和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

点を打って。

2010-06-30 | 短文紹介
筑摩書房の現代漫画5「水木しげる集」が届く。
最後に鶴見俊輔が「紙芝居と貸本の世界から」と題して書いておりました。
あと、篠弘詩集「百科全書派」(砂子屋書房)も届く。

さてっと、松田哲夫著「編集狂時代」(本の雑誌社)で、
ちょっと、あとでまた浮かんできた箇所がありましたので引用。

「水木さんは、今の管理社会の害毒を痛烈に批判し、南の島の人たちのノンビリした暮らしに憧れ、妖怪たちとの共棲を、驚くほど純粋に夢見ている。ところが、一方では作品を発表し続ける装置としてのプロダクション運営も、つつがなくこなしているのだ。何が不思議といって、この二つが矛盾なく共存していることほど不思議なことはない。
水木さんのところへやってくるアシスタント志望の若者は、水木作品に惹かれてくるだけあって、一風変わった人が多いという。水木さんも手を焼くこともあるようだが、癖の強い人たちを仕事のシステムの中にうまく組み込んでしまう水木さんの経営手腕には感服させられる。ある時、水木さんにこの秘密を聞いたら、『点を打たすことです』と言う。何のことかわからず、『というと?』と聞き返した。水木さんの答えを要約するとこういうことだった。背景の絵のなかの石とか山とか雲などは点描で描いていく。この点描というものは絵のうまいへたにかかわらず、誰にでもできることだ。だから、新参のアシスタントにやらせることが多い。根気よく点を打っていけば、いつか奥行きのある絵ができてくる。アシスタントは『マンガを描くことは、砂を噛むようにつらいことだ』と噛みしめ噛みしめ、点を打てというわけだ。他の人間が口にしたら、教訓臭くてはなもちならないような台詞だが、水木さんの口から発せられると、妙に納得させられてしまうから、これまた不思議だ。
そういえば、ぼくが取締役になった時、『おめでとう』と言ってくれた水木さんに、『会社経営のコツは何ですか?』と、テレ隠しのつもりで聞いたら、彼は真顔で『部下を働き虫にすること。それから売れない本はつくらんことです』とズバリ言い切った。ここまで露骨に真理を言う人は少ないだろうと、またまた感心してしまった。」(p68~69)

「根気よく点を打っていけば」。
うん、そうすれば、このブログも続くかもしれませんね。
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つまみ読書。

2010-06-29 | 短文紹介
買っても読まずに積読で、眠らせている本が多いことに気づく頃、それじゃ、つまみ食い式にところどころ読み齧っても、それはそれでよいじゃないか、と思うようになりました。
まあ、そういう本の一冊が、末延芳晴著「寺田寅彦 バイオリンを弾く物理学者」(平凡社)。こういうのを摘み食いする醍醐味というのも、あります。
それを、あとで、通読しようとは思いながら、すっかり忘れておりました。
そんなおりに、毎日新聞2010年6月27日(日曜日)の「今週の本棚」。その「この人・この3冊」を見たら、末延芳晴選で「寺田寅彦」の3冊が取り上げられておりました。

その3冊目に、何と夏目漱石の「吾輩は猫である」を持って来ている、その取り合わせ。面白く、楽しいなあ。おもいもかけない取り合わせに、梅雨時のジメジメを忘れる気分。

ということで、まず、末延芳晴氏が選ぶ「寺田寅彦」の3冊を並べてみましょう。

1、 寺田寅彦全集第一巻 随筆一 創作・回想
2、 寺田寅彦随筆集第三巻 (岩波文庫)
3、 吾輩は猫である   


その注目の「吾輩は猫である」を末延氏は、どう書いていたか。

「夏目漱石は、『吾輩は猫である』の最終章で、寅彦がモデルとされる水島寒月に、地方の高等学校の学生だったころ、バイオリンを買ったときの苦労談を語らせている。漱石の筆は嫌味なほど面白おかしく誇張されている。俳句や小説の話から人としての生き方まで、寅彦は圧倒的に漱石の影響を受けていた。そんな寅彦が、漱石に対して優越性を示すことができたのは、バイオリンを弾くことと西洋音楽に対する知識であり、寅彦は機会を見ては、バイオリンや西洋音楽の話を漱石に聞かせ、音楽会にも誘った。そうしたこともあって漱石は、多少の羨望を交えて、バイオリンに取り憑かれた寅彦を戯画化して描いたのではないだろうか。」

う~ん。とりあえず末延芳晴著「寺田寅彦 バイオリンを弾く物理学者」を取り出してきたのですが、さて、ここまでかなあ(笑)。まずは、直接に寺田寅彦を読む方がよい気がしてきます。それとも「吾輩は猫である」の方を読み返す方が、読み甲斐がありそうな、気がしてきたりします。
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「ガロ」という雑誌。

2010-06-28 | 短文紹介
NHKの朝のドラマ「ゲゲゲの女房」は、今週から、雑誌「ガロ」の発行の場面となってきました。そこで、松田哲夫著「編集狂時代」(本の雑誌社)の、その関連箇所へ。
ちなみに松田哲夫氏は1947年10月、東京生まれ。

