは白河楽翁(松平定信)のことで、田沼の縁語になっています。あれほどさんざんに田沼を批判した落首が、もちろん同一の作者ではないにせよ、無節操、無定見に主張を変え、田沼時代のほうがいいというのです、これが、時事コントや政治漫画などが体質として持っている大きな欠点です。前後の見とおしも、真実を見ぬく目のなく、ただそのときの多数がかもし出すムードに便乗して、鬱憤を晴らしているにすぎません。・・・・
この種の笑いがきわめて自己中心的な笑いであることは、対立する立場の者同士でたがいに嘲笑しあう(風刺漫画)と称するものがよくその実体をあらわしています。
日本では、なぜか『風刺性があるかないか』で笑いの価値を判断する習慣があります。この種の笑いの価値は風刺性の有無にあるのではなく、風刺の質によることはいうまでもありません。・・・」(p54~55)


うん。「日本のユーモア」全3巻は、
こうして日本の歴史をユーモアの視点で取り出してくる通史なのです。
実にみごとなユーモアの歴史となっておりまして・・・・。
なんて、まだ途中までしか読んでいないのでした(笑)。
ついつい、愉しいと、読むのはおろそかになり、
だれかに、つたえたくなります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

防災訓練。

2013-01-26 | 地域
地元で、防災講演があり行って来たところです。
講師は山村武彦氏。
ときどき笑いをまじえての講演で、
東日本大震災と阪神・淡路大震災などの映像をまじえながらの
有意義な講演会を聞きにいけたなあと思って帰ってきました。

「緊急地震速報!小さな揺れ!で防災訓練」

うん。この標語をいただきました。
これからは、緊急地震速報が防災訓練の合図だと
思って行動したいと思います。はい。

もう帰ってきたら、講演内容を
ほとんど覚えていないのは、何ともなさけない。
けれど、この標語は、いただきます。

あ、そうそう、車のガソリンは
半分になったら、入れておくように、
という注意も、ありがたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

飛騨の円空。

2013-01-25 | 本棚並べ
東京国立博物館(本館特別5室)にて、
4月7日まで、「特別展 飛騨の円空」が開催されていて、
いってみたいなあ。

元旦の読売新聞に円空「両面宿儺(りょうめんすくな)坐像」の写真が掲載されておりました。それが坐像の下の台座というのでしょうか。それまでふくめての全体が写されていて、その新聞写真を画鋲で部屋の隅に貼っております(笑)。

ときたま目に入るその新聞写真を、見るとはなしに見ているわけです。すると、その坐像の下の箇所が魅力で、躍動感に充ちているのに気づかされます。城でいえば石垣。坐像の下はゴツゴツとした岩を積みあげたような構図なのですが、その石垣みたいな箇所が、渾沌としたあらあらしさで、何とも惹かれるのです。そのゴツゴツとした石垣の渾沌を封じ込めるようにして、両面宿儺坐像が乗っかっておられる。

産経新聞1月20日に、その特別展の紹介が2頁にわたり載っておりました。
そこに、小さい写真入りでこうあります。
「円空屈指の傑作『両面宿儺坐像』千光寺蔵。両面宿儺は『日本書紀』に登場する飛騨の異形の怪物だが、地元豪族で千光寺を開山したという。前後に顔を持つとされるが、円空は正面に顔を2つ並べている。力強さと緻密さで、彫刻家としての円空の技量の高さを感じさせる」

どうも気になったので、古本のカタログを注文することに

古書舗フクタ(名古屋市)に
「円空 その芸術」というカタログを注文。
1500円+送料160円=1660円なり

中日新聞社主催で昭和54年8月に
オリエンタル中村栄本店7階ギャラリーで開かれた展示会のカタログでした。
一人2ページで佐藤忠良・白洲正子・瀬戸内寂聴と、3人の文の掲載されてる。

とりあえず、仏像の写真をめくると、
両面宿儺坐像は、顔から胸までのアップの写真で。
私が見たかった、坐像から下の箇所は見事にカット。
とりあえず、残念。
顔2つが並ぶようすはよくわかりました。
そのうち、
カタログの年譜や解説とあわせて、
ゆっくりと掲載されている3人の文を読んでみます。

うん。特別展は4月7日までか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シンプルで分かりやすく。

2013-01-24 | 地域
尋常小学校六年・牧野アイさんの作文「津波」は、
吉村昭著「三陸海岸大津波」(文春文庫)の「子供の眼」(p120~141)で取り上げられておりました。

