和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

運をひらく。

2014-12-31 | 短文紹介
新聞のエッセイは、
一読して感銘しても、
読み返さずにいると、すぐに
そのありかを忘れます。
しかも、その際の、
本になるまでの時間の長さ(笑)。


さてっと、読売新聞の磯田道史氏の
連載「古今をちこち」は、
12月24日(水曜日)で今年の最後の文。
そこでは、合戦戦闘マニュアルの
古文書をとりあげておりました。
いったい、どのような古文書なのか。

「加藤左馬は加藤左馬嘉明のことで
豊臣・徳川に仕えた勇将。
『賤ヶ岳の七本槍』の一人でもある。
最後は会津43万石余の大大名となった。」

「加藤の戦闘技術は当時の武士の垂涎の的
であったから『左馬助殿軍語』という
合戦戦闘マニュアルが彼の家臣・堀主水の
手で編まれた。・・・
その原物は世界で1冊だけ、大分県に存在する
だけでみたことがなかった。どうもその原物が
もう1冊、出て来たらしい。・・」

さてここからが、本題(笑)。

「手に入れた本をめくると、
合戦の開始から城攻め・築城・首実検まで
戦国の戦闘の留意点が網羅されている。
・・・心得のある武士は用心のため行軍の
終わった陣中でも鎧は容易に脱がぬものであった。
また物見(偵察)に出た時には、敵の正確な
人数を大将に報告するものかと思えば、
そうでもない。
『敵の人数は多く言わざるものなり。
敵の人数を五千とみたら二千余りか三千余という。
一万と見たら五千という。大将もその分別して
聞くもの也』とある。
これでは古文書に出てくる軍勢の人数が
不正確なはずだと、妙に納得した。
味方の士気を高めるため、物見役は人前では
敵の人数を半分ぐらいに報告する習慣があったのだ。
長年、歴史を研究しているがこんな記述は
はじめて見た。・・・」

うん。今年の記事から、連想するとすれば、
戦略として長期にわたって、日本国を
おとしめるにはどうすればよかったのか。
新聞が、知らず知らずのうちに
日本人の士気をおとしめるには、
いったい、どのような手をつかえるのか。
そもそも、日本人の士気をおとしめる発想が、
戦略的関係を基盤として成立していたはずなのでした。

さてっと、磯田氏の文の最後はというと
こんなエピソードを紹介しておりました。

「意外だったのは城における便所の作り方である。
注意点があるという。『城中の雪隠は指物で入っても
かまわぬほどに、上を高くするものなり』。
なるほど、戦闘中の武士は背中に旗指物(さしもの)
がある。便所の天井が高くないと、ひっかかってしまう。
こんなことを語る加藤は、若い頃、戦闘中に
便所の天井が低くておしっこに困った経験が
あったのかもしれない。」

ちなみに、磯田氏の文には、
毎回、村上豊氏の挿画が掲載されています。
この文を読んでから、その画を見ると。
思わず、う~ん。と唸らされる魅力。

ということで(笑)、一日をまたいでの、
来年は、しっかりと運がひらけますように。
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賀状。

2014-12-30 | 手紙
年賀状で昨日思い浮かんだのは、
そういえば、池波正太郎に
それについての短文があったなあ、
ということでした。
とりあえず、朝日文庫の
「新年の二つの別れ」
(池波正太郎エッセイシリーズ3)
をめくってみる。
そこに、「賀状」と題する
4頁ほどの文。
思い浮かんだのも何かの縁。
短いので読んでみる。

「正月が来ると、私はもう翌年の
年賀状を考え、これを注文してしまう。」
とはじまっておりました。

「さて・・・・・。
賀状などというものはムダなもの
だという意見もあって、それはそれでよい。
だが私などは年ごとに賀状には凝るほうである。
デザインを考えたり紙質をえらんだりする
ことがたのしく、また、そうした細かい
俗なことに気をつかうのが、とりも直さず、
私の書く時代小説の基盤になっているのだから、
私は俗に生き、世俗にひたりこんで生きている。」