「1965年秋、ぼくは高校三年生だった。ある日の昼休み、階段教室で、捨てられていた一冊のマンガ雑誌にであった。・・雑誌といえば、いろいろなものが掲載されているのが普通だ。ところが、この『ガロ』ときたら、本文が全百六十ページ、そのうちの百三ページに白土三平さんの『カムイ伝』の連載が載っている。・・・・・・・白土さん、水木さんの作品の強烈な印象もさることながら、『ガロ』という雑誌は、他の雑誌と全然違う味わいをもっていた。はっきり言えば、この雑誌にはデザイン的なセンスがまったく感じられなかった。この時代の雑誌は、今のようにエディトリアル・デザインを、それほど重視してはいなかったが、それにしても、この『ガロ』は当時の雑誌が最低限守っていた文法のようなものすら、まったく無視していた。
マンガ以外のページの文字組みも、縦組みあり、横組みあり、全文ゴチック組みありと千変万化。やたらに行間がきついところがあるかと思えば、意図不明の余白もある。当然、誤植も多い。裏のページがうっすら重なったり、かすれているところもあるように、印刷はお世辞にも綺麗とは言えない。編集者か発行人が、そういうことを、はなから無視してかかっているとしか思えないほど無頓着なものだった。
しかし、この『掲載されている作品が面白ければ、それでいいじゃないか』とでも言わんばかりの徹底した飾りけのなさは、かえって痛快だった。獲れたての飛びっきりいいネタを、特別の調理も盛りつけもせず、そのまま『さあ、食え!』とさしだされたような気持ちよさがあった。翌月からは、発売日が待ち遠しく、貪るように読んだ。・・・」(p48~51)

 また、こんな箇所もあります。

「最初に『ガロ』を読んだ時に感じたように、長井さんという人は『作品(内容)こそがすべて』という、きわめてシンプルな編集方針の持ち主だった。そういえば、『ガロ』創刊まもない頃、白土さんが新人マンガ家に呼びかけている。そこに投稿規定があって、『一、面白いこと』『二、内容第一(技術は実験・経験をとおしておのずと進歩するおのです)』と書いてある。長井さんの新人漫画家に対する姿勢は一貫してこの規定にそっていた。
原稿をもって、一人の新人が『ガロ』編集部を訪れたとする。長井さんは、まず原稿をていねいに読んで、内容(ストーリーなど)が面白いかどうかを判断する。そして、『マンガ描くの好きかい?』と聞く。彼によれば『もってきた絵のうまいへたは気にしない。好きで描いてさえいれば、絵というものはうまくなるものだから』という。・・・したがって、『ガロ』に載る新人作品には、うまくない絵、きたない絵、未熟な絵などが多い。しかし、そこから、他では見られない才能が育っていくことも事実だ。こうして長井さん流の、これまた極めてシンプルで確固とした新人発掘術と、その後の書き手に対する暖かい励まし方には、いつも感服させられた。」(p54~55)

このあとに長井勝一さんにふれ、つづいて「妖怪・水木しげるさん」へとつながってゆくのでした。ちなみに松田哲夫さんが水木さんを訪ねた時は、水木さんがすでに「週刊少年マガジン」の「墓場鬼太郎」の連載もはじまって、多忙をきわめていた頃なのだそうです。
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書き続けよう。

2010-06-27 | 他生の縁
昨日。注文してあった「古書の森逍遥」が届きました。
ということで、手元に黒岩比佐子氏の2冊があります。

黒岩比佐子著「編集者国木田独歩の時代」(角川選書)
黒岩比佐子著「古書の森 逍遥」(工作社)

少し前に「編集者国木田独歩の時代」が届き、
少しずつ読み始めております。句読点の間隔が短い、なめらかな文で、読む方のいずまいを正されるような気分になって、読み進める心地よさ。といっても、まだ第二章までしか読んでいないのでした(笑)。さて、第三章のはじまりは

「『三号雑誌』という言葉がある。これは、新雑誌にとって、第三号まで発行できるかどうかが一つの大きなハードルになるという意味だが、独歩が編集長を務める『東洋画報』は、無事にそのハードルをクリアすることができた。」(p84)

とあります。「古書の森 逍遥」をパラパラめくっていると、読みやすい編集で、本をひらけば、スラスラと文をつかまえられそうな気がしてくるのが何とも楽しい一冊。そこに、「暮しの手帖」が登場しておりました。202と206と。その206(p351)は「続けていればいいこともある」と題しております。

「『暮しの手帖』の第五号。・・・最後のあとがきも泣かせる。」
として、その「あとがき」を引用しておりました。その箇所を孫引き。

「やつと、ここまで来ました。初めて、この雑誌を出してから、やつと一年たちました。雑誌のいのちから言つて、一年は短いものでしようけれど、私たちには、苦しい長い一年でございました。(中略)第一号は赤字でした。第二号も赤字でした。今だから申せるのですが、そのために昨年の暮は、正直に申して生れて初めて、私たち、お餅をつくことも出来ませんでした。どうぞ、つぶれないで下さい、というお手紙を、あんなに毎日いただくのでなかつたら、どんなに私たちが意地を張つても、やはり第三号は出せなかつたことでしよう。(中略)
 毎日の明け暮れは、決して夜空に花火を上げるような、いつとき花花しく、はかなく消えてゆくものではなく、あるかなきかに見えて、消えることのない、つつましいけれど、分秒の狂いなく燃えてゆくものとすれば、そのつつましさの中から生れる原稿を、ありがたく、とうといものに思います。(後略)」

そのあとに、黒岩比佐子さんのコメント。

「続けていればいいこともある ―― という気持ちで、私もできるだけ毎日書き続けようと思う。(2006年5月26日)」
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水木漫画と「ガロ」。

2010-06-26 | 他生の縁
注文してあった、ちくま文庫・長井勝一著「『ガロ』編集長」が届く。
表紙カバーの絵は、つげ義春が描きそうな家の二階窓から長井勝一らしい人物が顔を出しているという場面。解説は南伸坊で「長井勝一の人間宣言」。