東日本大震災のあとに出た一冊に、
文芸春秋8月臨時増刊号「つなみ 被災地のこども80人の作文集」がありました。
その編者・森健氏は「はじめに」で、こう書いております。

「・・ヒントになったのが、故吉村昭氏の『三陸海岸大津波』だ。同書は過去三度の津波被害を丹念な取材で記録した作品だが、その中に『子供の眼』という章がある。・・震災の体験は、けっして一括りにはできないものだ。・・それは数字では伝わらない。いかにこの地震と津波の凄まじさや怖さを伝えるか。それを考えたとき、『子供の眼』つまり震災を体験した子供たち自身の手で作文を書いてもらうことこそ一番ではなかと思い至った。・・」

ちなみに、この本は、のちに大宅壮一ノンフィクション賞を受賞しております。

森健氏はつぎに
「『つなみ』の子どもたち 作文に書かれなかった物語」(文芸春秋)を出しております。
驚いたことには、その終章の前に、牧野アイさんで一章があったことでした。
東日本大震災の際に荒谷(牧野)アイさんは89歳。
森氏は、被災地の消息情報を検索している際に、その名前を見つけたのでした。
その経過は、はぶいて、
アイさんの次女・育子さんの言葉を引用してみます。

「『うちはどこに行くにも【必ず津波のことを気にしろ】って、おばあちゃんから言われていたんです。もうずーっと。どこかに行ったら、必ず津波から逃げる避難の道を確認する。それは荒谷の家では厳しく言われていたことなんですよ』
つまり、荒谷の家では七十年以上もの間、日常的に津波への警戒をしてきたということだった。それが日常生活にまで染み付くよう、母は子どもたちに教えていた。」(p244)

「母はこの間六月の頭に九十歳になりました。耳も遠いですし、すこしぼんやりすることもあるんです。でも、津波の取材は決して断らないんです。津波を語るのは母にとって責務のような気持ちがあるんだと思います。それは私たち母の子どもでもそうなんです」(p245)

つぎに四女・荒谷栄子さんの言葉を引用してみたいのでした。
文芸春秋2012年三月臨時増刊号「3・11日本人の再出発・・・」
この座談に、荒谷栄子さんが登場して語っているのでした。
そこを、引用してみます。

荒谷】 私は岩手県宮古市の田老で小学校の校長をしております。あの日、校長室でひとり、卒業式や中学校の閉校に関わることを考えておりました。突然、ドーンッと地震が来ました。・・・母親は昭和8年の大津波を体験しておりまして、彼女から常々聞かされてきたことが、今回の私の行動に大きく作用したと思っております。・・・(p40)

荒谷】 ・・・数年前から、津波のための避難所(シェルター)をつくったり、マニュアルをつくっては見直したりと、教育委員会の指導の下でやってきたわけです。だけど今回、私の中では、マニュアルは関係なかった。あ、これは津波が来る、子どもの命を守らなきゃと、子どもたちを集めて何も持たせないであらかじめ決めておいた高台に避難させました。ただ、雪が降って寒かったので、ジャケットを一枚はおらせて。小・中学校併設校だったので、中学生と小学生をセットにした形で、『中学生たち、小学生を頼むよ』と。二十名に満たない小規模校だったので、そうやって高台に避難させました。マニュアルでは車は使うなとか、それから学校の帳簿を持ち出せ(笑)とか、細かく書かれていたんですけれども、そういうのは一切頭にはありませんでした。
これは私自身の生育歴にも関係していると思います。・・・・私たちは母親のお腹の中にいるときから、『地震が来たら、津波が来る、だから高台に逃げなさい、絶対戻ってはいけない』 ――この四点セットで、実にシンプルで分かりやすく教えられました。」(~p57)


火山・地震学者の鎌田浩毅氏は、
ビートたけしとの対談で、こう指摘しておりました。
最後は、そこから引用。


鎌田】 ややこしいことはいいから、『高いところへ逃げろ』とか、簡単な標語でいいんです。それを知っているかいないかで明暗が分かれます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幸福の王子。

2013-01-23 | 本棚並べ
読売新聞の、新春対談(元旦からの3回)は
曽野綾子さんと橋本五郎さんでした。
その初回でした。

曽野】 文化とか自分の個性は『能動』で作るべきでしょう。
『たとえ間違っていようとも、これをやるんだ』と。それが今は『受け身』。そのおかげで日本全体がどうしようもないほど幼稚になりました。