「年に一度のあいさつのやりとりで、
年に一度も会わぬ知人が多いのだから、
いちいち自分で書き、その相手の名をみて
旧交をなつかしくおもいうかべるのは、
うれしいことである。
そうしたゆとりをもちながら賀状の宛名を
書きたいので、正月早々、来年のを注文しても
私には決しておそくはないのだ。
注文して出来上がってくるのが三月
はじめごろで、それから月に何枚か、
ゆっくりと書きたい。
今年はダメであったが、出来るなら
毛筆でやりたい。というのは、
習字をやりたいのだが、なかなかに
暇がなく、習字がわりといっては
何だけれども、筆と硯と用箋は
いつも机上におき、手紙をもらったら、
すぐにその場で、毛筆で返事を書いてしまう。
そうして、少しずつでも生来の悪筆を
なおしてゆきたいし、ふしぎなもので、
またいくらかはマシになってゆくものである。」

こうして、読んでいると
ゆったりした気分になってきて、
年末の後片付けは進まず(笑)。

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武将の手紙。

2014-12-29 | 手紙
気になるので、角川選書の
二木謙一著「戦国武将の手紙を読む」を
古本で注文。

熊谷書店(仙台市青葉区一番町)
500円+送料80円=580円
本文はきれい。

「まえがき」のはじまりを引用。

「歴史研究の材料として、最も史料的な
価値が高いものは古文書(こもんじょ)である。
古文書とは文字をもって自己の意思を特定の
他の人に示したもので、平たくいえば発行者と
受け取り人がある古文献をいう。・・・・・
このように記すと、いかにもむずかしく感じられ
るであろう。けれども、一般に手紙・書簡と
呼ばれているものも古文書であり、・・・
さまざまな名称の古文書も、総じていえば
手紙の1種なのである。」

もう少し引用を続けます。

「手紙を書くことは、現代では普通のこと
であるが、古代や中世の日本では非日常な
ことであった。それは文字を知り、また高価で
希少な紙を使用することができたのは、
ごく一部の階層に限られていたからである。
手紙による伝達が広く一般にまで普及したのは、
室町時代頃からであった。それ以前の奈良時代の
文書のほとんどは公的なものであり、平安・鎌倉
時代には、貴族や上流武士などの一部においては
私的な手紙を書くこともなされたが、全体的には
やはり公的文書が多かった。それが鎌倉末期に
なると、地方の豪族や百姓たちの間にも、
わずかな漢字を交えて平がなや片カナによる
文書を書くことがみられるようになり、さらに
室町時代には、日常の私的な意思の伝達を文書で
行うことが上下の社会にゆきわたり、
往来物(おうらいもの)と呼ばれる手紙の文案集
のようなものまでがさかんに読まれた。かくして
手紙は、時代の下降とともに、日本人の生活の
中に浸透していったのである。
古文書は、いずれも各時代の人や社会をうかがう
貴重な史料であるが、私が最も興味をひくのは、
やはり戦国武将の手紙である。・・・」

この本は実物の手紙の写真は、
おもいっきり省かれて(少しはあります)
人物絵の写真とともに、活字にした手紙を
解読・解説しているようです。

私事。とうとう今年は、
年賀葉書に一行のコメントも書かずに、
ほとんどを、出してしまいました(笑)。

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六十歳から本番。

2014-12-28 | 短文紹介
このブログ。
とにかく引用して載せておりますが、
すぐに、私は忘れます。
今回、このブログの検索されていた
箇所を読み直すと、
あれ、こんな箇所があったのだ(笑)。

「彷書月刊」2008年12月号の
特集「わたしの先生」に
黒岩比佐子さんが2頁の文を載せております。
そこにある言葉。

「・・そして、今年五十歳になった私に、
九十三歳のむの(たけじ)さんが贈って
くださった言葉は
『人生は六十歳から本番』。
もう五十歳か、と落ち込みかけていたときに、
まだこれから十年は勉強期間であり、
六十歳でようやく本当の力を発揮できる、
人生はそこからが本番だ、
と言われてかなり気持ちが楽になった。」


ありがたい。
よく、書き残してくださいました。
来年の私の標語は、これにします。
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手紙と備忘録。

2014-12-27 | 前書・後書。
「漢字文化を考える」(大修館書店)の
山本七平氏の講演「漢字とかな」を読んだら、
戦国時代の手紙を読んでみたくなる。
どの本を買ったらよいのかわからず。
とりあえず、安そうな古本を買うことに。