さてっと、NHKの朝の連続ドラマは、来週からいよいよ『ガロ』が発売になる場面が映し出されるようです(そう土曜日の番組最後の予告でやっておりました)。

それじゃあ、てんで、このちくま文庫の、それらしき箇所を探してみました。
ありました。ありました。そのころの長井さんから見た、水木しげる氏の様子が書かれている箇所を引用。


「『ガロ』を始めるときに、調布のお宅にうかがって、わたしは、水木さんに短篇を描いてもらえないだろうかと頼んだ。そうしたら、ぜひ描いてみたいけれど、どう描いていいかわからないというのである。それと、短篇に限らず、いまの自分は、何を描いたらいいのか、何が描きたいのか、よくわからないというのである。貸本マンガがダメになって来ていて、経済的にも苦しく、水木さんも、相当に追いつめられた気分だったのだろう。」

 そりゃそうです、「河童の三平」「鬼太郎夜話」が、かせぎにはならないとしたら、次に何を描けばいいというのだろうと、思うわけです。長井勝一さんは続けます。

「そこでわたしは、次に行ったときに、古典落語の本を二冊もって行った。こういうものでも参考にしたら、何かヒントになることがあるかもしれない、と思ったのである。・・・いずれにせよ、1964年の『ガロ』の創刊から一、二年の間に描かれた水木さんの作品は、いま見ても大変すぐれたものだった。とくに『ネコ忍』だとか、『ああ無情』だとか、『剣豪とぼたもち』というのは、わたしが大好きな作品である。
 だが、このころの水木さんは、たんに水木しげるの名前で発表した作品だけで『ガロ』に登場していたわけではない。たとえば、1965年の4月号を見ていただくと、その活躍ぶりがよくわかる。ここでは、まず水木しげる名で、『剣豪とぼたもち』がある。ついで、水木さんの本名の武良茂の名で、『イソップ式漫画講座』として、『どうなってんの』と『これはたまらん』の二つの掌篇を描いている。また同じ武良茂名で『劇画小史』を、これは文章で書いている。水木さんが、飄逸でユーモラスな調子の文章の書き手であることは、御存知の方もおられるだろう。『劇画小史』にもそれが生きているが、ここではもう一つ、東新一郎という名前で、『ロータリー』という欄に、社会戯評を書いているのだ。まさしく、一人四役で大車輪の活躍をしているのだ。・・・」(~p201)

この次に、こんな箇所もありました。

「当時は、貸本マンガがどんどんダメになっていく時期で、貸本からきた作家たちは、描く場所がなくて苦労していた。経済的にも大変だった。水木さんも、同じだったのである。だから、『ガロ』という場ができたので、どんどん描いてくれた。決していわゆる多作ではないが、水木さんとしては、次々と新しい作品を描くという、珍しいような状態だったのだ。『ガロ』では、安い原稿料しか払えなかったが、それでも何かの役に立ったのではあろう。また、文章のほうは、本業のマンガよりも楽だったようで、頼むと、ほとんどその場でサラサラと書いてくれた。」(p202)

そして「イソップ式漫画講座」の「これはたまらん」が、マンガそのままに引用してありました。
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分相応の楽しみ。

2010-06-25 | 短文紹介
谷沢永一著「執筆論」(東洋経済新報社)を読んでいたときに、
あれっと、思った箇所があります。

「一度は欝におちこみながらやっとの思いで書きあげた『百言百語』は、今後の私に前途の行程を拓く道標(みちしるべ)となり、ありがたくも十数年にわたって継続的に版を重ねる次第となった。このとき思い立った新しい様式である読解(コメント)つき名言摘出(ピックアップ)は、以後の私にとってはいつも念頭に置く主要な仕事の柱となってゆく。」

この百言百語は、私も一読すばらしかったという印象が残っております。

そのあとに谷沢さんは次の新書をつくります

「遅筆の貴方に書いてくれるよう頼んだところで、何時になることやらわからないだろうから、このたびは一気に語り下ろすべし、という方針である。そこで名句の表を前に置いて睨みながら、四時間ほど休みなく語ってできたのが『古今東西の珠玉のことば』と副題する『名言の智恵 人生の智恵』(平成六年)である。」

私は、この『名言の智恵 人生の智恵』を手にしてガッカリした覚えがあります。
そして、ガッカリが尾をひいて、次の本には手を出さなかったのでした。
それについて谷沢永一氏は、こう書かれているのでした。


「読者の要望に応えるべしと独り合点の気分になり、今度は、私自身が慎重に新たなお目見えの句を選び、全編を書き下ろして同じ判型と装幀で『古典の智恵 生き方の智恵』(平成10年)を刊行したところ、初版どまりでまったく動きを見せず今日に至っている。たった四時間ほど語ったのみの本が10年以上も続けて求められ、逆に十分に用意して時間をかけ全力をふるって執筆した本が読者からあっさり見捨てられた。」(p174)

うん。私にとっては、前回のガッカリが影響して、出版社も判型も装幀者も同じ本に、はなから見る気もしないでおりました。ということで、「執筆論」を読んでから古本で『古典の智恵 人生の智恵』を購入したというわけです。

購入してから、それを丁寧に読んだわけではないのですが、いちおう本棚には置いてありました。今日ひさしぶりにぱっと開いてみると、こんな箇所。
それは恩田木工(もく)の『日暮硯』からの引用をしてあります。

そこには、
『さて又、家業油断なく出精(しゅっせい)すべし。・・・・
惣じて、人は分相応の楽しみなければ、又精も出し難し。これに依つて、楽しみもすべし、精も出すべし。』