中ほどで

橋本】 曽野さんが訳されたオスカー・ワイルドの『幸福の王子』は衝撃でした。・・・平和の達成のためどれだけの犠牲を払う覚悟があるかが問われているということですね。


この箇所が気になっておりましたので、
曽野綾子訳「幸福の王子」(バジリコ)をひらく。
その「あとがき」に

「・・近頃の人々は読書をしなくなった。もし一人の人間が生涯でたった一冊しか本を読まなくなり、それも聖書のような或いはドストエフスキーのような重く長い作品は読めないということになったら、その時、そのたった一冊に選ぶのは、私なら『幸福の王子』だ。もっともほかにも数編そうした未練を残す作品はあるが、さし当たりこの作品から選ぶだろう。」

以下その理由が、端的に語られるのですが、それはご一読を(笑)。


そういえば、曽野綾子さんの本は、つまみ読み程度の私ですが、
ときどき、思い浮かぶ詩(短文)がありました。
平成12年の文芸春秋2月臨時増刊号「私たちが生きた20世紀」。
そこに作家・日本財団会長の肩書で曽野綾子さんが書いておりました。
題は「最も才能のない詩人による駄詩――『二十世紀』」。
そこから、ところどころ引用してみます。

  ・・・・・・・

 若い日の私はサラダを作るのに一時間、
 でも今は何でも素早く料理する。
  私は生きるこつを知ったから。
  心を込めない手抜きこそ長続きすることを。

  ・・・・・・・・

 朝日も読売も毎日も、
 社会主義を信奉するソ連と中国を批判する
 ことを許さず、
 私の原稿はしばしば書き換えを
 命じられ、没になった。

 戦後のマスコミは、
 言論の自由を守ると言ったが、
 差別語一つに恐れをなし、
 署名原稿も平気で差し止める。
  だから彼らはもはや自らの悪を書けない。
  だから成熟した善も書けない。

  ・・・・・・・・

 食べるに事欠かず、住むに家あり、
 年金もいささか、健康保険もどうやら、
 水もガスも出て当たり前、停電もなく、
 内戦もなく、武器も輸出せず、
 それでも、日本は悪い国だと言いふらす。
 (そういう人は早く日本国民をヤメロ)

 ・・・・・・・・


さてっと、朝日、毎日は別として、
読売新聞に、新春対談が載った曽野綾子さんなので、
この一月は、ときどき、思い出したら読み直してみます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

柴田トヨさん。

2013-01-21 | 詩歌
産経新聞1月21日は
一面コラム産経抄となりに、詩人・柴田トヨさんの死亡記事。
101歳だったとあります。

産経抄も、トヨさんへの追悼文となっておりました。
産経文化欄は、新川和江さんの追悼文「選者の私が投稿待ちかねていた」。
第2社会面は、「被災地・高齢者に勇気を与え続け 101歳逝く」。

詩集「くじけないで」をひらいて、
今の私が選ぶとしたら、この詩かなあ。

  九十六歳の私

柴田さん
なにを考えているの?
ヘルパーさんに
聞かれて
困ってしまいました

今の世の中
まちがっている
正さなければ
そう思って
いたからです

でも結句(けっく)溜息をついて
笑うだけでした


詩集「百歳」からは、2011年3月
読売新聞に掲載された詩を引用してみます。


 被災地のあなたに

最愛の人を失い
大切なものを流され
あなたの悲しみは
計り知れません

でも 生きていれば
きっと いい事はあります

お願いです
あなたの心だけは
流されないで

不幸の津波には
負けないで
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩歌のユーモア。

2013-01-20 | 詩歌
織田正吉著「日本のユーモア1 詩歌篇」(筑摩書房)を
まず、読む。一回だけじゃよんだことにならないでしょうが、
三回読み終れば、ワン。と吠えて、一回にもどったりして(笑)。


とても内容の豊かな一冊。
たとえば、
「連歌は一種のしりとりである。」(p127)なんて、
それだけで楽しくなってくるのでした。

万葉集にあらわれる滑稽歌人・長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)の紹介文に、題して「三題噺万葉版」(p20~)。
そこでは、夜に大勢の宴会の席で、狐の鳴き声が聞こえたので、一同が意吉麻呂に『器物、狐の声、川、橋にかけた歌をすぐに作れ』といわれて、関連のない雑多な題を、意味の通じる歌に仕立てて一首にするという技巧を分りやすく説明しております。
そして、そのあとにおもむろに