デラシネ書房(熊本県八代市上片町)

岡本良一著「戦国武将25人の手紙」(朝日新聞社)
500円+送料350円=850円
函入りでした。

漢字文が多いのですが、
上杉謙信のなど、まったくと
いっていいほど仮名です。
それでも、くずし字なので、
私に読めないことは同じ(笑)。
活字になった本文と
読み・口釈とを見るのみ。

くずし字だと、漢字も仮名も
私にはどちらもどちら、という感じ。

そうそうに最後をひらくと、
「あとがきにかえて」は
「手紙のおもしろさ」と題しております。
そのはじめのほうに

「・・歴史学では、手紙をもっとも
信頼のできる第一級の史料として
尊重するのである。事実、手紙に
接していると、何百年も前の人物が
髣髴とし、その人物とじかに話し合って
いるような興奮や喜びを覚えることが
しばしばある。・・」

うん。これらも、「読み・口釈」が
あって納得するわけです(笑)。

今日届いた
ブックマン社「家族よ、ボケと闘うな!」
の「あとがき」は近藤誠氏でした。
「父の備忘録に隠されていたもの」と題しております。

そこから、すこし引用。

「平成10年の最初の備忘録は、わずか見開き
1ページで終わります。『前のことがわからない。
やっぱり日記も必要なようだ』という言葉を最後に。
そして、平成12年4月から備忘録は再開されます。
なぜなら、自治会長を2年務めた後、神社総代を
引き受けてしまったからです。この時、
私も母も能天気な父にあきれてしまったのですが、
実は、苛酷な闘いであることを覚悟して挑んで
いたのです。・・・
認知症の症状が緩やかに進み、母が父を叱責する
回数が多くなりましたが、よかった(?)ことは、
最期まで、父は母にこき使われていたことです。
私が『満足死』を語るとき、『指先一本まで使い
きり、生ききることが大切』と話せるのも、
こんなふたりを見ていたからだと思うのです。
父は、母の役に立ち、地域の役に立つことで、
父らしく生ききったと思います。家族は、
本人が認知症だとわかった時、認知症に闘いを
挑み始めます。しかし、おそらく、本人は
もっと前から闘っているのです。父の備忘録は、
私にそれを教えてくれました。・・・」

この数ページまえには市販のノートブックに
ボールペンで書き記した備忘録の写真が4頁ほど
載せてあります。

一方は、戦国武将の手紙。
他方は、ボケと闘う備忘録。

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一日中テレビ。

2014-12-26 | テレビ
年末のテレビは見るものもなく。
録画を再生して見ております(笑)。
ナンシー関をとりあげたドラマも、
録画したまま見ていなかったので、
見れてよかった。

そういえば、新潮45の1月号。
そこに小田嶋隆の文がありました。
はじまりをすこし引用。

「2002年から2008年までの6年間、
私は、今はもうなくなってしまった
新聞社系の週刊誌で、テレビ批評の
コラムを連載していた。で、そのコラム
のための半ば職業的な義務感もあって、
一日中テレビをつけた部屋で暮していた。
無論、習慣としてテレビのスイッチをオンに
しているというだけの話で、私自身が、
四六時中画面に見入っていたわけではない。
が、それでも、オリジナルの思考の何分の一か
は、確実にテレビに持って行かれている。
そこのところが、あの機械の恐ろしいところだ。
テレビがついている部屋にいる人間は、
実質的にはろくにテレビを見ていないにも
かかわらず、テレビを見る以外のことが
何もできなくなる。つまり、私は、丸6年がとこ、
テレビ受像機の周辺機器みたいな存在になりさが
っていたわけだ。それが、テレビを消し去ってみると、
状況は一変する。テレビを消すと、明らかに、
自分の時間が増えるのだ。
一日は時間であふれている。・・・・ともかく、
時間はたっぷりできた。で、現在、その時間は、
ほぼまるごとネット依存に振り分けられている。」

これが小田嶋さんの文のはじまり。
私は、これだけで満腹(笑)。
なにやら、時間があふれだし、
続きを、読む気がしなくなる。
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調子にのると。