この引用のあとに、谷沢氏の説明がつづきます。
その説明の最後には、こうありました。

「  人の真似をしてはいけない。
本当に自分は楽しいのか、
とみずからに問うべきである、
そこからようやく
自分に独自の楽しみが見出せるであろう。 」


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何をうしなふ。

2010-06-24 | 詩歌
佐佐木幸綱著「うた歳彩」(小学館)は1991年11月刊行。
現代歌人を交えた、歌を、歌人を単位としてまとめた一冊。
さまざまな歌人が登場しております。
私に興味をひいたのは、現在新聞の歌壇の選者としてお名前を見かける人が
ところどころに散見していること。

そんなひとりに毎日歌壇の選者・篠弘氏の名前がありました。
だいたい1人の歌人に4頁がわりふられて歌と、その歌人とを紹介しておりました。
篠弘(しのひろし)氏は昭和26年東京生まれ。窪田章一郎に師事とあります。
「卒業後、小学館の書籍編集部に勤務」と、本文にありました。
その編集部の会議のようすが歌われており、その歌がひろわれています。
ということで、私に新鮮な驚きだったので、紹介。

立項に過ぎしひと日の夜に入りて急(せ)かれつつなす会議愉しも

人厭ふ心きざして席にゐる時のはざまにいくたりも来る

進行を大掴みしてみづからの身を洗ふがに固まる意志ぞ

照明の黄のやはらなる夜半にして声ごゑは満つ編集室に

さらに
「歌集『百科全書派』には、会議をうたった歌が多い。現代の企業はどこでも会議が多いが、チーム・ワークが重要なポイントとなる百科事典編集では、とくに会議が多いのであろう。」(p340)と佐佐木氏は指摘して、会議の歌をつぎに引用しておりました。


条件を両目つぶりて述べしあと取りとめなき言葉をさがす

われに問ふ言葉はせめぐ上に立つものの立場を虚しといふや

少しづつ何をうしなふ加速してもの決まりゆく午後の会議に

いだされし企画悉く否(いな)みたる会議の終りに悲しみは来つ

言ひ過ぎし会議の後を降りきたる地下の茶房に一人となりぬ

こう引用したあとに、佐佐木幸綱氏はこう書いております

「近代・現代短歌史はたとえば若山牧水とか石川啄木のように、会社に入っても決して長つづきしない、組織になじまないタイプの人たちによって作られてきた。サラリーマンの歌もあるにはあるが、不遇な、しいたげられた下っぱサラリーマンの歌が主流であった。篠弘のように、組織を押し進めて行く側の、しかも上層部の人の歌は、これまでの短歌史にはほとんどなかった。篠弘の歌はそういう点で新しい。」

うん。会議を歌ったというのは、私もはじめて出会いました。
読めてよかった。
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「編集者の仕事」

2010-06-23 | 短文紹介
柴田光滋著「編集者の仕事」(新潮新書)を読みました。
この本の副題は「編集の魂は細部に宿る」とあります。

私は、この新書の細部が気になりました(笑)。
では、その細部をひろってゆきます。


「単行本にする原稿を読みながら編集者はまず何を考えるのか。・・・タイトルと判型をどうするかが頭のなかを駆け巡ります。なぜなら、この両者が本作りの方向性を決定する・・・小説のタイトルはそれをも含めて作品であって、著者の聖域に近い。・・・しかし、文学者以外の著者の場合、通常、タイトルは編集者が考える、いや捻り出すものです。これが実にむずかしい。・・・毎回苦心惨憺(さんたん)、下手をすると考えるほどに負のスパイラルに陥りかねません。最後のぎりぎりまで決まらないこともしばしばですし、同僚や編集長のアドヴァイスに助けられることもあります。」(p37~38)

 では、つづけていきます。
本文は、いたって豆知識的な内容を語っております。
それは、この新書の内容が、大学での授業から出発しているということと、関係しているようです。「書籍を中心としたジャーナリスト論」として、日本大学文理学部と東京大学大学院情報学環での講座を非常勤講師として受け持った記録としてもあるのでした。
その豆知識をひとつぐらいは、

「書籍の本文をあえて横組にするのは、どちらかと言えば読む本というより使う本、例えば、算用数字や欧文が頻出する辞書や技術書やガイド・ブックなどのケースです。」(p51)

さて、細部にもどりましょう。

「いかに優れた著者であっても、完璧な原稿というものはありません。短い原稿ならともかく、一冊の本となる原稿ともなれば、誤記も思い違いもどこかにかならずある。・・また、引用となると、いかなる著者であれ、これがまた実に間違いが生じやすい。」(p76)

柴田氏の編集者としての仕事と視点という細部を見てみましょう。

「個人全集というものは、長年にわたって書籍の編集者をやっていても、無縁の人もいるし、経験するとしてもほんの数回です。『平野謙全集』を最初として、以後、私は『河上徹太郎著作集』全7巻・・『吉田健一集成』、『辻邦生全集』全20巻に担当者やデスクや関係者として携わりました」(p176)