「意吉麻呂の歌は近世の落語に登場する『三題噺』の趣向と同じ性質のものなのである。」(p21)とつづけるのでした。そして、三笑亭可楽(初代)の噺と三遊亭円朝の『鰍沢(かじかざわ)』へと紹介が及ぶのでした。

さらに、この題のしめくくりはというと

「あらゆる種類の情緒を含む歌を詠みこなす上、さらに座興としてこのような御機嫌をとりむすぶ歌をふるまうところに、意吉麻呂の幇間のような職業的性格が見える。」

ここから、グッと襟元をつかまれて、本文へと引っ張りこまれるわけです(笑)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

気になる朝日。

2013-01-19 | 朝日新聞
佐藤優著「読書の技法」(東洋経済新報社)に
鳩山由紀夫氏のことが書かれておりました。

「鳩山氏は『宇宙人』と揶揄されることが多いが、第一級の知識人である。国際的に著名なロシアの数学者アンドレイ・マルコフの研究家でもある。・・鳩山氏は米国の名門スタンフォード大学で博士号をとって正真正銘の学者だ。その後、東京工業大学助手、専修大学経営学部助教授をつとめ、1986年に39歳で衆議院議員に当選した。人間の思考の原型は20歳前後に決まると思う。鳩山氏はこのころ、工学のために必要な数学を勉強していた。・・・」(p202)


ところで、今日の産経新聞一面コラム「産経抄」の最後の箇所を引用したかったのでした。

「・・・他人に『国賊』だの、『売国奴』などという汚いレッテルを貼るのは、好みでないし、貼る方の品性を疑わせる。鳩山由紀夫元首相も気の毒に、とよくよく中国での言動を追ってみると、国賊もはだしで逃げるひどさだった。尖閣諸島を『日中間の係争地』と日本の足を引っ張ったばかりか、でっち上げ展示物満載の『南京大虐殺記念館』を訪れて謝り続けた。共産党支配下にある北京の新聞が1面トップで扱ったのは言うまでもない。刑法81条は、『外国と通謀(共謀)して日本国に対し武力を行使させた者は、死刑に処する』とある。中国が尖閣に刃(やいば)を向けたときは即、自首するようお勧めしたい。」



うん。こういうコラムも、第一級の知識人に毒づく産経新聞という、一般的な見解になるのでしょうか?

朝日新聞の社説に焦点をあてて、ピントをしぼると、そこに鳩山由紀夫氏が立っている。そのように思えてきます。つぎにつづく人が、きっといるのだろうなあ。いったい誰なのだろう。それよりも、朝日新聞は、鳩山氏のことをどう書くのだろう。その取りあげ方が気になります。今度古新聞をもらってきたら読んでみます。気になる朝日新聞。

追記。
1月19日の朝日の古新聞をもらってきて、
鳩山氏の名前をさがしても、見あたらなかったです。
(広告が邪魔して、とても隅までは読む気になりません)
ひょっとして、どなたかご存じなら、
あったよと、お知らせください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雪ニモ夏ノ暑サニモ。

2013-01-18 | 短文紹介
宮沢賢治が亡くなったのは、
昭和8年9月21日。
その年の、3月3日午前2時31分。
三陸沿岸に大津波が襲いました。

「賢治は、このときも病床に伏していたが、津波襲来を知っていた。東京に住む大木實という詩人から震災見舞いの便りが来て、それへの返信ハガキが発見されている。
『この度はわざわざお見舞をありがたう存じます。被害は津波によるもの最多く海岸は実に悲惨です。私共の方野原は何ごともありません。何かにみんなで折角春を待ってゐる次第です。まづは取り急ぎお礼乍ら』
日付が『三月七日』とある。大津波から四日後のことである。
まさか実際に三陸沿岸のどこかに出かけてみたわけではないだろうが、『海岸は実に悲惨です』と書いているところを見ると、地元の新聞やラジオ放送などで情報を集め、三陸沿岸の被災地のことを気にかけていたようすが窺い知れる。
明治大津波から37年、冷害と旱魃に苦しみもがいてきた東北の、わけても三陸沿岸の村々は、息の根を止められるかのように、またしても壊滅的被害に見舞われた。
・・・・・・
賢治の死んだのは、それから半年後の9月21日。・・・・
死後、遺品の鞄のなかから黒い手帳が見つかり、『雨ニモマケズ』の詩が見出された。翌年の『岩手日報』で没後一周年の企画としてこの詩がはじめて活字になって発表されると、岩手の人びとはわがことのように詩の心をうけとめ、畑に鍬をいれながら、台所で家事をしながら、海岸でワカメや昆布を干しながら、あちこちで口ずさむようになった。」(p27~28)