2014-12-25 | 短文紹介
トランスビュー発行の、鷲尾賢也著
「編集とはどのような仕事なのか」を
今年読めてよかった(笑)。

ということで、そこから少し引用。
その姿が浮かんでくるような個所。

「長期連載ではなんといっても、
安岡章太郎『僕の昭和史』であろう。・・
カンヅメになっていただくこともあった。・・
調子にのると、安岡さんはおかしな格好になる。
相撲の蹲踞(そんきょ)のように腰を浮かせて
書くのである。そうなったらしめたもので脱稿も
間近い。催促をかねた電話なのだが、ついつい
長島野球のことなど長ばなしすることが多かった。
一時間ぐらい平気でやっていた。・・・」


そうそう。向井敏氏も登場しておりました。
そこも引用しておきます。

「本といえば谷沢永一さんの書庫もすごかった。
戦前の雑誌など、見たこともないものが膨大に
並べられていた。結局、谷沢さんとは一冊も
仕事をしなかった。その代わりというのもおかしな
はなしだが、谷沢さんと学生時代からの友人で
ある向井敏さんとは長く仕事をさせていただいた。
おそらく谷沢さんのご紹介だったと思う。電通に
在籍していたか辞めた直後かはっきりしないが、
すぐさまPR誌『本』の連載エッセイをお願いした。
お目にかかったとたん、本読みのプロであることは
よく分かった。時代小説からミステリー、海外小説
まで、古典から歴史までその読む幅がひろく、
よい・悪いという嗅覚は非常に鋭かった。・・・
ただ困ったのは、声がとても小さかったことだ。
電話は苦労した。また筆圧がよわいため、
鉛筆での原稿がFAXでは読みとれないという
ことがままあった。原稿はあまり早くなかった。
というより遅かった。そういう人に書き下ろしで
新書を書いてもらったのだから、あきれられて
当然である。よくパーティで向井さんから、
あの頃の苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)は
すごかったよと、なつかしくいわれるのは
なんとも面はゆかった。その向井さんも突然、
鬼籍に入ってしまわれた。」

うん。こういう本は
通読すると、つい見過ごしやすい個所が満杯。
時にパラリとひらく方が、味読できそうな
気がしてきます。ということで本棚へ。
そのまま、埃をかぶらずに、
また、来年もひらきますように(笑)。
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茅ヶ崎駅のホームで。

2014-12-24 | 詩歌
雑誌WILL2月号での
「石井英夫の今月の一冊」は
門田隆将著「慟哭の海峡」(角川書店)を
とりあげておりました。その書評の最後は、

「『福島原発・吉田調書』など著者の
ノンフィクション作品は数多いが、これは
おそらく渾身の一作だろう。」

と締め括っておりました。
そうかなあと思いながらも、
改めて、あらたな視点で、
その「慟哭の海峡」と
筒井清著「西條八十」(中公叢書)とを
今回は、むすんでみたくなります。

西條八十は、関東大震災を経験しております。

「大正11年2月、八十はかつて住んだことのある
柏木町に転居した。そして、大正12年9月1日を
迎える。関東大震災の日である。・・・・
大混乱の中容易に前へは進めず結局、夜を上野の
山で過ごすこととなった。深夜、疲労と不安と
飢えで、人々は化石のように押しだまってしゃがみ、
横たわっていた。しゃがんでいた八十の隣の少年が
ポケットからハーモニカをとり出し吹き出そうと
した。八十は一瞬、周囲の人々が怒り出すのでは
ないかと案じ、止めようとしたが少年は吹きはじめた。
『それは誰も知る平凡なメロディーであった。
だが吹きかたはなかなか巧者であった。と、次いで
起った現象。――これが意外だった。ハーモニカの
メロディーが晩夏の夜の風にはこばれて美しく流れ
出すと、群集はわたしの危惧したように怒らなかった。
おとなしく、ジッとそれに耳を澄ませている如くであった。』
人々は、ささやき出し、あくびをし、手足をのばし、
ある者は立ち上がって塵を払ったり歩き廻ったりした。
『山の群集はこの一管のハーモニカの音によって、
慰められ、心をやわらげられ、くつろぎ、
絶望の裡(なか)に一点の希望を与えられた。
少年の気まぐれな吹奏は、ほんの短い時間で終り、
山はもとの闇黒の寂寞に還ったが、松の根かたに
腕拱いていたわたしは、このことから、
ある深い啓示を与えられた。』」(「西條八十」p102~103)