各単行本について語られた箇所があります。

 谷沢永一著「回想 開高健」をとりあげた箇所で

「こう書くのはかなりはばかられるのですが、しかるべき作家が亡くなった時、担当編集者は不思議なほど張り切るものです。葬儀の手伝いに駆けつけのは当然ですが、仕事はそれだけではありません。未発表の作品は遺されていないか。追悼文はどなたにお願いするか。著作権継承者はどなたになるのか。あれこれ考えたり確認したりしなければならないわけです。
開高健さんがなくなったのは1989年。当時は『新潮』の編集部にいましたから、担当者ではなかったものの、すぐ追悼特集の対談を考えました。候補のお一人は生涯の友人である谷沢永一さんで、これはもう絶対。もうお一人は作品を高く評価していた劇作家にして評論家の山崎正和さん。
対談は数かぎりなくやってきましたが、これほどに実現してよかったと思う対談は他にありません。内容がしっかりとあり、追悼にもかかわらずユーモアも十分にある対談でした。ユーモアがお二人の深い悲しみの裏返しの表現であることはもちろんです。これこそ大人の、あるいはプロの文学者の対応というものでしょう。・・・・『新潮』1991年12月号の一挙掲載で実現し、単行本化にあたってデスクを務めたのが『回想 開高健』です。」(p188~189)

うん。私の本棚にも『新潮』1991年12月号があります。
あれ、第一章を読んだら、そこから先へ読み進めなくなった思い出があります。まるで、第一章だけを何度も繰り返し味わっていたのでした。
( 残念、「新潮」の対談の方は読んだのかどうかわすれました。
この対談は単行本化されているのだろうかなあ。)


「新潮社の編集者としては新書編集部で最後を迎えることになるのですが、その二年ほど前から最後の本はどなたに書いていただこうかと考えていました。もし可能なら、若い頃から何度も仕事をさせていただいた山崎正和さん以外にはありません。知の何たるかを一番に学んできた著者だったからです。」(p199)

  こうして『文明としての教育」(新潮新書)ができるのでした。

「編集に関して記すべきは『聞き書き』、つまり話を聞いてまとめるという作業です。・・長時間にわたって話を聞き、それをまとめる作業はかなりの努力と工夫が要るものの、こんな面白い仕事もそうはなく、他人にまかせる手はないでしょう。・・・・ほんの少しだけ思い出を記せば、終戦直後の満州で受けた教育の話は、こんな凡庸な言葉を使いたくはないのですが、衝撃的で、これだけでもお願いした甲斐があったと感激したものです。・・・・・編集者にとって、聞き書きとはその世界の第一人者の方から長時間にわたって独占的に話が聞けるチャンス。よく私は『月給をもらった上に最高の授業が受けられる』などと冗談を飛ばすのですが、これもまた編集者冥利に尽きる仕事です。」


こういう細部が読めてよかったという新書一冊。
つぎは、山崎正和著「文明としての教育」を読みたくなりました。
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最後に一言す。

2010-06-22 | 短文紹介
堺利彦著「文章速達法」(講談社学術文庫)で、堺利彦氏は最後にこう締めくくっておりました。

「文章は誰にでも書ける。心の真実を率直に大胆に表すことを勉(つと)めさえすれば、文章は必ず速やかに上達する。文章速達の秘訣はその外(ほか)にない。しかし文章は一生の事業である。いつまで経(た)っても卒業する時は決してない。」

なぜ、この箇所を思い浮かべたかといいますと、
渡部昇一著「学ぶためのヒント」(祥伝社黄金文庫)の、
この箇所が目についてからでした。

「大学の『卒業』と日本でいうところを、英語ではcommencement(開始)と言います。卒業式をcommencement ceremonyということはだいぶ知られてきていますが、これも学校というものに対する発想に関わることであります。日本では『業を卒(お)える』、いわゆる『卒業』でありました。ところが英米などでは、学校というのは要するに社会に入るためであって、社会に入ってから本番が始まるんだという感じがあるのでcommencementといったわけであります。」(p138)


そういえば、と原田種成著「漢文のすすめ」(新潮選書)の言葉が思い浮かんできました。
そこへと、補助線を引いてみたくなります。


「私は試験というものは、その範囲の中で一番大切なところ、一生涯覚えておく価値のあるところを出題するべきであると考え、また、実際、私の出題はそれに徹していた。それが教育であると信じている。校長のやり方は、教育効果ということを全く考えないものであった。・・・・」(p143)

もう一度、堺利彦著「文章速達法」へともどることにします。

そこの最後が、第十章「最後の一言(いちげん)」となっており、
その章のはじまりは、こうでした。


「最後に一言す。文章は誰にでも書けるものだから誰でも書くがいい。しかし本当に上手に書こうと思うなら、一生涯稽古する覚悟が必要である。著者は四十六歳の今日、なお毎日作文の稽古をしている。著者はもちろん、多少文章をよく書き得(う)るという自信を持っている。しかしそれでいて、俺はとても駄目だと思って、筆を投じて嘆息する場合がしばしばある。
従来、著者が何か著述をするときには、いつでも必ず一度や二度、中途で気をくじいて失望するのが常である。何故かというに、初めは大変な気込(きこ)みで執筆に掛かるが、さていよいよやりだしてみると、骨は折れる、暇は掛かる、中々思うように出来てくれない。そこでこれは大変なことをやり出したものだ。俺にはとてもこんなものは出来ないのだ。こんなものに着手したのが間違いだ、という気が起ってくる。それでムシャクシャしてやめてしまったものも幾つかある・・・・現にこの本にしても、一度は中途でよほど持て余した。こんなばかなものを著述として世に出すのは恥だと思った。しかし出来上がった上半の部分を読み返してみると、それほどのこともない。やっとまた気を取り直して勉強して書き終った。・・・・読者諸君の中にはあるいは怒る人があるかも知れぬ。そんな恥になるほどのものを受け付けられてたまるものかとおっしゃるかも知れぬ。しかし一方からいえば、この恥と思ったり、失望したりするところが、すなわち著者の文章に忠実なるゆえんで・・・・そしてかような心持を率直に告白することは、すなわちまた諸君のために作文の心得の一つであろうと思う。」