以上は
山文彦著「大津波を生きる」(新潮社)より引用しました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

およしなさい。

2013-01-17 | 手紙
テレビで「ビブリア古書堂の事件手帖」の第一回目を見ました。
本は読まないです(笑)。
さてっと、印象に残ったのは、
古書店をたずねる大輔くんが、
本をひらくとめまいがするということでした。
うん。わかるなあ。
おそらく、学生時代をすごしたのでしょうから、
教科書は大丈夫なのでしょう。
すると、本は小説のことなのかなあ。

私は、高校の時に、
漱石の三部作を教科書のように読んでおりました。
それで、内容はすっかり忘れてしまったのですが、
代助という名前は、思い浮かびました。
うん。漱石を高校の時に
読んだのが、私の小説嫌いと関係があるのかもしれない(笑)。

いまは、坊っちゃんも吾輩は猫であるも
とてもたのしい。

漱石が小学生に手紙を書いた文が思い浮かびます。

「 あの『心』といふ小説のなかにある先生という人はもう死んでしまひました、名前はありますがあなたが覚えても役に立たない人です。あなたは小学の六年でよくあんなものをよみますね、あれは小供がよんでためになるものぢやありませんからおよしなさい、あなたは私の住所をだれに聞きましたか、 
    四月二十四日         夏目金之助 」
 
これは大正三年の手紙。ファンレターへの返事なのでした。
テレビの中では、大輔くんが小学校の低学年のころにお祖母さんの本棚から漱石全集の一冊をぬきとって、それをお祖母さんにみつかり、はげしく叱られる場面があるのでした。それが原因で、本をひらくとめまいがして本を読めなくなる原因となっているようなのでした。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

豪雨・雪の深夜。

2013-01-16 | 短文紹介
1月14日の成人の日は、東京も房総にも雪が降りました。

その雪のニュースを見ながら、地震・津波の日時を思いましたので、
今回は、それについてです。


関東大震災は、9月1日の午前11時58分。
東日本大震災は、3月11日の14時46分。

どちらも、昼間のできごとでした。
けれども、いつもそうとはかぎりません。

阪神淡路大震災は、 1月17日の午前5時46分です。
そして、和田町真浦の威徳院に記録碑がある元禄地震は、
元禄16年11月23日(1703年12月31日)の
午前2時ごろでした。

午前2時ごろの地震と津波は
どのようなものだったでしょうか?


三陸海岸大津波では、昭和8年の津波の作文がありました。
昭和8年3月3日午前2時30分頃、田老に大津波が襲いました。
その時のことを、尋常小学校6年の牧野アイさんが作文に残してくれています。
その前半の箇所を引用します。


「 ガタガタとゆれ出した。
そばに寝ていたお父さんが、
『地震だ、地震だ』
と、家の人達を皆起して、戸や障子を開けて外に出たが、又入って来ました。
けれどもおじいさんは、
『なあに、起きなくてもいい』
と言って、平気で寝て居ました。すると、だんだん地震も止んできました。
お父さんは、それから安心した様子で火をおこして、みんなをあててくれました。
ちょうど体があたたまったころに、お父さんが、
『なんだかおかしい。沖がなってきた、山ににげろ』
と言いますから、私は惣吉を起しました。
お母さんにせんちゃんをそわせて、静子と二人で表に出る時、おばあさんは火を消して
いましたし、お父さんは、『提灯を付けろ、付けろ』と、さわいでいました。
表へ出て見ますと、町の人々が何も言わないでむすむすと(無言で)山の方へ行くので、
『静子、あべ(行こう)』
といったら、
『やった(いやだ)、おらお父さんといく』
といって、家に入って行きました。
仕方がないから私はだまって家の前に立っていると、そこへ玉沢さんのとし子さんが
真青な顔をして来ましたので、二人手をとって山の方をさして逃げました。