「慟哭の海峡」の「はじめに」は
二つの歌詞を引用しております。
ひとつは、『手のひらを太陽に』
二つ目は、『アンパンマン』の歌詞。
どちらも、作詞は漫画家やなせたかし。

その第一章「撃沈」は、太平洋戦争中の
バシー海峡での漂流が語られていきます。

「誰も知らないなら、救助はどこからも来ない。
ずっとのちになって、この『ヒ七一船団』では
玉津丸のほかにも多くが撃沈され、一昼夜の
うちに実に『一万人以上が戦死』するという、
バシー海峡最大の悲劇だったことが明らかになる。
しかし、それを知るのは戦後になってからのことだ。」
(p26~27)

「それから何度、三角波が襲ってきただろうか。
目の前で泣いていた後輩も、特別大きな三角波が
去ったあと、忽然と姿を消した。そればかりではない。
筏の上から、さまざまな指示を与えていた小宮山中尉
の姿も、いつの間にかいなくなっていた。
ちっぽけな人間をあざ笑うかのように、波は次々と
人を呑み込んでいった。・・・・
(そうだ。歌だ。なにか歌を口ずさもう)
中嶋は、挫けそうになる心をなんとかしようと
歌を歌うことを思いうちた。その時、中嶋の
口から出てきたのは、映画『愛染かつら』の
主題歌『旅の夜風』である。・・・・
西條八十作詞、万城目正作曲の『旅の夜風』は、
国民的なヒット曲となった。中嶋の口から
思わず出たこの歌は、たちまち筏の上を
歌声一色に染めた。
『やめろ!女々しい歌はやめろ!』
しかし、大合唱の中で、将校の一人が
そう叫んだ。中嶋には見慣れない少尉である。
・ ・・・」(~p29)

またもどります。
筒井清忠著「西條八十」にある
「旅の夜風」についての印象的な箇所。

「昭和14年5月8日『朝日新聞』夕刊に、
「『愛染かつら』の如きメロディーの甘い抒情的
なものが一般に好まれてゐる』とあるように、
メロドラマの主題歌でもあり、『甘い抒情的な
もの』を好むとされた女性にこの歌は好まれた
ようである。・・・・
自由主義者で当時、権力からの弾圧と戦っていた
河合栄治郎がこの歌を好んで歌っていたことは
著名だが、戦後高度成長期の日本の推進者として
六年にわたって首相をつとめた池田勇人もこの歌
を愛好していたことで有名であった。」(p228~229)

「また、芸能記者で、太陽族映画の命名者でもある
石坂昌三は次のような回想を残している。
『遠縁の人に召集令状が来てね、(神奈川県の)
茅ヶ崎駅のホームで、彼の壮途を送るのに、
〈 天に代わりて不義を討つ・・ 〉とか
〈 敵は幾万ありとても・・・ 〉とかを
見送りの人たちが合唱したら、その人は
『そんなのいいから「旅の夜風」やってくれ』
って叫んだんだそうですよ。みんなが
〈 花も嵐も踏み越えて・・・ 〉って
唱い出したら、隣の見送りの輪も、
そのまた隣もいっせいにその歌に代わっ
ちゃって、ホーム全体が
〈 行くが男の生きる道・・・ 〉って
歌になっちゃったんだって。・・・・・
もしかしたらあの話を聞いたことが・・・」
(p230)


ということで、最後は
漫画家やなせたかし。
PHP文庫「やなせたかし明日をひらく言葉」に、
東日本大震災のことが語られております。

「悪夢のような大震災の後、
ラジオから流れた
『アンパンマンのマーチ』を聞いて
子どもたちが笑顔で大コーラス。
そのニュースを聞いて、
ぼくは本当にうれしかった。」(p90)

その次の文を引用。

「東北が天災に襲われ、
信じられないような大きな被害を受けたとき、
すべての言葉はむなしい。はじめは、そう思った。
・・・ところが大震災から三日後、
あるラジオ番組に
『アンパンマンのマーチを流してください』
というリクエストがあり、さっそく
放送したところ、子どもたちがラジオに
合わせて大コーラスを始めた。
大人たちも涙をこぼして感動した。
それから、ラジオ局は連日、
この歌を流したという。
このニュースを聞いて・・・
すぐに被災地に激励ポスターを送り、
チャリティコンサートも始めた。
震災で大きなショックを受けて
まったく笑わなくなってしまった
子どもが、アンパンマンのポスターを
見て笑い出し、それを見たお母さんが
泣き出したというニュースも届いた。
・・・・」(p91)


ということで、
関東大震災。
太平洋戦争。
東日本大震災。
と、歌の補助線がひけました。

そうすると、
門田隆将さんは、東日本の被災地で取材する間に、
このアンパンマンのマーチが流れる
雰囲気を肌で感じとっていたのだ。
などと、あらぬことを思ったりします。
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教育勅語

2014-12-23 | 地域
樺島忠夫著「文章作法」(日本経済新聞社)を
なにげなくひらくと、「まえがき」は、このように
はじまっておりました。

「三多ということばがある。
文章上達のためには、多く読み、多く考え、
多く書くことが必要だというのである。
それはそうかもしれない。しかしそれでは
いつになったら文章が書けるようになるのか
大変心細い。文才のない人間は、三多を実行した
としても上達速度が小さいはずだから、
定年近くなってやっとすらすらと文章が書ける
ようになるかもしれない。
それではおそすぎる。・・・・」

うん。「文才のない人間」の
範疇に属する者としては、
この箇所がたのしかった(笑)。

遊び暮して、いよいよ、
「それではおそすぎる」年代に
足を踏み込むこととなった私には、
「やっとすらすらと文章が
書けるようになるかもしれない。」
という言葉に、希望の灯火が、
ともされたような気がしてきます(笑)。

それはそうと、
今年読んだ本で再読をしなきゃと思う本に、
三浦勝也著「近代日本語と文語文」(勉誠出版)が
ありました。その序で教育勅語に触れられております。

「現代の日本人の中でも八十代以上の人なら、
小学校(あるいは国民学校)の修身の時間に、
難解なこの文章を頭から丸呑みに憶えさせられた
ことを記憶しているはずです。式典の日には、
講堂に集められた全校児童の前で校長先生が
恭しく『教育勅語』を奉読します。・・・
その間子どもたちは頭を下げてこれを聴いて
いなければなりません。二月十一日の紀元節
(現在の建国記念の日)などは寒い時期です。
最後に『御名御璽』で奉読が終わると、
講堂のあちこちから子どもたちのハナをすする
音が聞えたというのは、かつて明治生まれの
老婦人から聞いた思い出話です。・・」

これは、序のなかの「教育勅語と唱歌」という
小見出しがある文のはじまりです。

そういえば、昭和2年生まれの方の
短歌に、こんな箇所がありました。

忘れ得ぬ教育勅語を誦んずる
歌友に和して胸のつまり来
         吉田美代


うん。私はその教育勅語も未読。
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投票日前の対談。

2014-12-22 | 短文紹介
WILL2月号が届く。
「蒟蒻問答」を読む。
その対談の始まりと、終りとを引用。
まず始まりはこうでした。

堤】 この対談の〆切は投票日の前日で、
雑誌の発表は投票から五日後だ。いまから
選挙の予想を語るのは、なかなか難しいねぇ。


さて、あとは、この対談の終りを引用。

久保】 ・・ところで、堤さんと経済について
話していると、共産党と話している気分になるな(笑)。
志位和夫が同じようなことを言っていましたよ。

堤】 ほう、共産党もいいこと言うことが
あるんだなあ(笑)。

編集部】 現時点では、共産党は議席を
増やすと見られていますね。たしかに
他の政党に比べればちゃんと勉強しているし、
普段から地道な政治活動も続けている。

久保】 政党助成金を貰っていないのは
共産党だけだからな。僕は心情的には右翼
だから、赤旗に書いてあることはほとんど
賛成しないが、〈紺屋高尾の心意気〉みたいな
痩せ我慢はいいねぇ。・・・

堤】 他の政党は政治ごっこだけど、
共産党は他に比べれば、まだしも本気度が
窺える。・・・かつて、司馬遼太郎さんは
俺にこう言ったことがある。
『日本には自民党と共産党の二つがあれば
ええわなあ。現実政党と批判政党の二つや。
あとはいらんわ』
そのとおりだと思うね。政治ごっこに
現(うつつ)を抜かすふやけた政党はいらない。
自民党に真正面から挑む政党こそ、
一方に必要と言える。
自共対立時代こそ望ましい。
共産党以外の野党はいらない!

久保】 この号が出たら、
堤さんに赤旗からインタビューの
申し込みがあったりして(笑)。



こりゃなんだ。
選挙速報の解説より、
分かりやすい(笑)。
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比例復活菅直人。

2014-12-21 | 短文紹介
最近、産経新聞の菅直人。

12月20日の
「花田紀凱の週刊誌ウォッチング」に

「『新潮』に〈亡国元総理が晩節を汚し続ける〉
と断じられた菅直人元総理。選挙中は
〈6人になんなんとするSPを従えるも、
足を止める通勤客は皆無〉、それでも比例復活。
〈「自身のヘマを隠すため、原発を止めること
が正しいと主張する責任転嫁はやめるべき」
(奈良林直・北海道大学大学院教授)〉」

注:『新潮』とあるのは
  「週刊新潮」(12月25日総選挙増大号)。


SPといえば、
佐々淳行著「私を通りすぎた政治家たち」
(文藝春秋)の「加藤紘一における人間の研究」
(p106~)が悲しすぎて必見。

この機会に、前日の
産経新聞12月19日の2面の記事も引用。
「菅政権〈負の遺産〉2年で崩壊」と題して

「再生エネルギー活用の起爆剤とするため、
電力会社による『全量買い取り』を大前提として
始まった再生可能エネルギー買い取り制度は、
わずか2年でその根幹がもろくも崩れた。
失敗のもとをたぐれば、制度の詳細が作られた
平成23年当時の政治状況に行き着く。
東日本大震災後の数々の失政で与野党から
退陣を迫られていた菅直人首相は、同制度の
根拠となる特別措置法の成立を自らの首相辞任の
3条件の一つに挙げた。『菅の顔をみたくなければ、
早く法案を通した方がいい』とまでうそぶき、
自民、公明と修正法案合意に持ち込んだ。
制度は24年7月に導入されたが、民主党政権の
〈あしき置き土産〉として、同年12月に発足した
自民党政権に引き継がれた。
この前後の制度づくりには、今も数々の矛盾が
指摘されている。太陽光の買い取り価格は
国際的にみてもかなり高額に設定されており、
しかも、事業者と電力会社の契約手続きの
タイミングによって価格に差がある。早く国に
事業者として認定されたほうが得なため、
事業認定の〈枠取り〉のような行為も横行。
認可を受けながら、発電設備を建設しない業者
が続出し、制度の根幹を揺るがせた。
経産省が18日決めた制度見直しでは、
こうした矛盾を解消するため、発電事業者からの
送電を無制限・無補償で中断できる制度を柱に
すえた。・・・・
再生エネ買い取り制度は、国民の負担を前提として
いる。買い取り費用は電力料金に上乗せする形で
徴収されている。経産省の試算では、すでに
設備認定された電力をすべて受け入れたと
仮定すると、毎月の電気代が約700円あがる。
実は再生エネ先進国ドイツでも国民負担の
増加が問題化。これまで何度も制度の見直しを
繰り返し、現在は固定価格買い取り制度そのもの
をやめる方向で検討している。政府は、国民が
負担増をどこまで受け入れられるかをにらみながら、
制度の抜本見直しを進めることになる。
(塩原永久)」
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句読点濁点なし。

2014-12-20 | 手紙
外山滋比古著「国語は好きですか」
(大修館書店・2014年)に

「毛筆で書かれる手紙に句読点を
つけるのは不作法である。失礼になる。」
(p95)

とあります。
さてっと、同じ大修館書店から
「漢字文化を考える」(1991年)が
出ておりました。第一部のはじまりは
「漢字とかな」と題する山本七平氏の
講演でした。そこを引用。

「幕末でも仮名ばかりの手紙というのは
今でも残っております。特に女性に宛てた
手紙は仮名にするのが当たり前だったらしくて、
これがよく女手と言われる理由ですが、決して
女性だけが仮名を使って男性が漢文を使っていた
わけではないのです。その証拠に、信長も秀吉も
全部仮名だけです。・・・
幕末、明治になるすれすれの手紙ですと、パリに
いる渋沢栄一が千代夫人に送った手紙が今残って
おりますけれども、こういうのも全部仮名であり
ます。信長と同じように句読点濁点なしですから、
今になると相当読みづらい。
しかし、普通の手紙ですとだんだん漢字交りに
なってまいります。」(p32~33)

そして、こんな箇所も

「『候』がある場合はそこが句読点みたいな形です」
(p30)
うん。この講演がプクプクと思い浮かびました(笑)。
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年賀用本並べ。

2014-12-19 | 地域
年賀はがきは、本の背10数冊を
写真にとってすませます。
ちょうど、元旦の新聞の
出版社の広告みたいに並べる本。

今回のは

柳田国男編「日本人」(毎日新聞社)
小島孝夫編「クジラと日本人の物語」(東京書籍)
平川祐弘著「日本人に生まれて、まあよかった」
(新潮新書)
鎌田道隆著「お伊勢参り」(中公新書)
桜井哲夫著「一遍と時宗の謎」(平凡社新書)
「方丈記」(岩波ワイド版文庫)
磯田道史著「天災から日本史を読みなおす」
(中公新書)
外山滋比古著「国語は好きですか」(大修館書店)
門田隆将著「『吉田調書』を読み解く」(PHP)
平川祐弘著「日本語で生きる幸福」(河出書房新社)
三浦勝也著「近代日本語と文語文」(勉誠出版)
ドナルド・キーン「わたしの日本語修行」(白水社)

あと数冊。
なにより、自分がきちんと
読み直せますようにと自戒をこめて(笑)。
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プクプク。

2014-12-18 | 他生の縁
年の暮れで、ついつい
本を買っております。
そのなかに、
谷川俊太郎(正津勉編)「悼む詩」(東洋出版)。
そういえば、

(或はネリリし、キルルし、ハララしているか)

というフレーズが
詩「二十億光年の孤独」にあったなあ。
その次の行は

しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする
それはまったくたしかなことだ

そのあと、行あけして
有名なあの言葉

 万有引力とは
 ひき合う孤独の力である



うん。この二行の「たしかさ」を
確認したくって、「悼む詩」を注文。
はたして、谷川俊太郎氏の
「ひき合う孤独の力」は、
どんなだったのだろう。
うん。読むのがこわい。

「ネリリ・キルル・ハララ」
なんて、ブログの題名にいいなあ。
ということを、以前思ったりしました。


今日はプクプク。

読んだあとに、積んでおくと、
一度、記憶の水底へと沈んでゆく本たち。
そして、本の隙間からプクプクと、
気泡が、水面に浮き上がってくる。
そのパッと消えるまでのプクプク(笑)。

今回のプクプクは
「漢字文化を考える」(大修館書店)の
山本七平氏の講演のフレーズでした。

ということで、講演なら読みやすい。
プクプクの箇所を、さがすたのしみ。
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女子の名は。

2014-12-17 | 短文紹介
外山滋比古氏は、お茶の水女子大学名誉教授。

ということで、
こんな箇所が読めました(笑)。


「女子の名は、男子の名よりも流行があるらしい。
男子名は、昔から漢字で貫かれているが、
女子の名は多彩である。
お茶の水女子大学は、日本でもっとも古い
女子の学校のひとつである。女子の名を
知るには、その同窓会名簿が便利である。
明治12年(1879)卒業のクラスは、
『ちせ』『くり』『ふき』『まつ』『なみ』
など、すべて平仮名である。
明治42年(1909)になると、『マスエ』
『カツヲ』『スミ』『テイ』『ミエ』など、
全員が片仮名になっている。
平仮名はなぜ消えたのかわからない。
昭和4年(1929)になると、
平仮名四、片仮名三、漢字二十一、と
圧倒的に漢字が多くなっている。
さらに、平成10年(1998)のあるクラス
の卒業生を見ると、漢字三十二、
平仮名二、漢字が絶対的である。
最近の名前ではまた新しいスタイルが
あらわれた。『天飛(そらと)』
『涼咲(みずき)』『麻有(まあ)』
『来桜(くら)』『陽希(やんひ)』
『心結(ことい)』『涼芽(りめ)』
『輝音(はいど)』。・・・」
(p138~139)

以上は
外山滋比古著「聴覚思考」(中央公論新社)
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