これ以下が、最初に引用した箇所へとつながるのでした。
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祭る人。

2010-06-21 | 古典
今年の神社神輿(みこし)は、7月17日(土曜日)に担ぎます。
よい天気で、大勢あつまりますように。
さてっと、当日は、午前中に神輿の組み立て。
そして、神主により、お祓いし、神輿に御玉を入れ、午後より担ぎます。
ということで、当日の午前中は神社の庭で神輿の組み立てをしている間、
神社では神主による儀式(?)が行なわれております。
今年は神輿の副役員なので、その神社の中へはいることになっております。

ところで、渡部昇一著「論語活学」(到知出版社)を読んだら、

「祭(まつ)れば在(いま)すが如く、
 神を祭れば神在すが如し。
子曰く、吾祭に与らざれば、祭らざるが如し。」(p263)

これについて渡部氏は、説明しております。

「祭りの礼について述べた章である。この祭りというのは、先祖や神々を祭ることを指していっている。先祖の祭りをするときは、そこにご先祖様がいらしゃるような気持ちで行い、神様を祭るときには、そこに神様がいるような形式で祭る。そして孔子は『そういう祭りに自分で実際に参加しないと、祭ったような気がしない』という。・・・」

そして渡部氏は語っております。

「子供の頃に神道の本を読んだとき、『この世の中は明るい部屋みたいなもので、神様は暗い外にいる。だから、こちら側からは神様の姿は全く見えないけれど、神様からこちら側はすべて見えている。これが神道である』という趣旨のことが書かれていた。そう考えると、神を祭るにしても、祭る人の生きざま自体が祈りみたいなものになる。だから、祭るときには、神様がそこにいるような気持ちにならなければ本当のお祭りとはいえない。これが先祖や神々を祭るときの基本的な態度ではないかと思うのである。」(p264~265)


う~ん。そうか、と読みながら思ったわけです。
そういえば、地区の神社は子安神社というのですが、
その近郷では、昔から、お伊勢参りをしていたのだそうです。
もう何年か前に、若い人にも、お伊勢参りをしてほしいと、
長老方が発案して、40~50代で人数をつのって、バスでお伊勢参りにいったことがありました。はじめて入ったお伊勢さまは、参拝者が大勢でも、静まりかえっている感じをうけ、落ち着いた雰囲気をたたえておりました。

ということで、思い浮かべるのは、西行の歌

 何事のおはしますをばしらねどもかたじけなさの涙こぼれて


日本名句辞典の解説を読むと

「伊勢の大神宮の御祭の日に詠んだ歌とある。西行は特に晩年伊勢に心ひかれて、そこに一時止住(しじゅう)したこともある位である。そうした折のことでもあろうか。・・・・」


ということで、神輿と論語と西行と。
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古くさいぞ私は。

2010-06-21 | 短文紹介
昨日の夜。新書の新刊2冊届く。
水川隆夫著「夏目漱石と戦争」(平凡社新書)
氏の「漱石と落語」に感銘しておりましたので、
読むのが楽しみなのですが、これは丁寧に読みたい一冊
(なんていっていると、読まずに積読となるかも)。

もう一冊の新書は、柴田光滋著「編集者の仕事」(新潮新書)
こちらは、軽そうな一冊。
そうそう。柴田氏の新書のはじめに
こんなのがありました。

「評論家の坪内祐三『古くさいぞ私は』から。
本とコンピュータの最大の違いは『積ん読できるかいなかにある』とした上で、次のように言葉を続けています。

『実に目を通していなくても、その本を持っているという事実だけで豊かな気持にさせてくれる。そういうモノとしての近代的書物を誕生させてくれたことだけで、私はグーテンベルクに感謝している。』

仮に読んでいなくても、本にはモノとしての存在感がある。そのことを指摘して間然するところがありません。」(p29)


そういえば、朝日新聞2010年6月1日文化欄に坪内祐三氏が書いておりました。ついでに、その後半を引用しておきましょう。


「『一九七二』という著作で私は、一つのジャンルに絞らずに、1972年の丸ごとを描こうと考えた。その際に一番役にあったのは、当時の新聞縮刷版、それから月刊誌や週刊誌のバックナンバーだった。・・・1972年は例えば連合赤軍事件や元日本陸軍兵士横井庄一のグアム島での発見、そして札幌オリンピックが開かれた年として記憶される・・日活ロマンポルノや『四畳半襖の下張』が摘発を受けたのもこの年だが、その調べの途中で出会った『セックス・ドキュメント はだかの日本列島』という週刊誌の連載記事がどれほど役に立ったことだろう。
ネット革命が進行して行けば、一つのテーマ史、例えば1968年の政治史などの精度は増すだろう。しかしそれは東西南北の雑情報と引き換えの精度だ。
ipadで得られる情報や資料(それを私は現前情報と呼ぼう)は新しく、しかも膨大なものだ。だがそれは、例えばひと月単位でどのようにまとまって行くのだろう。さらに一年二年、十年と進んで行ったなら。
もしこの世から新聞や雑誌が消えてしまたならば、実は私たちは歴史を失うことになる。十年後二十年後にそのことに気づいても遅いだろう。」

ついつい、長い引用となりました。
そうそう、坪内さんの、その文のはじまりは

「ipadが日本でも発売された。・・・新聞や雑誌にとっていよいよ脅威だと言われている。・・・」
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至れり尽くせり。

2010-06-20 | 古典
竹内政明著「名文どろぼう」(文春新書)のことを、
雑誌の書評で石井英夫氏がとりあげていた言葉に、

 「著者は、この本を『書いて楽しかった。日本語に勝る娯楽はないと思っている』と言い切っている。言語が娯楽だとはすごい。乞食は三日やったらやめられないというが、言葉どろぼうをやったら、それに勝る快感はないらしい。その醍醐味がわかれば・・・」
    (「WILL」2010年7月号・「石井英夫の今月の一冊」)

しばらくたってからでした。論語にあるところの

「子日(しのたまわ)く、之(これ)を知る者は、之を好む者に如(し)かず。之を好む者は、之を楽しむ者に如かず」を思い浮かべたのでした。

それでは、と渡部昇一著「論語活学」(到知出版社)を取り寄せたわけです。
そこに、この孔子の言葉をどう解説しているかを、ちらりと覗いてみました。
渡部氏はそこを解説した最後にこう語っているのでした。

「文科系で学問を楽しむか楽しまないかの一つの目安は、自腹を切って本をかっているかどうかである。本というのは決して安いものではないから、それを自腹で買うような人であれば、定年退職したからといって投げ出すことはないはずである。学ぼうとすればどこまでも学ぶことができる。しかし学ぶことを『楽しむ』境地にまでいっていないと、停年で学ぶことまで停止してしまう次第になる。本当の学問はゴールはないはずなのにである。そしてまた、これは仕事についても適用できる教えであるだろう。」(p42)

さてっと、渡部氏のこの本のプロローグはというと、
「私が文学として最初に『論語』を意識したのは、『キング』という講談社の雑誌の折り込み付録であったが、正式に『論語』を学んだのは旧制中学校二年の漢文の授業であった。」

「日本の資本主義の父といわれる渋沢栄一は若いときから『論語』を読み続け、八十を過ぎた晩年に至るまで一度も裏切られた気持ちになったことがないといっている。・・自分には『論語』があれば十分で、他には宗教も何もいらないとまでいっているのである。」(p18)

そして第一章「学問は人生を照らす」の題ページの裏に、こう書いておりました。

「孔子は『論語』の中で学ぶことの大切さ、その楽しみを繰り返し語っている。さらに、どのように学べば実を結ぶのかということを明快に教えている。学ぶ者はただ、これらの章句を実践すればいいのである。まさに至れり尽くせり。世の中には数多くの学習法を紹介した本があるが、『学びて而(しこう)して時の之を習う。亦説(またよろこ)ばしからずや』(学而第一)から始まる『論語』は、その最良のテキストといっていいだろう。」

う~ん。論語は、このようにして読めばよいのだろうなあ、と
いまだ通して読んだことのない私は、思うわけで、
とりあえず、渡部昇一著「論語活学」を楽しんでみましょう(笑)。
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少年マガジン。

2010-06-19 | テレビ
渡部昇一による野間清治・講談社の創始者の伝記を読んだら、
講談社に興味をもちました。そこでさっそく思い浮かんだのが、
週刊少年マンガ雑誌のことでした。

「昭和34年(1959年)三月と四月、講談社から【週刊少年マガジン】が、小学館から【週刊少年サンデー】が相ついで創刊された。日本初の少年週刊誌の発売、少年マンガの世界に週刊誌時代が到来したのである。」(足立倫行著「妖怪と歩く」文芸春秋p36・以下頁数のみは、この本から)

思い浮かぶのは、文春文庫の武居俊樹著「赤塚不二夫のことを書いたのだ!!」。
こちらの武居氏は小学館の少年サンデー編集部に配属された漫画編集者。

さてっと、水木しげると講談社、というのが、興味ある今日のテーマ。
今現在のNHK朝のドラマ「ゲゲゲの女房」は水木しげるが貸本漫画を描きながら、身辺に貧乏神がしばしば登場しております。まだ、講談社との縁がつながらない状況です。

「いかんせん市場が狭隘だった。貸本業界ではいくら大ヒットでも一万部以下の売れ行き・・・三洋社を経営していた頃を振り返り、青林堂会長の長井勝一が書いている。
【当時、一冊128ページぐらいの単行本を二千部刷って、それが全部、貸本屋さんに売れても、2万円ぐらいの儲けしかあがらなかった】(「ガロ」編集長・ちくま文庫)
貸本マンガ家が1ヵ月に一冊描いて手にする原稿料も二万円から三万円。貸本出版社が零細なら貸本マンガ家も食べるのがやっと、陽の当たる大手出版社の雑誌の世界に比べると、貸本マンガの世界はやはりアンダーグラウンドと言わざるを得なかったのである。」(p44)

「『昭和39年の時点で、ライバル誌の【サンデー】は毎週約50万部、ウチ(少年マガジン)は32万部から33万部程度でした』当時の少年マガジンの副編集長でマンガ班チーフだった内田勝は言う。『それが41年にサンデーを追い抜き、42年1月8日号で百万部達成、44年には150万部を突破しました。・・・』昭和40年(1965年)というのは、水木しげるの名前が初めて大手出版社のマンガ誌【少年マガジン】に載った年である。」(p38)

「昭和39年(1964年)七月に創刊された【ガロ】は、三洋社をやめて青林堂を起した長井が乾坤一擲勝負を賭けた一般誌であり、長期連載された白土の『カムイ伝』がその後一時代を画すことになるのだが、創刊から一年ほどはさっぱり売れなかった。当然、白土とともに初期の【ガロ】の両輪を務めていた水木の懐具合も芳しくなかった。
水木は後に、【少年マガジン】編集者が訪れた時のことをさまざまなメディアで『暑い日、福の神がドアを叩いた』と表現している。・・・・『編集方針が変りましたので、自由に32ページやってください』と言った。僕はひきうけた。作品が掲載されたのは、昭和40年8月の『別冊少年マガジン』だった。『テレビくん』という幻想マンガだった。これを機会に、雑誌の注文がどんどん来はじめるようになった。・・水木は、『テレビくん』がその年の講談社マンガ部門賞を受賞し出世作となった・・・」(p45~46)


という、講談社と水木しげるとの関係のはじまりでした。
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吾輩。

2010-06-18 | 短文紹介
古本屋に注文してあった
内田百門(門の中は月)著「贋作吾輩は猫である」(旺文社文庫)が届きました。
とりあえず、さっそく最後にかかれている平山三郎氏の雑記を読んでみました。

そこに、昭和22年の対談が引用してあります。
内田氏と辰野隆氏。あとは司会進行の河盛好蔵氏。

【司会】 若いときいちばん愛読されたものは・・・。
【内田】 それは「猫」だ。
【辰野】 ぼくは「猫」はいまでも読んでおもしろいね。
【内田】 そうだ。

「さて、ヒャッケン先生の贋作「猫」は漱石の真作「猫」十一章の終ったところから始まる。」
    こんな指摘も拾い上げておりました。

「森銑三氏は『明治東京逸聞史』中「吾輩」という項で漱石の「猫」についてこう書いていられる。
『書名に用いられた「吾輩」の語は、政談演説に大勢に呼びかける演説家の匂いが多分にする。それだけに明治も三十年台の末頃には、その語も下火になりかけていたろうと思われるが、その「吾輩」を名なしの猫が使って、自ら高く標榜したところに、いうべからざるおかしみがある。』

   ちなみに、私が気になったのは、この箇所。

「自刻自刷の版画家・風船画伯。・・・・
風船画伯が版画の谷中安規であることは云うまでもない。『例の通り、地獄から火を取りに来た様な顔をして』とか、『蝋燭が消えかかつた様な声』とか、まったくタニナカ安規を彷彿と思い出させる。安規画伯は二十一年秋に急逝したが、百鬼園先生のなかでいきいきと喋っている。『贋作・猫』のなかでもっとも生彩をはなっているのは五沙彌入道とその風船画伯の会話・問答ではないかとわたしは思うのだ。」

   うん、これは読むのが楽しみになってきました。
   
ところで、平川祐弘氏の本が、本棚にありました。
「日本をいかに説明するか 文化の三点測量」(葦書房)。
そこを何気なく、ぱらぱらめくると、夏目漱石の「吾輩は猫である」についての文が載っている。そのはじまりは

「漱石で好きなのは『坊つちやん』『吾輩は猫である』小品・手紙の類だ。・・・実人生をよく生きた人間・・を描けなかったという気がしてならない。『猫』で実業家非難の気焔をあげているうちは御愛嬌だが、後年の小説中に実の人がきちんと描けていないのは国民作家として物足りない。年配の読者が漱石より鴎外を好む所以もそこにある。『猫』ははじめ円本に収められた三章まで読んだ。小学四年に読み出した時も、中学生の時も、高校生の時も、大学生の時も、読むたびに新発見があって愉快だった。漱石は頭の回転が速くて自在だから、文章が躍動していて楽しい。・・・」(p338~341)

「実は私は漱石の夫婦愛が出ている作品は『猫』が一番ではないかと思う。主人が悪寒(おかん)がして妻君を歌舞伎座へ連れて行き損ねた話は妻君を笑い物にしているようで、どうして愛情がある。夏目鏡子述『漱石の思ひ出』も『猫』執筆時を語るあたりは、家で起きたある事ない事を作中に書きこんでいった夫を伝えて語りやはり情愛がある。それに作中の『吾輩』の三毛子に対する愛情にもいかにも人情がこもっている。・・」


 とりあえず、犬もあるけば『猫』にあたるような引用となりました。
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回覧文作成。

2010-06-17 | Weblog
昨日の夜7時から、地域での会議。
各人が、アンケート集計結果を、分担して、集計し一般の方へと紹介する文を作っての最終発表。あらかじめネットで参加の方へと、分担の方々が文章を前日までに載せておいてからの会議。コーディネーターの方が、というか支援員の方がおられて、分担した文章を、或る程度まとめてくださったので、最終的にはそこへと落ち着きました。
ちょっと、前日の夕方6時過ぎに送ったという方がおられたのですが、支援員さんの方には受け取っていないというイザコザもあったりして、きっと、送られた方が、文章をまとめるのに苦労された余韻なのでしょう。
私の発表では、いつも慣れないので声がうわずったり、手が震えたりと、やっぱり、1人でパソコン上に書き込んでいるのとは、体の反応が違ってくるのを、毎回感じます。それが他人の発表に対しては、或る程度すこしは落ち着いて語れるのが興味深いわけで、たいていは、地域での飲みながらのガヤガヤに慣れてしまっていた私には、新鮮でありました。会議が終ってからも、外でタバコを吸う方にあわせて5分程度で解散。あらかじめ、文章をネット上で読んでいただけたことも、よかったと思います。
すくなくとも、会議に参加される方は読んでくださっていると思うと、何ともそれだけで、救われた感じになります。一般の方々への回覧文は、結局は折衷案となります。
毎回会議が終ると、自分の失敗を思うわけですが、これも経験でしょうから、積み重ねだと思っております。それにしても、丁寧な集計を考えられた方々の文を読めたのは、ありがたい収穫でした。こういう身近なところから確実さの手ごたえを得られるのが、こういう会議のよいところかと思ったわけでした。それにつけても、意見の出し方が私はヘタだなあと会議のたび毎回思うわけなのでした。まあ、私は私でいきましょう。と、一夜明けて思うのでした(笑)。
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