木村さんのへいの所で人が沢山こんでいたので、落合さんの方へ行こうとしたけれども、
又もどって木村さんのところを人を押し押しして、ようやくのことで山に逃げ登りました。

山に登った時土のような物が口に入りましたが、私はそんなことは平気で、笹にとっつきながら赤沼山のお稲荷さんの所まで行くと、みんながもっと登って行くので、私達もはなれないように、ぎっしり手をとって人の後について山のてっぺんまで上って火をたいてあたりました。 ・・・・ 」


これは、吉村昭著「三陸海岸大津波」(文春文庫)で、簡単に読むことができます。
全文を読みたい方は、手にとってみてください。
さて、吉村氏は、アイさんの作文全文を引用したあとに、

「悲惨な内容をもつ作文である。ただ一人取り残された少女の悲しみがよくにじみ出ている秀れた作文でもある。この作文を書いた少女は、現在田老町第一小学校校長の夫人として同町に住んでいる。49歳とは思えぬ若々しい明るい顔をした方だった・・・家には、祖父、父、母、父方の叔母と、妹静子(小学校二年生)、弟惣吉(六歳)、妹せん(二歳)とアイさんの八人がいた。そのうちアイさんをのぞいて、七名の家族が死亡してしまったのである。
アイさんが、とし子さんという娘にうながされて逃げなかったら、他の家族といっしょに死んでいたことはまちがいない。
アイさんの家は、海岸から120メートルはなれた町の中に建っていた。・・・
津波によってすべてを失ったアイさんの生家は、破産した。そして孤児となったアイさんは、田老村の叔父の家に引きとられ、その後宮古町に一年、北海道の根室に五年と、親戚の家を転々とした。アイさんは成人し、19歳の年には再び田老にもどり翌年教員の荒谷功二氏と結婚した。ご主人の荒谷氏も、津波で両親、姉、兄を失った悲劇的な過去をもつ人であった。 
荒谷氏とアイさんの胸には、津波の恐しさが焼きついてはなれない。現在でも地震があると、荒谷氏夫婦は、顔色を変えて子供を背負い山へと逃げる。豪雨であろうと雪の深夜であろうとも、夫婦は山道を必死になって駆けのぼる。
『子供さんはいやがるでしょう?』
と私が言うと、
『いえ、それが普通のことになっていますから一緒に逃げます』
という答えがもどってきた。 ・・・・ 」



吉村昭氏のこの本「三陸海岸大津波」は、
1970年(昭和45年)に新書(題「海の壁」)として出版されました。
そして、1984年に文庫となります。ながらく絶版でしたが、
20年後の2004年になってあらたに文庫化されたのでした。
それから、7年後に東日本大震災がおこります。



まだ、
書きたいことはありました。
荒谷アイさんのその後のこと。
その娘さんの荒谷栄子さんのこと。
そして、文春文庫の解説を書いていた
高山文彦氏の新刊のこと。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新春対談。

2013-01-15 | 短文紹介
元旦の二紙に、曽野綾子さんがおりました。
産経新聞の正論欄「年頭にあたり」が
曽野綾子氏でした。
読売新聞の「新春対談」は
橋本五郎さんが曽野綾子さんに
「あるべき『日本人論』を聞いた」とはじまり、
4日まで上中下の3回にわけて掲載されておりました。

なんで、いまごろ(笑)。
と思うでしょうが、ふっと思い出した箇所があったのでした。
読売新聞1月4日の新春対談に

曽野】 「お友達内閣」っていけないんですか。私はそうは思わない
橋本】 当たり前じゃないですか。問題はいい友達か悪い友達かです。
曽野】 だから、首相がどんないいお友達をお持ちかって試されていますね。野田首相はあまりにもお友達の質が悪すぎた。
・ ・・・
橋本】 民主党が再建できるかどうかは「自分たちは支えられなかった、自分たちは支えられるに値するほどの人間じゃなかった」と反省するところから全てのスタートがある。国を統治するということを簡単に考えすぎていましたね。

 このあとの曽野さんの言葉が、
 あとになって思い浮かんだのでした(笑)。

曽野】 あの方たちは、ゴルフクラブの役員とかだったらきっといい方たちです。鳩山さん(元首相)なんで理想じゃありませんか。職業を誤っただけですよ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする